呪われた英雄
慈雨たる御手が佇んでいる。
静寂の中を、乾いた紙をめくる音だけが響く。
ツァレファテはその場に立ったまま、『リサイリ』と書かれたその本の文面に目を走らせていた。
────この日付けはバスタキア歴後期……おそらくは千年程前のもので間違いない……という事は、ハルラート朝が滅亡した頃ね……
でも、どうしてここにこんな物が───。リサイリが姿を消したこの場所に残されていたという事は、姿を消す直前まで、リサイリが持っていたとしか思えない。
慈雨たる御手に起きた異変と、それと同時に姿を消したリサイリ。唯一の手掛かりは現場に残されたこの日記のみ。
もしかしたら、慈雨たる御手を起動させる方法か、中に入る方法が書かれているかも知れない───。ツァレファテは一言一句間違えないよう、慎重に日記を読み進めていくが、それらしい記述は見当たらない。
────まさか、これ自体が慈雨たる御手を起動させる鍵……?
思いつくまま、ツァレファテは日記を掲げてみる。
「じ……慈雨たる御手よ……動け!」
ツァレファテの幼げな声が、壁に弾かれて消える。
何の反応も示さない慈雨たる御手を、ツァレファテが恨めしそうに見上げる。
「慈雨たる御手! 光れ! 輝け!……えっと……中に入れろー!」
飛び跳ねながら日記を振りかざし、思い付く限りの言葉を発してみるが、慈雨たる御手は何の反応も示さない。
「そんなわけないか……」
意気消沈するツァレファテは、へなへなとその場に座り込み、沈んだ面持ちでぺらぺらと日記をめくる。
────やっぱり、この中に答えが書かれているの……⁉︎
気を取り直し、再び日記を注意深く読み進めていく。
主に日々の戦闘の記録で占められてはいるが、几帳面に書き並べられた綺麗な文字とその内容から、この日記を書いたのが、軍隊において高い地位にある魔導騎士の女性である事が窺えた。
────千年前という事は……おそらく、これはハルラート朝滅亡のきっかけとなったハルラート戦乱の事が書かれている……そしてこの日記を書いているのは、位の高い魔導騎士の、女性……
ツァレファテの中で、遺跡に残されている情報と日記の内容が繋がっていき、一つの確信に至る。
────間違いない……この日記を書いたのは、最後に慈雨たる御手を起動させた魔導騎士、戦乱を治めると同時に全てを滅ぼしたと言われる、呪われた英雄……エルゼ……!
これは……凄い発見だ!───。ツァレファテの心に興奮が湧き上がる。
慈雨たる御手に起きた異変、それと同時に姿を消したリサイリ、そしてそこに残されたエルゼの日記、これらが偶然であるはずがない。
この日記が本当にエルゼの書いた物であるかどうかは分からないが、もはやそれは必然にすら思えた。
────この日記の何処かに、リサイリを見つける手掛かりがある! それだけではない、数百年にわたり解き明かす事の出来なかった慈雨たる御手の秘密を解く鍵が、この中に必ずある!
青銅色の光を放つ壁に囲まれる広大な空間、ツァレファテは慈雨たる御手の正面に座り込み、黙々と日記を読み進めていく。
そして、日記の半ほどに差し掛かったところで、一文に目が留まった。
『21 Sep.
先日バスタキヤ遺跡で保護した少年、どうやら我々と同じハルラート人で、とにかく可愛い。名前を何と言ったか、またド忘れした。次聞いたら忘れないように何処かに書いておこう』
────ハルラート人の、可愛い少年……名前を何処かに書いておこう……⁉︎
「まさか……⁉︎」
ツァレファテは、思わずそう言葉を洩らす。
日記の最初のページを開き、そこに書かれた『リサイリ』という文字を見つめる。
────そんな……そんな事あるはずが無い……! とにかく今は、この日記をより詳細に調べ、手掛かりを探そう……!
ツァレファテは立ち上がり、慈雨たる御手を見上げる。
物言わぬ異形の巨体が、いつもと変わらない姿で静寂の中にそびえている。
何にせよ、ここでこうして居ても仕方がない───。ツァレファテが視線を下ろし、部屋の出口の方へと振り向くと、いつも遺跡の入口を警備している二人の兵士の姿が見えた。
「ああ! ツァレファテ殿! こちらにいらしたか!」
「一大事でござる! 一大事でござるぞ!」
ツァレファテの姿を見つけた二人の警備兵が、そう叫びながら血相を変えて駆け寄って来る。
ツァレファテの胸に不安が過ぎる。
「ビックスさん! それにウェッジさんも! お二人ともどうしたのですか⁉︎」
「ナダールが! ナドアルシヴァ率いるナダールの軍勢が攻めて参りましたぞ!」
「ナダールが⁉︎」───まさかこんなに早く……!
想定していた最悪の事態。
しかも、ナダールの英雄と呼ばれるナドアルシヴァ自身が指揮を取っていると言う事は、これ迄の小競り合いとは違う。最終決戦として全力で攻めて来るのは間違いない。
警戒態勢を強めていたとはいえ、そんな総攻撃に対して、主力を欠いたイムランの軍が果たして何処まで持ち堪えられるか?
もはやリサイリを探すどころではない。ツァレファテは兵士に尋ねる。
「状況は⁉︎ 敵の数は⁉︎」
「敵の数は確認出来るだけでもおよそ三万、恐らくそれだけではありますまい!」
「攻撃は西側に集中しておりまする!」
「西側に⁉︎」
都の西側には難民保護施設があり、セルシアスもレスタシアもそこにいる、全てが悪い方向へ進んでしまっている。
────ナダールの大軍勢がこの都を攻めるのに、単純に一方向から攻めるとは思えない……南北の守りも固めなければ……!
「現在一般部隊と警備隊が応戦中との事!」
「都に残っている国御柱命と国御盾命によって中央広場に総司令部が設置され申した! ツァレファテ殿も先ずは其方へ行かれよ!」
「分かりました! お二人は城とこの遺跡を開け放ち、民の避難を優先して下さい! 私は戦況を確認後、状況に応じて前線へ赴きます!」
不幸中の幸いとでも言うべきか、都の西側、レスタシアのいるその場所には、一騎当千の剣士、国御剣命アルカイルがいる。
しかし、いくらアルカイルと言えど、大軍を相手に何時迄も耐え凌げるはずが無い。
────だからと言って、私一人が駆けつけた所でどうにか出来る訳では無い、先ずは総司令部へ行って戦況を確認し、然るべき対策を講じる!
ツァレファテは日記を鞄にしまうと、出口へ向かって走り出す。
一気に階段を駆け上がり、遺跡の入り口に繋いでおいた馬に飛び乗ると、そのままの勢いで地上へと飛び出した。
何かの焦げる匂いが鼻をつき、熱と冷気の入り混じる風が、ツァレファテの頬に雨粒を落としていく。
重い雲に覆われた空は暗く、都の西側では既に激しい火の手が上がっているのが見える。
怯える人々の響きと、遠くに聞こえる砲撃の音が響く中、ツァレファテは中央広場へと向かって馬を駆けた。




