真紅の聖女
マシティア帝国北部は小領主たちが治める土地が多々あり、それら一つをとってみれば戦力は少なく、ひとたび大きな反乱が起きれば鎮圧には甚大な労力を必要とする。その上、領主や臣下たちは堕落しきっていて、戦う意欲も薄い。解放軍はそうした支配者側の隙のおかげで生まれて、今日まで存在していられている。
解放軍の参加者は二百人程度であり、今まで剣すら振るった経験のない者がほとんどだ。たった二百の、戦いに不慣れな者たちの集団が、数十万にも及ぶ帝国の兵を相手にしようというのだから正気ではない。リシェルはマシティアの広さ、敵の数、仲間たちの数をバスタロンゼから教えてもらった時、あまりの戦力差に言葉を失った。数字の上では解放軍に勝機は一つもなかった。
「帝国の戦力が圧倒的であることは間違いありません。ですが、現に我々はいくつもの勝利を経て此処まで来ています。小さな土地を支配している領主は油断に満ちていて、兵士たちの士気も低い。だからこそ、大した力も武器もない我々でも勝つことができ、民を解放してこられました。ですが……」
バスタロンゼは顔を曇らせて言葉を続ける。
「そう何度も我々を勝たせてくれなくなっていくでしょう。既に反乱勢力の存在は帝国側にも伝わっているようで、警戒を強めている地域も出始めています。領主たちが結託して討伐軍でも結成されてしまえば、我々は簡単に轢き殺される。その前になんとしても、戦力を手に入れたいんです」
「出来るだけ手早く奴隷たちを助けていく、ということでしょうか?」
バスタロンゼは控えめに首を振った。
「戦える者を仲間にしたいんです。奴隷たちを一から鍛えるとなると半人前にするのにも時間が掛かります。私は帝国の兵を仲間に引き入れたいと思っているんです」
「敵の人間をですか?」
デッツェルリンクの館ではほとんどの兵が逃げていき、捕まえた兵も此方を蔑むような態度を崩さず、友好的な姿勢を見せる者は皆無だった。それなのに、バスタロンゼは敵側の人間を仲間にしたいという。
「普通の兵や領主、貴族連中ではありません。我々と同じく、帝国側に虐げられた者と手を組もうと考えています。これから向かうダアルブライツ公爵の領地で彼は奴隷たちに紛れて幽閉されているようです」
「彼、というのは?」
「マシティア帝国北部の治安維持軍を指揮していたザンティルという将軍です」
ダアルブライツ公爵はマシティアの北部で最も広大な土地を支配し、それを保有し続けられるほどの兵力もある。近隣の小領主たちはダアルブライツに依存し、彼の力を頼っていた。
解放軍はその領地にひっそりと侵入し、人目が届かない林の中に野営地を作った。林冠の隙間から星々が覗く夜、見張りの付いた天幕の一つにリシェルは入っていく。薄い布で作られた簡素な寝床があるだけの小さな天幕の中央で、ミーナは地べたにぽつんと座っている。リシェルが入ってきても、ミーナは視線を地面に向けたままだった。
デッツェルリンクの館から、バスタロンゼに無理を言ってミーナを同行させてもらった。彼女が帝国側の人間であるために自由は与えられず、捕虜のように扱われることになり、手を縛る縄も食事の時以外は外されず、常に見張りが付くことになった。そうまでしてミーナを連れてきたのも、彼女が抱いている誤解をどうしても解きたいと思ったからだった。マリーの名誉を守ることが一番であったが、ミーナを見ていると居た堪れない気持ちにもなり、放置していたら一生、暗い思いを抱いたままになって可哀想だとも思った。
リシェルはミーナの傍らに、同じようにして座った。相変わらずミーナは視線を地面に向けている。掛ける言葉はなかった。行軍の間にもいくら話しかけていたが反応はなく、詰まるところ、どうすれば良いのか分からなくなっていた。沈黙を続けるわけにもいかず、ミーナと話すというよりも、独り言のように無関係な話を呟いた。
「ほとんど勢いに任せて解放軍に参加してしまいましたが、私は目的があってマシティアに戻ってきたんです。マシティアにいる祖母に会いたくて、ファルーナ教皇国から国境を越えてきました。ミーナさんはディアという町をご存知ですか?」
ミーナは答えなかったが、リシェルは言葉を続ける。
「祖母に会うために一緒に旅をしてくれた人がいるんですが、国境を越える時にはぐれてしまいました。彼とも合流しなければなりません。無事でいてくれればいいんですけど」
ドライスは光の矢に連れられて何処まで行ってしまったのだろうか。探したい気持ちはあったが、手掛かりはない。屈強な人だし、戦いの知恵も豊富だから、帝国の兵や魔獣に遭遇しても遅れは取らないだろうが、彼にとってマシティアは勝手の分からない異国の地。その上、罪もない無辜の民には苦しみが与えられるような場所ではドライスにも苦難が降りかかることだろう。心配は絶えないが、それで足を止めていては誰も救えない。今は帝国に苦しめられて命を脅かされている人を救うことに注力し、その先、その最中でドライスも見つけられるように希った。
