守り神
ホラー苦手な方が、途中で読めなくなってしまうほどの残酷な描写はありません。人間の死の描写はあります。ただ恐怖を与えるだけの作品ではなく、希望へとひた走る若者たちをテーマとした怪談になっています。
当初の目安通り、夕方近くになって、ようやくその茶屋へ到達した。すでに日は陰っていて、杖をついても坂道を歩むことは困難だった。峠道は岩石に阻まれ、狭く、常に険しく、他の旅人や動物たちの姿はどこにも確認できなかった。なんとか正気を保とうと、辺りの景色を見回したが、この異様なる茶屋以外には、近くに人家は見えないようである。しかし、その小さな存在は、なんとか光を見つけようとひた走ってきた男たちの心に、仄かな灯りをともした。
そこは藁葺き屋根の外見で、全体にずいぶんとみすぼらしいあばら屋であった。他に選択の余地もなく、中に入ることにした。思ったより暖かかった。小太郎は草鞋を乱暴に脱ぎ捨てると、真っ先に障子戸を開け、めらめらと燃えさかる囲炉裏火に遮二無二取り付き、何か特別なものでも見つけたかのように、揺れる炎を覗き込み、それに手をかざしてから、はあと大きなため息をついた。彼が囲炉裏の向かい側に座っていた、小さな老婆に気がつき、とっさに会釈をしたのは、その後である。老婆はたいして理由もなく微笑みながら「ようこそ、ようこそ」としゃがれた声で言いつつ、白髪頭を深々と下げた。その礼儀正しさに恐縮してしまい、小太郎はもう一度頭を下げることになった。彼とともに、この旅路に挑む、他の者たちも続けて飛び込んできた。彼らはこの家の見も知らぬ所有者に対して、何の遠慮もなく、どたどたと上がり込んできて、囲炉裏端を隙間なく取り囲んだ。この茶屋に入り込んできた者は、全部で十人にもなるだろうか。
「いやあ、寒いねえ、いくら山の中腹とはいっても、まだ秋口だというのに、こんなにも寒いのじゃなあ……」
その中の一人が、誰に話しかけるでもなく、独り言のようにそんなことを言った。ただ、その言葉はここにいる皆の思いを代表したいという趣きがあった。しかしながら、自分の隣にいる者たちが、この先も味方であるわけではない。もちろん、全員が顔見知りというわけでもない。その誘いの言葉に対して返事をする者はなかったが、なぜか多くの者が意図せずに深く頷いていた。あまりの寒さと疲れのために、山道でのことを声にして出すのも億劫であった。愛想笑いすら、馬鹿馬鹿しいことのように思えた。しかし、少しの時の経過によって、皆の顔が少しずつほころんできた。何を思ったのか、あからさまに笑い出す者さえいた。念願の目的地へと一歩近づいた安堵感と高揚感がそうさせるのかもしれない。
だが、貴重なる安息の時は長くは続かない。入り口にあの名の知れぬ案内人が姿を見せると、皆の顔から、必然的に笑みが消えた。再び、多くの障害を乗り越え、この山奥まで必死に歩んできたときの、重苦しい表情へ戻ってしまった。小太郎もこの際に小さな喜びを捨て、眉間にしわを寄せて、再びうつむいた。老婆は全員に茶を出し終えると、この場の陰鬱な気配を感じ取ったのか、速やかに奥の間へと消えていった。この場に集められた、無謀な旅行者であるこの者たちだけが、これからどこへ向かうのかを、よく知っているからこそ、かける言葉は少しも無かった。得体の知れぬ案内人は、老婆の背中を見届けてから、自分も草鞋を脱ぎ、囲炉裏に集う者たちにゆっくりと近づいていくと、一度頭を下げてから、皆の間に、どっかりと座り込み、あの緩やかな口調で語り始めた。
「ええ、皆様、ご無事でなによりです。たいそうお疲れでしょうが、ここまで皆様全員、無事にたどり着けまして、なによりでした」
その最初の言葉を聞き、小太郎たちは少し緊張を解いて頭を下げた。案内人は一同を見回して、全員の表情を逐一確認してから、その話を続けた。
「皆様がずいぶんお疲れだということは、重々承知しております。しかしながら、ここはまだ山の中腹です。村での寄会でお話ししました通り、長く休憩を取るわけにはいきません。あと、半時ほどで焦点となります、峠へと向かいます。短い時間ですが、それまでに、どうか皆様、身の回りの準備などを終えておいて下さい」
案内人は最低限の説明だけをすると、再び丁寧に会釈をして、それから足早に奥の間へと消えていった。皆の視線は再び中央の囲炉裏の炎に向いた。
彼が立ち去ったあとも、参加者たちは暗くうつむいたままである。すぐにその顔を上げることは出来なかった。この茶屋でのしばしの休息により、これまでどこかへと消えていた、あの忌まわしい緊張感が、再びこの身へと戻ってきた。そして、前頭部をがんがんと痛めつけたり、胃や喉を鋭くつついたりしたからだ。我が身にこれから降りかかる最悪の妄想を広げていくのだけは、たやすいことだった。そんな後ろ向きな考えに没頭しているうちに、小太郎は顔が熱くなり、両手で隠すように覆った。
これまでの道のりは思ったほどではなかった。音に聞く栗殻峠というからには、もっと陰惨で険しい道のりを想像していた。事実、村で説明を聞いた際には、自分の未熟な脚力においては、峠の入り口にあるという、この休憩所に到着することすら出来ないのではと考えたものだ。しかし、この茶屋に至るまでの道中は、驚くほど上手くいった。大きな蛇や獰猛な熊が出ると脅かされたものだが、藪に覆われた人通りの無い道が多く、道幅が極端に狭かったということ以外は、村の周辺と特に変わらなかった。踏破することに時間こそかかったものの、命の危険を感じることは一度もなかった。案内人が時折口にする奇妙な台詞は、少し大袈裟ではないかと、拍子抜けするほどだった。小太郎はこの遠征を共にしている、周りの人間たちと無駄話をする余裕すらあったのだ。まあ、道中が平穏であったおかげで知人も増えたことだし、これから先のことを考えれば、話し相手が増えることは、無駄であるどころか、非常に重要なことでさえある。命を懸けた旅程において、もっとも必要になるのは、水よりも、食料よりも、まず頼りになる友人であるのだから。
小太郎は案内人が去ると、静かに立ち上がり、囲炉裏を挟んで向かい側に座っていた陽介のところまで忍び寄っていくと、その隣にどっかりと腰を下ろした。
「よお、お互い無事だったな。それで、大丈夫だったかい、足の方は。 もう一度、見せてみろよ」
その突然の声に驚いて、陽介はあわてて振り向いた。思い詰めているときに打開策を見つけるには、打ち解けた会話が必要である。彼も心のどこかでは、話し相手を捜していたのかもしれない。
「あ、ああ、あんたにはすっかり迷惑をかけてしまったな。二回も手を貸してもらって……。本当に悪かったよ。今、足袋を脱いでよく見たら、実は、ただ岩肌に触れたときに皮がむけただけだった。痛みも次第に引いていくだろう。全然大丈夫なんだよ。なんともない……」
陽介は相手に気取られぬように、そう答えたものの、本当は挫いてしまった右足が、まるで、この先の不安を掻き立てるように、今もまだ、ぎんぎんと痛むのだった。しかし、皆が最後の身支度をしているこの段階にあって、そんな弱腰なことを口に出してしまえば、下手をすると、ここで仲間外れにあうかもしれない。おまえは足手まといだと言われ、進むも引くもならぬこの荒野に、置いてけぼりになってしまうのかもしれない。信頼を置いている数人の仲間たちも、手の平を返すのかもしれない。そういった複雑な思いが彼の口を塞がせた。
「こちらはどんな苦労も厭わない。とにかく、生きて辿り着けばいいんだ。このまま、うまく行けばいいがね」
陽介は懸命に言葉を選びながら、そう言ってみたものの、これからのことが再び脳裏に浮かんだのか、再び深くため息をついた。そう、このおぞましい夜さえ無事に過ぎれば、目の前に広がる、この峠さえ越えてしまえば、彼らには、素晴らしい未来が約束されているのだ。これまでの陰鬱で凡庸な生活とは、比較にもならぬほど、明るく輝く毎日が。気丈に振る舞ってはいるが、本当はこの段階において、すでに倒れてしまってもおかしくないほどに、彼らは疲労し切っていた。肉体的なことはもちろんあるわけだが、問題は精神の方だ。肉体における深刻な疲労とは、元々精神の病によって湧いてくるものである。村で集められた際、何の前置きもなしに、あれほど脅かされたわけだから、無理もないのであるが、昼間、暗く深い森を彷徨い歩いていたときは、ずっと、「この先に何を見ようと、否応なく、みんな死んでしまうのかもしれない」などと、すべての事象を悪い方へと考えながら、歩んできたものだった。そんな不穏なことを考えて、険しい山道を登ってくれば、普段の何倍も疲れるのは当然である。それでも、彼らは長時間に渡り、へこたれずに不平も言わずに歩き続けた。この茶屋に来て確認してみれば、結局のところ、脱落した者は一人もいなかったのだ。ここまでの道中においては、人間の執念が勝った結果である。ここから先は、ついに、最近まで『人が越えられるとは誰も思わなかった』ほどの秘境へと足を向けることになる。
