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秩序なき世界

 魔獣は聖なる神器を忌避する。人間には感知できない匂いのようなものを嗅ぎ取り、それを嫌って神器の周囲には近付かないという。匂いは広範囲に広がり、神器を奉る教会を中心にして、人の住まう場所にまで効果がある。ただ、その匂いも絶対に魔獣を遠ざける力があるわけではなく、ごくまれに耐性を持つ魔獣が神器の目に見えない盾を掻い潜って人の前に現れることがある。そうした例外の個体を排除するのが聖絶士の仕事だ、と国境に向かう道すがらにハッドは教えてくれた。

 リシェルが持つアルテナの剣にも、魔獣を近付けさせない力はある。それが正常に働いているのであれば、魔獣は近付いてはこないはずだ。しかし、リシェルは魔獣の気配が自分に向かってきているのを感じていた。それも一つ二つではなく、十に近い数が臆する様子もなく真っすぐに向かってきている。

 ハッドが述べた例外にはもう一つの種類があった。それはリシェルも肌で感じ、体験したランベルでの魔獣の群れを指すものだ。つまり、魔獣が魔の神器の力によって操られているのなら、聖なる神器の力を無視するというものである。今、リシェルに向かってきている魔獣はそのどちらの例外なのか。それを思案する時間はなく、魔獣の気配はもうリシェルの周りに展開して、生い茂る草木に身を隠して機を窺っていた。

 気配から犬より一回り大きい魔獣だと分かる。外形は実際に見ないと分からないが、犬と違いはないと感じた。それが十に及ぶ数で襲い掛かろうとしている。リシェルはアルテナの剣を静かに鞘から引き抜き、両手でしっかりと握って魔獣が動き出すのを待った。

 堪え性がなかった魔獣の一匹が、草むらから飛び出してきた。やはり、その姿は犬と酷似していた。長い舌を出し、涎を撒き散らしながら、半狂乱の様で襲い掛かってきた。リシェルは剣を魔獣の眉間に向けて振り下ろした。刃が魔獣の頭を縦に裂き、返り血だけがリシェルに届いた。

 一匹の魔獣の死を皮切りに、潜んでいた魔獣が一斉に姿を見せた。四方の至る所から近付いてくる魔獣たちに対して、リシェルは剣先を向ける相手を決められなかった。判断に迷っている間に、魔獣たちは素早い動きでリシェルに接近し、鋭い牙で噛みつかんとした。

 剣を振る暇はなかった。だが、魔獣の牙がリシェルに触れる直前、その一瞬に刃が鳴り、リシェルの体を何かが覆った。魔獣たちはそれに弾かれて、飛び掛かる勢いを己に返して大きく吹き飛んだ。

 リシェルは自分の身に起きたことを理解できずに啞然と魔獣たちを眺めていた。魔獣たちは地面に強く体を打ったらしく、すぐには起き上がらなかった。しかし、その狂気と殺意は収まってはいないようで、ふらふらと立ち上がると、先程の機敏な動きには程遠い、緩慢で痛々しい動きで迫ってきた。

 弱った彼らを仕留めるのは苦労しなかった。近付いてくるものから順番に屠り、最後の一匹を殺した後、溜め息を吐いた。

 アルテナの力が作用して魔獣たちを弾き飛ばしたのだろう。安全な状況になって漸く、自分が助かった理由を知った。リシェルは刃に留まろうとする赤黒くて粘っこい血をローブの裾で拭ってから鞘に戻すと、辺りに充満する死の臭いから遠ざかる様にして歩き出した。悠長にはしていられなかった。光の矢から落ちてしまい、ドライスとはぐれてしまった。彼との合流を急がなければならない。それに、このマシティア帝国は明らかにおかしい。襲ってきた魔獣を全て殺したにも関わらず、魔の気配が消えずに漂っている。始めは魔獣の死臭だと錯覚していた。死体から離れてからも体の内側にこびりつくようにして残り続けていたため、臭いではなかったことに気付いた。

 魔獣の気配ほどはっきりとしない、空気に混じっている微小な毒と呼ぶべきその気配はどこまで進んでもなくならなかった。終わりのない森の中で、リシェルはその毒気のある空気のせいで不安が増長されて、孤独であることに強い恐怖を覚えた。

 その孤独を嘲笑うかのように、ぽつぽつと魔獣の気配が現れた。魔獣はまたリシェルの方へと向かってきていた。気配の形は先程と同じ。数だけが増えている。犬のような見た目だから、臭いで獲物がいることを感知しているのだろうか。ましてや血の臭いが体に残っているだろうから、見つけるのは簡単なのかもしれない。

 リシェルは再び剣を構えて魔獣たちを待つ。此処で死ぬわけにはいかない。なんとしても生き残って、祖母のいる故郷へと帰る。その思いを強くすることで、辛く絶望的な状況を誤魔化した。


 魔獣との遭遇は一昼夜を越えても絶えず続いていた。襲ってくるのは決まって犬型の魔獣で、それらを殺して先へ進もうとする度、また新たな魔獣の気配が近付いてくる。休む暇は当然なく、眠ることは許されなかった。

 リシェルが疲弊しながらも戦い続けられたのは、祖母と再会するという強い意志を持ち、己の命を諦めずにいられたことも大きな要因ではあったが、なによりもアルテナの剣の力のおかげで死なずに済んでいた。始めは偶発的に行使されていた体を守る力も、いつの間にか、自分の意思操作によって行使できるようになっていた。体に満ちるアルテナの刃の音の波を外へと押し出す感覚が戦いを続けていく内に身に付き、必要とする時に見えない防壁を体に張り巡らせられるようになっていた。

 夜明けの一戦を終えて、リシェルは魔獣の死体の中で腰を下ろした。もう次の魔獣の気配が近付いてきている。それが来る前に少しでも体力を温存しなければならなかった。

 教会から旅立った時には真っ白だったローブも、今や血と泥で汚れきっていた。血を吸ったせいか、重さも増したようにも感じる。羽のように軽いアルテナの剣も、一つ振るうのに体中の力を込めなければならないくらいに消耗していた。

 変わらず続く鬱蒼とした森の中、私は何処へ向かっているのだろう。ちゃんと進むべき道を進めているのだろうか。リシェルにはもう判断が出来ていなかった。やってくる魔獣たちを倒すことしか許されていなかった。剣を地面に突き刺して、それを支えに立ち上がると、周囲に展開した魔獣たちとの戦いが始まる。

 強制される実戦の連続で、リシェルは自然と戦いに慣れていった。魔獣の攻勢を剣と見えない防壁で凌ぎ、そこに生まれた隙を突いて屠る。特に剣での迎撃は、魔獣への恐れが薄れていったために、冷静かつ的確な一振りを浴びせることが出来るようになっていた。

 この襲撃に関しても、今まで同様の戦い方で済むはずだった。正面の魔獣を剣で迎え撃ち、重たい腕を振って斬り払うと、直後に魔獣が背後から襲ってきた。定法通り、アルテナの力を行使して見えない防壁を張ろうとする。しかし、刃から伝わるはずの音の波を全く感じなかった。

