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生を遠ざける瘴気が濃くなり、異界と繋がった空間の穴は火花を散らしながら広がっていく。
穴の表面が黒く盛り上がり、粘っこい質感の肥大した頭が姿を現す。その体表にはずらずらと川底の泥のような茶褐色の触手が生え、よく目を凝らせば触手に見えるのは筆と墨で綴られたような文字が蠢き、這っているのが見えた。
太く短い手足を使って、のっそりと穴から這い出した両生類のような扁平な胴体は人間の大人よりも遥かに大きく、道いっぱいに広がり、目は見当たらない。
月の満ち欠けのように、時間軸が移動していくことで空間に空いた穴は少しずつ小さくなっていく。
ダンは異界より訪れたばかりの怪異を刺激しないように、電柱の影に隠れた。小さい頃から定期的に繰り返される避難訓練で、対処の仕方は身に染み付いている。
人面犬は、早くこの場所から離れないのかと、不安気にダンの顔を見上げた。
怪異は動く気配がない。ダンは濃くなっていく瘴気に吐きそうになるのを堪えながら、そっと、背中を見せずに後退していく。
怪異は辺りの様子を伺うようにゆったりと頭を動かし、小さくその頭を震わせる。
鯨のように肥大した頭部が上下に割れ、不揃いに並んで黄ばんだ歯と赤い歯茎が剥き出しになり、それを見た途端、ダンに抱えられたまま大人しくしていた人面犬が怯えたように吠え立てた。
「うわっ! ちょっと! マジでやめろって!!!」
ダンは焦ってその口を塞ごうとしたが、握っている剛人の右手が邪魔をして、それが出来ない。
吠える声に反応して、怪異の頭がダンの方を向いた。
そして、短い手足から想像もつかない猛スピードでダンに向かって突っ込んでくる。
「うわぁぁぁぁぁ!!!」
避難訓練で習ったことも忘れ、ダンは思わず叫びながら怪異に背を向けると、坂道を転がるように走った。人面犬はダンに抱かれたまま、火がついたように吠え立て続ける。
追いかけてくる怪異の口元からは飢えた獣のように涎が溢れ、溢れた涎は辺りに飛び散ると触れたところから腐らせた。
硫黄の臭いに加え、立ち昇る腐臭にダンは更に吐きそうになったが、唾を飲み込んで抑える。
息を止めて一足で住宅の塀に駆け上がると、そのまま踵を返して塀の上から坂道を逆走した。
立ち昇る瘴気で肌がひりつくが、道いっぱいに広がる怪異の横を抜け、膝を深く曲げると思い切り跳んだ。
両足の靴は脱げて腐った地面に落ちたが、跳躍した身体はぐんぐんと高く昇っていく。
しかし、ぬめる音を耳が捉えて振り返ると、怪異の身体から触手が絡まり合い、一直線に飛び出してきた。その触手の先は今度は左右に割れると本体よりは小さいながら、ずらりと並んだ歯が見えた。
人面犬はダンの肩から身を乗り出し、果敢に吠え立てるが、ダメだって! と、ダンは咄嗟に人面犬を庇うように抱きかかえる。
それでも身を捩って吠え立てる人面犬の顔を触手が掠め、木の皮を剥がすような乾いた音と共に、人面犬の顔が剥ぎ取られた。
剥ぎ取られたおっさんの顔は触手の口に飲み込まれ、おっさんの顔があった場所からは無垢な柴犬の顔が覗く。
「えっ」
呆気に取られたダンはそのまま勢いよく、洋館の屋根の上に落ちた。