「彼は何度も私を助けてくれたし、戦う術も教えてくれてました。とても恩のある人です」
ミーナにもそういう人はいるのか、と聞こうとした時、ふとデッツェルリンクの館にいた男を思い出した。ミーナに命令を下していた男、イルヴァニス。ミーナと主従関係にあったようだが、彼が何者なのか気になり、それをミーナに問う。
「イルヴァニスという人は貴女の主人なんですか?」
ミーナは顔を僅かに動かした。垂れ落ちる髪の隙間から、冷たい視線がリシェルに届く。
「そうでなければ、私を囮になどしない」
久しぶりに聞いたミーナの声に驚いたが、リシェルは怯まずに会話を続けようとする。
「彼とはどうやって出会ったのですか?」
「化け物を殺した所を見られて、拾われた」
化け物、つまり魔獣をミーナが殺したという。彼女の体捌きは間近で見ていたから、戦う力は持っていることは知っていたが、それはイルヴァニスに出会う前に既に完成していたということなのか。それにしても、魔獣を殺せるほどの実力を持っていることには驚愕を隠せない。家族を失くしたミーナがどんな経緯でそんな力を得たのか、それも知りたかった。
リシェルが疑問の数々を顔に見せていたため、ミーナは言葉を待つ間もなく、一つずつ答えていった。
「生きていくためならなんだってしたっていうだけ。何もせずに死ぬよりは生き延びるために命を賭けるくらいのことは易い。誰かのおかげでこうした生き方しか出来なくなったんだよ。閣下は私の力が使えるものだと思ったから傍に置くことにしたんだろう。まあ、実際に危機を脱する手段になったんだから、十二分に利用できたんじゃないの」
他人事のように呟くと、顔を背けてまた黙りこくってしまった。イルヴァニスが何者なのか聞こうとしても、ミーナはもう何も話してくれなくなった。それでも諦めずに、会話の糸口を見つけようと画策していると、天幕の外から声が届いた。
「リシェルさん、来てもらってもいいですか?」
バスタロンゼに呼ばれたので、退出しなくてはならなくなった。名残惜しいが、打ち解ける切欠は見えてきた気がする。リシェルはミーナに「おやすみなさい」と告げると天幕を出ていった。
バスタロンゼに引き連れられていき、焚き火の傍に座る。焚き火の周囲には何人かが座っていた。静かな夜風が吹き、木々は枝葉をざわつかせる。炎は微かに揺らぐだけで、盛んに薪を燃やし続けた。バスタロンゼはリシェルの座る場所の反対側に回り、腰を下ろした。
「先程、斥候が帰ってきました。彼からの報告だと、やはりザンティル将軍はヴァルマの城塞に幽閉されているようです」
ダアルブライツの領地に意味もなく入ったわけではない。捕縛した小領主たちを尋問して、ダアルブライツ領内のヴァルマという地にザンティルがいることは分かっていた。解放軍はヴァルマを目指して進行していたのだ。
「ザンティル将軍やその麾下にあった兵士たちが捕まっていて、民のほとんどは城塞に隣接する町で常に監視されながら強制労働をさせられていると。反抗するものや逃げ出そうとするものが城塞の牢に閉じ込められて、死に至るまで拷問を受けているらしいです」
帝国の悪行を聞いているだけで、リシェルの怒りは大きくなる。罪なき人々を一刻も早く助け出したいと思った。
「じゃあ、城塞を攻め落として、将軍と奴隷たちを解放するってことか?」
仲間の一人がそう問う。
「そうしたいのは山々だが、兵の数が多い上に見張りや警備も城塞と町に常在しているという。正面突破を試みて勝てる戦いじゃない」
「けど、ザンティル将軍の助力がなければ、今後の戦いは辛くなる。どうすれば彼を救い出せるんだ?」
バスタロンゼに視線が集まる。バスタロンゼは皆を見回しながら、策を話し始めた。一同が顔を顰める中、リシェルは真っすぐにバスタロンゼを見つめる。
全てを話し終えると、一同は難しい顔をして思案していた。リシェルとしては、バスタロンゼの策に異論はない。自分ではそれ以上に良い策は思いつかない、というのが本音ではあるが。問題は誰がその策の重要な役目を引き受けるかだ。
結局、誰も反論しなかった。リシェルは皆が自分を見ているのを感じた。夜は深さを増し、焚き火の炎は人影を朧気に映す。何を待っているのか、期待しているのかは分かる。デッツェルリンクの館を一人で落とした者という認識で見られている。その所業を成しえた人にしか、この役割がこなせないと思われている。しかし、皆から何を思われていようとリシェルは既に腹を決めていたのだ。
「私が皆を救い出しましょう」