 体に満ちるはずの力の一滴も感じず、リシェルは上半身を無理矢理捻って剣で魔獣を迎撃した。間一髪で難を逃れたが、続けざまに魔獣たちが襲ってくる。アルテナの剣からは一向に力を感じない。剣を振るおうにも無理に体を捻ったために、上手く動けなくなっていた。間近に迫る死を直視し続けることしか出来なかった。

 不意に背後から風が吹いた。そう感じた時には白い獣が目の前を走り抜けて魔獣たちに向かっていた。真っ白な馬だった。馬は魔獣たちの前で暴れ狂い、前の脚で踏みつけて、後ろの脚で蹴り飛ばし、魔獣たちを蹂躙していった。魔獣たちも標的を馬に変えて襲い掛かるが、馬は噛みつかれても怯まず、魔獣を振り落とした後に容赦なく踏み潰した。

 残っていた魔獣の全ては馬が蹴散らしてしまった。暴虐の限りを尽くした白い馬の体は自らの血と魔獣の血で赤く染まっていた。その場に生きている魔獣がいなくなると、馬は立ち止まる素振りもなく何処かへと走り去っていった。

 追わなければ。リシェルはどうしてか、そういう思いに駆られていた。馬から魔獣の気配は感じない。だが、心がざわめいている。放っておいてはいけないという曖昧な感情によって正当性を作り出して、彼が残した蹄の足跡を痛む体に鞭を打って辿っていった。

 入り組んだ森の中を、ふらふらとした足取りで馬は進んでいた。その場で地団駄を踏んだ形跡や突然、来た道を戻ったような足取りをして、素直に追うには苦労させられた。そして、遂には足跡すら残してくれなくなり、追うのが難しくなってしまった。最後に残した足跡から推測して先へ進んでいくと、前から魔獣の気配を感じた。半ば辟易したが、その気配はリシェルには向かってきていない。形も大きさも今まで襲ってきていた犬型のものとは異なる。群れもせず一匹だけのその魔獣は、寧ろリシェルから遠ざかっているようにも感じられた。

 聖なる神器を忌避しているのなら、追う必要はないかとも思った。だが、魔獣を放置しておくことが正しい行いと言えるかとリシェルは自らに問いかけると、即座に否定した。魔獣は人のいる場所へ行こうとしているかもしれない。魔獣を倒す力のない人々が襲われてしまったら、誰が彼らを救うのか。この異常な空気と夥しい魔獣の数を考えれば、この辺りには聖なる神器や、聖絶士のような存在もいないだろう。自分以外に魔獣を倒す力を持つ者はいない。ならば、いや、そうでなくても、誰かが不幸になるのを見過ごすわけにはいかない。リシェルは魔獣の気配を急いで追っていった。

 気配に近付いていくと、人の住んでいる集落に辿り着いた。見る限り、人は外にいない上に、木造の家屋はどれも破壊されたような跡を消し切れないままに修復されている。閑散としたその集落の中に、魔獣の姿が見えた。

 ずんぐりとした体躯とそれを支える短い四肢。平たい鼻を頻繁に地面に擦り付けて、口の両端からは反った牙が剥き出しになっている。猪の姿に似たその魔獣は地面を嗅ぎながら家屋に近付き、突如狂ったように暴れて家屋の壁を破壊した。

 その家屋の中から悲鳴が聞こえた。魔獣はそれに反応し、壁に出来た穴に顔を突っ込み、強引に中に侵入しようとする。リシェルは剣を抜きながら魔獣に駆け寄ると、壁の破壊に没頭している魔獣の背に剣を突き刺した。魔獣は短い唸り声を上げて暴れたが、リシェルは柄から手を離さず、刃を頭の方へと滑らせて魔獣を絶命させた。

 魔獣の死体を壁の穴から引きずり出そうとした時、家の住人が表に出てきた。あまり豊かな暮らしをしていないのか、ぼろぼろの衣服を着ている老婆だった。老婆はリシェルと魔獣を交互に何度も見てから、声を漏らした。

「――ちゃんが助けてくれたのかい?」

 リシェルは耳を疑った。言葉の始まりを上手く聞き取れなかったのは、慣れた言語ではない言葉であったからだ。老婆に聞き返すようにして、疑問符だけの短い声を放つと、再び、言葉が返ってきた。

「お嬢ちゃんが助けてくれたのかい? それにどうしたんだい、その恰好は。血塗れじゃないか」

 知っている言語で間違いない。長い間、それを聞いていなくても、しっかりと意味を理解できていた。老婆はリシェルが幼い頃に使っていた言語で話しかけていた。

「私は、平気です。お婆さんこそ、怪我はありませんか?」

「ああ、おかげさまで。家は壊れちゃったけど」

 リシェルも同じ言語で話すことが出来ていた。これでマシティア帝国が自分の生まれた国であることが確定した。リシェルは素直に喜べなかった。魔獣が跋扈し、毒のように汚れた空気が漂うこの地に故郷があることが悲しくあったからだ。

 他の家屋から人が次々と出てきた。リシェルは刃に付いた血を拭ってから鞘に戻すと、自分の周りに集まった人々を見て、違和感を覚えた。

 年老いた人しかいない。若者の姿は何処にもなかった。それに、誰も彼も貧しい身なりをしていた。彼らもリシェルを見て、物珍しそうな顔をしている。ひそひそと何か耳打ちしあう者もいて、リシェルを観察しているような素振りだった。

「何処から来たのかね? この辺りにはもう若いもんはおらんはずだが」

 老齢の男の一人が尋ねてきた。他の者の態度から見て、それが集落の長であることは察することができた。

「ファルーナという国から来ました」

 老人たちは顔を顰めて、またひそひそと話し始めた。

「それを信じろというのは無理な話だ。領主館から逃げてきたのではないのか?」

「領主館? 何の話ですか?」

 長老には覇気がなかった。彼だけでなく、他の老人たちも疲れ果てたような印象が強くあった。長老はリシェルの問いに溜め息を吐いて首を振った。

「化け物を退治してくれたことには感謝する。だが、長居されても困るから、もう出て行ってくれ」

 リシェルは面食らってしまった。理由も言わずに出て行けといわれて従うほど素直ではなかった。

「何かあったんですか? お困りのようならば、私でよければ御力になりますけど」

「困っているに決まっているだろう。化け物は襲ってくるし、若者は領主に連れていかれて、年老いた我々に彼らの分も含めた重たい税を負わされる。この辺りの村じゃ、それが普通だ。もうどれだけ長い間、こんな生活を強いられていることか」

 異常な事態が重なって現状を作り出していることを知った。魔獣が蔓延っている中、領主が民を苦しめているのだという。信じられないという思いがありながら、若者のいない貧しい様相の村の姿がそれが真実であると告げていた。

