狐達が燻らす煙管の紫煙
本殿の作りも並んで居る木々の配置も変わってはいない。しかしその表面は所々お札や七五三縄のようなもので飾られ、全体的に青みがかった色合いになっている。
大きな違和感の原因は恐らくこの青だ。まるでカメラのレンズにカラーフィルターを掛けたように辺り一帯が青い。
「泉原くん、油断するなよ。何処に奴がいるかわからんからな」
ムジカが脅かすように言う。
建物に沿って歩いて本殿の正面へ戻る。石畳の広場を見ると、その光景はまさに異界のものだった。
空に広がる生首提灯からは、青い灯火がはみ出すように揺らめいている。
その下では煙管を咥えた浴衣の男女が六人、集まって何かを話している。
服装で男女と判断したが、驚いたことに彼らの首から上はどう見ても狐だった。
「ムジカさん、色々説明お願いしていいですか」
軽く咳払いをしてから、ムジカは解説を始めた。
「妖怪は通常我々と同じ空間には出てこない。ここは人が暮らす世界を元にして作られたもう一つの空間。即ち裏側だ。通常、表の人間からは知覚できないし、裏から表に手を出すことも出来ない」
説明が概念的過ぎて理解するのが非常に難しいが、ここが妖怪の世界らしいということはわかった。
ならばターゲットの首斬りかまいたちもこちら側に居るということか。
「なら初めから裏を移動すればいいと思うかもしれないが、裏側はあくまでもそれぞれの妖怪が作り出したフィールドだ。範囲には制限がある。おそらくこのフィールドは神社の敷地一帯といったところだろうな。各地の裏側へ行くには、それぞれ表の入り口から入る必要がある」
新しいゲームソフトのルールを説明されているような気分だ。
おそらくムジカも状況はわかっていても、何故そうなっているか、仕組みや理由まではわからないのだろう。
「わかったような、わからないような……。とにかく説明ありがとうございます」
無理もない、とムジカが苦笑する。
「さて、狐が何匹か居るな。私は彼らに探りを入れてくる。君は少しここで大人しくしててくれ」ムジカは言いながら彼らの元へ近付いて行った。
裏、か。いよいよトリックの可能性を疑えない所まで来てしまった。ムジカを疑わなくて済むという意味では、少しホッとしたような気もする。
透き通った虫の声の残響が、長く遠く聴こえる。それがいくつも重なって複雑な和音を紡ぎ、幻想的な世界を演出している。
ふと空を見上げると、すっかり暗くなった空に月が出ていた。提灯の向こう側に広がる夜空。そこに昇る月は、狂おしくも美しい、紫掛かった青色をしていた。
どうにも色彩感覚がおかしい世界だ。自分の手の平を見るが、肌が緑色になっていたりはしなくて安心する。
ふと気になってスマートフォンを取り出してみるが、案の定圏外になっていた。お客様は現在電波の届かない場所に居るらしい。
納得してポケットにしまう。その時――
「あの、こんばんは。すみません」
不意に声を掛けられた。
◆
顔を上げると、目の前に浴衣を着た同年代の女の子が立っていた。
アップにした亜麻色の髪を片手で触りながら、不安そうな表情でこちらを見ている。
「はい、何ですか?」
反射的に紳士的な笑みを浮かべて対応する。
「その、実は、迷子になって。というか、友達とお祭りに来てたんですけど、いつの間にか変なんです。月は青いし、そこら中にお札は貼ってあるし、それにあの狐人間! もう、全然わけがわからなくて」
どうやら僕らと同じように表から来た人みたいだ。
意図せず裏側へ来てしまったようだが、本殿の裏手に転がってる石を偶然見つめてしまうなんてことはそうそうないはずだ。入り口を通らなくても来てしまうことがあるのだろうか。あるいは実は入り口が複数あって、その一つを偶然通ってしまったのかもしれない。
しかし、その、なんというか。……可愛いじゃないか、この子。
きめ細かい綺麗な肌に、桜模様の浴衣が実に似合っている。
大人しそうな装いでありながら、胸の辺りは窮屈そうに存在を主張していて――
「あの、聞いてますか?」
「す、すみません、聞いてます。えっと……」
狐男達の方を見るが、いつの間にかムジカの姿が見当たらない。かまいたちを探して下へ降りて行ったのだろうか。
狐達が燻らす煙管の紫煙が、辺りにもやもやと漂っている。
この子を連れてムジカを探すべきだろうか。
いや、そもそも僕一人だけでも足手まといになる恐れがあるのだ。追いかけた先で闘いが始まることを考えると、連れて行くのは危険だ。ひとまずこの子を帰してからムジカを探すことにしよう。
決して二人きりになりたいわけではなく、あくまで彼女の安全を最優先に考えた末の判断だ。僕は自分にそう言い聞かせた。
「実は僕もここは初めてなんだけど、何て言えばいいのかな。ここって、妖怪の住む異世界らしいよ」
真面目に話していても苦笑いしてしまう。内容が内容なのだから仕方ない。
「妖怪……ですか」目の前の現実をどう受け止めてよいのかわからないといった顔で眉をひそめる。
「あ、でも大丈夫。多分僕が来た道から帰れると思うから」
「本当ですか? ありがとうございます。よかった、普通の人に会えて。さっきからもう二時間ぐらいこの辺りでおろおろしてたんですよ。駅に行こうにも神社の外には出られないし……。よかったぁ」
美女に感謝される嬉しさに舞い上がる。これはまさかフラグという奴が立ってしまうのではないか。旅先の出逢い――甘美な響き。
「僕の名前は泉原真。よろしく」
「私は相川美咲です。よろしくお願いします、泉原さん」
そこで彼女はようやく安心したように笑みを浮かべた。
衝撃的に可愛い。これは反則だ。
「美咲ちゃん、多分同い年ぐらいだし、敬語は抜きでいいよ」
「あ、はい、そうですね。あ、えっと……そうだね! で、いいのかな」
美咲が照れたようにに上目遣いで僕を見る。こいつ、できるぞ。
「うん。それじゃ、ついて来て」
ドキドキする胸の高鳴りを抑えつつ、僕は彼女を連れて本殿の後ろ側へ向かった。
「浴衣だとちょっと歩き辛いかな。気をつけてね」
さり気なく紳士的な気遣いを忘れない。
あくまでも自然な流れで手を繋げるのではという期待が無いことも無い。
「うん、大丈夫。でも、ありがとう」
美咲は転ばないよう足元に注意しながら付いて来た。
三十メートル程の建物の外周にそって曲がり、後ろ側へと回り込む。
大きな目印があるわけではないので少しだけ手間取ったが、件の石を見つけ出した。
「あったあった。ほら、この石の表面の印を見てごらん」ムジカに教わったばかりのことを彼女に伝える。
「印って……どれのことですか?」
「石の表面に何かで彫ったようなマークがあるでしょ。それを――」
「マークなんて、どこにも無いみたいだけど」彼女が僕の言葉を遮ってそう言った。
「えっ?」そんなはずはない。「わかりづらいかな。ほら、この表面に」
言いながら石に近づいてみる。
しかし――そこに印は無かった。
場所を間違えたのかと思って辺りを確認するが、同じような石が転がっていた記憶も無い。
位置や石の形からしても間違えてるとは思えない。となると、どういうことだろう。
時間制限?
ムジカが居ないから?
あるいは来た道からは帰れないのだろうか。
そこでようやく思い至る。ムジカは印の事を『入り口』と呼んでいた。
「まさか、出口は別にあるのか……?」