匿名
キッチンで歯磨きをする。心が無になる時間。
「オエッ」歯ブラシを奥まで入れてしまい、嘔吐反射が起き、大量のツバを吐いた。涙目に、シンクの隅にある缶コーヒーが映 る。
缶コーヒーは毎日目にしているはずだった。思わず手に取る。引っくり返すと消費期限が印字されている。期限は二年前に切れていた。とするなら、少なくとも二年以上はここにあったことになる。寒気がした。缶を開け、コーヒー色の危険な液体を排水口に流す。目の前がとてつもなく広く感じた。実際には缶一つ分の場所が空いたに過ぎないのだが。空になった缶をレジ袋に突っ込んだ。
照明と換気扇のスイッチを入れ、トイレに入る。窓もない室内は暗いまま。電球が切れたのだ。暗いまま用を足し電球を引き抜く。振るとカラカラいう音がした。数時間前。帰宅してドアを開けると、トイレの照明が点いており換気扇も回っていた。一日中点けっぱなしだったことになる。やはりあれが致命的だったか。切れた電球を洗濯機とシンクの隙間に「仮置き」した。そこにはすでに切れた電球がいくつか「仮置き」されていた。
トイレの電球は2年は点いてくれる。とするなら、この切れた電球たちはいつからここに「仮置き」されているのか。背筋がヒヤリとした。燃えないゴミに出さなくてはならない。その前にこの、下駄箱の横に置いてある、レジ袋一杯の空き缶を捨てるべきである・・・
社屋には広い駐車場があり、風が強い日などは様々なモノが迷い込んでくる。
通常、敷地内の掃除は所長などの管理者が行うが、何年か前にやってきた現所長は掃除を怠りがちだ。そのため風が強まる季節の変わり目などは目も当てられない状況になる。風雨にさらされたレシート、菓子の袋、ビニールの切れ端、新聞紙などの散乱。この頃は使い捨てのマスクが多い。使用済みのマスクなぞは、なおさら誰も触りたがらない。割れたプラスチックの破片。これは何か月か前にあった、駐車場内での自動車同士の接触によるものだ。
打ち捨てられたものは時に事件やドラマの痕跡になる。接触した車の持ち主は二人の同僚であり、両者とも〇〇姓である。ハンコはそれぞれ姓名入りのものを使用している。彼らは普段から仲が悪い。「何度同じことを言わせるんだ」、「先日のミスを忘れたのか?」いつも下らない言い争いをしている。誰もが彼らからは距離を置く。同じ姓という事で、二人を「双子」と揶揄する者も多い。「双子」は実は「三つ子」でもある。もう一人〇〇姓がいるのだ。尤も、その三人目は何の特徴もなく、職場内の話題に上る事はほとんどないが。
事故当初の「双子」の言い争いは大変なもので、両者訴訟も辞さない構えになった。見かねた所長が仲裁に入り、三者で協議の末なんとか裁判沙汰は免れた。「では最後に握手を」という、所長の提案があったが、両者ともそれを拒否したという。
雪が降った。駐車場は日陰であり、日中解け、朝晩凍結するというサイクルを繰り返し、中々氷がなくならない。一週間ほどしてようやく氷解した。駐車場には縦長の排水溝がある。そこには、氷の下敷きになっていた、黄色い軍手が打ち捨てられていた。まるで宙を掴まんとする、ハンドサインをして。いったい、かつてこの駐車場で何があったというのか。事件か事故か何らかのトラブルか。それは誰も覚えていない、忘れ去られた者の、ダイイングメッセージであったかもしれない。
帰宅してドアを開ける。入り口からキッチン、トイレ、リビング、全ての場所が見渡せる。一歩か二歩でどこにでも着いてしまう。効率を重視した生活をしたいというなら、独りなら、狭いアパートに住むべきだ。問題は私がそれほど効率なぞを重視していないという点である。仕方なく住まわざるを得ない、という事情もあるのだ・・・
今日はどこも照明は点いてない、換気扇も。下駄箱の上にカバンとキーケースを置いた。キーケースの奥にある、何かの小箱に目が止まった。これは何か、いつからあったのか、手に取ってみる。開けるとボールペンが入っていた。しかもハンコ付の。中々いいものだ。ハンコは仕事中に何度も使う、いくつあってもいい。しかし現状ハンコは付いてない。同封された申し込みハガキに自分の姓を書き、郵送にて申請した後、現物が届くわけだ。そして申し込みハガキの申請期限は二年前に切れていた。
「中々いいものだ」と思い、下駄箱の上に「仮置き」し、そのまま少なくとも二年以上経過した事になる。我が生活の暢気さに呆れた。もう失われた二年間は取り戻せない。ペンの尻には「〇〇姓」のハンコが付くはずだったのに。そう、私こそが「双子」に連なる三人目の「〇〇姓」である。生まれついての姓から逃れる事は出来ない。良くも悪くも。
カチッ、カチッ。ボールペンにハンコが付く事はもうないが、ハンコを使用する際の機構はまだ活きている。何かに「変形」するようでカッコいい。ボールペンは黒と赤の二色。非常にいい。
カチッ。「変形」させる度に我が胸は肯定的な何かで満たされることだろう、黒か赤のインクが切れるまでは。