8
「ダン、ハイタツ」
言葉通りその日のうちから黒の前かけとバンダナを着け、入学式まで二週間のシフトを入れたダンは、麻子に油淋鶏定食が乗ったトレイを運び、笑顔で礼を言われてぽやっとしていたが、チョウの言葉に気持ちを切り替えた。
「コノリョウリ、コノジュウショマデ。ソトノ、ジテンシャ。ツカエ」
「了解っす!」
岡持ちに入れたラーメンと炒飯、餃子の匂いが嵌め込み式の蓋の隙間から漂ってくる。
「早速配達? 頑張ってねー」
軽く手を振る麻子につられて控えめに手を振り返し、ダンは軽く会釈してから店を出た。
ビルとビルの隙間に隠すように置かれていた自転車は、しばらく誰も使っていなかったのか、サドルに薄く埃がかぶっていて軽く払ってみてもザラザラとして汚い。
荷台に岡持ちをセットするやり方を聞き忘れたことを思い出したが、荷台に着けられた金具に試しに引っかけてみると何なく固定された。
再度地図を確認すると、自転車で十分程の距離がある。
サドルが汚いことが気になったが、立ち漕ぎでなるべく尻をつけないようにしながら漕ぎ進めると、すぐに目的地に着いた。
配達先のビルは古すぎてエレベーターはなく、慎重に岡持ちを持って狭く暗く細い階段を駆け上がると、三階で雀荘が営業されている。広くない店内はほぼ満席で、昼間から大人たちが紫煙をくゆらせ、酒を飲みながら麻雀を打っているのが入口からでもチラリと見えた。
「こんにちはー。大熊猫飯店ですー!」
「あれっ。新しいバイトの子?」
店のボーイが声をかけるより早く、窓際に面した奥の席に座っていた、レトロな丸サングラスをかけた若い男が煙草をくゆらせながらダンに声をかけた。彼の椅子の背には黒のスカジャンがかけられている。
ダンは背筋をピッと伸ばす。
「はい! 今日からです」
「元気だね。学生さん? しっかり勉強もしなきゃダメだよ」
「そうそう、じゃないとこんな大人になるから」
若い男の連れが笑いながら茶々を入れ、一角で笑いが起こる。
「余計なお世話だよ」
サングラスの男は、茶々を入れた男の頭を容赦なくはたいた。
「いったいなー! 右手で殴らないでよ、仁ちゃん!」
初対面のダンでも、彼らの力関係が見て取れた。
仁と呼ばれた丸サングラスの男は、チンピラ然としがちな派手な柄のシャツをスマートに着こなし、細身のデニムを履いて足を組む。
その足元はピカピカに磨かれたラバーソール。左手の爪はマニキュアで黒く塗られ、中指には無骨なシルバーのリングが光る。
服の袖から覗く右手は白鋼色に鈍く光り、静かながら金属音を時折軋ませながら指先を開いたり閉じたりしていた。
「カッコいいだろ。俺の右手」
仁はニヒルに微笑みながら、ひらひらと機械義肢である右手を振る。これも、宇宙から来た技術の恩恵の一つである通電義肢だ。服のシルエットから、彼の肩から下の右腕は丸々、機械義手であることが分かった。
「メンテナンスしたばっかりっすか?」
「おっ、話せるね。なんで分かったの?」
ダンの言葉に、麻雀卓から身を乗り出し、仁は嬉しそうに顔を綻ばせた。
岡持ちの中身を全て渡したダンは、マスク越しに小さく鼻を鳴らして人好きのする笑顔を見せる。
「オイルの臭いも新しいし、音も静かなんで変えたばっかりかメンテナンスしたとこなのかなって思って。うちの親戚にもいるんスよ、機械義肢の人。昔はお兄さんみたいな金属のつけてたのが、今は炭素繊維ですけど」
「へぇー。炭素繊維の方が軽くてメンテしやすいし、新型でも安いのあるから良いよな。にしても、ここからよくオイルの臭いとか音とか分かったね。なあ……そんな臭うか?」
仁は連れの男たちに自分の右手を突き出して臭いを確認させるが、男たちは鼻をひくつかせたり耳を澄ませてみるが、次々に首を横に振る。
ダンは、しまったとばかりに目を泳がせたが、右手を引っ込めた仁はそんなダンの顔を指を指す。
「いい観察眼してるねー。きみ、探偵にでもなれるんじゃないの? それか中華料理より、うちでバイトしない?」
「仁ちゃん、2級の資格持ちでフリーの情報屋だから、配達のバイトより時給いいと思うよ」
仁の連れが合いの手を入れたが、ダンは困った顔で手を振った。
「うちの学校、資格絡みのバイトは禁止なんですよ。危ないから」
「そっかー、それは残念。まあ大熊猫飯店の子なら、困ったらいつでも相談しにおいでよ」
仁は天井に向かって煙を吐いて席を立つと、卓の横に置いていた灰皿に煙草を押し付けた。
尊大な足取りでダンに歩み寄り、ズボンのポケットから渋い色合いの名刺入れを出し、一枚中身を取り出すと機械の右手で差し出す。彼が歩く度、煙草の匂いに混ざって軽いムスクの香りがダンの鼻腔をくすぐる。
『2級資格保持者 仁 剛人』
「下の名前は、つよんちゅじゃなくて『ごうと』。ベルモットも一緒なら王様、ってね」
仁改め剛人から、サングラス越しに冗談混じりのウインクも投げられたが、その意味がよく分からないまま、曖昧な笑みでダンは名刺を受け取った。