窮地は何度も越えてきた。今回もその一つに過ぎない、と思った。天幕に帰っていく軽い歩調の足音たちを聞きながら、リシェルは焚き火をじっと眺めていた。次々と人はいなくなり、リシェルとバスタロンゼだけが残った。炎の先にいるバスタロンゼに、リシェルは言葉を投げかけた。
「なぜ、ザンティルという人を仲間に引き入れようと思ったんですか?」
バスタロンゼは少しの間を置いてから答えた。
「ザンティル将軍は私の命の恩人だからです。多分、他にも彼に救われた人はたくさんいるはずです。リシェルさんは十年前にこの国を出ることになってしまったんですよね?」
バスタロンゼには自分の身の上を話していた。リシェルは頷いて肯定する。
「その間に国は大きく荒れました。貴族領主が民を虐げた始めた他、獣に似た化け物……魔獣でしたか、魔獣が跋扈するようになり、まともな生活を送れなくなったのです。領主たちも魔獣を怖れていて、それを討伐するための軍が作られました。このマシティア北部ではザンティル将軍が率いる治安維持軍がその役目を担っていたのです。将軍は主であるダアルブライツ公爵の要求以上に魔獣の討伐に奔走し、私の住む辺境の村の近くにまで来て、魔獣を掃討してくれたのです。我が村はまだ領主の魔の手が伸びる前で、訪れた治安維持軍に我々は恐々としていたのですが、将軍たちは村で悪逆な振る舞いをすることなく、村を荒らす魔獣たちを殲滅してくれました。お礼にとありったけの金品と貯えを渡そうとしたのですが、それを断る所か食糧を分けてくれたのです。その時、将軍は言ってくれました。暫しの間、苦労を掛けるが、必ずこの国の秩序を元に戻す。それまで耐えてくれ、と。結局、それは叶わず、将軍がいなくなってすぐに、村は横暴な兵たちに占拠されてしまったのですが」
バスタロンゼは苦笑した。あまりにも苦しい笑みだった。
「将軍が捕まったという噂を聞いた時は、やはりな、と思いました。帝国において、彼は清廉でありすぎました。おそらく民を守ろうと画策して、それで主のダアルブライツの怒りを買ってしまい、幽閉されることになったのでしょう。私は将軍を仲間に引き入れたいと思うと同時に、命を救ってくれた恩を返したいとも思っています」
リシェルにもその気持ちは理解できた。命を救ってくれた人たちに直接的に報いる機会を、バスタロンゼは持っている。彼がザンティルに固執する理由として至極、真っ当なものだと思った。
民からも慕われる人格者であるザンティル将軍。リシェルも彼と会って話してみたい気持ちが強くなった。まだ見ぬ義勇の将に思いを馳せて、期待と緊張を抱いたまま、その日になった。
平原を分かつ一本の川を辿って南下すると、ヴァルマの城塞が見えてくる。東に川を見る丘の上に聳える堅牢な城、その麓に家屋が群れて町を形成し、町の西側一帯には鮮やかな葡萄畑の緑が広がる。奴隷となった民たちはあの葡萄畑で過酷な労働を強いられているらしい。広大過ぎる畑の広さを見れば、奴隷たちの負担の大きさも計れる。
解放軍は城塞の北から列を成して進む。気付かれないはずもなく、城塞からは武装した兵士たちが続々と吐き出されていた。それを確認した解放軍は前進を止めて、のろのろと後退し始めた。城塞の兵士たちは丘の下で隊列を組み、解放軍を追っていく。その数は解放軍を飲み込めるほどであり、勝てる見込みが一切ないと思わされた。
町はずれにある古びた小屋にリシェルとバスタロンゼ、そしてパウロという少年がいた。パウロは斥候としてヴァルマの城塞と町を偵察した少年だ。リシェルより年齢は下で幼さが残る顔をしているが胆力があり、危険に身を投じることにも怯まない性格をしていた。パウロは人目の付かない道を通り、城塞の様子が伺える小屋にまでリシェルとバスタロンゼを導いてくれた。
パウロは壁の小さな穴からじっと外を覗き見ていた。穴を覗いたまま、リシェルとバスタロンゼに手招きをした。
「もう兵は出し切ったみたいだよ」
バスタロンゼ、続いてリシェルに穴を覗かせる。城塞から続く道には土煙だけが残り、人の姿はなかった。
「これで城塞には最低限の守りしかなくなったわけだね。本当に上手くいってるみたいだ」
「まだ安心するなよ。この作戦の成否は私たちに掛かっている。ちゃんと城塞まで案内してくれよ、パウロ」
パウロは悪戯っぽい笑みを浮かべて、それに応えた。
リシェルたちは丘を回り込みながら登っていき、反対側から城塞に向かう。裏手の小さな門は開け放たれたままで、見張りもいなかった。
「やっぱり開いてた。此処に門があること、忘れてるのかな」
城塞の裏手は崖で、その下には大きな川が流れている。門自体も狭く、一団が大挙して入り込むことも出来ないので、裏から敵襲が攻めてくるなど思っていないのだろう。解放軍を前にしても城主の驕りは抜け切っておらず、そうした甘さが抜け道を作ってくれていた。