「もうすぐ、栗殻峠かあ……」
小太郎は生来ずっと村の外へ出た経験はなかった。つい最近まで、本当に数週間前まで、自分の村の先に幼少の頃から見てきた、広大な栗殻峠の向こう側に、ここより遙かに発達した城下町が存在している、などということを、彼を含めて、村人の誰一人として考えもしなかったのだ。ただし、その漠とした情報には現実味は全くなかった。この寒村に住む農民たちの大多数は、栗殻峠の名を聴かされただけで身が震え、その地に一歩たりとも踏み込むことさえ不可能だ、という思いの方が先に頭に浮かぶ。まだ子供の時分から、そこは人知の及ばぬ場所であり、悪鬼の住処であると伝えられてきたからだ。ましてや、踏み込むだけにとどまらず、そこを素足で通り抜けるなど、ほとんど狂人か、あるいは生に絶望した者の考え方と思えた。しかし、『峠を越えるは無理』は現在までのところ寓話のままであった。伝説の怖ろしさよりも、人の知や体力がそれを乗り越えた形にも見えた。それは、根源的な恐怖心や教えつけられた曖昧な常識より、人の欲望が勝った結果なのかもしれない。
「もし、その足で、峠の向こうへと走り抜けられたなら、まず何をしたい?」
そんな余計な物思いを、どこかへ吹き飛ばそうとしたのか、しばらく経ってから、小太郎はなんとなく問いをかけた。
「あの険しい峠を無事に越えられたらか……。そうだなあ、まず、何よりも酒だな。どこでもいいから、小さい居酒屋でもいいからさ、そこへ駆け込んでいって、一杯ぐっとあおるんだよ。そんで、あとはもう、侘びた宿屋へでも行って、風呂を浴びて畳の上にひっくり返って、ゆっくりと時間をかけて、この生を実感したいね。自分という男が人生の大勝負に勝利して、ここまで到達できたのだ、ということをさ」
その単純な答えに対して、小太郎は心からの同意をすることにした。彼自身が心中に置いていたのも、大体そんなところだったからだ。この定めの日に、意を決して栗殻峠へと向かうのは、この近隣にある村の代表者たちである。小太郎にも運が向いたのか、望み通りに村の代表者となることが出来た。単純な確率からみれば、それは幸運なことである。若者の少ない寂れた村ではあったが、彼よりも山に精通した者、身体の丈夫な者は多くいたからだ。しかし、それら熟練者としても、栗殻峠の名を聞くと、さすがにその身が震え、金銭的な成功よりも、今は命が欲しいとの思いが強く働くのか、この過酷な試練に対して、積極的に挑んでみたいという者は、ほとんどいなかったのが実情である。それでも、小太郎は積極的に名乗り出ることはあえてしなかった。そんな浅はかなことをすれば、人の非行について、えらく鼻が利く長老たちに怪しまれるかもしれない。それに、滅びかけた村を見捨てる行為ととられるかもしれない。望みが叶わず、今後とも、この村で生活していく羽目になったときに、なにかと面倒なことになる。
静かに、末席において、息をひそめて、誰も名乗り出ないことを祈りつつ、自分の番が来ることをひたすらに待った。そして、長老が、「小太郎、おまえはどうなんだ。外の街の話を信じているのか? 峠に行きたいのか?」と、よく通る声で話しかけてきたとき、満を持して、大きく頷いたのだった。長老たちはすぐには納得はしなかった。何しろ、村一番の働き者である彼はその将来をもっとも期待されている若者だった……。しかし、風は向いていた。数日後の評議を経て、小太郎は狙い通りに村の代表となれた。その後、各村の代表者たちは、この山のふもとに設けられた集会所に呼び集められ、密やかに寄り会が開かれた。この密議においては、自分の名や籍を名乗らないこと、そして、ここで聴かされた話を、どこにも漏らさないことの二つを、まず最初に確認し合った。
その秘密の会合では、何度かこの魔窟を往来したことがあるという、素性も知れぬ案内人を紹介され、彼の口から栗殻峠についての説明を聴いたものだ。その怪しげな説明の中には、日々の退屈な労働の積み重ねによって、何とか日々の食を得てきた者たちにとっては、きわめて理解しがたい、不可解な内容が多くあった。ただ、これまでの長い人の歴史においても、この峠を越えようとした、多くの無謀なる人間たちがいて、彼らの多くは、その旅路の途上で非業なる死を迎えたということを知らされた。説明を聴いたあと、小太郎は決意を秘めて挙手をした。
「その人たちは、どのような形で死ぬことになったのですか?」
あくまでも冷静を装う彼に対して、そう問いかけた。その問いかけに対して、案内人は一切の動揺を見せないままに、しばらくの沈黙のあと、「その質問には、今はお答えしない方がよいでしょう。栗殻峠が眼前に迫ったときに、皆様には必ず説明いたします」との返答をよこした。この無機質な回答に対して、小太郎が納得がいかぬ表情をしていると、「あなた方には、なるべくなら、目的地にたどり着くまでは、険しい山路に挑むこと以外の余計なことを考えて頂きたくないのです。ただでさえ、厳しい旅程なのですから」と、付け加えた。小太郎はその言葉を聴くと、急に不安が沸き起こった。これまでなんとか保ってきた、頑なな決意が一瞬崩されそうになった。内臓を凍り付かせる動揺は、何とか隠したつもりだが、周りを見渡せば多くの者が、彼と同様の不審極まる表情を浮かべていたのだ。この不可解な旅路が、必ずしも、我々に幸福な未来を与えるためだけに立案されたものではない、ということが明快に理解できたからだ。
それはもう半月も前のことであった。この記憶から一秒たりとも抜け落ちることのない、現実的な出来事だった。もう計算もできない希望などいらない。いっそのこと、村で鍬を振るうだけの日々に戻れたなら、という思いも沸いてきた。想像から解かれると、なぜか何かの視線を感じて息苦しくなり、額の汗をぬぐった。いつのまにか、精神が追いつめられていることに気がついた。ここまでは、なるべく普段と同じ平静な心を保つことができていた。この茶屋に飛び込んだときには、あれほどの自信と安心とを手に入れたと思っていた。しかし、それらはもう自分も知らぬうちに、どこかへと消え去っていたのだ。峠道において、悪鬼や人喰い熊に出遭ったわけでもないのに……、こんなことではいけない、と小太郎は心を入れなおした。
「今から、死地に出発だと……? まるで、何かの魔除けだ……。高地に入るころには辺り一帯が闇になる。やはり、鬼でも出るのかのお……、恐ろしいのお……」
隣では陽介が血の気の引いた顔に虚ろな目つきで、本人すら意識せずにそんなことを呟いていた。自分と同じように動揺している者を見つけて、多少の安心感を得ることはできた。まだ、他人に同情する余地はあった。小太郎は彼の肩を強く叩いてこう言った。
「大丈夫じゃ、たいしたことはない。ここまでの荒れた道のりも、出る前はあれほど恐ろしかったというのに、振り返れば、何も起こらなかったではないか。結局は一人も落伍することなく、この地点まで来れたじゃないか。ここから先も同じことをするだけだ。何も変わらない。気をしっかり持て」
それは自分にとって大切な言葉だった。陽介の方も、幾分安心したような顔を見せた。しかし、彼は痛む右足を懸命にさすっていた。脳に次々と湧いてくる悪しき思いを、振り払おうとでもするかのように。実際には、嫌な予感を感じとっていたからだ。もし、この治らぬ右足が障害となって、栗殻峠で鬼にでも出くわしてしまい、倒れ込んでしまったら、どうなるのだろうか? おそらく、同じ道を走っていく仲間たちは、誰も手を差し伸べてはくれないのだろう。今、隣で励ましてくれているこの男でさえ、そんな緊急の際に手助けしてくれるようなお人好しではない。一番先に死ぬのは、否応なく自分なのかもしれない……。しかしもう、後ろへと下がる道も見つからない。この場から白旗を上げて、降りていくことすらできないのだ。これまでと同様に、ただ何も起きないことを祈る他はない。この世に対処しきれぬ鬼や悪鬼などいないことを信じる他はない。その説を確定させることは誰にもできないのだった。彼はここにおいて、悲壮な覚悟を決めなければならなかった。
囲炉裏に集った、旅人たちは、この嫌な間合いを何とか潰そうと、各々話し相手を見つけて他愛もない会話を仕掛けているようで、ごにょごにょと低い囁き声が聴こえてくる。しかし、その薄暗い表情から、前向きな話とは思えなかった。これからの厳しい展望を睨み、何か予測不能な出来事が起きたときの対応や連絡の取り方を練っている輩がほとんどだろう。故郷の村から持ち出してきたか、盗んできたか、そのわずかばかりの金銭を用いて、苦無や小刀を買い求めている者も多くいた。しかし、彼らはたったこれしきのことで、確実な安全を買うことなどできはしないことも重々承知していた。全ての心づもりや準備はやがて無駄になり、死ぬときは死ぬのだろうと誰もが感じていた。