「若者を匿っていると思われたら、我々にも罰が下る。お前さんが何処から来たのかなど、、もうどうでも良いから、迷惑を掛けたくないと思うのならこの村からいなくなってくれ」

 他の老人たちも、素っ気ない視線をリシェルに向けていた。昨日から休みなく戦い続けたリシェルにとって、体を落ち着かせる場所があれば、そこに留まって休みたいという思いはあった。しかし、この村の住人たちにはそれが迷惑なようだ。何故、若者がいるだけで住人たちが罰せられるのか。領主が積極的に民を苦しめる意味が全く理解できなかったし、そうした圧政に従わなければならない民たちに同情した。

「分かりました。では、領主館というのが何処にあるのかだけ教えてください」

 困窮している人々を目の当たりにして放ってはおけない。例え万全の状態になくとも、リシェルが生来から備えている正義の光に翳りはなかった。

 長老は訝しむ様子を隠さなかったが、領主館があるという道に案内してくれた。生い茂る木々の間に、踏み固められて地面が剥き出しになっている道が村の端から森の奥へと続いていた。

「領主館に行ったことはないが、奴らはいつもこの道を使って村に来ている」

 それだけを言って長老は戻っていった。リシェルは長老の背中に向かって感謝を伝えた後、先の見えない道を歩いていった。

 立っているだけでも辛いほど疲弊していたが、休もうとは思わなかった。自分が感じている一時の苦痛よりも、あの村や他にもあるという村の人々が被っている苦難の方が遥かに大きく辛いものであるのは間違いない。彼らを一刻も早く苦しみから解放するためにも、いくら辛くても歩みを止める暇はなかった。

 幸いにも魔獣の気配は感じなかった。久方ぶりの平穏に心の安寧が保たれた。ただ、毒気のある空気は何処まで付いてきて、これからはもう逃れられないのだろうと付き合い続ける覚悟を持った。

 枝葉がそよ風に揺れて微かな音を立てる。小鳥の鳴く声が頭上を通り過ぎ、梢の間から温かな日差しが降り注ぐ。平時であれば、こんな穏やかな時間を贅沢に満喫できるだろう。旅立ってから、そんな余裕は一度もなかった。教会の草原で寝転がって、全身に優しい風と草の匂いを感じながら眠っていたことが懐かしく感じた。

 同時に、此処が故郷の国であるはずなのに、そうと思いたくないほどに荒み、淀んだ空気を漂わせていることが悲しかった。本当にマシティアに故郷、ディアという名の町があり、祖母がいるのなら、ディアもあの村のように若者が消えて、圧政によって虐げられて、魔獣に怯えるような日々を送っているのだろうか。自分の記憶の中ではディアが荒んでいたことなど一度もない。魔獣という存在すら認知していなかった。赤い爪の商人に攫われてファルーナで暮らすようになっている間に、マシティアに何かが起きたということなのだろうか。リシェルは魔獣に気を遣わなくてよくなった分、そうした疑問を答えが見つかるはずもないのに考え続けていた。

 敷かれた道に従って進んでいただけなので、自然と考えることだけに気が向いてしまい、目や耳をまともに働かせていなかった。疲れていたというのもそれを助長させて、誰かが迫ってきているのに、その姿が明らかになるまで全く気付かなかった。

 リシェルの前方から、武装した男たちが来ていた。歩く度に鎧ががちゃがちゃと煩く鳴っていたが、リシェルはその音にすら気付いていなかった。ふと、目に映るものが意識の中に入り込んで存在を認めると、道を阻むようにして立ち塞がる彼らの前で足を止めた。

「おい、女だぞ」

 男の一人がそう呟いた。

「この辺りにもまだいたのか。しかし、随分と汚らしい。どうして血塗れなんだ。こんなのでも花籠に連れていなければならないのか」

「女は女だ。男爵様への良い土産になる」

 男が腕を伸ばしてきたので、リシェルは後退ってそれを躱した。男たちを不審に思い、剣の柄を握りしめて、距離を置こうと少しずつ後退した。男たちの視線はその剣に向けられる。

「何故、剣を持っている。平民が武器を手に入れることなど出来ないはずだ」

 男たちも剣を携えている。彼らは自分たちが平民ではないと暗に言っていた。だとすれば、領主と関係する者たちなのだろう。リシェルは思い切ってそれを尋ねてみた。

「貴方たちは領主館の人間ですか?」

「聞くまでもないことだろう。この女、怪しいな。噂に聞く反乱勢力とかいう輩ではないか?」

「なんでもいいだろう。たかが女一人だ、何も出来まい。捕らえるぞ。抵抗するなら殺してしまえ!」

 号令と共に、男たちは剣を抜いて襲い掛かってきた。リシェルも剣を抜き、彼らを迎え撃つ。だが、刃に迷いがあった。彼らは魔獣とは違う。人間だ。魔獣を斬る覚悟はとうに持っていたが、人間を斬ることに関しては正当な理由を作れなかった。

 鞘から抜いたものの、それを相手に向かって振り下ろそうとはしなかった。襲い掛かる剣戟は神器の刃が触れるだけで粉砕できたが、彼らも手練れらしく、武器を失っても怯まずに向かってくる。

 剣だけでは防ぎきれなかった。リシェル自身の体力がとっくに限界を迎えていた上に、見えない防壁の力も未だに戻ってきてくれていなかった。手首を掴まれ、剣を振るえなくされると、革の籠手で覆われた拳で腹部を強く殴られた。残っていた気力がその一撃で消失し、リシェルは視界を暗転させて、ずるりと倒れた。激しい耳鳴りの中に、男たちの声が微かに聞こえた。

「男爵様はまだ帰っておられないだろう。ひとまずは花籠に入れておくとしよう」

 それだけを聞き取り、リシェルは意識を完全に失った。


 花の香りがした。とてつもなく強烈な匂いだった。統一感のない甘ったるさと清涼さが溶けあうことなく主張をして、良い香りとは言えない匂いが鼻を通じて頭の中に届いていた。

 リシェルは目を覚ました。白い天井が見え、体は柔らかいベッドに横たわっていた。複雑な花の匂いに頭痛を覚えながら、上体を起こす。傍らには女が何人も並んで、様子を窺っていた。

「生きてた」

 清潔感のある水色のドレスを着た女が呟いた。

「服、汚れてたから着替えさせておいたよ」

 そう言った女も綺麗な身なりをしている。長く伸びた髪が痛んでいるくらいのものだった。他の女も同様に、村の人とは違って不自由をしていなさそうな見た目をしていた。

 リシェルはローブを脱がされて、肌着も着替えさせられていた。女たちが着ているような薄い布地一枚の服を着せられていた。服からは仄かに花の香りが匂う。

「此処は何処ですか?」

「牢だよ。女だけのね」

 一人がそう言った後、女たちはリシェルから興味を失ったかのように散っていった。女たちで見えなかったが、部屋は奥行きがあってかなり広く、ベッドが壁に沿っていくつも並んでいる。そのベッドで眠っている女もいたし、椅子に座って机に突っ伏す女、床に敷かれた絨毯に寝転がり天井を見つめる女など多くの女がいて、その誰もが妙齢であるように見えた。牢と言う割には豪奢な空間で、リシェルも含めて女たちに枷なども付けられていない。外と繋がっているらしい何の変哲もない扉が一つだけあるが、その近くだけには人が寄り付いていない。その扉から反対側の壁には大きな両開きの窓があって、日差しが差し込んで部屋の中に光を齎していた。

