9
「ガキにまで営業たぁ、よっぽど仕事がねぇんだな」
剛人たちから少し離れた卓で麻雀を打っていた男の一人が、嘲笑した。
見た目はシオマネキにも似て、眼柄は触覚のように伸び、青い甲羅に包まれた身体と左腕が不釣り合いに太い。二足歩行の人型ではあるが、安物仕立てのスーツとネクタイがまた似合わない。
その仲間たちも姿は、手長海老、ザリガニ、シャコに似た風体で、シオマネキの言葉に低い笑い声を隠すことなく漏らす。明らかに喧嘩を売られている。
剛人の眉がぴくりと動き、小さく細い息を吐くと、勿体つけて振り返った。
「んだとゴラァ!」
腹の底まで響く剛人の怒声に、ダンは岡持ちを抱えると名刺はズボンの後ろポケットに入れてそっと店を出る。
「なんだ、やんのか。人間風情が」
「てめえらまとめて神戸湾に返してやるよ、甲殻類ども! それとも海鮮丼になるか? ああ? 不味そうだけどなぁ!」
このご時世、相手の見た目を揶揄する言葉をかけるのは、かなりモラルに欠ける。
ヤバい人の名刺貰っちゃったかな、と心の隅で考えながら、ダンは足早に階段を降り、自転車の荷台に岡持ちをセットした。
途端に路面に面した店の窓ガラスが割れ、ダンの目の前に降り注ぐと、鋼の固まりも一緒に地面に落ちてきた。
「いってぇなコノヤロー! メンテしたとこなのに何してくれてんだ!!」
先程までひらひらと指先を動かしていた機械義手の右手首から上が、レーザー刀で切り落とされたのか、断面が赤く煙を上げながら無様に転がっていた。
関わりたくはないが、このまま置いていくのも気が引ける。
ダンは上方を気にしながら剛人の右手に手を伸ばしかけるが、その横をさっと茶色いものが走り抜け、鋼の手を咥えた。
「うへぇ」
「わぅ!」
身体は茶色い毛並みの柴犬だが、顔は人間の男のもので、ホリが深く太い眉の主張が強い。野良犬ではなく飼い犬なのか、首に赤い首輪が巻かれていたが、それは今問題ではない。
「ボウズ! まだいるか!? 俺の右手落ちてない?」
慌てて割れた窓から身を乗り出し、剛人はダンの姿を見つけると生身の左手で地面を指差す。右手は手首から上がすっぱり切られて、潤滑油が細く黒い煙を上げていた。
ダンはマスク越しに声を張り上げる。
「落ちてきましたけど、人面犬に取られましたッ!」
「なんで今時、人面犬がウロウロしてんだよッ!」
剛人は苛立ちを抑えきれないまま、床を踏み鳴らした。そして、焦りながらダンに向かって自分の右手を咥えた人面犬を指差す。
「何でもいいから取り返して! モノがなきゃ、くっつけられねぇ! あっ、ボウズ! 名前は? 名前ッ!」
「ダンです! 藤代ダン!」
「よし、ダン! 俺の右手頼んだわ!」
剛人はそれだけ言い残すと、顔を引っ込めた。
ビルの中では大の大人たちが殴る蹴ると大暴れしている中、ダンは腰を屈めて人面犬にゆっくりと近付く。
人面犬は、遊ぶのか? 遊ぶのか? とばかりにステップを踏みながら、前足を伸ばして前屈みの姿勢を取る。
動物には慣れていないが、なるべく驚かさないようにダンは慎重に人面犬に近付いていき、そうっと手を伸ばした。人面犬は、尻尾をぶんぶんと振りながら、上目遣いでダンの動きを観察している。
あと少し、ほんの少しで剛人の右手に手が届きそうなところで、耳が嫌な音を捉え、頭上を確認したダンは落下してきたカニ男とガラスの破片を避けるためにその場を飛び退いた。
三階から落ちたカニ男の背の甲羅が砕ける音と、突然の落下物に人面犬は目を剥いて踵を返すと、仁の右手を咥えたまま驚いて走り去った。
「あ゛ーーーッ!!!」
人面犬が逃げ、ダンは慌てて起き上がる。
「悪いダン! 無事か!?」
「もうちょいだったのに! びっくりして逃げたじゃないスか! 犬ッ!!!」
再度、割れた窓から顔を出した剛人をダンは思わず叱り飛ばした。人面犬の足は早く、あっという間にビルの間を駆け抜けていく。
「オレ、捕まえてきます!」
「捕まえるって……おい!」
剛人が止める間も無く、ダンは前かけとバンダナを取り外すと、自転車のサドルに乗せて軽く屈伸してからスタートを切った。
「……足速いな」
剛人はまた窓から顔を引っ込めると、飛びかかってきたシャコ男のジャブを屈んでかわし、起き上がると同時に左手で鮮やかなカウンターストレートを打ち込んだ。
※※※※※ ※※※※※
遠くからパトカーのサイレン音が響いてくる。
剛人はシャツの胸ポケットから、折り畳んでくしゃくしゃになった現金札の束を店のカウンターに置くと、軽快な足取りで店を出てビルの階段を降りる。
ビルを出て、道に落ちて呻いているカニ男に軽く左手をひらひらと振ると、店の騒ぎには関係がない顔をして悠然と通りを歩き始め、ズボンのポケットからスマホを出す。
電話帳の一番上に登録されている名前を押すと、二コールで相手は出た。
「はぁい。ジンさん、どしたん?」
「麻子ちゃん、久しぶりぃー」
剛人はおどけた口調で電話先に挨拶すると、右肩でスマホを挟んで、ズボンのポケットの中を探りながら口ごもる。
「ちょっと新しいバイトの子、ダンくん借りててさぁ。配達から帰るの遅くなるわ。麻子ちゃん、どうせこの時間なら大熊猫飯店でお昼食べてるでしょ? チョウにも言っといてくれない?」
はぁ? と、電話口で麻子が怒った声を上げる。
「何してはるんですか! あの子、今日が初めてのバイトやって言ってたんですよ! 仁さんの用事って厄介事ばっかりやのに!!」
「あ、ダンと面識あんのね。そう怒んないでよ。不可抗力だったんだから」
剛人は煙草を取り出して咥えると、シルバーのジッポライターで火を点ける。
「そこでお願いなんだけど、麻子ちゃんの式でダンのこと追えないかなぁ。そういうの得意でしょ?」
目の前にいない麻子に向かって拝むように左手をあげ、子どもが悪戯を誤魔化す時のような笑顔を口元に浮かべる。
「もぉーっ! 事務所戻るから、ちょっと待ってて!」
「ごめんねー。今度、麻子ちゃんの大好きな風戸万里の情報入ったら流すからさー」
麻子が憤慨しながら席を立つ音を聴きながら、剛人は煙を長く宙に吐く。
「あと、これは俺の勘なんだけど。あのダンって子、なんか隠してるよ」