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店を出た麻子はすぐ右手に回り、古い赤煉瓦で挟まれた細く狭く暗い階段を駆け上がった。
二階の踊り場に出るとすぐに木製の古びた扉があり、扉に嵌め込められた磨りガラスには『凪』と色褪せて、所々がひび割れ、角が剥がれかけた金色の古いカッティングシートが貼られていた。
麻子は真鍮の丸いドアノブに手をかけると、立て付けが悪く、開けるのにコツがいる扉を引く。
中に入ると、広くはない事務所には応接用の赤いベルベットのソファが二脚、足の低いアンティークのテーブルを挟んで置かれている。
通りに面した三つの採光口は大きく取られ、今の時間は照明を点けなくても差し込んでくる自然光だけで十分明るい。
麻子は採光口である縦辷り窓を開けられるだけ開け、部屋の奥から一台のノートパソコンと分厚い一冊の本を取り出すと、応接用のテーブルの上に置いて両方を開いた。
低い起動音と共にパソコンの画面が立ち上がり、同時に複数のウインドウが開くと枠内に街の様子を映し出す。
本は黒い革の装丁に、古い物語を記した紙は茶色く変色していたが、ページを開くと封印から解き放たれたように部屋中を紙が荒れ狂う吹雪のように飛び回った。
紙の一枚一枚は宙で折り畳まれながら蜻蛉のように形を変え、飛び回る紙蜻蛉の数だけパソコンの画面には事務所中の映像が溢れかえる。
「さあ、みんな行っといで!」
ソファに腰を沈め、パソコンのキーを連続して叩くと、部屋中を舞っていた紙蜻蛉たちは一斉に開け放たれた窓から飛び出して行った。
旧・近畿地方を含め六十年前の百鬼夜行が起こって以降、新たに産まれた地球に住む人々の首には、個人を識別するためのマイクロチップが埋め込まれている。
元々は、百鬼夜行当時に入ってきた他銀河宇宙による侵略の遺物であり、地球に流入してきたオーパーツの一つであるため、反自然で個人をデータとして管理する体制を悪しきものとして反対する声もあるが、生活の中に取り込まれ必需品とまでなっているので、依然として地球で生きる人間の義務として続けられていた。これは、在留資格を持つ異人にも適用されている。
元々地球上に存在するが深く交わることが少なかった異界の数々と、他惑星による植民地化により人間の乱獲も行われ、人口が激減した時代もあった。
それを危険視した銀河連邦により、銀河保護法が銀河系の辺境である地球にも適用され、他の惑星からの過度な接触や地球の文化水準を超える技術の流入も禁止され、宇宙警察による巡回的なパトロールも実施された。
更に幸いなことに、地球上の細菌が持つ危険性と重力や気圧への適応が出来る種族が限られていたため、宇宙からの侵略は止み、今は一部の宇宙人が貿易の拠点として利用するか観光に訪れるかに留まっている。
地球上に元々存在し、百鬼夜行によって交わることとなった異界については、また別の勢力による介入と歴史があるのだが、今ここでは割愛する。
上記の歴史により、地球上で元々存在していた言語の数々は、絶滅の手前まで追い込まれ今では実生活で使われることが少ない古典や概念を表す言葉と化している。
地球・宇宙・異界と各勢力が水面下でせめぎ合う中、地球上の共通言語として採用されたのは、異界に存在する『希望の川』を発祥とするヴァン語であり、紆余曲折を経て今や問題なく共通言語としても機能していた。
宇宙や異界と繋がる旧・近畿地方に関しては、ヴァン語以外の言語を母語とする者の渡航や居留者も多い。
そこで採用されたのが、地球人の首に埋め込まれたマイクロチップによる電波の送受信で、街の各所に設置した基地局から電波を中継して飛ばすことにより、自分の話す言葉は相手が理解出来る言語に、相手が話す言葉は自分が理解出来る言語に翻訳されて理解出来るようになった。
文字も視覚野を通し、電波を経由して翻訳され、ヴァン語を母語としない宇宙人や在留資格を持たない異人のような、マイクロチップが無い者も送受信機さえあれば、不便はない。
複数名が異なる言語を使用しても気が付かないほど、統一されたコミュニケーションが取れるようになっていた。
近年ではマイクロチップ利用も規制が緩和され、個人識別による電子通貨での決済や出退国手続きなども可能である。
麻子の式というのも、古来より互いに交わることがあった異界の技術である式神と、宇宙より流入したこのマイクロチップ技術を組み合わせて応用したものだ。
面接に来た際に、大熊猫飯店近くで拾ったダンの個人識別データをハッキングし、その情報を式神として変換・古来より古いものに憑きやすい性質を利用し、古本の紙に宿したものである。
データのハッキング自体、資格を持たない一般人が行うと決して軽くはない罰金及び懲役を受けるが、そこは2級資格者を擁する事業者であり、事前に許可も取っているため、業務に必要な情報開示として警察を含めた司法組織には目を瞑ってもらえる。
個人識別を割り出し、飛び去って行った式に情報を送り込むと、麻子はじっと画面に目を凝らした。
一枚の式が犬を追うダンの後ろ姿を捉え、位置情報をパソコンに送信する。
麻子はそれを剛人のスマホに転送すると、すぐさま電話をかけた。
剛人はすぐ応答し、麻子はスマホをスピーカーにしてパソコンの横に置く。
「ダンくん見つけた! ワンちゃん追いかけてる! もうちょっとで追いつきそう!」
キーボードを叩き、更に移動するダンに式を集中させる。
麻子の話を聞いて、はぁ? と、剛人は聞き返した。
「あいつ、マジで人面犬に追いついてるの?! 足が速いにも限度があるでしょ!」
「えっ。これ、人面犬なん?」
麻子も驚いて、更に目を凝らした。犬との間隔がほぼ一定で変わらないため速さが分かりにくかったが、人面犬の足の速さは普通の犬とは違い、自動車にも匹敵する。よく見れば彼らの背景は目まぐるしく過ぎ去っていき、尋常なスピードではない。普通の人間の足ではあり得ないことが、ありありと映っていた。
「麻子ちゃん。師匠……じゃなかった、店長にも連絡入れてくれない? ちょっとあの子、思ってるより事情がヤバいかもしれない」
「うん、分かった」
式を通じて、ダンが後ろから飛びついて人面犬を捕まえたのを見ながら、麻子は剛人の深刻な声に顔を強張らせて何度も首を縦に振った。