元スターからの誘い
入学式のざわめきを背に、スグルは混雑を避けて一人、早足で廊下を歩いていた。
(……帰りてぇ。てか寝てぇ)
今日の午後はバイトがある。
近所のカフェ――小洒落ただけのチェーン店だが、割と居心地はいい。
人間関係も悪くないし、そこそこ客層もマシ……だった。
黒川が来るまでは。
ポケットの中でスマホが震える。
画面を見ると、通知は3件。
差出人は――
【黒川 玲】
ほんの1〜2ヶ月前から、カフェに通い詰めてくるようになった“常連”。
最初はただの客だった。
でもある日、向こうから話しかけてきた。
「ねぇ、あなた、前に深夜帯で入ってたよね?」
何気ない会話のはずが、そこから毎回来店時に話しかけられるようになり、
いつの間にかLINEまで交換させられていた。
今思えば、断る隙はなかった。
元・天才女優という肩書きの圧が、未だに残っていたのかもしれない。
LINEを開く。
⸻
黒川 玲:
《今日、午前で終わりなんでしょ》
《バイト前に少しだけ会えない?》
《断らないよね?》
⸻
(……強ぇな)
やっぱりその文面には、感情らしい感情がほとんど見当たらない。
可愛げでもなければ、丁寧でもない。
ただ「誘っている」――それも、誘いというより“指定”に近い。
スグルは迷うことなく、短く返信した。
⸻
スグル:
《無理。バイト入る前に準備ある》
⸻
既読がつくのは早かった。
それでも、少しの間沈黙が続いた。
やがて、返ってきたのはたった一言。
⸻
黒川 玲:
《そ。じゃあまたカフェで。》
⸻
あっさりしている。
それがむしろ怖い。
(……何考えてんだか、ほんとわかんねぇ)
芸能界の修羅場を潜ってきたような女が、何で今さら一介のバイトくんに執着してんのか。
スグルには皆目見当がつかなかった。
それでも、今日も彼女は店に来るだろう。
いつもみたいに、カウンターの隅っこでブラックコーヒーだけ頼んで、スマホをいじりながらじっとこちらを見てくる。
何も言わずに、ただ見てる。
まるで、「観察」でもしているかのように。
(……ほんと、めんどくせぇ女)
そう思いながらも、どこかで――
(来なきゃ来ないで、それはそれで気になるんだよな……)
舌打ちをひとつ。
スマホをポケットに戻し、スグルはため息混じりに教室へと足を踏み入れた。