それでもリシェルたちは気付かれないように物影を使って進み、城塞の中へと入っていった。パウロは城塞の内部も詳しく、兵たちに見つからないような順路を選び、細心の注意を払いながら、迷う素振りもなくザンティルがいる牢へと導いてくれた。狭く薄暗い階段を下りていくと、パウロは安心したように息を吐いた。
「後はもう、道なりに進めば着くはずだよ。看守はいるだろうけど」
パウロの声は反響し、闇の中に飲み込まれていく。大きな声を出すな、とバスタロンゼが制するが、パウロは聞く耳を持たなかった。
「平気だって。看守に見つかっても、リシェルならなんとかしてくれるんだろ?」
パウロはリシェルを信用しきっていた。当然、リシェルの功績を間近に見ていたわけではないが、奇跡を可能にする力の存在は知っていた。リシェルは自身の剣が特別な力を秘めていることは仲間たちに伝えていた。彼らはまだ神器の力を自分たちの目では見ていなかったが、デッツェルリンクの館を制圧した実績だけでその力を信じていた。リシェル自身もアルテナの剣があれば、大抵のことは解決できるだろうと考えていた。看守もなんとかできるし、牢が堅固であろうと破壊せしむるのは容易いだろう。だが。
「用心するに越したことはありません。油断していると、足元を掬われますよ」
「今のところは踏み外さないように気を付けとけばいいでしょ」
冗談に笑ったのは言った本人だけだった。
「いい加減にしろよ」
バスタロンゼは怒気の籠った声で呟いた。パウロは舌打ちをして不貞腐れたように口を閉じた。
下っていく度に暗さと湿気が増し、鼻を刺す悪臭を感じる様になると、パウロも緊張感を抱くようになった。派手に鳴らしていた靴の音もぴたりと止めて、差し足で階段を下りていく。そのくせ、速度は変わらずにいるのだから、足音を消すので精一杯のリシェルとバスタロンゼはパウロを追うのに必死になった。
下りきった先、小さな部屋に辿り着く。看守が常駐する部屋に思えたが、その看守はいなかった。部屋の奥には鉄の扉があり、少し開いた状態になっていた。そこから流れる空気には強い悪臭が混じっていた。
「看守はきっと中で見回りしてる。鍵もそいつが持ってるはずだよ」
小部屋の中を物色し終えたパウロが言った。看守への接触は免れない、と言った面持ちだったが、リシェルは鍵がなくても牢を開けられるだろうと根拠もなく思っていた。
バスタロンゼは鉄の扉を押した。扉は悲鳴を上げながら開いていき、僅かな灯だけがある一本の道を示した。その道の両端には鉄格子で仕切られた部屋が並ぶ。リシェルは鉄格子の隙間を覗く。暗くて良く見えないが、人らしき姿があった。壁に凭れているが、身動ぎをすることもなかった。
「大丈夫ですか?」
声を掛けても反応はない。鉄格子の戸は施錠されている。リシェルはおもむろにアルテナの剣を抜くと、戸に目掛けてそれを振り下ろした。
鈍い音が鳴り、戸が鉄格子から外れて倒れた。やはりアルテナの剣ならば、牢をこじ開けるのは造作もないことだった。リシェルはその認識を得ながら、牢の中に入っていく。
近付いて声を掛けようとしたが、小さな言葉にならない音だけしか出なかった。中にいたのは既に死した人だった。異様にやせ細った体には紫色に変色した痣のような痕があり、手足の指はいくつか欠けていた。片目は潰れて、赤黒くなった眼窩から血の涙が伝っていた。痛ましい姿の亡骸に、リシェルは思わず後退りをした。よろめくリシェルをバスタロンゼが受け止め、リシェルが見たそれを見る。
「惨い……」
ただそれだけを口にし、リシェルを牢から出した。いつの間にか先行していたパウロが帰ってきて、バスタロンゼに告げる。
「生きてる奴の方が少ないよ。死体ばっかだ」
牢を見て回っていたようだ。パウロの告げる事実がリシェルの悲しみを増幅させた。助けられなかった彼らを思い、リシェルは唇を噛んだ。
パウロは壊れた鉄格子に目を向けた。その後、リシェルの右手を凝視する。リシェルは剣を握ったままだった。
「まさか、その剣でぶち破ったの? 信じられない」
バスタロンゼも困惑していた。リシェルは目頭を押さえながら、片手で剣を鞘に納める。落ち着こうと細い息を吐いた後、彼らに答えた。
「神の力が宿っているので、私たちの常識はこの剣には通用しません」
「神の力……」
疑っている様子はリシェルにも伝わっていた。リシェルは反対側の牢に向かうと、先程と同じように剣で戸を破った。それを見て、バスタロンゼとパウロは信じるしかなくなったようだ。
「こう申し上げるのは失礼だと承知していますが、リシェルさんのことを侮っていました。よもや、それほどの力を有しているとは」
「感嘆している暇はありませんよ。生きている人は助けてあげましょう」
リシェルは次々と牢を破る。生きている人は確かにいたが、皆一様にやせ細り、体中に痛々しい生傷を作っていた。自力で立てる者はほとんどおらず、気力も削がれているようだった。