やがて、奥の間から、案内人が準備を終えて出てくると、その密やかな話し声も途絶えていった。彼は左腰に脇差しを差してきたが、その堂々とした風貌から、元々は名のある侍なのではないかと思わせた。彼の存在自体が、この奇妙な旅路にもう一つの疑問符を付け加えていた。
「皆様、お待たせしました。準備の方は、もうよろしいですか? 用を足したいという方はおられませんか?」
案内人はまずそう問いをかけた。小太郎も陽介も周りに並んでいる顔を何度か確認した後、小さく頷いた。多くの人間が彼らと同じ行動をとった。その場の空気はきわめて暗かった。案内人は全員の様子を一度見回して、決意が鈍っている者はいないと判断した後、意識的に沈めた声で話を続けた。
「それでは、まず、体調の方をお聞きします。いかがでしょうか、怪我をしてしまった方、気分がすぐれない方はいらっしゃいませんか。もし、いらっしゃいましたら、今、この場で申し出てください。もし、体調などに不具合がありますと、栗殻峠に入ってしまってから、取り返しのつかないことになってしまうでしょう」
案内人は少し寂しそうな、何か、ものに脅えるような顔をしながら、皆にそう呼びかけた。それは、これまで幾人もの不幸な死を見てきた顔だ。このような未来を賭けた挑戦の場合、敗退はやり直しにはならないのだ。陽介は肝が冷えた。今の言葉が、まるで自分に対して向けられたように思えたのだ。しかし大丈夫だ。このぐらいの怪我ならば皆の背中にすがっていけば、上手くごまかせる。今のうちは黙っていても問題あるまい。汚れた半生を覆すためなら、崖のような岩道だって駆け登ってみせると、そう思い込みたかった。その決断は揺らめいていた。必ずや勝利すると、自分の繊細な気持ちに強く言い聞かせるようにした。
「それでは…、これから峠に向かって出発いたします。ここに至るまで、皆様方に、この栗殻峠についての予備的な知識をひとつも与えられませんで、まことに申し訳ありませんでした。ただ、誤解なきように願います。これまでに何度かこの恐るべき峠を往来した体験から、初めて峠に入る方には、なるべく余計な知識を与えないほうが良いであろうと、個人的に判断いたした次第であります。決して、皆様を欺こうと考えたわけではございません。しかし、この地まで、この茶屋にまで来てしまえば、皆様の心中におかれましても、すでに前方へと歩を進めていく覚悟がお決まりになっているかと思います。ですから、あの忌まわしい峠に踏み込む前に、やはり、栗殻峠について、あの心霊の地が、いったい、どのような場所であるのか、それを少しでもお話をしようと思った次第です」
案内人はゆっくりと噛んで含めるような口調でそう話した。小太郎は座り位置を変えずに身を前に乗り出した。陽介は思わず唾を飲んだ。
「ご承知のとおり、栗殻峠の由来のことは、これまで近隣の村々でさえ、あまり知られていませんでした。しかし、陸地から危険な山道を抜けて狭灘の城下町へと至るためには、現在ですと、栗殻峠を通過する以外にはないと考えます。運輸用の船を持たない山地の村に暮らす人々のうちの何名かは、これまでの長い歴史においても、おそらくですが、何度となく栗殻峠の通り抜けを試みたのでしょう。幾人かの寒村に住む古老から、それを証明するような話を伝え聞いたこともあります。ですが、その大胆な決心のたびに、大多数の人間は峠の最中で命を落とし、友と認め合った仲間たちの危機を見捨てて、命からがら狭灘の町に辿り着いた者ですら、もう二度とあのような悪霊の峠には入りたくない、この先は故郷の家族にも会えずに生きた方がまだましだ、との思いから、再び元の村に戻るという愚を犯してまで、峠において起きた出来事を後世まで伝えていこう、などという、無謀な判断をしなかったわけです。ですから、狭灘の都市が栄えてから数百年が経過した今日まで、この付近の村の大多数においても、栗殻峠の内情について、深く知っている者は、ほとんどなかったわけです」
案内人はそこで一呼吸を置いた。そして、一人一人の顔を睨みつけるように、もう一度、ゆっくりと部屋の内部を鋭く見回していった。それは狩人が縦に並び歩く大勢の猪の群れから、もっとも肥えている一頭、狩りたてるに足る一頭を探し求めているかのようであった。
「皆様に以前お話しました通り、私は幾度かあの峠を往来したことがあります。まだ、誇れるほど多くはございませんが、これからの日々を狭灘の街で生きたい、という願望を持った方々を、幾度となく峠の向こう側へ送り届けて参りました。しかし、まことに残念ながら、毎回幾人もの犠牲者を出してしまうことも事実です。そのことにつきましては、ご参加を希望する皆様からの了承を事前に取ってありますので、私自身としましては、それほど大きな問題とは思っておりません。しかしながら、そういう人々の非業の死に直面するたびに、この峠を越えるために必要なのは、ただの体力ではなく、精神の力なのだ、ということを思い知らされます」
案内人は再び間をおき、皆の顔の一つひとつを、嘗め回すように、さらに一度見回した。すでに峠の悪鬼が皆を睨めつけているような空気であった。
「先ほど、皆様にご気分のことをお伺いしたのはそのことなのです。本当によろしいでしょうか? 栗殻峠に入ってしまってから、一番脳裏に描いてはいけないことは、もう元の村に帰りたい、止めたい、逃げてでも生き延びたいと思うことです。なぜならば、そのような精神力の弱さにつけこまれたことで、これまでに多くの方々が命を落とす羽目になったからです。魔物は生き物を外見では区別しません。常に我々の心を見ているのです」
案内人はこのとき、山中でどのような異物が現れ、旅人の弱みにつけこんでくるのかについては、あえて話さなかった。
「ああ、やはり、山の奥では鬼が出るのだろうか」
陽介は激しい悪寒に身を震わせた。小太郎も目に見えぬ何かに心臓をつかまれるような思いがした。精神などというものは、ことが起こる、その時になってみなければ、どう変わるかわからないものだ。このような人の助けのない奥地にまで来てしまってから、そんな手厳しい話を聞かされても、どうしようもないではないか。今になっては背後に道はなく、取り返しがつかない。しかも、希望ある未来か命かという、こんな両極端な選択を示されてしまったら、否応なく家に戻りたくもなってしまう。
小太郎はそのとき、生まれ育った小さな家のことを思い描いた。そこに帰っても、大したものが待っているわけではない。この侘しい茶屋よりも、さらに狭く貧相な二間の上に、藁葺きの屋根が付いている。痩せこけて死にかけの牝牛が一頭、それと狭い水田と畑がある。二年前に村長の紹介により結婚した女房が一人。そして、いつの間にか屋根に住み着いた燕の親子。夢を打ち捨てて戻ったところで、彼を待っているのは、たかがそれぐらいのものなのだ。しかし、自分の住処というものには、他の場所では絶対に得られない何かがある。自由とか、安堵とか、安らぎとか、単純な言葉では説明しにくいが、自分の家というのは、彼が唯一、意見を気楽に思い通りに、ぶちまけられる場所でもあるわけで、そういう意味では非常に稀有な存在であった。それと比較すると、今の状況は最悪である。こんな寂しく危険な場所に置かれて、ろくに話したことも無い連中と一緒に集められ、命を賭けてまで、内情すら伺い知れぬ、未知の領域へと踏み出そうとしている。そんな全く気を抜けない状況の下で、今度は『家に帰りたいなどと考えるな』ときたものだ。まったく、冗談ではない。当初の話とはまるで違う。これでは制約が多すぎる。
小太郎は脳自体が重心を失うような、軽いめまいに襲われ、気分が悪くなった。自分は本当にこんな素性も知れぬ案内人に導かれて、狭灘へなど行きたいのだろうか? そもそも、この目の前の男は出身や名前すら名乗らず、必ずしも味方とは限らない。こちらを手助けしたいという熱意もまるで感じられない。地獄のような峠を踏破できる気など、まったくしなくなってきた。彼は自分が両手を堂々と振って、狭灘の城下町を歩いている画を頭に思い描けなかった。極限の恐怖という厚い障壁が現実感を遮っていた。しかし、それでも、何が起こっても、なんとなく、自分だけは峠を越えられるのではないか、とも考えていた。それは、死ぬ気がしなかったからだ。今の段階においては、狭灘へたどり着くということよりも、栗殻峠で意味もなく死ぬことの方がよほど非現実的である。そのことに思い至り、小太郎は少し安心をした。自分が、自分だけは、死ぬわけがないのだ。おそらく、今、ここに集まった旅人のすべてが、同じようなことを考えているに違いない。
