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日が傾いているとはいえ、外はまだ明るい。
ダンは校門を出ると、視界の端から薄茶色の毛の固まりがこちらに駆けてくるのを見つけた。
「わっ! ハナちゃん!」
二年前、顔がおっさんの人面犬になり、切り落とされた剛人の右手をくわえて逃げた犬である。
あれから無事、ハナの身体に埋め込んだマイクロチップのデータから飼い主が見つかって引き渡したのだが、ダンの学校の近くに住んでいるため散歩ルートが登下校とかぶり、月に何度か顔を合わせて挨拶する仲にはなっていた。
飼い主は在留宇宙人。体表は薄黄色をベースにした豹柄で、宇宙人にしては小柄な方だがダンより少し身体は大きい。目は大きなヤモリに似た姿をしており、ズボンからはみ出した本来なら太く短い尻尾は加齢で細く萎びたご老体だ。
五歳の立派な成犬であるが、まだまだ子犬のように腕白なハナは、この老飼い主の隙をついては街中を駆け回り、満足したら家に帰ることを何度も繰り返しており、その途中でダンと出会うと家に連れて帰られている。
今日も、赤い首輪から長年使い込まれた同色のリードが垂れ下がっており、老飼い主を振り払ってここまでやって来たことを表していた。
ハナはダンの顔を見ると、まるで笑うかのようにやや目を細め、口角を上げると舌を出す。
自分が間違いなく、自分よりも大きな生き物から愛されてやまない存在だと分かっている顔だ。三角の耳は、もう撫でられるのを待ってぺったりと伏せられている。
「もー。また、じいちゃん置いてきたのか?」
リードを手繰り寄せてしっかり握ると、ダンは呆れたようにハナを見下ろす。
膝を曲げてハナの頭をわしわしと撫でるが、その間もハナは頭も撫でてほしいし尻も撫でてほしいと、その場でぐるぐる回り始め、毛皮に覆われた身体を擦り付けてダンのズボンを抜け毛まみれにしていく。
「ほら、じーちゃんとこ帰るぞ」
ダンは軽くリードを引いて、ハナがやって来た方向を辿って歩き始めた。
その間もハナはもっと撫でろとばかりに、横を歩きながら、右の前足でちょいちょいとダンの足をかいて期待の眼差しを向けている。
「あっ、いたいた。じーちゃん!」
匂いを辿って住宅街の中を歩いていると、一軒の家の前で、何度も顔を合わせている老飼い主を見つけ、ダンはハナのリードを引きながら大きく手を振った。
「おー、ハナ」
耳が遠く、ダンの挨拶が聞こえていないまま、老飼い主はチャッチャッとアスファルトで爪を鳴らしながら歩いてくるハナに向かって、慎重に腰を屈めながら両手を広げた。顔も一度ダンの方に向けたが、視認されている実感はない。
このやり取りにも慣れたダンは、はいリード、とジェスチャーも交えて握っていたリードを手渡す。
家を出た先で老飼い主を振り切ったハナは、忙しなく尻尾を振りながら、主人の足元とダンの足元を往復している。
老飼い主は、初めてダンがそこにいるのに気付いたかのように、顔を上げた。顔は上げたが目はダンを見ていない。
「ほぅ、えらいスンマセンのぅ」
「いいッスよ。気を付けて、くださいね。それじゃ」
年々歩き方や話し方が頼りなくなっている老飼い主を労りながら、ダンはハナの頭をもう一度撫でてその場を去ろうとしたが、興奮したハナは尻尾を振り回しながら、もっともっとと、リードの事も忘れてダンに飛びかかった。
ハナが飛びついた勢いでリードがピンと張り、老飼い主はそのまま肩が引っこ抜けそうな程引っ張られる。ダンは咄嗟に倒れそうになった老飼い主の身体を支えたが、リードが手から離れ、ハナは我を忘れて何度もダンの足元に飛びついたかと思うと、そのままエネルギッシュに道路へと飛び出していく。
「ああああッ!!! ハナちゃん、ストップ! マジでストップッ!!!」
老飼い主が自立するバランスを取り戻すまで支えている手を離す事も、リードを掴む事も出来ず、ダンは呼ぶようにハナを止めたが、ハナは数メートル先で足を止めると、チラリと横目でダンを見てから、満面の笑みでチャカチャカと爪を鳴らし、リードを引きずりながら再度遠くに向かって走り出した。
「いや、追いかけっこじゃないんだわ!」
ダンは老飼い主をしっかりと立たせると、持っていたカバンをその場に放り投げた。
「じーちゃん! ハナちゃん、捕まえて、くるから、カバン、置いてて!」
「ほぅ、えらいスンマセンのぅ」
ダンは耳が遠い老飼い主にも伝わりやすいように、大きな声で区切って話したが、伝わっているか判断は付かない。老飼い主も、そもそも母語がヴァン語話者でもなく、人間であるダンとは違って首にマイクロチップも埋め込んでいないので電波による翻訳機能が使えない背景もある。ダンも、短く簡単なヴァン語を使っているつもりだが、最近は今一つ伝わっている手応えが感じられない。
「大丈夫かなー」
老飼い主の足腰や、自分の荷物に一抹の不安を覚えながら、ダンはハナの後を追って走り出した。