彼らの姿が非道な拷問が行われている証拠だった。リシェルは兄弟だと思われる傷だらけの二人の少年の死体を前に怒りと悲しみで震えた。やり場のない感情は鉄格子にぶつけられた。牢を出る際に拳で思い切り殴った。じんじんと手の甲が痛み、赤くなっていくが、それで晴れるはずもなかった。
ちょうどバスタロンゼとパウロも隣の牢から出てきた。その牢にはまだ生きている人がいた。バスタロンゼは牢が並ぶ通路に目を配りながら話し始めた。
「ザンティル将軍は下の階にある牢にいるらしいです。定かではないが、そういう噂がある、と」
「看守も将軍のとこに行っているのかも」
リシェルは後背の牢を一瞬だけ見遣る。看守はザンティルを拷問に掛けようとしているのだろう。此処に捕まる人たちのように、惨い仕打ちをザンティルも受けているに違いない。
バスタロンゼはパウロに此処で待機するように指示した。目的を達成するまで傷付いた虜囚たちの面倒を見てもらうためである。パウロを置いて、リシェルとバスタロンゼは牢獄の奥へと進んでいく。再び現れた階段を下りていくと、また同じように牢が並ぶ通路に着いた。リシェルは鉄格子の中を覗く。人影を確認する前に、中から声が聞こえた。
「誰だ」
薄闇に眼差しだけが浮かんで見える。リシェルは鉄格子を破壊して、牢の中の人物を確かめた。
上の階にいた者たちとは風格が違う男だった。傷だらけなのは同じだったが、剥き出しの体は逞しく、出来た傷にも屈しない強さを有していた。只者ではないと思ったリシェルは男に尋ねた。
「貴方がザンティル将軍ですか?」
男は重たく首を振った。
「貴様らは一体何者だ?」
「我々は解放軍。帝国の圧政から民を救うために戦っている」
「ならば、俺たちはお前たちの敵ということになるな」
意味を理解するのに、一瞬の間があった。理解すると、リシェルはそれを口にして確かめた。
「貴方は帝国側の人間なのですか」
「一兵卒に過ぎんがな。貴様らが憎む悪逆の徒には違いない。それで、仇敵が丸腰でいるんだ。殺すにはもってこいなんじゃないか」
そう聞かされても、リシェルは男を恨めなかった。牢に入れられ、虐げられているのは見て分かる。彼が帝国の者であっても、救うべき虜囚でもあった。
「私たちは此処に捕まっている人たちを助けるために来たんです。貴方が帝国兵であろうと、関係ありません。それに、ザンティル将軍の手を借りようとしているんですから、今さら身分や出自を気にしても仕方ありません」
「将軍の手を? そうか……」
何かを思案している素振りを見せた後、男はまた口を開いた。
「俺も将軍を助けて差し上げたい。ついてこい」
男は顔を顰めながら腰を上げて、足を引き摺って牢を出ていく。奥の方へと進みながら、牢にいる虜囚たちに何かを告げていく。後ろから男の行動を見ながら、リシェルとバスタロンゼはついていく。
進むうちに、何かを叩くような渇いた音が聞こえてくるようになった。リシェルは鞘に手を掛けて、警戒を強めた。最奥から長い影が伸びて見える。影は二つ。一つは激しく動き、もう一つはそれに時おり重なるが微動だにしない。前を行く男の歩く速度は増すが、リシェルは彼を追い越して、影の伸びる先へと小走りで向かった。
開け放たれた牢の中に、彼らはいた。両腕を縄で縛られて天井から吊るされている男は伸び切った白髪と髭で顔が見えない。この吊るされた男に鞭を激しく打ち、荒い息を吐いている男は背後に迫るリシェルに気付いていなかった。だが、吊るされた男が俄かに顔を上げて、白髪の隙間から視線をリシェルに向けると、鞭が止まり、視線を追って背後へ振り向く。
「脱獄囚かあ?」
ねっとりとした口調で男は言った。焦る様子も見せず、鞭を放り投げて腰に帯びた剣を悠々と抜く。リシェルも剣を抜こうとしたが、後ろから怒声が届いて手が止まった。
「バシュ! 貴様は俺が殺してやる!」
憤怒は声だけに留まらなかった。虜囚だった男はリシェルを乱暴に押しのけて、バシュと呼んだ男に向かっていく。彼が怒りに身を任せているのは明白だった。武器を持っている人間に丸腰で、しかも傷だらけで満足に動かない体で、立ち向かうなど無謀でしかない。しかし、男の執念は余程のものなのか、リシェルが止めようと伸ばした手も掠らせずに、バシュに殴りかかっていった。
バシュは男の拳を難なく受け止めると、剣の柄頭で男のこめかみを殴った。男は声もなく倒れてしまい、バシュに踏みにじられた。
「やめろ!」
吊るされた男がしわがれた声で言った。バシュはそれに不気味な笑みで返し、倒れた男の首に刃を当てた。
「やはり、部下思いのザンティル将軍には、これが一番効果的なのですねえ。目の前でこの首が飛んだら、どんな顔をしてくれるんでしょう。試してみますか」