「このことについては、あまり多くは触れませんが、峠道の途中において、もしかすると、皆様がこれまでには目にしたことのない、異形のものが現れるかもしれません。しかし、たとえ、自分の身にどのようなことが起こっても、どのようなものを見てしまったとしても、何としてもこの道を通り抜けたいという執念において、乗り越えてください。私はどのような障害や恐怖よりも、今日、ここにお集まり頂いている方々の、目的地へ向かう執念の方がそれを上回ると、堅く信じております。今、申し上げることはそれくらいです。それでは、出発致しましょう」
案内人は取り付く島もなく、奇妙きわまる説明をそのような形で締めくくった。すると、誰からともなく皆次々と立ち上がり、無言で土間に降り立ち、草鞋を履き始めた。気がつくと、先程のお婆が奥から出てきて、死地へと赴く旅人たちに、事前に用意してあった笠を手渡していった。最期の中継地となる茶屋の中には、意図せず、陽介と小太郎だけが残されていた。囲炉裏から漂う、微かな藁の匂いが感じられた。二人の動きはそのときほとんど同じであったが、陽介は無意識のうちに小太郎よりも早く戸外へ出た。最後に土間に残ったのは小太郎だった。そのことは彼にとって意識的なことではなかったので、さほど気にも止めなかった。最後に小太郎が茶屋から出てくると、案内人は全員の姿が揃っていることを今一度確認して、庭先に置いてあった、磨き抜かれた鎖鎌を左手に握り締め、峠に向け、再び一歩ずつ歩み出した。小太郎や陽介たちも否応なくそれに続いて歩んだ。初秋の情景はすでに光を失っていた。旅人たちが茶屋を去るのを見て、屋根に留まっていた烏が、くわあとひと声鳴いてから、いずこかへと飛び去っていった。
空が暗く染まってみると、山道の様相は一変していた。猛獣でも落石にでもなく、ただ暗いということだけに警戒をせねばならなくなった。道の上に、この先を乗り切るための材料になる何かを探す者もいた。置き去りにされた数少ないすすきの穂だけが、ふらふらと風になびいていた。すっかり葉っぱの抜け落ちた老木と、山頂から吹き降ろすから風が、人の踏み込んだことのない山道の寂しさを強烈に演出していた。ここいら一帯は、雑草や芝が伸び放題で、獣道すら存在していなかった。きちんと前の背中を見ていなければ、いつでも、足を踏み外す恐れがあった。肌に触れる細い枝の先や、ほんの少しの坂道の変化が、道を遮る異様なものに思われた。普段は気にも留めぬ小石を踏んだだけで足元がふらついた。栗殻を名乗る峠に着くまでの約一刻ほどの歩みで景色は大きく変わった。高地ということもあってか、その頃には山道に緑は見られなくなっていた。そのため、初めてここを訪れる小太郎たちにとっては、たとえ昼であっても、峠へ進む方向すらわからなかったであろう。しかし、前を進む案内人の足取りには露ほどの迷いも見られず、これまでの経験から、峠を最短で抜ける方向に、おおよその見当をつけているに違いなかった。ある地点に着くと、案内人は松明の灯を高く掲げた。目の前に突如として広大な杉の林が姿を現した。そのとき、日は完全に沈んでしまっていた。
「ここからが栗殻峠になります」
そう説明されるまでもなく、山全体がまるで大量の杉をかぶせられたような、この光景を見せられれば、誰でも想像がつく。なるほど、これは栗の殻のようだと。試みにすぐ傍にある草木を掻き分けて、杉林の中を覗き見ても、そこに方向を指し示す道は見えなかった。いや、そんなものは古来より存在していなかった。隙間なくそそり立つ巨木の大群と、視界を塞ぐ灌木、足元に茂る雑草どもが、人の侵入を敢然と拒んでいるように思えた。これまで、どんなに山道が険しくとも、常に一定の速度を保ち、力強く歩んできた旅人たちも、この現状を前に、さすがに臆したのか、そこで数人が自然と歩みを止めた。一寸先も見えぬ漆黒の中で、ここを通り抜けることは、誰の目にも困難なことに思えた。
「打ち合わせの通り、ここでは少しの休憩も取りません。漂ってくる霊気の感じでは、狭灘へ通じる本道に入るのは、今が一番良い頃合いでしょう。迷いはありません。すぐに出発します。大丈夫です。峠の中ほどに至るまでは、私のすぐ後をついてきてください。視界が悪いので隊列からはぐれないように。もし、灯の光を見失ったら、この鈴の音を目標にしてください」
案内人はそう声をかけると、背負った袋の中から、細い木の枝を取り出した。その枝先には幾つかの鈴がぶら下がっていて、彼が枝を振ってみせると、ちゃりちゃりと鳴いた。
「これは私の故郷では死地において身を救う守り神といわれています。今日のために神社でお払いをしてもらいました」
後にして思えば、この言葉はずいぶん印象的なものだった。彼は手に持った鎖鎌で、入り口付近の邪魔な古木を乱雑に切り倒すと、躊躇せずに杉林の中に踏み込んでいった。後方にいた冒険者たちは、まだ誰ひとりとして後をつけていく決心など準備できていなかった。しかし、ここで遅れをとるわけにはいかない。あれこれと考える暇すらなく、他の旅人たちも、後に続いて暗闇に飛び込んでいった。その様子は、深手を負った獲物を取り逃がすまいと、あえて崖から飛び降りていく獣のようにも見えた。
「おい、何も見えんぞ。みんな、どこにいる?」
誰がそう叫んだのだろうか。真っ暗な森林の中で、これまで心中の奥深くに潜んでいた恐怖が破裂することになった。切り株や小石に足を取られて転倒する者を蹴飛ばして、押しのけて、次々と顔にあたる木の枝を使える方の腕で乱暴に振り払い、目印である先頭の灯りを懸命に追いかけた。早々に脱落しそうになった者は前を過ぎる人影に組み付いて、何とか生き延びようとしていた。あちこちで乱闘が起こっていたが、当初計画されていたはずの助け合いは、ほとんど見られなかった。最初は不安を押し殺し、押し黙っていた者たちも、時が経過することで、緊張より恐怖心が上回ると、次々とあらぬ声を張り上げるようになった。
「あ、足に、足元に何かいるよ!」
「何ひとつ見えねえぞ! 前の奴らは灯りを掲げろ! おい、みんな、どこにいるんだ!」
未来というよりも、まずは生命がかかっているので当然であるが、皆、自分だけは置いていかれまいと必死だった。漆黒の中、あちこちで杉の木に体をぶつける音や、木の根っこや、まるで罠のように、わざわざ通り道へと枝を伸ばしてくる草木によって腕や足を取られ、転倒するような音が方々から耳に届いてきた。
「落ち着いて。もうすぐ、見通しの良いところへ出ます。ここで慌てないでください。鈴の音を、鈴の音を聞いてください」
案内人は皆にそう呼びかけながらも、時々、右手に持っている神木を、ちゃりちゃりと鳴らした。どこまで進もうと、この先に見通しのきく場所など、現れようもないのに、なぜ、そのような嘘をつくのか分からなかった。小太郎は周囲で喚いている人間たちと違って、心はそれほど慌てておらず、助けを求める声を出す気もなかった。ここは魔の峠である。命がかかる冒険においては、孤独が当然である。このぐらいのことは事前に予想できていた。先行きへの不安は当然あったが、こんなところから叫んでいたなら、疲れが溜まってくる中腹以降にしんどくなるに決まっているからだ。周りがどう騒ごうと、今は冷静に追っていく。ひたすら、視界にかろうじて目に入る、前の人の両脚だけを見つめて、一定の速度を保って山道を登り続けた。なるべくなら、顔を上げることはしたくなかった。こんなに視界が効かない状況では、そもそも、なにも見えるわけはない。それに、もし、顔を上げたとして、自分の眼前に大蛇や鬼の形相が映ったとしても、どうにもならないのだから。周囲の様子を確認すること自体無駄である。疲労で足腰が弱ってきていて、どんなものに襲われても、まったく逃げ切れる気はしなかった。今生きている事実が、天運に救われていることだと思う他はない。後戻りしようにも、元々、どこにも逃げのびる場所などない。少し未来の自分の姿が運任せとは嫌なものだ。否応なく精神は疲れてくる。この自分としても、少しばかり、夜の山道を甘く見ていたのかもしれない。ぜいぜいと息を切らしながら、小太郎はそんなことを考えていた。
かなりの間、暗闇の中を登り続け、ふと、後方を振り返ってみた。すでに杉林の入り口はどこにも見えなかった。周りはすべて大小さまざまの杉の影、そして、足元には障害となる雑草と岩があるだけだった。辺りを漂う空気は、どんどん冷たく、そして陰湿になっていく。もう、先ほどの茶屋にも、そして故郷の村にも戻れない。例え、どんな手段を用いたとしても、退路はないのだ。こんなことなら、武器など必要はなかった。小太郎はそこで初めてそんなことを考えた。少し胃袋が寒くなった。夜になって気温が下がったせいではない。それでも、彼の歩みは一定を保ち、かろうじて聴こえる足音につられながら、真っ暗な杉林の中を突き進み、順調に目的地へと近づいているように思えた。
