唇に柔らかい感触が伝わる
出口が別に存在するとしたら、やはりムジカを探さないとここから出るのは難しいかもしれない。どうするべきか。
「泉原さん……もしかして、嘘ついてない?」
突然美咲から問い掛けられてドキリとする。
「いや、違うんだ。僕は確かにここから来たんだけど、どうも入り口が……」
「そんなこと言って、ひと気の無い場所に連れて来たかっただけなんじゃないの?」
美咲の口調は怖がっている様子ではなく、むしろ――その笑みはどこか嬉しそうにも見える。これは、まさか……。
「泉原さん」
石を覗き込んだせいで美咲の顔がとても近くにある。どことなく火照りを感じさせる表情の美咲と視線が合った。
心臓がとんでもないBPMで踊り狂っている。息が荒いぞ、落ち着けよ,僕。しかしそれは難しい相談だ。何故なら可愛い女の子の顔がこんなに近くにあるからで、ずっとその子と目が合っているからで、なんとなく良い匂いがすることや、ひと気の無い神社の裏手に二人っきりで居ることや、その他諸々の事実が複合的に僕の頭を刺激しているからなのである。
「泉原さん、緊張してるの? 大丈夫だよ。ほら」
言いながら彼女の唇が僕の方へと近づいて来る。
どうする、どうしたらいい? キスしちゃうのか? 僕はフィジカルな誘惑に弱過ぎる。ああもう童貞はこれだから!
「眼を閉じて」
美咲の甘い声が脳髄をしびれさせる。ファーストキスだ。もう、なるようになれ。
僕の脳裏にこれまでの人生が走馬灯のように駆け巡る。バレンタインデーに失望した小学生時代。初めて告白して失敗した中学生時代。女子の友達が一人も出来ずに終わった高校生時代。大学デビューを目論んで豪快に滑った大学生時代。就職した会社には四十代のオバちゃんしか女性が居なかった。そして――そして今、すべてが報われようとしている。ああ、旅に出て良かった。
「んっ」
唇に柔らかい感触が伝わる。頭の奥が熱くなっていく。キスってこんなに気持ち良いのか。道理で世の中のカップルが暇さえあればキスしてるわけだ。ドラマのクライマックスでもキス。映画のラストシーンでもキス。見る度に「やれやれまたですか」と飽き飽きしていたが、今初めて得心が行った。
「私ね、泉原くんみたいな男の人大好き。いつでもキスしたいな。だから、ね」
甘い言葉の終わりに美咲の声が急に冷たい響きを帯びたように感じた。まるでよく煮えた鍋に氷塊を沈めたように。
「だから、持って帰っていいでしょ? 君の首」
眼を開いて僕は驚愕した。目の前の美咲の手に、まるで漫画に出てくる死神が持っているような大鎌が握られていたからだ。
鋭利な刃がギラリと月明かりを反射した。
「あ……あ……」
絶叫したつもりだったが、恐怖のあまり掠れた声しか出ない。
まさか、美咲が……この子が首斬りかまいたち!
「はぁい、うなじアーンして」
美咲の言葉に首筋がぞくりとする。
御影県の首無し死体。提灯祭り。山の神。生贄。
僕は殺されるのか、こんな場所で。
「よいしょっ、と」
鎌の重みを感じさせる、大袈裟なバックスイング。蛇に睨まれたカエルのように動けない。
でもきっと大丈夫。漫画とか小説なら、この辺りでストップが掛かるものだ。「そこまでだ」「なんだと?」そして僕は九死に一生を得るだろう。
しかし僕がどんなに耳を澄ませても、聴こえてくるのは虫の声と自分の鼓動だけ。誰の制止も掛からないまま、横一閃。恐ろしいスピードで大鎌が振るわれた。
そして強烈な痛みと共に、僕の首が、飛んだ。
◆
「痛っ!」
頬が破裂したような痛みを感じて僕は眼を覚ました。
「あっ、ムジカさん!」
ムジカが僕の顔を覗き込んでにやりと笑っていた。
どうやら倒れていた僕にムジカが張り手をしたらしい。思わず首に手を当てるが、胴体と繋がっているのはもちろん、かすり傷一つ無い。斬られたと思ったのは気のせいだったのだろうか。
そうだ、美咲は?
起き上がって周囲を見回すと、炎に包まれてのたうち回る巨大な生き物が見えた。毛皮に覆われた筋肉質な姿はまるで、イタチ人間。まさか、こいつがかまいたち? 美咲の本当の姿?
「見せたかったなぁ、スーパーヒロインの登場シーン。あそこの屋根の上から狙いを定めてね、私の炎で思い切り燃やしてやった」
ムジカが本殿を指さして言う。何てところに隠れてたんだ。いや、それより見てたのならもう少し早く助けてくれれば良かったのに。
「それにしても泉原くん、君は童貞か? ものの数分で籠絡されていたじゃないか」
ムジカがにやにやと笑っている。まさか、そんな前から一部始終見られていたのか。
「そんなことを言ってる場合じゃ……ムジカさん!」
いつの間にか炎の消えた妖怪が、ムジカの後ろで大鎌を振りかざしている。
振り向きざまにムジカは身体を捻るが、斜めに振り降ろされた刃を避け切れない。
肉ごと骨が断ち切られる耳障りな音がして、彼女の左肘から先が飛ばされた。