 気を失う直前に聞いた言葉を思い出す。此処が花籠という場所なのだろうか。頭痛を覚えるほどの花の香りがするし、暗くじめじめとした感じもしないので花籠と呼ぶには相応しいのかもしれない。花籠と呼ばれる牢に入れられてしまったようだ。

 リシェルはベッドから起き上がろうと床に足を下ろす。男に殴られた腹部には痛みが僅かに残っていて、横になっていたのに疲労が抜け切れていないのもあり、立ち上がるのに時間を要した。ゆっくりとベッドから腰を上げてから、あることに気付いた。アルテナの剣がない。辺りを見回しても確認できず、体の重たさなど意に介さずに部屋の中を歩いて剣を探した。

 女たちは部屋の中を歩き回るリシェルを煩わしそうに見ていた。リシェルはいくら探しても剣が見つからなかったので、近くにいた女に尋ねた。

「私が持っていた剣、知りませんか?」

 女は指遊びをしたまま、リシェルを見ることもなく首を横に振るだけで応答した。他の女たちに聞いても皆、素っ気ない態度で知らないと言う。リシェルは自分を見ていてくれていた水色のドレスを着た女にも尋ねてみた。窓辺から外の景色を眺めていた彼女はリシェルに気付いて、視線だけを動かした。

「剣を見ませんでしたか。持っていた剣が見当たらなくて」

「そんな物騒な物、取り上げられるに決まってるでしょ。花籠なんて呼ばれているけど、所詮は牢。あたしたちにはこのだだっ広い部屋の中でだけのちっぽけな自由しか与えられていない。あんたもすぐに、自分の体があの人間の皮を被った豚のものになったって理解することになる」

「豚?」

 リシェルの素朴な問いかけを女は鼻で笑った。

「領主だよ、デッツェルリンク男爵。肥えた豚にしか見えない、醜い男だ」

「領主? では、此処は領主館なんですか?」

「それ以外にあたしたちが居ていい場所なんてないよ」

 女はそれを最後に口を閉ざした。しかし、花籠が領主館の牢だということは分かった。望んでいた形ではないが、領主に近付くことが出来た。ただ、リシェルはその先を考えていなかった。領主と会って、どうするか。窘めるのか、脅すのか、それとももっと強引な手段を使うのか。皆を救う最適な方法がはっきりとしなかった。

 リシェルは花籠の中にいる女たちを見回した。村にいた老人たちと同じだ。此処にいる女たちも疲れ果て、気力を失っている。領主という存在がそこに住む無辜の民の生きる力を全て奪ってしまったようだ。こんな悪政が罷り通っている異常な国に対して、リシェルはふつふつと怒りが湧いてきた。民から逆らう力を削ぎ、諦観を植え付けた権力者を許しておくことは出来なかった。

 リシェルは部屋の隅に捨て置かれた汚れたローブを羽織り、腰帯を緩く巻いた。女たちはリシェルの奇行に釘付けになり、リシェルが扉へと向かっていくのを見届けていた。

 扉は押しても引いても開かなかった。当然だが、外から鍵が掛けられていた。体当たりをして破ろうとしても、リシェルの力では難しかった。

「馬鹿げたことをするなよ」

 何度も扉にぶつかるリシェルの背後で、誰かがそう呟いた。リシェルは止まって振り返る。部屋にいる女の視線が全て自分に向けられていることに気付いた。

「扉なんて壊せるはずもない。例え壊せて出られたとしても、兵士に見つかって此処に戻される。いや、それだけじゃ済まないかもね」

「何が待っていようと、関係ありません。間違っていることをそのままにはしておけない。だから、そのためになんだってするんですよ」

「あんた一人で何が出来るってんだよ」

 別の女が声を上げた。

「一人だからって何も出来ないわけじゃない。私は自分が出来る全部をやるまで諦めません」

「どうしてそこまで頑張ろうとするんだ? 花籠に居れば飢えて死ぬことはない。そりゃ、物のように扱われるけど、それでも大人しく受け入れていれば生きていられるんだ」

「生きている? 失礼ですが、私の目には貴方たちが生きているようには見えません。魂を抜かれて、屍となって尚も生きていると錯覚しているだけです。絶望に慣れさせ、それを受け入れざるを得なくさせている悪しき者を許してはおけません。私は皆さんの魂を取り戻しに行ってきますから、それまで待っていてください。必ず取り戻すので」

 語気には怒りが込められていた。リシェルは女たちの唖然とする顔を眺め回している最中に窓が目に入り、ある発想が浮かんだ。

 ガラスが嵌められただけのあの大きな窓からなら脱出できるのではないだろうか。窓に近付き、開けようとするも軋む音が立つだけで開かない。傍に座っていた水色のドレスの女がリシェルの手を撥ね退けると、左右の窓を順繰りに押して開放した。

「建付け悪いから」

 リシェルから顔を背けて女は言う。

「この窓から出るつもり?」

 リシェルは開放された窓から顔を出した。施錠されていなかった理由が分かる。地面は遠く、飛び降りるには勇気がいる。だが、決して飛び降りられない高さではない。慎重に足場を探しながら降りていけば脱出は可能だ。それはリシェルだからではなく、花籠にいる女でも不可能ではない。窓が開くことを知っているのなら、いつだって彼女たちは此処から逃げられただろう。しかし、彼女たちが今までそうしなかったのは、逃げる意味を見出せなかったからではないか。何処へ行こうと自分を苦しめるものは形を変えて付き纏う。だったら、無駄なことをせずに今の苦痛を受け入れていれば良い、と。

 閉じ込めている領主側も、彼女たちが逃げるとは思いもしなかったのだろう。だから最低限、扉に鍵を掛けておくだけで窓が開くことには無関心でいる。逃げても無駄だと双方が思っていた。意味のないことをする者など存在しないのだと決めつけていた。領主の驕りが活路を生んでくれたが、感謝など出来ない。彼女たちの精神を追い詰めて見下し切っていることにリシェルは憤懣した。

 窓枠を跨ぎ、足が引っ掛かりそうな場所をつま先で探る。なかなか見つからず、じれったくなったので窓枠から体を出して真下の芝生に向かって飛び降りた。落盤に巻き込まれた時や天高く飛ぶ光の矢から落ちた時と比べれば、恐れることなどなかった。それで無事でいられたのが聖なる神器のおかげだったことなどすっぽりと頭から抜けていて、芝生に着地して強い衝撃が全身に迸った瞬間に己の愚行を思い知った。

