ラブコメの朝はかくありなん
1
ぴんぽーん
呼び鈴が鳴る。
耳を澄ませると、妹がドタバタと駆けていく足音が聴こえた。ガチャリと音をたてて玄関の扉が開く。かつては鬱陶しく感じていた生活音も、今ではとても愛おしく感じる。
会話の内容まではわからないが、妹のはしゃぐ声が聞こえてくる。彼女は今頃家に迎え入れられ、母さんや父さんに挨拶をしたあたりだろうか。
トン、トンと小気味よく上品に階段を上がる音が聞こえる。それもどうせ今だけだろう。この部屋に入るまでの事だ。ただでさえ人前では猫を被る傾向にある彼女だが、こちらに来てからというものの、より一層被る皮が厚くなったように感じる。とりわけ僕の家族の前では、君はフィクションの世界から出てきたのかと言いたくなる程には徹底したお嬢様っぷりだ。
そんな彼女の健気な努力はお嬢様慣れした異世界の住人ならいざ知らず、現界で生きる一般市民にはいささか過剰な演出であり、まして中二病というそういった人達を指す言葉があるものだから、幸か不幸かそういうキャラだと認識されている。
しかしこれまた面白い事に、僕の家族はゲームや漫画に出てくる素朴な勇者のような格好に身を包んだ挙動不審な息子を見ているので、今更お嬢様キャラの1人や2人増えたところでかわいそうな目で見たりはせず、彼女のキャラを受け入れて特に指摘しない。さらに追い討ちをかけるように、そんな彼女をキラキラ輝く宇宙のようの大きなおめめで見つめる妹がいるものだから、彼女の勘違いは留まるところを知らない。
そのキャラが受け入れられるのは僕の家の中だけだということを彼女にはやく教えてあげなければ。もし出先で誰かが彼女の事を笑ったりすれば、被っていた可愛い猫の皮がたちまちずり下がり、恐ろしい化け猫が牙を向く事だろう。僕に。
『まぁでも、こういうのも嫌いじゃないわ』
ふと、煌びやかなドレスに身を包んだ彼女の呟きが思い出される。常に何か言葉を送り出していて、生まれた時から一度も閉じたことがないのではと疑いたくなる唇を優しく結んで微笑む彼女の姿が。
そうだった。優美にスカートの裾を摘んで消えてしまいそうな儚い微笑を浮かべるような姿もまた彼女の一面なのだ。無理をしていないのであれば、僕の方からどうこう言うものでもないだろう。
いつのまにか緩んでいた口を引き締めて、ドアに向かって背を向けるように寝返りを打つ。コンコンと控えめなノックの音が耳に届き、心臓がドキドキと高鳴る。
僕が返事をしないので、そっと控えめに開いた扉から、白い靴下に包まれた小さな足がそろりと伸びてくる。後ろ手で優しく扉を閉めると、一連の静かな動きからは想像し難い太陽みたいに明るい声が響く。
しかしまさか、僕がこんな少年漫画のラブコメみたいな朝を迎える日が来ようとは。
「おっはよ~カオル!迎えに来てやったわよ!」
「……まだ7時だよ?」
「もう7時よ。出発の40分前。あんたいつも何時まで寝てるわけ?」
聞こえてきた明るい声に、今の今まで寝ていたんですぅというような、そんな眠そうな態度で返事をする。
嘘だ。
本当は朝、すぐに目が覚めた。いつも7時まで寝ているのは本当だ。7時の目覚ましで目を覚ましてベッドから出る。
でも今日は6時に目が覚めた。1度目が覚めるとなかなか寝付けず、けれどばっちり準備を終わらせて待っているのはなんだか気恥ずかしくて、結局7時の目覚ましを止めるとベッドに潜り直してスマホとにらめっこしながら彼女が来るのを待った。
「ほら、お母様達が待ってるわよ!早く起きて支度する!」
「うっ」
バサリとタオルケットを剥がされる。既にパッチリ覚めたおめめをゆっくり開けてだるそうに擦り、体を起こす。 それから彼女の方を見る。
腰に手をあててぷりぷりと怒って僕を見る少女を下から上へと目でなぞる。
その見慣れない格好。胸が高鳴る。その格好は……
「…………制服だ…………」
「当たり前でしょ。学校に行くんだから」
「……制服を着てる……」
「だから、当たり前でしょって」
「……僕達の学校の制服だ!」
「ちょっ、急に大きな声出さないでよ。びっくりするじゃない……」
着ている!僕達の学校の制服を!彼女が!
