暗褐色の熱い液体をすする
心臓がどくんと飛び跳ねるが、美人に話し掛けられたらそうなるのは当たり前。カレーを食べたら頭に汗をかくのと同じぐらい自然なことだろう。
動揺して返事をし損ねた僕に、更なる言葉が投げかけられる。
「君だよ、君。覚えてないかなぁ。さっき駅で会ったんだけど」
「あ、もちろん、覚えています。結果的に僕が一方的に声を掛けたことになったわけですが」緊張で噛まないように、ゆっくりと答える。
「ああ、そうだったかな。あまりにも外が暑くてぼうっとしていたのかもしれないな」笑いながら彼女は言う。
確かに暑いですね、と呟く。
しかし偶然同じ店に入ってきたからといって知り合いでもない異性に声を掛けるなんて。最近の娘は大胆というか、けしからんというか。
白いワンピースを着ているからには大人しい自己主張少なめの引っ込み思案な女性であると、僕は何の根拠もない先入観を抱いていたらしい。
「偶然同じ店に入るなんて、何かの縁だ。そこに座りなよ」
彼女がテーブルの向かいを指差す。
内心喜びつつ席に着くと、水が運ばれてくる。ふとテーブルに目を落とすと、女性が飲んでいるエスプレッソのカップが目についた。
「すみません、エスプレッソください」
迷いそうな時は先人に倣う。いつもの僕のやり方だ。「承知しました」というセバスチャンの声を聞いてから、改めて店内を見回す。
◆
ヨーロッパの田舎町を想起させる洋風の作りで、ややアンティーク調のインテリアの数々はレトロながらどれもセンスが良い。色使いといい形といい派手さは無いが、洗練された安心感を与えてくれる。
「こらこら、折角目の前に美女がいるのにお店の方が気になるのか君は」
白服の女性がラブコメ漫画のキャラクターみたいなことを言ってくる。尊大な口調も漫画じみているし、こう見えて案外オタクなのかもしれないな、と思う。
「美女も気になるけど、店内も気になります。何しろ旅先で初めて入った店なんだし」
僕が素直に答えると彼女はにやりと笑って、「さりげなく美女は否定しないわけか、やるね」と謎の評価を下した。
「しかし、お互いそろそろ自己紹介するべきだと思うね」と彼女が言った。「それで少年、名前は?」
「少年て。僕二十六ですよ」苦笑して返す。
白いワンピースを着た黒目がちな瞳の女性。見た感じ僕と同じか少し若いぐらいなのに、何故一方的に子供扱いされているのか。
「私はこう見えて結構大人なんだよ。さ、納得したら名前を白状したまえ」
僕の年齢を聞いても動じない。本当に年上だったのか。
「泉原です。泉の原っぱと書いて、イズハラ。宜しく」
「うん、泉原君か。いい名前だね。それで、下の名前は?」にっこりと微笑んで彼女は更に問う。
「真実の真と書いて、そのままシンです。それで、そちらはなんて名前なんです?」恥ずかしさに視線を少し逸らして答える。
すると彼女は洗いたてのような無垢な笑顔を見せて、名前を名乗った。
「私はムジカ。白井ムジカ」
ムジカ。ムジカだけにワンピースは無地か。などとくだらない駄洒落が頭の中に浮かんで消えた。陳腐な感想だけど、実に珍しい名前だ。外国人だろうか。いや、たしかにくっきりした目鼻立ちだが、あくまでも日本人的な顔立ちをしている。それに発音もネイティヴだ。色々なことを考えていると、白井ムジカが身を乗り出して言った。
「ほらほら、人が名乗ったんだから何か言ったらどう? いい名前だね、とか、国籍はどちら? とか、ムジカってどう書くの? とかさぁ」
まったく遠慮の無い絡み方だ。初対面とは思えない。しかし、見知らぬ土地で早くもわずかな孤独を感じつつあった僕には心地良い温もりだ。折角なのでムジカのペースに合わせてみる。
「じゃあ、ムジカってどう書くんですか?」
「カタカナ」勝ち誇ったような笑顔を浮かべて即答し、ムジカはエスプレッソを飲み込んだ。
なんだか小学生と会話しているような気分になる。カウンターの方へ目をやると、エスプレッソを抽出する蒸気の音が聴こえた。
「まぁそう呆れた顔をするなよ、泉原君。察するに君は独り旅だ。こういう時は貴重な話し相手を無下に扱うもんじゃない」
尊大な口調に少しうんざりしつつも、ムジカの意見には同感だった。都会ほど他人に無関心ではないにしても、お店の人以外に会話をする相手は居ないかもしれないと考えつつあった。そんな環境下において、ムジカが話し掛けてくれたのは、きっと喜ぶべきことだろう。
「あ、でもどうして僕が独り旅だってわかったんです?」
「駅にいた時もそうだが、君はキョロキョロし過ぎるんだよ。それに、駅では持っていた大きな荷物がこの短時間で無くなっていたからな。宿に置いてきたと考えて差し支えないだろう」
人差し指を立てて、まるで探偵のような語り口だ。推理というよりは想像に近い気がするが、想像力こそ人間にとって最も必要な能力のひとつだ。いや、そもそもさっき僕は旅先で初めて入った店だと自分で言っていた気がする。しかし細かいことは追求しない方がよさそうだ。
「御名答。さすが白井先生です」言いながら軽く拍手をしてみせる。
「白井先生よりムジカ先生の方が嬉しいな。下の名前の方が好きなんだ。おっと」
テーブルに乗り出して話していたムジカが体を引いた。注文したコーヒーが運ばれて来たのだ。