 痛みに悶えていたかったが、悠長にはしていられなかった。歯を食いしばって立ち上がり、周囲を見渡す。館の庭らしく枝葉が整えられた灌木が行儀よく並んでいたり、様々な花が咲き誇る花壇があったりと、領主の豊かな暮らしぶりが垣間見えた。

 見張りをする兵士の姿はない。思えば、花籠の扉を激しく打っても誰かが来ることはなかった。自分に逆らう者などいるはずもないのだから、警備は不必要だとでもいうのだろうか。リシェルはますます領主に反感を覚えた。

「平気?」

 開いた窓から女が身を乗り出すようにしてリシェルを見下ろしていた。リシェルは軽く手を振って無事であることを知らせるとそれっきり見上げず、館の壁に沿って進んだ。

 館の正面に着くと流石に見張りはいた。ただ、門の前で侵入者を見張る門番だけで、それも館から離れていたのでリシェルには気付いていなかった。リシェルは館の正面入り口の扉を静かに開けて、中へと入っていく。

 入ってすぐに広間が見え、中央から二階へと上がる幅の広い階段が伸びている。静寂は続き、人が見回っている様子もない。左右には廊下が続き、二階も同様の作りをしているようだった。

 魔の気配を探る様に人の気配も分からないものかとリシェルは意識を集中させてみた。すると、いつもと異なる気配が胸に迫ってきているのを覚えた。魔の気配とは違い、恐ろしさや殺意の類ではなく、姿も捉えられない。だが、心臓が鼓動を打つように、何かが何処かで命を息吹かせているのを感じた。

 リシェルはそれを求めて歩き出していた。無人の廊下を進み、とある部屋に吸い込まれるようにして入っていく。その部屋は武器庫らしく、無数の武器が部屋いっぱいに詰め込まれていた。その中に、白い鞘に収まった小さな剣が無造作に立てかけられていた。アルテナの剣だ。アルテナの剣を手に取ると、胸に迫っていた気配が体に同化して溶けていくのを感じた。

 どういう訳か、アルテナの剣を感じ取っていてそれがある場所に辿り着くことが出来た。不思議ではあったが、今更深く考え込むことでもない。聖なる神が宿った剣にはいくつもの奇跡と呼べる力を見せられてきたのだから。神器の場所を察知できるのも、その奇跡の一つに過ぎないのだろう。リシェルは白い鞘を腰帯に差し、改めて領主を探しに行く。アルテナの剣があるだけで、気持ちは随分と落ち着いた。

 武器庫を出た矢先、思わぬ鉢合わせをした。リシェルと同じくらいの年齢に見える少女が武器庫の隣の部屋から出てきた。少女は鋭い視線をリシェルに向けてきて、口を小さく動かして呟いた。

「誰?」

 問いかけるというよりも、脅すような語気があった。女は花籠に入れられるという話だが、この少女はどうして花籠の外にいるのだろうか。

「貴女も花籠から逃げてきたんですか?」

 リシェルとしてはそう問い返すしかなかった。少女は更に視線を尖らせてリシェルを見つめた後、身を翻して廊下を進み始めた。リシェルは少女を放っておけず、後を追う。

「何処に行くんですか? この館は危険です。兵士に見つかったら花籠に戻されてしまいますよ」

「お前こそ、なんで此処にいる? 危険だというのなら、お前が逃げればいいだろう」

 少女は振り向きもせずに言う。

「領主に用があるんです。民を徒に踏みにじり、己の私腹を肥やすことだけに注力する悪政を許してはおけない。花籠に閉じ込められている人たちや、貧しい生活をしている人たちを助けるために、領主を……」

 リシェルは口ごもってしまった。領主を、どうすれば良いのだろう。罪を認めさせて贖わせるのか、それとも民を徹底的に追い詰めた領主に彼らが味わっていた苦痛と同じものを与えるのか。リシェルの怒りは後者の選択を考えさせるほどに大きかった。だが、それが処罰として適切であるかは分からなかった。もし、その選択を取るならば、聖なる剣に人の血の味を覚えさせることになるだろう。

 今まで、人を斬ろうという考えに至らなかった。リシェルは後戻りの出来ない道の分岐点に到達したことを自覚した。剣を振るう理由に、確固たる信念を持たなければならない。その信念とは何か。何であるべきか。

 取るべき選択とその一つを選ぶための心のありように迷っている間にも少女は進み続け、リシェルも釣られるようにして後を追いかける。

 リシェルは廊下の果てにまで連れてこられた。袋小路に一つだけある扉を少女は無造作に開けて入っていった。リシェルも閉まりかける扉に体を滑り込ませて中に入る。

 部屋の中心に長いテーブルが置かれて、その両脇の座り心地の良さそうな革製の椅子にそれぞれ男が座っている。左側に座る髭を貯えて、でっぷりとした大柄の男が頬の肉を震わせながら立ち上がった。

「なんだ、この汚らしい小娘は!」

 驚愕するその男の反対側で、少女がそこに鎮座する男に耳打ちしていた。此方の男は精悍な顔立ちをしていたが、力を感じない目をしていた。少女の言葉に耳を傾けながら、リシェルを灰色の瞳で凝視する。

「イルヴァニス卿、卿の従僕は何を拾ってこられたのだ?」

 太った男は向かいの男と少女に顔を向ける。

「館の中にいたのを連行してきたようです。本来ならば衛兵にでも引き渡すつもりだったようですが、この館には何故か一人も見回る者がいないため、仕方なく此処まで連れてきた、と。私は此処の領主ではないので、貴殿がどうにかすべきでしょう、デッツェルリンク男爵」

 イルヴァニスと呼ばれた男は、太った男にそう言った。デッツェルリンク男爵という呼び名にリシェルは反応した。花籠の女が言っていた領主の名と同じだ。この肥えた醜い男が、民を虐げてきた張本人なのだ。リシェルは怒りで鞘を強く握りしめた。

「貴方が領主なのですね。今すぐ花籠にいる女性たちを解放してください。そして民たちを苦しめて、その苦しみを己の利とする行いをやめるのです」

 デッツェルリンクの顔が歪みながら紅潮していく。辺りを見回し、何かを見つけると、そこに向かって走った。デッツェルリンクは壁に掛けられた派手な装飾をした槍を手に取ると、イルヴァニスを呼んだ。

「卿は儂の背後に隠れていろ」

「まずは兵を呼ばれては?」

 興奮するデッツェルリンクとは正反対に、イルヴァニスは落ち着いた様子だった。肘掛けに肘を置き、指で自分の頬をとんとんと叩いてデッツェルリンクを見ている。デッツェルリンクは鼻の穴を膨らませて怒鳴る様にして返した。

「その従僕に兵を呼びにいかせていただきたいのだが、よろしいか?」

「構いませんが、兵は何処にいるのです?」

「片っ端から部屋を開けていけばいるはずだ」

 イルヴァニスは少女に目配せをした。それを受けた少女は悠々とした足取りでリシェルの横を通り過ぎていき、部屋を出ていった。少女が無警戒に近付いてきたので、リシェルは彼女を止めようとすら思えずに素通りを許してしまった。