「本当に通うんだね……同じ学校に……」
「なによ、なんか文句でもあるわけぇ?」
まさか、文句なんてない。嬉しいんだ。あの時は、今生の別れだと思っていたから。まさかもう一度、君と出会えるなんて思っていなかったから。
他人の空似なんかじゃない。正真正銘、僕のよく知るあの君と。当たり前の日常を。
「なによ、なんか言いなさいよ。まさか本当に嫌って言うんじゃないでし」
「……っ、……ふっ、くっ……」
ぽろぽろと涙が零れだす。あぁ、ダメだな。僕は。彼女の制服姿を見て、改めて現実なんだって実感した。
嬉しい。言葉が出てこない。でもそれじゃダメだって僕達は知っている。だからなんとか言葉を紡ぐ。
「……ちがっ、嬉しいんだっ……っ、制服、姿を見てっ、ほんとに現実なんだって……」
「…………ふん、ばーか。……もうっ……」
彼女が僕の隣に腰かけて、僕の頭を引き寄せる。それから両の腕で僕を包み込むと、優しく背中を撫でた。
まいったな。いつのまに僕はこんなにも涙脆くなったのだろう。新品の制服のはずなのに、ずいぶんと身体に馴染んでいるように見える。最初はスカーフの結び方も知らなかったのに、目の前のミセラの胸元にはきっちり綺麗に結ばれた赤いスカーフがある。制服が届いてからまだ日も浅いというのに、既に何回も着てみたのだろう。鏡の前で何度もポーズを決める姿が目に浮かぶ。
「……ごめん、ミセラ。ありがとう……」
「……初日から遅刻なんてしたくないから、さっさと泣き止みなさいよね」
うんと短く返事をし、自然、彼女の腰に手を回して抱き寄せようとしたその時、階下から妹の声が響いた。
「おにいちゃーん!?デアさんもー!!ちこくするってお母さん言ってるよ~~!!」
そのままドタドタと階段を上ってくる足音が聞こえたその瞬間には彼女は僕を突き飛ばして立ち上がっていた。
「……むっ、おにいちゃん?デアさん?」
「ごめんなさい未来さん!今いくわ。カオルくんったら全然起きなくて」
突き飛ばされたままの姿勢でベッドに寝そべって寝たふりをする僕。次にどうなるかはもうわかる。が、全然起きないと言われてしまった以上は寝たふりを貫くしかない。
くるであろう衝撃に備えて腹筋に力を込める。こんなことなら本当に寝ていれば良かった。目が覚めているからどうしても怖い。
「まったく、こーんな綺麗な人が起こしにきてくれて起きないなんて、お兄ちゃんはゼイタクなんだから。そんなおにいちゃんには、妹で十分だ!!とう!!」
「ぶっっふ」
お腹に妹がダイブしてきた。いつのまに未来はこんなにもおてんばに育ってしまったのだろう。何に影響されたのだろうか。昔は折り紙と絵本が好きな大人しい子だったというのに。
「えっほ、えっほっ……こらっ、み〜ら〜い~。そんな乱暴なことしちゃダメだよ」
「起きないのがだめなんだよ」
「わ、わんぱくな子ですね」
「あっ、ちがうんだよデアさん!いつもは未来もデアさんみたいにおとなしいんだけど、今日はその……おにいちゃんのせいだから!」
必死に弁明する妹を彼女がなだめている姿を見て、胸が熱くなる。ミセラか未来か。本来なら、どちらか一方と共に生きる事しかできないはずだった。運命が僕と未来を引き裂いて家族をバラバラにしてしまった。それでも世界は優しくて、2人が生きてここにいる。
思い出を振り返ると止まらなくなってしまうので、感傷に浸るのもそこそこにしてベッドから立ち上がり、2人を部屋から追い出す。
「だからね?ほんとは未来は……」
「ほら、お兄ちゃんもう起きたし着替えるから。未来はデアさんを連れて一階行ってて」
「えっ、あっ、わかった。デアさん、行こ?」
「うん。行きましょ」
妹が彼女の手を引いて部屋から出て行く。
パジャマを脱ぎ、ワイシャツとズボンを取り出して着替える。カーテンを開けて窓の外の景色を眺めた。
季節は夏。月は7。日は1。曜日は月。天気は晴天。体も気分も絶好調だ。悪くない。
「…………本当に、悪くない。ふふっ」
こんなにも学校が楽しみなんて。
既に時刻は7時15分。あと25分で支度をしないと。
始まるんだ。彼女と僕の学生生活が。当たり前の日常が。
昨日のうちに準備を済ませた学生鞄を手に持つと、弾むように階段を駆け下りた。