カップを掴み、暗褐色の熱い液体をすする。……美味い。
「ほう、泉原くんはストレートで行くのか」
「ムジカさんは何か混ぜてるんですか?」
そう訊くと、ムジカ嬢は口の端で笑って白い粒が詰まった瓶を指差した。
「私はイタリア式だ。砂糖をたっぷりスプーン三杯。一度試すと病み付きだぞ」
「まるでデザートだ」
顔をしかめて言うと、ムジカは驚いたような表情を見せた。
「知らないのか、泉原くん。よし、エスプレッソの基本的な飲み方を教えてあげよう」
「基本、ですか。別に美味しく飲めてればそれでいいんじゃないですか?」
無知を指摘されたようで、つい反発してしまう。
「もちろんその通りさ。だがね、知っててやらないのと知らなくて出来ないのとでは大きな違いがある。そうだろう?」
確かにムジカの言う通りだ。選択肢として持っておくのは悪くない。僕は素直に教えを乞うことにした。
◆
「エスプレッソは通常のコーヒーと違い、蒸気で急速に抽出している。その為、量がコーヒーに比べてとても少ない。普通のコーヒーカップに入れたら三分の一ぐらいの量になる。見栄えを気にする店では、デミタスカップと呼ばれる小さなカップで出て来ることもある。この店のようにね」
「よそで頼んだことはあるので、量が少ないことは知ってました」
ショップによっては注文時に店員が確認してくることもある。知らずに注文して「量が少ない」と文句を言う客が居るのかもしれない。
「それは結構。では飲み方だが、まず香りを楽しむ。美味しいコーヒーは良い香りがするものだ。これを味わわずして飲んでしまうのは無粋というものだ」
なるほど。ワインでも香りを楽しむ姿はドラマなどでよく見かける。それと同じか。
「次に、砂糖を入れる。これはお好みだが、一般的にはスプーン二杯程度だな。クレマが潰れないように入れるのがポイントだ」
「クレマ?」
「エスプレッソの表面に浮いているクリーミーな泡のことだ」
まるで専門用語だ。
「かき混ぜたら、いよいよエスプレッソを味わう。もったいないと思うかもしれないが、二三口で飲み干すのが普通だ」
「なるほど。まぁ、量が少ないですもんね」後味を楽しむものなのかもしれない。
「そして底に残った砂糖をスプーンですくって食べる」
「えっ! なんですかそれ、お行儀悪い!」
「仕方ないだろう。所変われば文化も変わる。イタリアではそれが普通だ。嫌なら無理にやることはないが、美味しいぞ?」ムジカがうっとりする。
確かに国をまたげば常識も変わる。郷に入りては郷に従えというが、この場合場所と料理、どちらに合わせるのが正しいのだろう。
「ちなみにこれはあくまでイタリア式だ。シアトル式ではクリームやらフレーバーやらを混ぜて、まるで違った楽しみ方をするからな。好きなスタイルで楽しむといい」
色々と勉強になる。教わっているうちに、ムジカが歳上ということに対して違和感が無くなってきた。
◆
たわいない会話をしながら、僕はひとつだけ気になっていた。ムジカは何故僕に声を掛けたのか。これほどの美人が僕に一目惚れをしたと考えるほど能天気ではない。しかしこんな田舎で旅人相手にデート商法ということもないだろう。自らも一人旅で、話し相手に飢えていたのだろうか。
「ところで、泉原くんは今夜祭りがあるのは知っているかい?」
ムジカがカップの底に残った砂糖をかき混ぜながら言った。
「さっき宿の人から聞きましたよ。ムジカさんも行くんですか?」
「もちろん行くさ。……それが目的で来たんだからね」
そう言って黒い瞳を窓の外へ向ける。私は今遠い目をしていますよと言わんばかりのわざとらしさだ。
「ムジカさんはどこから来たんですか?」
「私の目的か。それは話せば長くなるな」
間髪入れずに質問とはまったく別の回答が返って来た。どうやら目的を話したくて仕方がないらしい。
「今夜の祭りについて、君はどこまで知ってる?」とムジカが続ける。
「無数の提灯が夏の夜空を彩る、通称提灯祭り。地元の人達はみんな集まるそうですね」さっき宿のスタッフから聞いたことを淀みなく答えてみせる。
ムジカは少し感心したような素振りを見せてから、より詳しい説明をしてくれた。
「提灯の数はおよそ二千個。事前準備は一ヶ月前から。ちなみに祭りの実行委員は今朝の八時から会場入りしている」
宿の男は謙遜していたが、いわゆる町内会のお祭りレベルではなさそうだ。それよりも、妙に具体的に説明するムジカに驚いた。
「随分詳しいですね。もしかしてムジカさんも何か関わってるんですか?」
「ふふん、それはもう綿密に調べたからな。私も君と同じでここの人間じゃないからな。ただの一般参加者だ」
こんな地方の小さなお祭りをそこまで調べてから来るなんて。最早ただの一般参加者とは呼べない気がする。
ムジカが再び体を乗り出して声を潜めた。
「実はね、あの祭りには秘密があるんだ。地元の人間しか知らない、飛び切りのやつがね」
得意げな笑みを浮かべて言うが、それなら何故余所者のムジカが知っているのか。話し始めから胡散臭い気がするが、先を促してみる。「秘密って、一体なんですか?」
ムジカは嬉しそうに口の端を持ち上げると、おもむろに話し始めた。