その頃、後方の隊列を進んでいた陽介の状況は、少しずつ悪化し始めていた。傷を抱える足元をしきりに気にしていた。痛めた右の足首からは、ついに血が吹き出してきた。自然と腰をかがめ右足を引きずるような体勢になった。それに伴い、歩む速度は確実に落ちていく。近くに見とめた岩に手をかけて、力を入れて進もうにも、その下半身に力は入らず、そそり立つ険しい傾斜を、今や乗り越えられなくなっていた。人生の岐路においては、ほんの少しのことで、気持ちは負の方へ傾く。精神が一度でもよろめいたなら、その身が遥か崖下にまで転落するのも、当然の成り行きである。皮肉なことに、この暗闇にも次第に目が慣れてきた。案内人が手に持つ灯や、他の参加者の背中が動く様は、もはや、視認できないほどに離れていた。自分の身だけがこの隊列から遅れ始めていることが、はっきりと認識できた。焦りからその足を速めようとするたびに、踏破させる気など持たない何ものかに抵抗されている気がした。どこからか烏の鳴き声が聴こえた。誰かが己の命を失くしたのかもしれない。それを考えることも辛い。自分だけはと、はやる気持ちと不安から襲い来る逡巡。案内人の鳴らす鈴の音は、少しの時間が経つごとに遠ざかっていく。このまま皆から逸れてしまったなら、どれほどの幸運に恵まれたとしても、この峠を生きて抜けられる可能性はなくなるだろう。自分の速度を上げることは、もはや、考えられないわけだ。前を進む仲間たちに見捨てられ、ここに置いていかれることは、直接の死を意味している。無論、前にいる誰ひとりとして、後方の自分を振り返ろうとはしない。おそらく、自分が順当に進んでいたとしても、他の落伍者に対しては、そういう態度に出たはずだ。
人生の大きな賭けに出た冒険者たちは、この地に巣食う亡霊などより、情けない仲間に足を引かれることの方をより恐れる。こうなった以上は、自分の力で解決しなければならない。そのことは陽介にも当たり前のように理解できている。しかし、その身体は空回りしていた。焦るたびに両足には余計な力が入り、山道をうまく捕らえきれなくなっていた。自分の力量不足が、ここに来て嫌というほど実感できた。先ほどまで、すぐ傍を進んでいたはずの同志の気配は、次第に感じられなくなっていった。
「進む道も分からず、夜明けまではまだ遠い。もう、だめだろう」
彼はそのとき、そんなことを考えた。他の者の死については覚悟していたし、その際には手を差し伸べられぬこともよく分かっていた。しかし、自分の方がこんなに早く根を上げるとは考えてもみなかった。何という運命の冷たさか。しかし、敗死という結末が、成り行き任せに進んできた、自己の半生の漂着点であるならば、受け入れる他はないのだろう。
『知らない街に移り住んでまで、人生を変えたいと言うのかい。でもね、あの峠を無事に越えられた話なんて聞かないんだよ。どんな人間に付いていくかは知らないけどね、そんなに危険なことは、やめたらどうだい?』
あのときの母の声が、今また記憶の底から蘇ってくる。彼が栗殻峠へと出かけることを両親に話したのは、出発日が三日後まで迫った深夜であった。自分の勝手で出て行くというのに、余計な心配はかけたくなかった。今生の別れになることも明白であった。案の定、両親はそれを聞いて絶句してしまった。彼らとて、やがては、この家を継ぐはずの大事な一人息子を、簡単に危険な旅へと向かわせるわけにはいかなかった。しかし、もはや、出発日は目前に控えている。今さら懸命に止めてみたとて、頑固な息子の決心が揺らぐとは到底思えなかった。
「それなら、死ぬことだけはやってくれるなよ」
寡黙な父はそれだけ呟くと、おもむろに立ち上がり、寝所へ向かった。母は夜明けまでの長い時間泣いていた。何とかあきらめがついたように見えた。しかし、そのやつれた表情は「おまえ、危なくなったら、何としてでも逃げ戻ってくるんだよ。逃げることなんて、両親より先に死ぬことに比べたら、恥ずかしくも何ともないんだからね」と訴えているように思えた。生涯を賭けた願望を捨ててまで、逃げ落ちてくるなど、いささかも考えてはいなかった。しかし、母のため思い、その場では同意しておいたのだった。
窮地において、こんなことを思い出すことは、縁起のいいことではない。陽介は人生の結末が確実に迫っていることを感じていた。俺はまだ若い、こんなところで死んでなるものかと、必死に皆の背中を追いかけているつもりだったが、極度に悪い視界と、巨大な岩に阻まれた細い道、あるいは、足元に生い茂る雑草などにその動きを阻まれ、うまく足が進んでいかなかった。直後、目の前に巨木が現れ、身体はとっさに大きく右へ寄れた。その途端、地面の窪みに足を取られ、真後ろに転倒してしまった。陽介は焦った。心臓が急に高鳴った。彼は大きな荷物を背負っていたので、後方に負荷がかかり、うまく立ち上がれなかった。
「まずい、とんだことをしてしまった」
陽介はそう叫び声を上げ、ほとんど半狂乱となって、身体を右へ左へとよじり、足をばたつかせたが、坂の下に向いている頭の方に大きな力が加わっていたために、立ち上がれる気配はなかった。一度荷物の結び目を解こうとしたが、寒さで手が悴んでいて、それもうまくいかなかった。状況は刻々と絶望的なものになっていく。熱い脂汗が額を伝ったが、どんな手段を用いたとしても、どうにもならないことは明白であった。その上、右足を負傷していたことを思い出し、彼はさらに暗い気分に陥った。このままここにいては、鬼が出なくとも、狼でも山犬でも眼前に現れれば、そこで一巻の終わりだ。彼は最後の力を振り絞り、大きく身体を左右に振った。その激しい動きは、深い茂みの中で、がさがそと大きな音を立てた。そして、次の瞬間、顔に何か生暖かいものが触れるのを感じた。陽介は絶叫した。
「おい、おめえ、大丈夫か。こんなところで躓いて転んだのか?」
魔物のそれと聞き違えるほどに、かなり濁った声。しかし、それは間違いなく人のものだった。その声に反応して、とっさに首の角度を変えて、顔を後ろに向けると、視界には熊のような大男が映った。たしか、ここまでの道中において、その優しげな風貌は、何度も見かけた印象が残っていた。男は陽介の肩を力強く掴むと、そのまま一気に身体を引き起こしてくれた。しかし、彼にはまだ助かったという実感はあまりなく、思考は停止したままだった。死と直面するような恐怖から、簡単に立ち直れる者はいない。おそらく、相手が自分を害する存在であったとしても、同じような心持ちに陥ったに違いない。この頃の記憶は薄く、しばらくの間、呆然としたままであった。
「おい、足を怪我しちまったようだな。本当に大丈夫なのか?」
彼はまだ意識を取り戻せないでいる陽介のことなど、一切意に介せず、自分の方で話を進めた。
「いや、さっきまでは平気だったんだがね……、本当に申し訳ない……、今はかなり痛むんだ」
輝く未来のために、己が命を賭けて、ここまで懸命に走ってきた者にしては、ずいぶんと弱気な発言である。自分の虚言とふがいなさから窮地が派生して、関係のない者まで巻き込むことになった。陽介が情けない気持ちでいっぱいになるのも当然である。
「それなら、俺が右肩を支えてやるから、早く追いかけよう。ほら、立ち上がりな。このままじゃ、連中に追いつかなくなっちまうぞ」
大男はそう言って、陽介を片側に支えながら歩き出した。
「なあに、慌てることはない。この峠の本性がようやく表れてきた。伝え聞く死霊どもが出てくるのは、おそらく、これからなのだろう。前に行った連中だって、このまま上手くいくとは限らん。今頃どんな目に遭っているか、わからんよ」
その男も大きな荷物も背負ってここまで登ってきたので、その動きに疲労の色は濃く、表情もずいぶんと険しかった。しかし、それを気にかけずに、窮地にある自分を助けてくれた。彼にはそれが嬉しかった。そして、この峠を抜けることが叶ったなら、必ず、この男を友として、丁寧に礼を言おうと心に決めた。ただ、思い返してみると、誰かに声をかけられた瞬間に、陽介は窮地を救うために駆けつけて来た小太郎の存在を頭に思い描いたものだった。しかし、助けられてみると、その男は小太郎ではないのだ。そのことを強く意識したつもりはなかった。ただ、そのとき、ふとある思いが胸を突いた。
「小太郎は今頃どうしているのだろうか……」
先頭を歩く男たちの流れに連れるままに、小太郎は峠の頂上付近にまで達していた。今は苦しいが、後は下るだけ。身の危険は感じられず、順調に思えた。先程、坂の下で、何かが転がり落ちるような音が聞こえてきた。旅人たちを先導していた案内人は、心配だからと、かなり慌てた様子をみせて、そちらの方へ駆け下りていった。しかし、それ以外の男たちは、誰もそのことを気にかけなかった。それも当然のことで、もし、下の方で誰かが鬼や大蛇に襲われていようとも、助けようがないのだ。ここにおいては、他人への配慮や善行などといった言葉は完全に無益であり、単純に身の危険を招くのである。一時の感情から、そのような無謀な行動に走れば、自分たちまでその危険に巻き込まれ、被害はより大きくなってしまうことだろう。そういう冷静な判断から、先頭を歩く彼らは、落伍者の助けに向かわぬどころか、かえって、歩む速度をあげたものだった。
