思いと想い
ドゥルマの書置きをイェシェダワに手渡した女騎士、第三騎士団所属のリッガ・ルクレアは、その時のイェシェダワを様子が頭から離れず、その事ばかりを考えていた。
ベッドで横になったまま、カーテンの隙間から零れる朝日を見つめていたルグレアは、いつもより重く感じる身体を起こすと、気怠い足取りで窓辺まで行きカーテンを開ける。
眩しい陽射しが、暗く沈んでいた部屋とルグレアに朝を届ける。
心にささくれが出来た様な、そんな気がした。
浮かない気持ちのまま身支度を整え、ルグレアは部屋を出た。
国防軍本部にある食堂が、朝からざわついている。
明け方まで眠れなかった私は、他の騎士たちよりも少し遅れて食堂へと入り、その騒めく騎士たちを背に、残り少なくなっていたブッフェの料理をかき集める。
ブッフェの器をスプーンでさらう私の背後から、神妙な面持ちで話す騎士たちの声が聞こえた。
「……まさか……本当なのか……?」
「ああ、ワディシャーム城の警護に行ってた奴らが言っていたらしい……」
─────ワディシャーム城で、何事かあったのか……?
断片的に耳に届くその会話に、十分な関心が沸かない。
ドゥルマ様の書置きを手にしたまま、愕然とした様子で座り込んでしまったイェシェダワ様の事が、昨夜からずっと靄の様に頭の中を霞ませる。
残り物をかき集め、どうにか今日の朝食を確保すると、見栄えの悪いその朝食を手にテーブルに着く。
最近短くした髪を耳にかけ、スプーンを手に取った時、同期のサラディンが図々しくすぐ隣に座って声を掛けてきた。
「おはようルグレア、どうした? 浮かない顔して」
「……おはよう……ああ、昨夜よく眠れなくて……」
サラディンが私の顔を覗き込むので、あからさまに顔を背ける。
国防軍騎士団の中に女が少ないというせいもあるだろうが、この男は何時も私に対して距離が近い。
上背もあって端正な顔立ち、気さくで良い奴なので、悪い気はしないのだが、あまり化粧をしていない顔を近くで見られたくはない。
「お前、顔色良くないぞ、それに、女なんだから化粧のひとつくらいしたらどうなんだ?」
「ほっといて」
ついさっき、こいつは気さくで良い奴だと思ったが、たった今気が変わった。
こいつはただの無神経でどうでもいい奴だった。
早く何処かへ行ってくれと言わんばかりに、無言で朝食を口に運ぶ。
こんなどうでも良い奴と話しているより、イェシェダワ様の事を考えていたかった。
昨日のイェシェダワ様の、あの悲しみに沈んだ瞳を思い出すと、今でも胸の奥に針が刺さるような小さな痛みが走る。
私があの方の事を考えたところで、どうにか出来るわけではないのは分かっているが、ただ私は、心をそこに置いておきたかった。
「それで、お前聞いたか? イェシェダワ様の話?」
サラディンが唐突に口にしたその名前が、胸の中で小さく弾けて熱を放つ。昨日のイェシェダワ様の姿が脳裏に去来する。
スプーンを口にくわえたまま、ゆっくりとサラディンの方へ顔を向けて無言で頭を振ると、サラディンは私の背後へ目を向け、「ほら、あそこの二人、昨夜、近衛士団の応援で城の警護についていたら、空からイェシェダワ様が降って来たんだってよ」と言いながら、顔でその騎士たちを指す。
「………降って来たって……どういう事?」
「降って来たって、そのままさ、空から落ちて来たんだってよ、それで、噴水の中に落ちて、びしょ濡れになって泣き出しちまったって話だ。」
「泣き出した……⁉︎」
そう言った直後、自分でも驚くほど即座に席を立った私は、気が付いた時には、サラディンが指した騎士たちの前へと来ていた。
「あ、あの!……昨夜、城でイェシェダワ様が空から落ちて来たって……」
突然目の前に飛び込んできた私に少し驚きながらも、その騎士が口を開く。
「ああ、そうなんだ……どうして空から落っこちて来たのか分からないんだが、何しろその後、イェシェダワ様が泣き出してしまわれてな……見ていられなかったよ……」
「いつでも気丈なあの方が、あんなに泣くなんて、俺はもう……可哀想で可哀想で……」
隣にいたもう一人の騎士はそう言いながら、可愛らしい花の刺繍の付いたハンカチで涙を拭う。
─────間違いない……これは絶対……ドゥルマ様のせいだ! イェシェダワ様を泣かせるなんて………許さない……
「あれ?……お、おい、ルグレア⁉……お前これ、朝飯……っておい? どこ行くんだ⁉」
朝食なんて食べている場合じゃない。ましてや、サラディン、お前などと話している場合ではない。
私は、ドゥルマ様を探す……