あの吊るされている男こそがザンティル将軍だった。ザンティルは拘束を解こうと藻掻くが徒労だった。その有り様に、バシュは更に高い笑い声をあげて喜んだ。
「いいですね。将軍の無様な姿、ダアルブライツ公爵にも見せてあげたい。自分を裏切った家臣が悪足掻きをする様、さぞ愉快なことでしょう。さあ、もっとその顔を醜く歪めてみてください」
バシュは剣を振り上げて、男の首を斬り落とそうとする。割って入るには間に合わない距離だった。自分が斬られるのなら、神器の力で刃を撥ね除けられる。この力を他者にも与えることが出来れば、という思いが過ると、柄に掛けた指に神器の力が宿った。指先から刃の音響が発生して、それが男に届くと、リシェルは馴染んだ力を感じた。今まで通り、それを行使する。すると、自分ではなく、男の内側から神器の力が生まれた。
振り下ろされた剣は折れながら弾かれて、バシュも仰け反って地面に腰を打った。すかさず、バスタロンゼが駆けていき、何が起きたか分からずに困惑しているバシュに剣を突きつけた。
「動くなよ」
バシュは目を見開いて、それに頷いた。リシェルも牢の中に入っていき、倒れている男の無事を確かめた。意識を取り戻しかけていることに安堵すると、次にザンティルの救出を試みた。
ザンティルの腕から伸びて天井に掛けられた縄をアルテナの剣で断ち切ると、ザンティルは崩れる様にして地面に落ちた。リシェルはザンティルに手を差し伸べようとするが、彼自身がそれを拒否した。
「無用だ」
短いが強い言葉だった。リシェルはザンティルに恐れを抱き、素早く手を引っ込めた。両手はまだ縛られたままだったが、それを解くことすら許してくれない雰囲気を漂わせていた。
ザンティルは自力で立ち上がると、床に落ちている刃の破片を足の指に挟み、屈みこんで腕の縄を削り切った。腕の自由を得ても感慨に浸ることもなく、倒れている男に近付き、膝を突いて様子を窺う。男はザンティルに微かな笑みを見せた。
「ご無事ですか?」
「私よりも自分の心配をすることだ、ガント。何も持たずに敵に突撃するなど、褒められたことではないぞ」
ガントの笑みが苦笑に変わる。
「そのお叱りは此処に入れられる前に受けております。将軍のためならば、どんな愚行も躊躇わない。今に至っても皆、同じ思いを抱き続けています」
「馬鹿者共が。いや、私が言えた立場ではないか」
ザンティルは再び立ち上がると、リシェルを見た。ザンティルの威圧的な雰囲気にリシェルはたじろいだが、視線は白髪の隙間から覗く彼の目から離さなかった。
「正体を問おう」
声が詰まりかけながらも、リシェルは答える。
「帝国から民を救うために戦っている、解放軍です」
ザンティルはガントを見る。ガントが頷くと、視線をリシェルに戻す。
「それが何故、帝国の将軍を助ける?」
バスタロンゼはバシュを牽制したままだった。気を抜くことが出来ないバスタロンゼの代わりに、リシェルがザンティルを助けるに至った経緯を話した。ザンティルはリシェルの言葉を量るように聞き入り、リシェルが話し終えた時、固く閉じられていた口が開いた。
「私とて、帝国が民を虐げ、己の欲と安全を優先するようなやり方を許してはおけなかった。だからこそ、公爵に何度も諫言してきたのだが、その結果がこれだ。謀反の疑いを掛けられて牢に幽閉されると、それに反発を示した部下たちも処罰を受けた。私と同じように牢に囚われる者もいれば、残忍な方法で処刑された者もいたという。私が正しき国の在り方を説いたことで招いたのは、平穏ではなく不条理な懲罰だ。帝国は巨悪へと変貌していた。私程度の正義では、その膨れ切った腹に穴の一点も穿つことすら叶わなかったのだ。それでも尚、私が役に立つと思うか? 私の力を欲するか?」
その問いかけにはリシェルが答えねばならなかった。仲間を囮に使って敵地に潜入するという危険を冒してまで、ザンティル将軍を仲間に引き入れようとしている。解放軍の皆は帝国の圧政から解放されるためなら、自分の命が脅かされることも厭わない。それはリシェルも同じだ。志を共にする彼らの思いを、リシェルは代弁した。
「私たち一人一人が持っている力は、帝国から見れば取るに足らず、将軍から見たとしても頼りなく、小さいもののように見えるでしょう。ですが、私たちは確固たる信念を持っています。平穏を取り戻すためならば、どんな困難にも立ち向かう覚悟があります。同じ目的を持って皆が団結すれば、帝国の腹を破る力になるはずです。将軍がお持ちの道義の心と私たちの抱く志。形は違えど、色を同じくしています。将軍と私たちが交われば、帝国の巨躯を地に転がすには充分な強さとなるでしょう。罪なき人々を救うために、どうか将軍の力をお貸しください」
皆の思いは伝えられたはずだった。しかし、ザンティルは望んでいた返事をしてくれなかった。
