変化球のナンパとかじゃなく
いくつかの電車を乗り継いで、最終的に僕が乗ったのは耳慣れないローカルな鉄道会社の、古びた真っ赤な電車だった。
目的の駅で降りると、早速夏の暑さが身体にまとわりつく。羽織っていた上着をバックパックにしまい、遠くを見れば山の稜線が美しい。
初めての町。初めての景色。早速旅を実感し、自然と心が躍る。
さすがに写真を撮るのはまだ早いだろうか。携帯のカメラで何でもかんでもパシャパシャと撮影する連中が僕はあまり好きではない。ろくに見返すことも無いくせに、と決め付けてみたりもする。
逡巡の末、結局撮ることにした。こうして素材を集めておけば、旅の記録となるだろう。
満足してカメラアプリを閉じた時、ふと気配を感じて僕は振り向いた。
十メートルほど離れたホームの上に白い帽子をかぶった女性が立っていた。
真夏の日差しを遮るように、帽子の広いツバで目元が隠れている。帽子と同じく白いノースリーブワンピースの上に、ブルーのカジュアルなベストを羽織っている。
どうやらスマートフォンの画面を覗いているようだ。そんな仕草さえも洗練されていて、素直に美しい人だと僕は思った。
足元のキャリーバッグを見る限り、僕と同じ旅行者の可能性が高い。おそらく同じ電車に乗っていたのだろう。
旅先で生まれる恋物語。旅人同士の恋は儚い。本州で出会った二人が、それぞれ北国と南国出身かもしれない。いや、僕は関東の人間だけど、極端な例として……。
「はっ」
……また不毛な空想をしてしまった。我に帰って視線を外そうとした時、彼女が顔をあげた。
真っ黒な瞳。光を感じない、暗黒。
そう見えたのは、帽子のツバで顔が陰になっていたからだろうか。
女の子はその黒目がちな眼で瞬きをすると、僕のかたわらをすり抜けて行った。
その時、青いハンカチのような物が床に落ちた。落し物。声を掛ける口実。これだ。
「あの、落としましたよ」
言いながらしゃがんで手を伸ばす。ところが――
「あ、あれ?」
落ちたはずのハンカチが、無い。
しゃがみながら彼女を見た一瞬、ハンカチから目を離した。視線を戻した時には、もう見失っていた。きょろきょろと見回してみるが、見つからない。
ふと顔を上げると、彼女は無表情で僕を一瞥した後、改札へと歩いて行った。
「いや、違いますよ。変化球のナンパとかじゃなくてですね」
しどろもどろの言い訳は彼女の耳には届かないに違いない。
そう簡単に旅先での出会いというわけにはいかないらしい。現実は厳しい。
しかし今のは一体……。
狐につままれたような思いで、僕はしばらくその場に立ち尽くしていた。
◆
改札を出ると、蝉の大合唱が耳に飛び込んできた。
屋根しかないような無人駅から出てきたので、実際には今初めて蝉の声が聞こえたわけではない。けれど、観光地ともまた違ったのどかな駅前の景色を目の当たりにして、改めてその鳴き声に意識が向いたのだと思う。
見渡すと、前の年号を連想させるような雰囲気の建物がポツポツと並んでいる。
おもちゃ屋、本屋、八百屋に肉屋に魚屋、居酒屋、そして少し離れた場所にある白い建物は、カフェのようだ。
遠目に見ても洗練された雰囲気の店構えだとわかり、もう少し近くで見たかったが、背中の荷物が重さを主張している。だいぶ軽くして来たはずなのに、なんとも不甲斐ない。
予約した宿はここからそう遠くない。僕はひとまず荷物を置くべく、宿へと歩き出した。
◆
「丁度今夜ですよ。一年に一回のお祭り。町中のみんなが集まるんですよ。寝たきりの爺さん以外はみんなだね」
無事に宿へと辿り着いてチェックインを済ませると、人の好さそうな中年の男性スタッフがルームキーを差し出してそう言った。
最後の言葉は冗談だったらしく、言いながらカラカラと笑っている。
「実はそれを見たくて来たんです。提灯祭り、ですよね」と僕が言うと、彼は一際嬉しそうに顔をほころばせた。
「そうだったんですか。でも遠くから来る程の大きなお祭りじゃないんですけどね、がっかりさせちゃったらごめんなさいね」と、まるで自分の出し物のように言う。
「大丈夫ですよ。全国ネットでニュースになるような派手なお祭りには興味が無いんです。と言っても、あんまり詳しく調べてきたわけじゃないんですけどね」
僕がそう言うと、彼は提灯祭りについて身振り手振りを交えて一通り説明してくれた。
どうやら小さな規模のお祭りを期待して来た僕には打ってつけかもしれない。
