序章
「ちょっと! マジで勘弁してくださいよ。オレ今日部活あるって言いましたよね!!」
右手でしっかりと握ったスマホをスピーカーにして、藤代ダンは三宮の雑居ビルの間を駆け抜けながら目標物を追っていた。
この春で高校三年生になったばかりの17歳。年頃のお洒落として短い髪はワックスでラフにまとめ、その左目の目元には小さな泣きぼくろ。
中肉中背で体付きの均整はよく、170センチはあるもののそれ以上は伸び悩む身長とやや童顔のため実年齢より下に見られやすいのが密かな悩みの種だ。
時間は午前六時半過ぎ。
眠らない街とも呼ばれる繁華街も朝日に照らされ、夜には見せない顔を見せ始める。
袖が擦れたブレザーに少し緩めたネクタイ、折り目がヨレた制服のズボン。この春で三年目に突入する制服は、闊達な少年の青春になんとかしがみついてきていた。
「『部活って球拾いだろ。それより労働に勤しめ若者よ』」
「球拾いじゃないです! バレーボール!! ブラック店長!!」
スピーカーの向こうから響くのは、低く渋みがあるがどこか軽い口調の男の声。
ダンは【店長】と表示された液晶に向かって怒り、角を曲がった先に立ち塞がっていた古い室外機を飛び越えた。
人手が足りないから早朝に出てこいと連絡が入ったのは前日の夜。
部活の朝練に参加したいため一度は断りかけたのだが、遅くとも午前六時には終わるという話だったので、眠い目を擦りながら事務所に着いたのは午前五時。しかし、いざ現場に来てみると発生したのは残業である。
「ああもう!!」
一足で飛び越えるつもりがビルの二階、三階、四階をぐんぐんと超えて身体が浮く。力を入れて飛びすぎた。
ダンのスマホに割り込みで着信が入る。表示された名前は【麻子さん】とある。
「『ダンくん、めっちゃ跳んどるねぇ』」
どこかでダンの様子を見ているのか、感心したような若い女の声。言葉には関西訛りがあり、ダンは新しい話し相手に叫ぶ。
「跳んじゃってますよ! あいつ、今どこッスか?!」
「『そんな遠ないよ。ちょっとだけ首、下に向けて。そうそこ、見えた?』」
ビル群の中でも背の低い建物の屋上に着地したダンの眼下を走るのは、黒い羽虫の塊のようにも見えた。
墨をたっぷりと含んだ毛筆で崩し書いたような文字の塊が、ぷっくりと弾力を持ちながらいくつも寄り集まり、大型犬程の大きさを成している。
蛇行しながら素早く走る様は百足を思わせ、それがダンのいる空中ではよく見えた。
「……見えました!」
「『じゃあ、渡したお札は持っとるよね? 無茶はしたらアカンよ?』」
ピクニックでも行くような軽い口調で、電話口の麻子は言った。
ダンはスマホを制服のポケットに突っ込むと、代わりに麻子から事前に受け取っていた白い札を一枚取り出す。
和紙で作られた札はダンが手に取った瞬間、橙色の光で縁取られた。
ダンは助走つけて屋上の縁から空中に跳び出す。軽快にビルからビルに跳び移ると、蛇行しながら走り続ける文字の塊に迫っていき、その背とも呼べる部分に着地した。
文字の塊の上はお世辞にも安定しているとは言えない。ダンは着地と同時に、手にした札を叩きつけるようにして貼り付けた。
この世のものとは思えない、感高く凄まじい絶叫と共に、紅蓮の炎が立ち昇る。炎は文字の塊だけをよく乾いた紙のように燃え上がらせ、塵にした。
「うわっぷ!」
足元にあった文字の塊が消え、ダンはバランスを崩して前のめりになると、そのまま地面を一回転して人気のない道路の端で大の字に転がった。
ダンはチラリとスマホの時計を見やってから、眩しそうにビルの隙間から覗く朝日を見つめ、鼻をつく生ゴミの据えた臭いに眉根を寄せて低く呻いた。
「……朝練、遅刻だ……」
頭上を一台のガンシップが横切り、その音に驚いた極楽鳥が数羽、けたたましい鳴き声と共に飛び去った。
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六十年前、突如空想上のものとされていた様々な異世界や他銀河宇宙と時空が繋がってしまった大阪、兵庫、京都三都市で構成される近畿地方。
一度、第二次世界大戦が終結したばかりの地球に混乱をもたらしたこの現象は日本国内においては『百鬼夜行』と呼ばれ、その様はかつて絵物語さながらの様態であり、世界各国で伝承されてきた生物は同じ地球上に複数存在している平行世界から紛れ込んできたものであり、人間に近い姿を持つものは異世界の人間ーー外界人であることも判明した。
また他銀河系からの存在は数こそ多くはないが過去に地球と接近、一部は既に地球上に住み着いてはいたが、秘匿されていたその事実も明るみになることになる。
しかし、今までは偶発的に単体の外界と繋がったり、何光年もかけてたまたま地球に辿り着いただけの地球外生命体の来訪だけで済んでいたものが、一度に存在する全ての異界や銀河系と繋がってしまったことで、均衡は崩壊した。
新たな資源の入手先として、地球上の土地を侵攻する異界や他惑星の住民が現れ、第二次世界大戦が終結したばかりの地球はなす術もなく統治下に置かれることとなり、言語は外界・宇宙・地球の共用語としてヴァン語が制定された。
やがて数十年と時間をかけて独立を果たした地球では新たな政府機関が発足し、中でも正規ルートを踏まずに迷い込んだ宇宙人や異人、異世界生物を監督及び排除するために打ち出された政策は、資格を取得した個人及び団体に、政府に代わってこれらを取締まる権限を与えること。
権限を持つ者は資格保持者と呼ばれ、やがて民間にまで取得が緩和されたことにより、外界人や宇宙人と共生を図りながらも、非合法に地球に紛れ込んだものは資格保持者により捕縛もしくは討伐されることも珍しくない。
ダンのバイト先は資格保持者である店長の元、異界から紛れ込んだ怪虫『文字禍』を駆除する事業である。




