02-01. 遷移
「ハァ、ハァ……」
眠らない街の片隅。
暗く、寂れた路地裏にて、悲劇はひっそり幕を開けた。
「ぐ、あぁっ…………!」
路地の突きあたりで、男は胸をかきむしりながら地面に倒れこんだ。
一見、男はただの人間に見えた。しかし、注意深い者ならすぐに気がついたはずだ。鮮やかな青い獣毛に覆われた、熊のような獣の耳に。
《遷移者》。
彼らは体のどこかに獣や虫、あるいは機械の部位を持ち、希に、超能力のような特殊能力を操る者。
西暦2200年代が目前の現代、《遷移者》は、ごく身近な存在として、社会に受け止められていた。
──表向きは。
今、街の片隅でのたうつ男もヴァリエントの一人だった。
苦しげな呻き声を上げる男は、突然ガクガクと痙攣した。すると、その体に異変が生じた。
指先から生えてきた鮮やかな青の獣毛が、肌を侵食し、全身を覆い尽くしていく。
風船のように体が一回り大きく膨れ上がり、シャツが千々に破け、窮屈になった靴が脱ぎ捨てられた。裸足の足もまた、獣のように変形していく。
顔も次第に人間らしさを失っていった。
鼻梁が盛り上がり、毛にまみれ、食い縛った口から覗く歯は鋭い。
瞳孔の奥に残っていた理性が、ふっと消えた。代わりに宿ったのは、燃えさかる炎のような狂気。
二足歩行の獣。
男は、人間と羆が合わさったような、奇妙な姿へと変化していた。
獣が荒々しく息を吐く。
体の内側に、激情が充満していく。凶悪なまでの破壊衝動だった。
『コワセ』
誰かが囁く。
「グゥゥ………」
地を這うような唸り声を上げ、彼はのそりと起き上がった。
『コワセ』
「グオォォオオッ」
男は、夜の街に激しく咆哮した。雷鳴に似た叫び。
それが摩天楼に木霊する。
今、彼を突き動かしているのは、原始的な、怒りに似た破壊衝動。
獣は、雄叫びを上げながら路地裏を飛び出した。
そして──夜の街は、大混乱に陥った。
◇◇◇
「対象発見ー!ふーん、今日は熊の《遷移者》か。思ったよりデカいなー」
飄々とした声が風に流れていく。ビル十階に相当する空中。そこに女はいた。
建物の隙間を縫うように移動するその背中には、蜻蛉のような、薄い翅が生えている。
その透明な翅を高速で羽ばたかせて、女は上空から目標に接近した。あるていど距離を詰めて、彼女は手近な建物の上に着地する。
「完全変化したヴァリエントが暴れている」という通報が三十分前。
チームで現場に急行したが、チームメンバーは彼女についてこれなかった。だから途中であっさり置いてきた。
一番乗りは気分がいい。
現場に一人きりの今なら、何をするのも自由だろう。自己判断でもオーケー。
──よぉしこのまま突っ込んじゃうかー!
ギアで覆われた口許に笑みを浮かべ、行動を起こそうとした、その時。
横で見ていたのでは、と疑いたくなるような絶妙のタイミングで、耳元のスピーカーから冷静な声が待ったをかけた。
『おい、まだ手を出すなよ。俺が来るまで待て』
「えーケチ!」
『ストライク』
「うー。はいはい、わかってますってー」
ムスッとしながら、女は仕方なく制止を聞き入れた。
ギアを介した会話は記録される。同僚から釘を刺されたのに先走ったとあっては、後々問題になりかねない。
それは楽しくない。
「ちぇー」
せっかく一番乗りしたのに……と舌打ちして、ギアの下でイーッと歯を剥く。
渋々、監視に徹することにした。女は翅を震わせて、静かに捕縛対象の様子を探る。
彼女の翅は作り物ではなく、生まれつきのものだ。高速移動や空中静止も可能になる、自慢の翅だった。
風に煽られた、鮮やかなオレンジの髪を軽く払う。寝癖のついた髪の隙間に見え隠れするのは、──白い獣の耳。
その真っ白な耳は、持ち主の感情に合わせて、ピコピコと動いている。女の腰、尾てい骨の辺りにも、白い毛に覆われた尻尾がゆらゆらと揺れている。
これらも作り物なんかではない。
鳥獣系と虫蟲系が混ざった、《二系統遷移者》。それが彼女の属性であった。
────《遷移者》の出現は、百年前に起こった《大災厄》が原因だとされている。
人類社会を一変させた未曾有の災禍は、人の遺伝子にも多大な影響を与えた。それより後に生まれた世代の中に、特異的な変異を持つ者が現れたのだ。
その特徴は、体の一部に、獣や虫、機械の部位を持つ事。時には異能も。
彼らは、《遷移者》と名付けられた。
新人類の誕生は、《大災厄》で壊滅的な打撃を受けた社会に、さらなる混乱と悲劇をもたらした。
災厄を生き延びた国々で、ヴァリエントの待遇を巡って、多くの血が流されたのだ。
しかし数多の軋轢を乗り越え、三十年ほど前からは、共生という形で表面上は落ちついた。
だがここに来て、ヴァリエントに対する風当たりは強くなっている。
激しさを増すバックラッシュは、目の前の事象と無関係ではなかった。
「…………まあ、あんなの見ちゃったら怖がるのも無理ないよねー」
暴れる大熊を見下ろして嘆息する。
発端は、去年。
主都イリヤをはじめ、各地でヴァリエントが完全変化し、凶暴化する事件──《レイジング・アウト》という現象が相次いだ。
《レイジング・アウト》は、遷移を持たない多数派の《起源者》に恐怖を拡大させている。
極東連合中央政府は「解決に全力を尽くす」と宣言したけれど、原因究明に至るには相当な時間がかかると予想され、それまでの対策が急務となった。
そこで政府は、警察に要請し、対暴走ヴァリエント専門チームを立ち上げた。
それが通称「特三」。正式名称「特殊警務部第三課」。
彼女は自ら特三に志願し、今に至る。
元々、彼女は機動隊所属の新人だった。しかし、そっちは何となく性に合わなかった。
特三の方が断然楽しい。チームの雰囲気も気に入っている。
ヴァリエントを制圧する、という任務に痛みを感じないわけじゃない。彼女もヴァリエントで、凶暴化だって他人事じゃない。
自分なりの正義はある。だが、誰もがそれを理解してくれるとは限らないし、理解してほしいとも思わなかった。
彼女に家族はいない。だから危険な任務にも躊躇はない。
何より、暴走したヴァリエントと向き合う瞬間は、どこか心が躍った。
自分がそうしたスリルに弱い、という自覚はある。
『大人しくしてるか?』
「ハイハイ、クロトがうっさいから、指くわえて見てますよー」
ギア付属のスピーカーから聞こえた声に、彼女は口を曲げて応じた。
クロトという男は、相棒という名の「見張り」だ。
何度言っても無茶をやめない部下に業を煮やした上司が、彼女に心変わりを促すより、太い手綱をつけた方が手っ取り早いと判断したのだ。
結果、自分がスカウトした新人と組まされている。何の罠だこれは。
『受け入れないのであれば、裏方担当か、部署変更する!』
そう脅されたら、受け入れるしかない。
彼女は、どんなに変わり者扱いされても現場が好きだった。
クロトの経歴もかなり独特だ。彼女に負けず劣らず、変わり者だと思う。
体の大部分が機械。クールかと思いきや案外抜けてて──
否、奴の事なんぞどうでもいい。さっさと事件を片付けないと。
彼女は、眼下で暴れる青熊に意識を集中した。