この小太郎にしても、一度は下で倒れたのが友人の陽介かもしれぬ、という憶測がよぎった。しかし、彼はそこで足を止めるどころか、後ろを振り返ることすらしなかった。仕方がないからだ。そう、命の存続と尊い成果、つまりは、死と幸せというものを引換にしようとする、こんな状況にあっては、自分の不手際により負けてしまうような人間を思いやっても仕方がないのだ。ここでは、一人ひとりが自分だけは峠を越えられればと、そう思い込んで進んでいく他はない。その考えはきっと正しい方向へ向かうはずだ。しかし、山頂付近の酸素は薄く、呼吸はさらに乱れた。すでに目が霞むほどに疲れきっている、彼らの意識をさらにか細くしていく。
「厳しいなあ……」
彼のそばで誰かがそう呟いた。わざわざ、この場面を選んでまで、周囲の人にそのようなことを告げる意味は何もない。不意に飛び交う音のみが頼りの漆黒の闇、そして、行く当てのない山道のあまりの過酷さから、思わず口から飛び出た台詞だと思われる。小太郎はその言葉に強く共感した。もはや、両腕も膝も思うようには動いてくれない。酸素を失った心臓はどんどんと高鳴っていく。これが目的もない旅や、行軍であったなら、とっくに行き倒れている。眼前に微かな未来が見えているから、そして、後ろには身に迫る悪鬼がいると頑なに信じているからこそ、まだ歩けるのである。
「しんどいなあ……」
ついに彼の口からも、そんな弱音が漏れ出した。生い茂る木々の隙間から、月のない漆黒の空を見上げると、いつのまにか、この峠に入る前に目立っていた雲たちが流れ去り、風の向きが変わっていた。
「そんなにしんどいとお思いなら、いっそのこと、やめてくださいな」
不意にそんな言葉が頭に浮かんだ。その一刻、なぜか、懐かしい匂いがした。今朝、障子戸を開ける直前、突然襲ってきた恐怖と胃痛のあまり、玄関でうずくまった彼に対して、妻はそう声をかけたのだ。浅慮から発せられたその台詞に反応して逆上してしまった。妻を思う様に罵倒し、挙句の果てには着物の胸ぐらを掴んで、蹴り倒してしまった。ああ、まったく、何ということをしでかしたのだろうか。自分の決意を歪める言葉が、ただ許せなかっただけなのだ。妻を憎む気などさらさらない。暴力にまで及ぶつもりもなかったのに……。思えば、今朝の挨拶は今生の別れであった。最後の朝くらい、笑顔で家を出てくればよかった。
今になって、激しい後悔に捉われていた。狭灘の街に行こうと決めた、ちょうどその頃に、故郷の村に妻を捨てていくことを決めた。一生涯をこの人と決めた女を、軽く思ったわけではない。ただ、自分ひとりの身も危うい中、彼女の手を引きながら、栗殻峠を越えることなど、できるわけがなく、たとえ、狭灘に辿り着けたとしても、一生元の村に戻ることはできなくなるのだ。妻には面倒を見なければならぬ両親や親戚もいるし、自分が去った後にも、他に男はいるだろう。彼女のことは諦めるほか仕方がなかった。しかし、この日が近づくにつれて、妻だけを村に置いていくことが、ことのほか辛くなってきた。狭灘まで行くことができれば、どうあれ、自分の夢は叶うのだろう。しかし、それと同時に、同じくらい大事なものを失わなければならない。彼はその重大な決心の日から、次第に物思いにふけることが多くなっていた。ここ数日の彼のそうした態度を見て、妻としても、これが夫との今生の別れであろうと気がついたらしい。だから、別れしなにそのような言葉を口にしたはずだ。
硬く尖った岩道を這うように進みながら、そんなことを思い返していた。次第に嫌になってきた。歩くのが、この無法な暗闇に怯えているのが、そして自分の命を賭けてまで、危険な旅を続けることに対して、嫌悪感が増してきた。そうだ、狭灘に着いても、新しい職に就き、しばらくの猶予が貰えたならば、一度は故郷に戻ってこよう。自分にはそれができるはずだ。もう一度、村に帰ろう。そして妻に謝り、共に……。彼は案内人との約束をいつしか忘れていた。精神的な苦しさの余り、そんな低劣なことを考えるようになっていた。人生の分岐においてはあり得ないその折衷案が、自分の心を休めると勝手に思い違いしていた。それは極めて危険な誤解であった。
「おうい、大丈夫ですかー」
坂の上方から、風に乗って、そんな声が聞こえてきた。やがて、近くの茂みが通り道はどこかと探すように激しく揺れた。木々の隙間から案内人の顔が覗いた。彼の存在があることを知って、陽介は初めて胸をなでおろした。これで助かるはずだ。自分はずいぶん運がよかった。
「おお、足を負傷してしまいましたか。でも、大丈夫ですよ。もうすぐ、山の頂上です。そこからは大した障害もなく、道幅も広くなり、緩やかに下っていくだけですから。旅は順調に進むはずです。他の方は、おそらく、もう峠を抜けている頃でしょう」
案内人はそんな創られた言葉によって、未だ過酷な状況にある陽介を励まそうとした。もちろん、怪我人という重荷を背負ってしまった、この状況はまったく楽観視できるものではない。ここに置かれている二人が、無事に峠を抜ける見込みはそれほど高くないと見ていたはずだ。だが、そんな非礼な思惑を少しも表情には出すまいと、考えた上での発言のようだ。彼は落ち着いた動作で腰の袋から数枚の布切れを取り出し、それを陽介の右足に素早く巻きつけた。
「これで大丈夫でしょう。出血さえ止まってしまえば、この程度の怪我は思ったほどの重荷にはならないですよ。この先は三人で助け合って行動致しましょう」
この男はなぜ何度も同じような物言いを繰り返して、自分を安心させようとするのだろうか。時の経過とともに、陽介は少し不気味に思うようになった。行く手を阻むように生い茂る草木を、三人で手持ちの鎌で掻き分けながら、さらに奥地へと進んだ。陽介は辺りの様子を少し気にしてみせた。なぜか、何ものかに見られているような気配を感じた。心を針で刺すような不安は最初から感じていたのだが、今は、それが未来を阻む巨大な壁に見えてきた。そういえば、この森に飛び込んだ頃は、多少なりとも鳥や小動物の声が、この耳に聞こえてきたものだった。しかし、今は自分たちが落ち葉を踏みつける音と苦しさの余り、口から吐く呼吸の音しか聞こえなくなっていた。この不安は単に感覚的な問題なのだろうか? そんなはずはない。
「おいおい、ずいぶん静かになっちまったなあ」
助けに来てくれた男も同じようなことを考えていたようだ。そのまま、ふと首を右方に向けると、いつのまにか案内人の表情が先程とは打って変わって、険しくなっていた。おそらくは、彼も事前に感じていたのだろう。我々をすぐ近くから見つめ、監視し、あざ笑い、その微かな隙を伺っている、悪霊たちの存在に。
「できる限り早く、この場所から離れたほうがいいようです。少し急ぎましょうか」
今度は突然そんなことを言い出した。彼は陽介の左腕を強く引いた。訳も分からず、緊張が高まった。せめて、錯乱しないように努めるしかなかった。
「そうだな、そろそろ速度を上げないと、前のやつらに追いつかなくなるぞ」
大男もそれに同意した。二人とも、案内人の賢明な判断に賛成した。しかし、彼としては、歩く速度を上げることには、何か他の理由が隠されているような気がしてならなかった。自分の足の状態を知っているはずの人が発する言葉としては、少し辛く、違和感のある台詞に感じられた。
「他の生き物の声があまり聴こえなくなりましたねえ……」
このまま沈黙が続いていくことに恐れをなして、案内人にそう声をかけてみた。自分を励ますような、温かい返事がくることを期待して。
「動物たちも鳥たちは、すぐ傍にいるんですよ。でも、彼らだって声を出せないのです。地面の底で耳をそばだて、こちらの弱みを知ろうとする存在により、すでに危険が迫ってますからね」
そんな理解しがたい言葉が返ってきた。相変わらず必要な言葉が足りないと思われた。そして次の瞬間、隣を走っていた大男が「ううっ」という、うめき声をあげ、前方に倒れ伏した。足腰が一番丈夫そうに見えた人が、突然に崩れ落ちたため、ずいぶん、不自然に思えた。
「どうしました、大丈夫ですか」
「うわっ、なんだ、変なものに足を掴まれちまった。なんだ、これは……」
彼は先程までとは打って変わり、かなりの動揺がみえた。自分の身に迫る危機を確実に感じ取っている悲鳴であった。
「何に掴まれたんですか? 動物ですか?」
