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ダンはテーカーが去っていった方向を見やりながら、腹の底に沈んだ怒りを息と共に大きく吐き出した。
ダン自身も、アルバイトに関しては校則を破っており、法的に禁止されている、異界のものであるアオを憑依させた状態なので、制服の改造や煙草の所持に対して大きな声でテーカーを非難出来ないが、他者に危害を加えようとしたり、何かしらの不利益をもたらそうとするのは我慢がならない。
気を取り直して、地面に置いていたボールを拾ってカゴにしまうと、楓眞がそっと声をかけた。
「藤代、少しいいか?」
その表情はどう話を切り出そうか迷っているようにも見え、ダンは首を傾げる。
「大丈夫ですけど、何スか?」
すかさず、シャトルランの用意をしていたカミュランが茶化す。
「ダン、何やったの?」
「何もしてねぇよ!」
アオのことがチラリとダンの胸をよぎったが、楓眞が知るはずがないと思い直す。顔に出ていないかが心配だったが、楓眞はダンの表情が固くなったのを見ると、安心させるようにへにゃりと小さく肩をすくめて笑った。
「ここじゃなんだから、進路指導室で話そう。ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「お、おっす……」
進路指導室と言われて、余計に心当たりがない。楓眞はダンのクラスの副担任でもあり、進路希望は先週出したばかりだが、他のクラスメイトが呼び出されたという話は聞かない。
先に歩く楓眞について行こうとした時、微風で二人の前髪が揺れた。
チョーク粉と古い紙、古い木材が湿気を含んだ時の優しい香り。馴染みのある楓眞の香りにどこか安堵を覚えた瞬間、ダンの鼻は初めてその奥深くに潜む香りを嗅ぎつけた。
水面に浮かぶ月のような、清廉とした白い光の匂いと熟成した花の蜜のような甘さに胸の奥が騒つく。
「って、ちょっと待て!」
胸元が淡く光り、今にもアオが飛び出してきそうな気配にダンは慌てて両手で胸を押さえ、上体を屈める。
急に叫び声を上げたダンに、部員たちは怪訝そうに顔を見合わせ、楓眞は振り返ると前のめりに上体を屈めているダンにやや目を丸くした。
「ん? どうした?」
「ちょっ、ちょっと待って。腹が痛いんでトイレ! トイレ行ってきます!! ごめん先生! 話は後で!!!」
ダンは無理矢理笑って誤魔化そうとしながら早口で捲し立て、楓眞に背を向けて逃げるように走り去った。
「あっ、おい待て……! って、やっぱり足早いな。あいつ……」
止めきれなかった楓眞は困ったように眉を下げ、頭をかきながらポツリと呟いた。
「……もしかして、バレたか?」
※※※※※※※※※※
「おいアオ! 急に出てくんなよ! しかも周りに人がいるのに!」
慌てて校舎に飛び込み廊下の陰に入ると、周りに人がいないことを確認してからダンは抱えるようにしていた腕を解いた。
胸元には青く淡い光の輪。その中からひょっこりとアオが顔だけを出し、どこか申し訳なさそうにダンを見上げる。
「すまんのぅ。あの若いもんから、ぶち旨そうな匂いがして、つい引っ張られてもぉた」
「う、旨そう? 若いもんって先生のことか? 確かに今日の小城先生、なんかいい匂いしたけど、旨そうって何だよ?」
ダンが尋ねるとアオは一つ大きく伸びをするように、えっちらせ、と短い手足を伸ばして光の輪の中から身体を出し、ダンはそれを両手で抱き抱えて、足元に下ろしてやる。
小さなぬいぐるみ然としたアオに対して、ダンはしゃがみ込んで目線を合わせると、戸惑いながらもやや疑いの目を向けた。
「お前、人を食ったりするような奴なのか? もしかして」
「ワシは人なんて食わん。団子の方がエエ」
アオはぷくりと片頬を膨らませたが、すぐに考え込むように短い腕を組んだ。
「ほいじゃが、あの若いもんの匂いは……何てよーたかのぉ。アレみたいじゃ、アレ。ええ酒よぉるか、どうしようものぅ……ちぃと前に嗅いだことがある気がするんじゃけど、何てよーたか……」
うむむ、とアオはぶつぶつと呟きながら、眉間に皺を寄せて首を捻る。ダンは綿毛のような柔らかい毛皮で覆われたアオの腹を指で二度つついた。
「お前のちょっと前って、めちゃくちゃ幅広いからなぁ」
五年十年と前でも、アオにとっては人間の感覚で喩えると一週間にも満たない、つい最近のことだ。
まぁいいや、とダンは立ち上がった。
「今日のバイトの時、店長がいたら聞いてみるか? 麻子さんも、もしかしたら知ってるかもしれないし」
「お前は麻子と話したいだけじゃろ」
「うぐっ……! そ、そんなことねぇよ!」
揶揄うように口角を上げるアオを、ダンは胸中の焦りを誤魔化すように慌てて抱き上げた。
「ほら、もうちょいしたら部活に戻るから戻ってろ!」
胸の中心から光の輪が生まれ、アオはよっこらせ、とかけ声と共に輪の淵に手をかけて光の中に潜り込む。
「ワシでも分かるくらい、分かりやすいのぅ」
「何が!!!」
ダンの叫びが人気のない廊下に響き渡った。