 リシェルはアルテナの剣を抜き、デッツェルリンクに対峙した。剣からは力を感じる。見えない防壁の力は行使できそうだ。槍の穂先が向けられても恐怖が少なく済んだのはその守ってくれる力があるという安心感があったのと、殺意に満ちた魔獣たちと絶え間なく戦い続けた経験があったからだ。殺さんとする牙が一つだけなら、対処もしやすい。

 デッツェルリンクは不格好な取り回しで槍を振るい、怒声と共に穂先を突き出した。一直線に向かってくる刃をリシェルは半身で躱し、アルテナの剣で槍を叩いた。槍は軋みながら砕け、穂先が床に落ちる。デッツェルリンクの手には粗末な棒切れが残るだけとなった。

 状況を理解できずにいるデッツェルリンクは折れた槍を握ったまま、立ち尽くしていた。リシェルは剣先を大きな肉塊の中心に突きつけて、止まった。何も考えずにいたら勢いのままに殺していたが、寸前で踏みとどまれた。デッツェルリンクの顔が青ざめていくのを見ながら、自分の要求をもう一度伝える。

「花籠の女性たちの解放を要求します。もし、応じないというのなら……殺します」

 脅し文句としては上等である。だが、その言葉の重さが逆にリシェルに刃を向けた。リシェルは願った。デッツェルリンクが卑しい人間で、ただ只管に利己的であることを。この時、怯えと憤怒、その二つの感情のせめぎ合いがリシェルとデッツェルリンクの両者の中で起きていた。

 痛いほどの沈黙が部屋を満たす。剣先はぶれずにデッツェルリンクの胸を狙い続け、身動ぎ一つも見逃さずに監視している。凍結した空間に亀裂が生じたのは、外からの干渉だった。不躾に扉が開くと騒々しい音が流れ込み、それと共に少女が戻ってきた。

「仔細、私には分かりかねますことですが、女どもが館の中で暴れており、兵はその対応に追われております。指揮にも混乱を来たしており、デッツェルリンク男爵閣下御自身が鎮圧に向かわれるべきかと思い、判断を仰ぐために戻ってきた次第です」

 少女はデッツェルリンクの窮地を見ても顔色を変えずに淡々と報告だけをした。その報告にはリシェルも驚いた。花籠の女たちが逃げ出したようだ。しかし、彼女たちにそれほどの気力があったのか。誰を見ても、今を変えることを諦めた顔をしていたのに。

 リシェルは集中力を欠き、視線も背後の少女に向きかけていた。デッツェルリンクはその隙を逃さなかった。握ったままの刃のない槍をリシェルに脳天に目掛けて振り下ろす。

 リシェルは頭を割られる直前に我に返り、剣でそれを受け止めた。槍をもう一度粉砕すると、鞘を腰帯から素早く抜き、デッツェルリンクの脇腹を鞘で殴った。鈍い音と醜い嗚咽が聞こえると、デッツェルリンクは膝から崩れて倒れた。

 リシェルは反射的な迎撃をしてしまったことを悔いた。己に課した選択を先送りにする結果となったからだ。自分の喉元には刃が突きつけられたままで、それを払う機会だけが遠のいた。気を失ったデッツェルリンクを憎らしくねめつけながら、鞘に剣を納める。

「奇怪な剣を持っているのだな」

 リシェルは完全にその男の存在を忘れていた。剣の柄に力を込め直して、座ったままのイルヴァニスに体を向ける。

「貴方もデッツェルリンクの仲間ですか。民たちを苦しめる悪人なんですか」

 そう自分で問いかけたことに、強い違和感を覚えた。イルヴァニスは漸く立ち上がり、窓辺に立って外を入念に眺めた。それを終えると、扉の前にいる少女に顔を向けて言葉を投げかけた。

「命令だ、ミーナ。私が逃げる時間を稼ぎなさい」

 記憶の奥深くで眠っていたものが急に浮き上がり、リシェルは呼吸すら忘れて少女を見つめた。ミーナと呼ばれた少女が黙って頷くと、イルヴァニスは革の鞘に納められた短剣を投げた。少女はそれを掴み取るや、鞘から短剣を引き抜いてリシェルに向かってきた。

 リシェルは鞘から剣を抜かなかった。確かめなければならなかった。ミーナという名の少女がどんな人物なのかを。彼女の顔を見つめたまま、迫る凶刃を鞘で受けようとする。少女は寸前で大きく身を屈めて、鞘の内側から腕を伸ばし、その手に握られた刃をリシェルの顎に突き立てようとした。

 見えない防壁の力が行使される。短剣は弾き飛ばされ、少女も床に強く叩きつけられた。打ちどころが悪かったのか、少女はそのまま動かなくなった。リシェルはすぐに少女に駆け付けて安否を確認した。意識を失っているだけだと分かると、胸を撫で下ろした。

 部屋の扉が激しく開く音がした。花の香りと共に女たちが雪崩れ込んできた。女たちの視線は気絶するデッツェルリンクに注がれていた。リシェルは女たちに疲れのある笑みを見せて言う。

「皆さんが来てくれるとは思っていませんでした」

「あんたを死なせるのは惜しかったから」

 女たちは苦い笑みを浮かべていた。

「どうせ私たちは死んでいるんだからね。何したって失うもんはなかったのさ」

「意外とやれたのはびっくりだけど。兵士たちが腑抜けで助かったわ」

 何処からか調達したらしい縄でデッツェルリンクを縛る女たちを見ながら、リシェルは部屋の中を見回す。

 イルヴァニスの姿は消えており、彼が立っていた傍らにある窓が大きく開け放たれていた。イルヴァニスは窓から逃走したのだろう。だが、逃してしまったことを悔しく思えなかった。終始、超然としていたイルヴァニス。彼が何者なのか知りたかったし、彼の従者である少女にも興味があった。

 今、腕の中で眠る彼女が自分の疑問全てに答えてくれるだろうか。記憶の中に鮮明に残る命の恩人の顔をこの少女に重ねてみるが、一致するものが見えなかった。


 リシェルに感化された女たちは怒涛の勢いで館を制圧した。デッツェルリンクを捕えられたことで士気が低くなった兵たちは、あっさりと領主を見捨てて何処かへと撤退していった。地下に幽閉されていた若い男たちも解放され、民たちはデッツェルリンクの支配から完全に脱した。

 デッツェルリンクと取り残された兵たちは、そのまま館の地下牢の中に入れられた。少女も彼らに与する者であるから地下牢に入れられるべきであったが、リシェルが皆を説得して落としどころとして館の個室での軟禁で済むことになった。

 リシェルは扉の前で見張る男に部屋に入る旨を伝えると、男は恭しい振る舞いで扉を開けてくれた。窓のない小さなその個室にはベッドが一つあるだけだった。花籠のような強い花の匂いが残っていて、長時間留まっているのに苦痛を覚えるほどだった。