食堂を飛び出し、激昂して伸し歩く私に騎士たちが道を開ける。
その私の手には、ぐにゃりと曲がったスプーンが握り締められていた。
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夢であってほしいと願いつつ、もう一度目を閉じる。瞼の裏に蘇る、金髪の美女に抱かれるドゥルマの姿に、堪らず目を見開いてはっと息を吸いこんだ。
イェシェダワは、祈る様な気持ちでゆっくりと息を吐き出す。しかし、目に入った見慣れない部屋の風景に、あれが夢ではないという事を思い知らされる。
薄いレースのカーテン越しに見える外の景色から、ここがワディシャーム城であるという事が分かった。
昨夜あれからどうなったのか、よく思い出せない。そして、思い出したくもなかった。
ドアが開いた音がした。部屋に誰かが入って来る事に気付いたが、そちらへ顔を向ける気にもならない。もう、何もする気が起きない。私はどうしてしまったのだろう、そして、どうなってしまうのだろう……それを考える事すらも、もう出来なくなっていた。
「イェシェダワ……気分はどうでえ……?」
その凛と響く声が、イェシェダワを少しだけ正気に戻した。
悲しみに沈んだ眼差しで、困ったような、呆れた様な、そんな表情で佇むルファー女王の方へと顔を向ける。
「……女王様……」
イェシェダワがベッドから出ようとすると、「ああ、良い良い、そのままで構わねえぜ」と言いながら、ルファー女王はベッドに腰掛けた。
「……どうしたってんだ、えぇ?……話してみちゃあくれねえか?」
ルファー女王のその問いにイェシェダワは俯くと、少しの沈黙の後「……いえ……何でもないのです………」とだけ言って黙り込む。
「何でもねえ訳がねえだろうがよ、そんな、しみったれた面しやがって………」
イェシェダワが少しだけルファー女王の方へ顔を向け、一瞬何かを言おうとしたが、すぐにまた俯向いてしまった。
その様子に、女王は微笑みを浮かべながら小さくため息を漏らすと「そんなんじゃおめえ、いつも一緒にいるあの色男が困っちまうじゃねえか……一人で空から降ってきやがって……あいつは一緒じゃなかったのか?」と、イェシェダワの顔を覗き込んだ。
ルファー女王の言葉にイェシェダワは目を瞑る。そして、泣くのを堪える子供の様に、唇をぎゅっと真一文字に結ぶと、ぽろぽろと、黙ったまま涙を零した。
イェシェダワの背中をルファー女王が何も言わずにそっと撫でると、その優しさに触れたイェシェダワが堪え切れなくなった様に両手で顔を覆い、その固く結んだ口から「うぅぅ………」と嗚咽を漏らす。
少しの間、イェシェダワを優しく撫でていたルファー女王は、何も言わずにゆっくりと立ち上がり、部屋を出ていく。
閉めた扉の向こうから、途切れ途切れに小さな嗚咽が漏れ聞こえて来た。
「………エルゲイネス、ドゥルマはどうした?」
ルファー女王は扉に向いたまま、部屋の前に控えていたエルゲイネスに尋ねる。
「何処にもおりません。ただ今、捜索本部を設置し、三百人態勢で捜査にあたっています」
「………一刻も早くあいつを探し出して、私の前に連れて来い!」
ルファー女王の憤怒の眼差しが、晴天の空を睨む。
そしてその視線の先、空の上に浮かぶ揺蕩いし叢雲では、自分のせいで地上が大変な騒ぎになっている事など知る由もないドゥルマが、イェシェダワを守りたい一心で過酷な修行を続けていた。
「おっしゃ! おりゃあー!………うおぉおおーーー!」
跳ねる回る謎生物【小さめ】×5に相手をしてもらって、一心不乱に技の修練に打ち込むドゥルマに、ジュベラーリが尋ねる。
「ねえドゥルマ?……本当に良いの? イェシェダワへ何も言わなくて」
「いや!……良いんだ!……時が来るまで俺は……鍛錬を続ける!」
その様子を見ていたジュメイラが、ドゥルマに聞こえないように、そっとジュベラーリに耳打ちする。
「ドゥルマはああ言ってるけど、私ね、イェシェダワに話しておこうと思うの」
「ええ、私もその方が良いと思う……後で一緒に本部へ行きましょう」
時を同じくして、その国防軍本部では、失踪したドゥルマ捜索の聞き取り調査が行われ、騎士たちの間で大きな騒ぎとなっていた。
「昨夜のあの、イェシェダワ様が大泣きしたってアレ、ドゥルマ様が何かしでかしたらしいぞ!」
「なに⁉︎ ドゥルマ様が⁉……いくらドゥルマ様とは言え、イェシェダワ様を泣かせるなんて許せん!」
こうして事態は、ワディシャームの街全体を巻き込んだ大騒動に発展しようとしていた。




