序章
「ちょっと! マジで勘弁してくださいよ。おれ、今日部活あるって言いましたよね!!」
スマートフォンをスピーカーにして、まだまだ高校生活を謳歌したい藤代ダンは、旧・神戸の雑居ビルの間を駆け抜けながら、小型端末機の向こう側から指示された目標物を追っていた。
年頃のお洒落として短い髪はワックスでラフにまとめ、左目の目元には小さな泣きぼくろがある。
中肉中背で体付きの均整はよく、伸び悩む身長とこの童顔のため歳下に見られやすいのが密かな悩みの種だ。
時間は午前七時過ぎ。
眠らない街とも呼ばれる繁華街も朝日に照らされ、夜には見せない顔を見せる。
袖が擦れたブレザーに少し緩めたネクタイ、折り目がヨレた制服のズボン。この春で三年目に突入する制服は、十七歳の青春にギリギリでついてきていた。
「『部活って球拾いだろ。それより労働に勤しめ若者よ』」
「球拾いじゃない! バレーボール!! このブラック店長!!」
画面の向こうから響くのは、渋みのある低い男の声。
ダンは【店長】と表示された液晶に向かって怒り、角を曲がった先に立ち塞がっていた古い室外機を飛び越えた。
「ああもう!!」
一足で飛び越えるつもりがビルの二階、三階、四階をぐんぐんと超えて身体が浮く。力を入れて飛びすぎた。
ダンのスマホに割り込みで着信が入る。こちらの名前は【麻子】とある。
「『わあー、めっちゃ跳んじゃってるねぇ』」
どこかでダンの様子を見ているのか、感心したような若い女の声。言葉には関西訛りがあり、ダンは新しい話し相手に叫ぶ。
「跳んじゃってますよ! あいつ、今どこスか?!」
「『ちょっとだけ首、下に向けて。そうそこ、見えた?』」
ダンの眼下を走るのは黒い、羽虫の塊のようにも見えた。
墨をたっぷりと含んだ毛筆で崩し書いたような文字たちが、ぷっくりと弾力を持ちながら寄り集まり、大型犬程の大きさを成している。
黒い昆虫を思わせる速さでビルの合間を縫うように走り抜けていくが、それがダンのいる空中ではよく見えた。
「……見えました!」
「『じゃあ、渡したお札は持ってるよね? 早速打ち込んじゃえ!』」
ピクニックでも行くような軽い口調で、電話口の【麻子】は言った。
ダンはスマホを制服のポケットに突っ込むと、代わりに麻子から事前に受け取っていた白い札を一枚取り出す。
札を眼前で投げると、青白い光を伴って炎が上がり球体状に燃え上がる。
「いっけぇぇぇ!!!」
バレーボールのサーブの要領で、ダンは空中で狙いを定め、背筋を反らせ、炎の球を打ち込む。
球は勢いをつけて文字の塊に迫っていき、その胴体とも呼べる部分に命中する。
この世のものとは思えない、感高く凄まじい絶叫と共に、文字の塊はよく乾いた紙のように燃え上がると、塵になって消えた。
ダンは跳んだ先にあったビルの、何もない屋上に着地すると、スマホの時計を見やってから眩しそうに朝日を見つめる。
「……朝練、遅刻だ……」
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六十年前、『百鬼夜行』と呼ばれる怪奇現象により、様々な異世界や他銀河宇宙と時空が繋がってしまった大阪、兵庫、京都三都市で構成される旧・近畿地方。
正規ルートを踏まずに迷い込んだ宇宙人や異人、異世界生物を監督し、取締まるために政府が打ち出した政策は、営業免許を取得した個人及び団体に、政府の代わってこれらを取締まる権限を与えること。
六十年経った今、特に旧・兵庫が内包する旧・神戸は異界との交易の場として栄えながらも、影では非合法のものたちも暗躍する坩堝と化していた。