 少女はベッドの端に座っていた。両手が縄で縛られている以外は自由ではあった。暗く冷たい地下牢に鉄枷を嵌められて閉じ込められているデッツェルリンクよりも遥かに優遇されていた。

 少女と会うのは戦って以来だ。あの後、リシェルは忘れていた疲労に一気に襲われて、丸一日眠ってしまっていた。起きてからも館の後始末を手伝っていたため、少女と会えずにいたが、やっと落ち着いてきたので少女と話す機会を得られた。少女の隣に腰を下ろし、下を向く彼女の顔を覗き見る。

「大丈夫ですか? まだ頭は痛みますか?」

 少女は無反応だった。気まずさを感じていたが、リシェルには確かめなければならないことがある。答えてくれるか不安だったが、意を決してそれを聞く。

「マリーという人をご存知ですか?」

 少女は目を見開き、リシェルに顔を向けた。しかし、すぐに顔を背けてしまい、質問にも答えなかった。少女はそれでも明らかな動揺を見せていた。視線は泳ぎ、指先に爪を押し付けて、普通ではない様子を見せる。疑惑を確信にするためにも、リシェルは更に言葉を続ける。

「私は小さい頃に人攫いに遭ったんです。監禁された馬車の中で、マリーという女の子と出会いました。絶望しきっていた私と違って、マリーは最後まで諦めずに生きようとしていました」

 話している内に、あの眩しさが思い出されていた。マリーがくれたものはこの命だけではない。強さも優しさも貰った分だけ己の物として、マリーがそうであったように他者へ救いの手を差し伸べられるように努めてきた。マリーと出会わなければ、祖母の元へ帰ろうとも思わなかったかもしれなかった。

「ある時、私はマリーに聞いたんです。こんな絶望しかない状況でどうして前向きにいられるのか、と。マリーは帰らなくてはならない、と言いました。病床の父と幼い妹が待っているから。二人を養うために頑張って働かなくてはいけない、と」

「嘘だ」

 少女は強い語気で言った。

「あいつは逃げたんだ。あたしたちを見捨てて、自分一人で生きていこうとした。だから、戻ってこなかった」

「違うんです。マリーは、死んでしまったんです。私を庇ったせいで、大蛇に傷を負わされて、そのまま……」

「死んだんだ。いい気味」

 リシェルは喉から激しい憤りがせり上がるのを感じた。痛みを感じながらも懸命に飲み下し、言葉でもって少女を宥めようとした。

「マリーは帰るのを諦めていませんでした。父に元気になってもらうために、妹に笑顔で過ごしてもらうために、自分が頑張らなくちゃいけないと言っていたんです」

「じゃあ何一つ叶わなかったわけだ。父さんはあいつがいなくなってすぐ死んだし、あたしもそれから笑ったことなんて一度もない。生きるか死ぬかの日々を延々と過ごすことになったんだから。あいつのせいだ。何もかも全部、あいつのせいであたしと父さんは苦しくて辛い思いをさせられ続けたんだ。今だって、ずっとそうだ!」

 恨みの籠った言葉で頬を叩かれたかのように錯覚した。リシェルは圧倒されてしまい、返す言葉を見つけられなかった。激昂した様子の少女は息を荒げながら、リシェルを睨みつけていたが、それ以上、恨みをぶつけては来なかった。徐々に落ち着きを取り戻し、リシェルから顔を背けると、抑揚のない声で呟く。

「感謝する。姉が死んだこと、教えてくれて」

 それを最後に、少女は口も心も閉ざしてしまった。蟠りを残したままリシェルは部屋を出る。あの少女は間違いなくマリーの妹のミーナだ。それは確かめられたが、ミーナが大きな勘違いをしていることが悲しくて仕方なかった。

 マリーは他者を見捨てるような人ではない。家族となれば尚更、見捨てるだなんてありえない。リシェルはそれを分かっているから、ミーナの冷たい態度に悲しみを覚えた。誤解を解く方法を思案していると、嫌な気配がそれを妨げた。

 魔獣が館に向かってきている。それも尋常ではない数だ。森の中で遭遇したどの群れよりも数が多い。リシェルは急いで外へ出る。外には人も疎らにいた。彼らを避難させようと大きな声で叫ぶ。

「館の中へ!」

 それ以上を説明している余裕はなかった。魔獣たちはもう館の傍まで来ていた。館を囲む生垣を突き破り、犬の姿をした魔獣たちが涎を撒き散らしながら駆けてくる。

 外にいた人々は悲鳴を上げながら館の中へ逃げようとする。魔獣は逃げる人を優先して狙うので、リシェルが魔獣を追わなければならなかった。走りながらアルテナの剣を抜き、逃げる人々を追う魔獣に向かっていく。剣を横に薙ぎ、魔獣を両断する。殺すのは容易かったが、処理が間に合わない。一匹倒しても、その間に魔獣に襲われる人が何人も出てしまった。館の警備をしている男たちが応戦していたが、素早い魔獣に翻弄されて苦戦していた。

 魔獣たちがリシェルだけを標的にしていたら、難しくはなかった。リシェルが向かってくる魔獣を迎撃すればよいのだから。しかし、魔獣たちはそれぞれ標的を変えて、散り散りになってか弱い人々を襲っていた。まともに戦えるのはリシェルだけで、それらを一匹ずつ追いかけて殺していくのでは時間が掛かり、掛かった分だけ被害も膨れ上がっていく。それでも、自分を狙ってこない魔獣を逐一追いかけて殺していくしかリシェルには出来なかった。

 痛烈な悲鳴が上がる。逃げ遅れた女を魔獣たちが複数で襲い掛かろうとしていた。リシェルはそれに気付き、急いで助けにいこうとするが間に合う距離ではなかった。女の悲痛な声がリシェルの胸に刺さった。助けられなかった。そう思った瞬間、生垣の上から白い獣が飛び込んでくるのが見えた。

 風を切り、目で追えない速さで駆け、女に襲い掛かろうとする魔獣に突進していく。薙ぎ倒し、踏み潰し、白い体はみるみる血に染まっていく。その姿をリシェルは覚えていた。森で助けてくれた白い馬が再び、リシェルの前に姿を現したのだ。白馬は女の周りの魔獣を殺し切ると、雄々しく嘶き、残りの魔獣たちにも向かっていった。

 白馬は次々と魔獣を蹴散らした。白馬に気圧されたのか、魔獣たちは一転して逃げる身となり、生垣の外へと退散していった。リシェルは気配が遠のいていくの感じ、周囲にそれがなくなるのが分かってから、安堵の息を漏らした。

 魔獣はいなくなったが、、白馬は一向に大人しくならなかった。辺りを駆け回り、花壇を踏み荒らし、館の壁に衝突したりと暴れ続けた。逃げ遅れた人々は白馬も魔獣の仲間だと思ったのか、尚も怯えたまま館の中へと避難しようとする。白馬は館に近付く人々にも向かっていき、襲わんとばかりに暴れる様を見せた。