陽介はいまだにこの状況を飲み込めておらず、のんきそうにそう言うと、腰を少しかがめて、何の気なしに脅える男の足元を覗き見ようとした。
「あなたは、見てはいけません。離れなさい、巻き込まれますよ」
突然、案内人がそんな大声をあげて、陽介を藪の中へと突き飛ばした。そして、そのままの勢いで腰から脇差を引き抜き、大男の足を握りしめている何かを強く切りつけた。ぐしゃという音がして、黒いものが地面の方々へと飛び散った。夜陰にあってそれは見えなかったが、多分、血だろう。陽介はなぜだか、それが分かった。案内人は素早く刀をしまうと、沈黙のままにうつむき、両の手を合わせて経を唱え始めた。もはや、腰に力が入らず、地べたに座り込み、唖然としている陽介のところまで、彼が小声で唱えるお経の声が響いてきた。恐怖のあまり顎が固まり、声が出なかった。自分の救いになる行為とは、とても思えなかった。やがて、それが終わると、助けられた大男は顔を強張らせながら、ゆっくりと立ち上がった。
「なんだ、今のは……、地面から飛び出してきたのは、間違いなく、人の手だったぞ……」
その声も身体も震えて止まらなかった。陽介も自分の憶測を確かめるべく、勇気を振り絞り立ち上がった。いったい何ものが襲ってきたのかと、案内人が切り割いた場所を、彼らの背中の向こうから、恐る恐る覗き込んでみた。
「見てはいけませんよ!」
その瞬間、横から案内人がそう叫んで、陽介の腕をしっかりと掴んで押しとどめた。しかし、彼は一瞬だけ、それを見てしまった。地面の上に転がっていたのは、たしかに、土に汚れた人の手のようなものである。それだけではない。そのやつれ切った、醜悪で悪意に染まる手の風貌は、ある恐るべき予測を想起させることになった。しかし、そんな筈はない。彼はとっさに自分の思いを吹き消そうとした。これ以上の恐怖があったとしても、とても背負いきれない。今のは、何かの間違いであると、そう思い込む他はなかったのだ。
「このことについては、峠に入る前に説明したはずです。多くの方がこういう亡くなり方をしたと。あなた方も亡者に変えられないように、気をつけてください」
この冒険の最終的な結果から見た場合、この体験は幸いだといえた。この悪意の峠から、一刻も早く立ち去るべく、三人は肩を組み、がむしゃらに坂道を登り続けた。陽介は地面から生え出た、かつての落伍者の成れの果てを見せられたことで、返って開き直ることができた。自分の足の痛みさえも、いつしか忘れることができた。もう、余計なことを考えるのはよそう。故郷の母も、暗く狭い道も、前を塞ぐ岩も、仲間だったはずの小太郎のことも。この薄気味悪い森さえ何とか抜けてしまえば、いつの間にか身についた、恐怖や迷いは確実に去るはずだ。そして、再び、命を狙われることのない、安閑とした日常が戻ってくるのだ。今は前を向いて進むしかない。どんな障害にも知恵を働かせ、懸命に進んでいくことしか、自分に出来ることはない。ようやく、迷いを捨てられた陽介の足取りは軽く、前を行く他の旅人たちの背中に迫りつつあった。
暗闇の坂で、未知の樹林の中で、永遠とも思える長い戦いの時が過ぎた。その行く手には、幾度となく、鬼も魔物も現れたはずだ。夜明け頃になると、未来を目指して走っていたこの一行は、ようやく、この長く苦しい旅を終えようとしていた。一番先頭を駆ける男たちにしても、その歩みを緩やかにして、遠くを見やるほどの余裕が生まれていた。
「少し、明るくなってきたな。もう、ここまで来たなら、さすがに大丈夫だろう」
「先ほど、山頂付近で、後方の東南方向に薄い光が見えた気がしたな……」
「うむ、峠に入る頃と比べて、ずいぶん、穏やかな空気に感じられてきたしな」
「おお、明かりだ。あそこが森の出口じゃないのか?」
その中の一人が、森の奥深くから差し込んできた、一筋の光を指差して、半ば楽観的にそう言い放った。多くの者がその光に目を取られ、自身の勝利を確信するに至った。これまで溜めに溜めてきた、心中の不安は、なかなか拭えなくとも、そんな明るい皆の声はようやく掴んだ、希望的なものに聴こえた。小太郎もこれまでにない安心感を得て、口元には自然と笑みが浮かんだ。命を張ってまで幸福を得たいという、向う見ずな旅人たちを祝福する、朝の陽が段々と昇り始めた。それに応じて、木々の隙間からは徐々に太くなる光線が、こぼれ出してきた。そうして、夢幻のように、じんわりと辺りの様子が見えてくるようになると、この大森林も、もう怖いものではないように感じられた。
「やはり、そうなんだ! あれが暗闇の出口だ、やっと、狭灘に着いたんだ!」
先頭の男が、ほとんど狂ったようにそう叫ぶと、方向も定まらぬまま、突如として駆け出した。それに続いて、周りにいた男たちも、我さきにと、その光に向かって、がむしゃらに駆け出していった。だが、小太郎はなぜかそれを追いかける気にはならなかった。何かを目指して駆けていく男たちの表情は真剣そのものに見えた。それはこの戦いの最後の勝負であり、目的地にはすでに着いたのだ、という安堵や緩みがいささかも感じられなかった。
森の中にひとり取り残された小太郎は、そのことがまた不思議でしょうがなかった。彼は折り悪く気がつかなかったようだが、それは未来を願う人の命への執着心から来るものであった。他の者たちは少なくとも、今このときまで自分の進むべき道を見つめる気持ちを絶やさなかった。これはもちろん、自分と関係してきた人々の願望を未来へと繋げるためであり、それ以外のことはまったく考えていなかったはずだ。しかし、小太郎は他の旅人たちが全員走り去った後も、今の自分を捨ててまで、それを追っていく気持ちにはなれなかった。相も変わらず地面を向いたまま、必要もない考え事をゆるゆるとしながら、希望とも失望ともとれる歩みを続けていた。もう戦いは終わった。念願であった目的地へとたどり着いたのだから、そんなに焦らずともいいではないか。彼はそう考えていたようにみえる。これは冷静ではなく、気の緩み以外の何ものでもなかった。ここであえて言うまでもなく、まだ、何も決着していないというのに。どこかで青鷺の声が響いた。それに反応して、彼は不意に腰に手を当てた。
「あれ、あのお守りはどうしただろう」
その場でついに立ち尽くし、一人でそう呟いた。逆上して妻を突き飛ばしたあと、玄関にお守りを置き忘れてきたことを思い出したのだ。突如として、信じがたいほどの寒さに襲われた。彼は極度の不安のためにその顔を強ばらせ、完全に立ち止まってしまった。その足は動くことはなかった。そのとき沸き起こった記憶は、前の晩、妻から手作りのお守りを手渡されたときのこと。そうだ、そのときからだ、自分の道に迷いが生じたのは。また余計なことを思い出した。ほとんど、意識もなく後ろを振り返った。そして、また中身のない独り言を呟いた。
「そうだ、そういえば、あの陽介はどうしたのだろうか……」
彼がここまで追いついてくれば、一緒に狭灘にたどり着き、喜びを分かち合うのも悪くない。しかし、後ろからは誰もついて来ていなかった。気がついてみると、彼を取り囲む杉林は、ずいぶんと静かになっていた。しばらくの思案のあと、小太郎は仲間のことを半ばあきらめ、再び前を向き、一歩踏み出した。だが、次の瞬間、大地の窪みに足を取られたのか、派手に転倒してしまった。
「いかん、いかん、考え事をしていたからだな……」
彼は自分を励ますように少し苦笑して、服についた砂を払い、起き上がろうとした。当然だが、簡単に立ち上がれるはずだった。しかし、その右足は思いのほか深く大地に突き刺さってしまったようで、うまく引き抜けなかった。
「根っこだ。木の根っこに絡まったんだ」
彼はどうにか自分を安心させようと、そう独りごちて、再び下半身に力をこめたが、その窪みに捕られた右足はまったく動かない。どうしても動かないのだ。だが、彼はこの事態にも、あまり動揺していなかった。もう森の出口も見えていることだし、自分の明るい将来は、あらかた約束されていると、そう思い込んでいたからだ。この死霊の森に、初めて足を踏み入れたときのような、研ぎ澄まされた集中力が、疲れ切っている今の彼にあろうはずもなかった。何度も何度も、額に冷たい汗を流しながら、窪みから足を引き抜こうと努力してみて、彼はようやく事態が切迫していることに気がついた。右足が蔦や木の根に絡まっているのならば、少しは動かせるはずである。だが、その窪み、いや穴に捕られた右足はどんなに力を込めても、まったく動こうとしなかった。
「これは、いったい、どうしたというんだ」
彼はさすがに疑念を持ち、その中を覗き込もうとした。その穴はさして深いわけでもなく、少し腰をかがめただけで、その底まで一望できた。そうやってよく見てみると、彼の足は気の根っこに捕まっていたのではなかった。掴んでいたのは人間の手だった。土気色をした人の手が彼の足を押さえつけているのだった。
