狂気の正義
邪教討伐へ向けて着々と進軍するナダールの騎士たち。そんな中、ナダール騎士の一員であるエリヤは一人、胸の中に膨らむ疑念と向かい合っていた……
朝の祈りを終えたナダールの軍勢が、アールーマヤへ向けて出発の準備を始める。
天幕を畳み、馬の背に鞍をかけ、邪教徒の命を奪う為に研ぎあげられた剣を腰に携える。
邪教討伐という大義に燃える騎士たちが逡巡なく準備を進める中、これが初めての従軍となるエリヤは、その細身の体には少々大きすぎる剣を手に取ると、それを腰に携えるのを躊躇うように、沈んだ表情で視線を地面に落とした。
草がまばらに生える土の上を、蟻の行列が這っている。
大地を走る罅の様な、その黒く蠢く蟻の大群を眺めながら、エリヤは考えていた。
────邪教徒とはいえ相手は人間、どんな理由であろうと、殺戮などに正義があるのだろうか……
誰にも訊けず、誰もその答えを教えてはくれない。ただ一人、胸の内に膨らむ疑問と向かい合い、自問自答を続ける。
ナダール聖教において、その信仰を疑う事は罪とされていた。
淀み無い信心こそが幸福であり、そこに疑心を抱けばたちまちに幸福は失われ、異論を口にしようものならその者は全てを失い滅びるとされていた。
生まれた時からそう教育されたナダールの民は、それこそが揺るぎない真実であるとして疑わず、ただの一度でも祈りを欠かそうものなら、家族であろうと背教者と蔑むほどに盲信していた。
エリヤは一人で考え、その答えを見つけなければならなかった。
「おいエリヤ! どうしたんだボーっとして……もうすぐ出発だぞ!」
「あ……ああ、はい、ギルアデ隊長……」
準備の捗らないエリヤにそう声を掛けたギルアデは、エリヤの浮かない表情に気付くと、少し様子を窺ってから優しい口調で語りかけた。
「お前、今回が初めての従軍だったな、じゃあ、考え込むのも無理はない」
「え⁉……あ、あの……」
図星を突かれたエリヤであったが、信仰に対して疑問を抱いているなどとは言えず、ただ口篭る。それを察してか、ギルアデはエリヤの抱いているであろう疑問に答える。
「いいかエリヤ、よく覚えておくんだ。我々が邪教徒の命を奪うのは『救い』なのだ。彼らがこのまま邪教を信じ続ければ、それは罪を重ねる事に他ならない。その罪から彼らを解放するという事なのだ」
「殺す事が……救い……?」
とても理解出来ないその言葉に、エリヤが戸惑いを露わにする。しかしギルアデは、一切迷いのない真っ直ぐな眼差しで、誇らかに己が正義を語る。
「その通りだ。ナダール神の従順たる信徒である我らが憐れみを以てその命を絶つことで、彼らは来世、神聖なるナダール教徒として生まれ変わり、幸福な生を受ける事が出来る。我々にしか出来ない事なのだ」
独善、狂信────。
絶対に口にしてはならない言葉が、嘔気にも似た不快感となって胸の奥から喉にせり上がってくる。
そんな事が本当だと、どうして言えるのか? 来世があるなど、まして、ナダール教徒に生まれ変わるなど、誰が証明できようか。
疑心は更に膨らみ、確信とも思える程の信憑性を帯び始める。
だが、決して口には出来ない。
もしそんな事を口にしようものなら、この理屈で殺されるのは自分自身であることは疑いようのない事実だった。
違う宗教である以上、その全ては邪教であり滅ぼすべき悪。ナダール聖教において、それは揺るぎない信念だった。
─────では、信仰を持たない者はどうするのか? イムランにもそういった者は大勢いるはず、それらも一様に殺さねばならないのか?
エリヤはギルアデの様子を窺い、一分の希望を胸に、慎重に、平然を装いながら言葉を選んで質問を投げかける。
「しかしギルアデ隊長、邪教徒でない者、ナダール聖教を知らず、単に信仰を持たない者はどうなるのでしょう?」
エリヤの質問にギルアデは小さく頷くと、慈しみの表情で断言する。
「ナダールの教えを受け入れない者、そして出会えなかった者は、誤って生を受けた憐れむべき者たちなのだ。邪教徒と同様、我らがこの正義の剣で、その罪にまみれた命を浄化する。それが我々の使命であり、責任なのだエリヤよ」
責任感と正義感に溢れるギルアデの眼に、エリヤは言葉を失う。
人を殺す事に迷いがないどころか、それを神より与えられた重大な使命として受け入れ、全力で全うしようとするその姿は、殺戮こそが善行であるという自信に満ち満ちていた。
「そう……ですね……私たちがやらなければならないのですね!」
笑顔で『救い』という殺戮に賛同し、取り繕う。これ以外に方法はない。
「そうだ! ナダールの神に肖る事の出来なかった哀れな者たちを救う、我らこそが正義、ナダール神こそが正義なのだ! さあ、早く支度をしろよ!」
エリヤは従順な信徒を演じて、泰然たる足取りでその場を後にするギルアデを見送る。そして、出発に向けて俄かに慌ただしくなる中、一人暗澹した面持ちで項垂れた。
編隊を組み始めた騎馬の巻き上げる土埃と、これから訪れる凄惨な未来に顔を顰めて視線を落とすと、地面を這う蟻の行列が乱れている。
列を分断する黒い穴の様な蟻の塊に目を遣る。
無数の蟻に群がられてもがく一頭の蝶が、音もなく静かに動きを止めた。
 