「あとは奴だけなんだ。皆で行けば、殺せるだろう」

「剣でもなんでも投げつけて怯ませるか」

 武器を持った男たちが囁き合っているのをリシェルは聞いた。彼らが大きな過ちを侵そうとしているのを、止めなければならなかった。あの白馬は悪しき獣ではない。かといって普通の獣でもない。リシェルは白馬と心を通わせられるはずだと直感していた。森の中で出会った時にも彼には何かを感じた。だから追わなければならないと思った。再び目の前に姿を見せたのは、彼が自分に何かを求めているからなのではないか。

 リシェルは白馬に近付いていった。白馬は館の入り口から離れて、リシェルの方へと駆けてくる。止まる様子はない。大きく見開いた目はリシェルを見ていて、その眼差しは白馬の進路と違わなかった。衝突するのを承知で、リシェルは白馬を待った。白馬もリシェルに構わず駆け抜けようとした。

 ぶつかる寸前、リシェルは白馬の首を抱くようにして鬣を掴むと、体を浮かせて足を白馬の背中に回した。体が白馬の背に乗り切った。それでも白馬は走り続け、リシェルを振り落とそうと暴れる。リシェルは片手で鬣をしっかりと掴みながら、もう片方の手で白馬の首を撫でた。

 頭の中に何かが過った。それがリシェルの理解に及ぶ前に、言葉として口から出た。

「聖獣リーン、聖神アルテナの御名の下、我が使徒となりその身を捧げよ」

 白馬が足を緩め始めた。徐々に速度を落とし、ゆっくりと止まる。リシェルは握っていた鬣から手を放し、頭を回らせる白馬と見つめ合った。自分が口走った言葉に唖然としていて、ただ白馬の目を見ることしか出来なかった。

 顛末を見ていた人々はリシェル以上に事態を飲み込めず、驚くことしか出来ていなかった。しかし、次第に危機が過ぎ去ったことが分かると、喜びの声が漏れる様になっていった。

危険がなくなり、館の中から人が続々と出てきた。負傷した人の手当てや、魔獣の死体の片付け、花壇や生垣などの修繕作業などが行われる中、リシェルは裏庭の片隅で白馬の面倒を見ていた。気性の激しさは鳴りを潜め、大人しくリシェルに首筋を撫でられていた。掌に伝わる温もりが撫でている側のリシェルにも安堵を覚えさせ、眠たそうに瞼を落とす白馬の顔を微笑みながら眺めていられた。

今までの旅の中で、いくつもの奇跡を見てきた。自分の意思に反して呟かれたあの言葉も、その奇跡の一つに過ぎない。奇跡は白馬が聖獣であると述べて、名を示してくれた。リーンというのがこの白馬の名だ。リーンは奇跡の命により気を静めて、逃げることもなく傍にいてくれる。あの言葉通り、使徒となって己の身を預けてくれているのだろうか。ハッドにとってのヒースキーのように、リーンが相棒として助けてくれるということなのか。恐れを知らない勇敢な白馬が道を切り開いてくれるのなら、これほど頼もしいことはない。

リシェルは思わぬ形で聖獣を手にした。その奇跡の成立は、魔獣たちとの死闘の末での出会いを起点としていたのだと感慨深く思っていると、背後から不意に声を掛けられて現実に引き戻された。

「リシェル、ちょっといい?」

 声を掛けたのは花籠に閉じ込められていた女だ。リシェルはぴくっと体を強張らせて振り返り、彼女の姿を見てから緊張を解いた。女の隣には見たことのない男がいた。若い顔をしていたが、目元はわざと険しくしているかのように力が込められているのが分かった。

 男は一歩前に出て、恭しくお辞儀をした。リシェルもそれに応じてたどたどしく頭を下げた。

「初めまして。私はバスタロンゼという者です。デッツェルリンクが倒されたという情報を得て此処に来ました。貴方がデッツェルリンクを倒し、民の解放を牽引した御方ですね?」

 見た目の印象とは裏腹に丁寧で穏やかな口調だった。問いかけているというより事実を確認しているようで、リシェルは彼の思惑に乗せられて首肯してしまいそうになったが、それを振り払うようにして頭を強く振った。

「いえ、私は牽引などしていませんよ。皆さんが皆さんの意志で戦い、自由を取り戻したんです。私がやったのは、そのお手伝いだけです」

「ご謙遜なさらず。既に此処にいる人たちから話は聞いているんです。リシェルという少女が自分たちを救ってくれたのだと皆が口を揃えて言っていました。何やら先程も化け物を退治した上に、乱入してきた暴れ馬も手懐けてしまったとか」

 バスタロンゼはリーンに視線を向けた。リーンは視線を意に介さずに鼻っ面で地面を探っていた。

「此処に来る途中に寄った村でも、赤い髪の少女が悪しき領主を打ち倒したという噂は広がっていました。貴方自身がどう思っていようとも、積み重ねた功績は間違いなく貴方が勝利し得た物なのです。民の解放、暴虐たる為政者の排除。戦果の大きさに戸惑いはしましょうが、ご自身がなさったことまでも否定しますまい」

 悲惨な村の姿、全てを諦めた目をしている人々。デッツェルリンクの悪政が生んだ歪みを正したいと思ってリシェルは奮起した。デッツェルリンクに対峙し、彼に言い放った言葉と振るった剣をなかったことにはしない。喉元に突きつけられたままの覚悟にもけじめをつけなくてはいけないことを思い出していた。

 リシェルが悶々としている間にも、バスタロンゼは言葉を続ける。

「偉業を成し遂げた貴方の力。それがあれば、マシティアを荒廃させている元凶を滅ぼせるかもしれません。この国を統べる皇帝ゾギア。奴を玉座から引きずり下ろさなければ、マシティアに真の平穏は訪れません。今もマシティアの至る所で、皇帝に従う貴族たちが民を苦しめています。貴族たちに搾取させ、己の腹を膨らませ続ける救い難き皇帝を倒すために、私たち解放軍に加わっていただけませんか?」

 自分が見てきた惨状はマシティア全土で繰り広げられているという。そして、それを使嗾しているのが、あろうことか国を治める立場にある皇帝である、と。遠のいていた怒りが凄まじい速さで駆け上がってくる。

「解放軍は義勇によって立った民たちの組織です。私たちは各地で民を圧政から解放しながら、仲間を集めているのです。リシェルさんが仲間になってくれれば、とても心強いのですが」

 リシェルは鼻で大きく呼吸した。毒気を感じる嫌な空気が喉の裏側に張り付く。口の中に溜まった唾液と共にそれを飲み下して、口を開く。

「虐げられている人たちを救えるのなら、私も解放軍の一員として戦いましょう」

 リシェルはリーンの背中に触れた。リーンは頭を上げて、力強く鼻を鳴らした。

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