「なんだ、こいつは……」
自分が発したはずのその声は、今まで聴いたことのない音質だった。まるで腹の一番底から自然に湧き上がった来たような。彼は自分でそれがわかった。そして、自分が生まれて初めて心底恐怖していることも。それを見た瞬間から、顎と首が同時にがくがくと震えて、声を出すどころか、身動きすらもできなくなってしまった。
「くそ! くそっ!」
そう叫びながら、必死に取られた右足を引き抜こうとしたが、何ものかによって、がっちりと掴まれたそれは、もはや自分のものではなかった。仕方なく、彼は懐に手を入れ、用意しておいた短刀を探った。それで右足を切断してしまえば、この場は助かるかもしれないと、そう考えたからだ。彼は短刀を引き抜き、自分の右足を切りつけるべく身構えたのだが、そこで動きを止めた。自分の足を切り裂くということに若干の躊躇があり、なかなかそれを振り下ろす気にもならなかったのだ。こんな痛ましいをしなくとも、無事にこの危機を回避する方法が他にあるような気がしたからだ。そうだ、考えようによっては、まだ後方に案内人や陽介がいるはずだし、彼らがここを通ったときに、助けを求めれば無傷で助かるのだ。ここで焦ってはいけない。彼はそんなくだらないことを考え、短刀をしまってしまった。しかし、その直後、状況が一変した。足を掴んでいた悪霊の手が、もの凄い力で彼の体を引き付け始めたのだ。彼は慌てて、近くの大木にしがみついた。しかし、そのときはもう、彼の右足は膝まで地面に引き込まれてしまっていた。
「まずい!」
彼はようやく自分がどういう最期を迎えるのか理解できたようだ。額から静かに静かに血の気が引いていくのがわかった。小太郎は大木を掴む両手に懸命な力を込め、全身から脂汗を流し、必死の形相で自分の体を引き上げようとした。すると、わずかだが、こちらの力が勝ってきたようで、少し彼の右足が地面から戻ってきた。
「ようし! この意気だ」
彼は恐怖をひた隠し、なんとか自分を励ましながら、額を汗びっしょりにして、右足を引っ張り続けた。しかし、ふと、今度は腰の辺りに違和感を感じ、顔をそちらのほうに向けた。
「げっ」
それを見て絶句した。いつのまにか、地面からもう一本の腕が生えてきて、腰の部分を押さえていたのだ。再び、恐怖と焦りが増大し、今度は下半身にうまく力が入らなくなってきた。恐怖に負けた精神が集中できなくなったのだ。これがいったいどういう現象なのか、自分を引っ張っているものたちは何ものなのか。彼にはそのことすら理解する暇がなく、対応する策を考える余裕もなかった。彼が上を見上げると、大杉の枝に飢えた烏が数多集まってきていた。やつらはこんな光景をすっかり見慣れているから、これから人間が死ぬことがわかるのだ。そんなことを想像してしまうと、絶望感で胸が押し潰されそうになる。否応なく、体は地面にずぶずぶとめり込んでいった。しかし、腰の部分まで地面に埋まってしまっても、彼はまだあきらめるわけにはいかなかった。こんな状況においても、必ずや、なにか、助かる方法があるはずだと、必死になって自分の運命に抗おうとした。彼は命綱を放ってくれる助け舟を求め、辺りを見回した。するとそのとき、遠くの方から、ちゃりーんという本当に微かな、懐かしい音が聞こえてきた。
「しめた、あれはたしか……」
小太郎がそう呟いているうちに、後方から、確かな人間の足音が聞こえてきた。その足音は独りの人間のものではなく、明らかに何人かの男が連れて走っているのだ。
「よし、これで助かった」
彼はすでに肩の辺りまで地面に沈められていながら、まだそんな楽観的なことを考える余裕があった。やがて、自分の左後方に、三人の黒い影が走っているのが見えてきた。少し距離はあるが、大声を出せば十分気づいてくれるはずだ。
「おおい、ここだー、助けてくれー」
小太郎は身体に残された、あらん限りの気力を振り絞り、これまで溜めておいたすべての言葉を出し切るようにそう叫んだ。しかし、三人の中の先頭を走る一人がちらりとこちらを見ただけで、彼らは方向を変える素振りはまったく見せなかった。誰ひとり、助けにきてくれる様子はなかった。あるいは聞こえなかったのだろうか?
「おおい、どうした、聞こえんのか、こっちだー」
小太郎は再び全身全霊の叫び声で呼びかけた。声はほとんどかすれていて、風か雨か判断がつきにくく思えた。足音がさらに近くなってくると、はっはっという三人の激しい呼吸音が、小太郎の耳元まで聞こえてきた。そのとき、眼の前に三本目のおぞましい手が現れ、小太郎の髪を掴んで、勢いよく引っ張った。彼の首はその勢いで反転し、通り過ぎてゆく三人の姿を間近で見ることができた。小太郎はその中に陽介の姿を見つけた。彼は痛んだ足を引きずりながらも、他の二人に支えられ、懸命に走っていた。その顔に妥協の色はなかった。自分の声など届かないはずだ。陽介や他の旅人たちは自分が生き抜くことだけを考え、自らの希望や夢のためだけに走っていたのだ。
小太郎はもう叫ばなかった。抵抗することも止めた。そうだ、自分が考えていた妻や狭灘やこの杉林の恐怖のことなど、すべて、現実のものではなかったのだ。本当の現実は、こんな悪鬼の巣食う森にありながら、生き方に、より多くの選択肢を残し、なるべく楽をしようと甘えていたために、命を落としかけている、今のこの自分だけなのだ。なぜ、そのことにもっと早く気づかなかったのか。彼の心から、あるものが去っていった。そして間もなく、小太郎の身体は、声も光も届かぬ暗黒世界の中に引きずり込まれていった。
杉林の外は快晴であった。早朝で気温はまだ低かったが、鋭く幾重にも降り注ぐ太陽の光が、凄惨な戦いを終えて森を抜けてきた勇気ある旅人たちを暖かく迎えた。最初に林を抜けた男は、ぐるぐるとあちこちの風景を見回していたが、まだ信じられないというように、しばらく呆然と青い空を見やった。やがて、次々と後続の旅人たちが暗い森からその姿を現した。疲れのためか、あるいはあまりの状況の変化に頭が対応できないのか、皆きょとんとした顔で立ちすくんだり、幼児のように辺りをきょろきょろと見回したり、先ほどまで、命を賭して、見えぬ恐怖と戦っていた人間とは思えないような落ち着きぶりであった。やがて、一人の男が前方へと歩み、この先にはいったい何があるのかと、木々の間から遠くの方を覗き見た。
「あ、おい見ろ、あれは狭灘だ、狭灘の町が見える」
その男の鮮やかな声は、空に響き、全員の意識を覚まさせるには十分の大きさだった。一斉に男たちが駆け出した。彼らは先を争うように、良い景色の見える場所へと殺到した。そこは丘陵になっていて、生い茂る木々の隙間から狭灘の城下町が一望にできた。これまで一度も荒れ果てた村の外へは出たことがない彼らにとって、その光景は別世界であったに違いない。そして、そのまま彼らの未来であると言ってもいい。巨大な城を瓦屋根の屋敷が幾重にも取り囲んでいた。大波がしぶきを上げる、広大な海も見える。それだって、彼らにすれば初めて目にするものだ。港には伝え聞いていた鋼鉄船の姿があった。
「いやあ……、しっかし、でっけえ船だ。あれは、いったい、何をするんだろう……。魚を捕るのかな?」
「あそこで煙を噴出している屋敷はいったいなんだ? あれが銭湯か?」
「ばかだな、あれは鍛冶場というやつだ。あそこで鉄を焼いたり切ったりするのだそうだ」
「そうか……、あとでちょっと覗いてみよう」
各々の心で先程までの恐怖感は朝霧のように消えつつあり、それと同時に希望が少しずつ膨らんでいた。美しく建ち立ち並ぶ、華やかな城下町を見て、彼らの現実感も次第に戻りつつあった。森の中での数々の悪夢は、すでに過去のものだった。そして、やはり現実のことではないのだ。これまで夢破れて命を落とすことになった、多くの旅人たちからみれば、それは素晴らしいことだった。しばらく時間が経ち、陽介も杉林を飛び出してきた。待ち受けていた者たちは、笑顔で手を振り、彼を迎えた。一緒に苦労を分かち合った同士と一頻り喜びあうと、彼も狭灘の街のことが気にかかり、多くの勇者が待つ丘陵へと歩を進めた。そして、他の旅人たちを押しのけると、一番よい場所へと自分の身を滑り込ませた。
「おお!」
彼もまたその壮大な光景に目を奪われ、感嘆の声をあげた。陽介は過去の多くを過ごしたはずの故郷の姿をもう思い出さなかった。栗殻峠での幾多の危機もすでに忘れてしまっていた。一緒に生存を誓ったはずの小太郎のことなど、彼の頭の中に一欠けらも残っていないだろう。非情さからではない。目の前に希望があるからだ。
陽介はしばしの間、なにも言わず、じっと狭灘の町を見据えていた。そして、自らの新しい生活と輝ける未来に思いを馳せていた。
2001年頃に初めて書いた作品です。最後まで読んで頂いてありがとうございます。気軽に感想をいただければ幸せです。