「確固たる信念を持っている、か。ならば、なおさら私の力など必要ないだろう。私は屈してしまったのだ。帝国を前にして剣を取り、立ち向かっていく勇気を削がれた。こんな軟弱な男が加わったとしても足手まといになるだけだ」
「そんなことはありません」
そう言ったのはバスタロンゼだった。壁に反響する声が、ザンティルとリシェルに届いた。
「私は将軍の高潔な心に触れて、帝国と戦う勇気を得られたのです。解放軍には将軍に助けれらた者はたくさんいて、皆、将軍のようにありたいと思って戦う道を選んだのです。将軍が私たちと共にいてくれれば、どれほど心強いことか。貴方がいてくれるだけで、私たちは恐怖を覚えずに帝国と戦えるのです」
バスタロンゼは気持ちが昂ったのか、此方に振り向いた。その一瞬、バシュは揺らいだ剣先を逃さなかった。勢いよく立ち上がると、バスタロンゼを押しのけて逃走していった。
「待ってください!」
リシェルの声は通路の闇の中に飲まれるだけだった。バシュの逃げ足は並の物ではなかった。仲間を呼ばれたら面倒だ。リシェルも牢を出て、急いで追いかける。だが、一向にバシュには追いつかない。姿も捉えられず、足音だけが遠のいていく。
明かりに照らされる階段が見えてくると、誰かが下りてくるのが見えた。走って近付いてきたのはパウロだった。
「リシェル!」
互いにぶつかるかという勢いで近付き合っていたが、直前で二人とも立ち止まった。
「上で大人しく待ってたんだけど、看守っぽい奴とすれ違ってさ。そいつは一目散に走っていったんだけど、リシェルたちがどうなったのか気になって……」
「捕まっていた人たちは無事ですか?」
「う、うん。本当に何にもしないで、逃げていったから」
安心は出来なかった。バシュは仲間を呼びに行ったに違いない。それももう、止めることが出来ない距離まで離されている。虜囚たちの解放が知られたら、虜囚たちの身にも危険が及ぶだろう。左右の開いていない牢にはまだ虜囚たちが多くいる。彼らを助けずに逃げたら、見せしめとして命を脅かされるような所業を後に受けるかもしれない。
虜囚を全て助け出し、城塞の兵士たちと戦う他に道はない。まずは兵士たちが来る前に、牢に入ったままの虜囚たちを解放する必要がある。リシェルは事の顛末と自分の考え、すべきことをパウロに伝えた。
「じゃあ、この階層の牢も開けなきゃね。実はさ、看守とすれ違った時に鍵をくすねておいたんだ」
パウロは得意げにそれを見せつけてきた。束ねられた鍵をリシェルの顔の前でひらひらと揺らす。
「これで手分けして開けていける。ていうか、バスタロンゼは何してんのさ。手伝ってほしいんだけど」
そう愚痴を溢すと同時に、バスタロンゼが現れた。その後ろにはザンティルと彼に支えられて立つガントがいた。
「バシュはどうしました?」
「逃げられてしまいました。追いかけても間に合わなそうだったので、虜囚たちを牢から出して、全員で城塞から脱出しようと。急がないと、兵士を呼ばれてしまいます」
「勝算はあるのか?」
そう聞いてきたのはザンティルだった。
「勝たねば死にます。安心してください。ザンティル将軍や捕まっていた方々は何があろうと絶対に死なせはしません。私が命に代えても、皆さんを救いますから」
「どれだけの兵士がいると思っている。武器はお前たちが持っているものしかない。つまり、戦えるのは片手で数えられる人数しかいないのだぞ。それでこの城塞の兵全てと戦い、勝てるというのか?」
「何度でも言います。勝たねば死にます。だから戦う。私が死のうとも、皆さんが死なずに解放されれば、すなわち勝利なのです。私たちの戦いはこれの繰り返しなのではないでしょうか。帝国を打ち倒し、民が自由を得るまで、勝たねば民たちの死が待つ戦いを命を削ってても勝利していかなくてはならない。勝たねば、戦わなければ、私たちは帝国に弄ばれて死ぬしかないんです」
ザンティルは閉口した。バスタロンゼもザンティルを見ていた。伝えたいことを眼差しに込めているように、見つめ続けていた。
「彼らに全てを託しても良いのですか?」
ガントが徐に呟いた。それに呼応したのは、牢にいる虜囚たちだった。
「こんな腐敗した国に未練などないでしょう。皇帝を討ち、マシティアに新たな光を齎すために戦いましょう」
「将軍が苦悩していらしていたのは、側にいた我々はよく知っています。民を救うために、自分には何が出来るかと常に考え、己の身が危ぶまれようとも顧みずに尽力なされているその御姿に我々は憧れ、将軍の配下であることを誇りに思っていたのです。こうして牢に閉じ込められている間も、その思いに濁りがあったことなど一度もありません」