僕はお礼を言うと、荷物を置きに二階の客室へと向かった。
◆
ススウという音がして、戸が開く。民宿特有の香りが心地好い。
部屋に入るなり、肩にかけていた大きめのバッグを床に置く。ささやかにエアコンの掛かった室内は絶妙といえる室温。
そして窓の向こうに広がる光景は、都会の景色とはまるで異なる割合の自然で満たされていた。
「おお、いいな。こういうの」
わざと声に出したことで、より一層その美しさを感じられた気がした。
鋭いビリジアンの木々が、涼しげな木陰を作り出している。オフィスビルなど見当たらず、あるのは二階建ての民家と民宿ばかり。そのおかげで遠くの山々が何処からでも見えるのだと気が付いた。都会には無い良さだ。
僕は飲みかけのペットボトルの蓋を開け、山の複雑な色彩を見つめながら、気の抜けた炭酸水をゆっくりと飲み干した。
僕は今、無職だ。
スマートフォンを取り出して操作していると、突然身も蓋もない現実が頭をよぎる。改めて確認するまでもない、逃れようのない事実。ほんの一ヶ月前までは想像すらできなかった状況だ。
山を眺めてのんびりしている場合なのか。次の仕事を見つけるために、もっとやるべきことがあるんじゃないのか。
旅の間は押し殺したはずの焦りが、早くも首をもたげている。
深呼吸をして、目を閉じる。
常識なんて糞食らえだ。みんながやってるからやるんじゃない。必要だからやるんだ。
僕は軽く自分の頬を叩き、気合を入れ直した。今この瞬間は、僕にとって必要だ。きっとそれは、間違いじゃない。
荷物の中から財布を取り出し、ジーンズの後ろポケットに入れる。
二つ折りなので少しかさばるが、なるべくカバンを持たずに出掛けたかった。
「さて、行きますか」
再びわざと口に出す。わくわくした気持ちを煽りつつ、僕は宿の外へ出た。
まだ午後二時過ぎ。夏の陽射しが容赦無く照りつける。しかしアスファルトまみれの都会の不快な暑さと違い、どこか開放感のような爽快さがある。
精神的なものなのか、単に湿度の違いなのかはわからないが、こんな部分にさえ今の僕は小さく感動していた。自分で考えていた以上にストレスが溜まっていたのかもしれない。
祭りの会場は住宅地を抜けた先にある神社の境内だと聞いていた。
まだ時間があるので、駅前で見掛けたカフェで時間を使うことにする。
せっかくの一人旅だ。思いついたことは全部楽しんでしまおう。
◆
瀟洒な造りの小さな白い建物は、イギリスの田舎町を思わせる素朴な雰囲気で、アイビィの葉が窓枠や看板に絡みついていた。
明らかにチェーン店ではないだろうと思わせるハンドメイドの看板にはこう書かれていた。
Cafe Invisible
カフェ・インヴィジブル。
確か、見えないという意味だったはず。カフェの名前としては珍しい響きだと思う。
見えない喫茶店。パントマイムで珈琲を淹れるマスターの姿を思い浮かべる。
なぜか必要以上に筋肉質で、丸太のような腕で真白いシャツの袖がはち切れそうになっている。名前はきっと、ボブだ。
注がれる珈琲の音はもちろんマスターの口芸。コーヒーもカップもすべて見えない。マスターの恐るべき巨躯を前に、一気飲みを演じる僕。もちろん珈琲の代金はきっちりと支払わされることになる。
なんという手間のかかる詐欺だろう。
よくわからない妄想が延長する前に、さっさとドアを開けることにしよう。
軽やかなドアチャイムの音とともに店内へ足を踏み入れる。電車やデパートとは違う、程良い室温にまずは安心する。
控えめな照明とアコースティックギターのBGM。非常に僕好みだ。
「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席に」
カウンターの向こう側から声が掛けられた。映画に出てくる執事を思わせる初老の男性が、カップを拭きながらこちらを見ていた。
よかった、マッチョじゃない。ボブというよりはセバスチャンだ。
カウンター席が七つと小さなテーブル席が三つある。
どの席に着こうかと視線を巡らせると、テーブル席には先客がひとり居た。
白い帽子を隣の席に置いて、白いカップの取っ手をつまんでいる白い服の女性。上から下まで白づくめだが、その髪は日本人であることを主張するかのように漆黒だった。
その服装と美しい顔ですぐに気付く。さっき駅で見掛けた女性だ。
席を決めかねている振りをして様子を伺っていると、突然白い服の彼女から声を掛けられた。
「ねぇ、君」