「将軍と共に戦うことこそが、私たちの栄誉なのです。国を、民を思う気持ちに翳りがないのであれば、彼らに守られるのではなく、先陣を切って戦うべきです。無論、我々が将軍の剣となり、盾となりましょう」
「そうですよ。俺たちにも戦わせてください、将軍!」
「民を圧政から解放するために! 起ちましょう、将軍!」
至る所の牢から雄叫びのような喝采が響いた。びりびりと震える空気をリシェルも肌に感じていた。ザンティルは彼らの叫びを一身に浴びている。骨ばった手を額に当てると、、大きく息を吐きながら顔を覆い隠す髪を掻き揚げた。初めて露わになったザンティルの顔は痩せこけていて、拷問によって付けられたであろう刃で抉られたような傷跡が右の頬にくっきりと残っていた。それでも、双眸には弱さや怯えなどなく、通路と牢を照らす小さな松明の灯を鮮明に反射していた。
「正義を全うしようとも、失うものはある」
その言葉はリシェルに向けられていた。虜囚たちの声の中でも、その声は静かに重くリシェルに響いた。
「己の命を奪われるよりも辛く、耐え難いものを失うことになるやもしれない。それでも、歩みを止めない覚悟があるのか?」
「私はもう大切なもの全てを失いました。それを取り戻すための戦いでもあるのです」
その身を犠牲に生きる力をくれたマリー。命を救ってくれた礼すら言えずにこの世を去ったガルフ。二つの死の上に立った自分には彼らの志を継ぐ使命がある。マリーのように諦めない心を持ち、ガルフのような強さで罪なき人々を救う。帝国の圧政から民を解放することは亡き二人から託された願いなのだ。リシェルはふと口を衝いて出たその言葉を、自分自身でそう解釈した。彼らの命は戻ってこない。だが、この戦いに勝てば、彼らの無念を少しは取り去ってあげることが出来ると思った。
そして、故郷ディアにいる祖母。祖母と会うには、帝国の腐敗は大きな障害だ。この戦いの意義はリシェルの目的、信念と大いに合致するものだった。いつぞや、選びあぐねていた道に漸く腑に落ちる答えを出せた。剣を振るうことを躊躇わない。この国を正しい形に戻すため、それを歪める者たちを裁かなければならない。畢竟、魔獣を斬ることと変わりはしないのだ。人と獣で区別するのではない。正しきものか、悪しきものかで考えればいい。努々、忘れてはならないのは、どれだけ野蛮で穢れた生き物であろうと命であることだ。
ザンティルはリシェルを見据えた後、周囲を見渡した。パウロがいつの間にか牢を開け回っていたらしく、虜囚たちは通路に出てきていた。ザンティルを取り囲み、何かを期待している様子で視線を向けている。それを受けて、ザンティルは深い溜め息を吐いた。
「本当に馬鹿者しかいないな。この場に限っては喜ばしいことだが。お前たち、気を引き締めろよ。体が鈍っているだの、武器も鎧もないだのの言い訳は聞かん。上層には無辜の民も幽閉されている。彼らを守りながら脱出するのだ」
怒号が轟き、ザンティルの部下たちは一斉に階段へ押し寄せていく。バスタロンゼとパウロも慌てて彼らを追っていく。ザンティルはガントを背に負おうとする最中、リシェルに聞いた。
「こいつを救ってくれたのは、お前か?」
ザンティルは視線をガントに向けて示した。リシェルは小さく頷き、アルテナの剣の柄に手を掛ける。
「信じられないかもしれないですが、この剣には神の力が宿っているんです」
「そうか」
驚くこともなく淡々と返したザンティルに、リシェルの方が困惑した。ザンティルはそれ以上の言葉もなく、先行する部下たちに続いていった。ザンティルの反応に引っ掛かるものがあったが、事態は急を要している。退路を切り開けるのは武器を持ち、戦えるだけの気力と体力を持っている者だけだ。それに該当する自分が身を挺して虜囚たちを逃がしてやらなければならない。
リシェルはアルテナの剣を抜いた。刃に映る自分の顔に向かって鼓舞する。
「諦めない」
ヴァルマの城塞の地下牢に幽閉されていた虜囚たちは一人として欠けることなく脱走した。城内に残る兵の数が少数であり、士気の上で虜囚たちが勝っていたために脱走が叶ったのだが、全員を無事に救い出せたのはリシェルが先陣を切って兵を撥ね退けていったからだった。退路を確保すると、戦えない虜囚たちをバスタロンゼとパウロに託し、ザンティルとその部下たちと共に城塞を制圧しに掛かった。
解放軍を掃討するために出撃していたヴァルマ兵たちは城塞が陥落したとの急報が届くと、進路を西へと変えて目の前の解放軍から逃げていく。ザンティル将軍の脱走、そして反乱の報せは城塞陥落の事実と相まって彼らを怖れさせるには充分な効果があった。
当初の目的であるザンティル将軍の救出は、ヴァルマ解放という想定以上の形で終結を迎えた。その立役者となったリシェルは名を知らしめ、仲間たちからは「真紅の聖女」という呼び名を貰い、それがマシティア帝国中に広く知れ渡ることになった。