捌.炎上
里が燃えていた。
夜半、星影を覆い尽くした黒雲を大いに焦がすかのごとく、炎が立ち上っている。
あたりには悲鳴、怒号、符術の打ち鳴らす爆音などが満ち溢れ、どう見ても平時の沙汰ではなかった。
同時に血が臭う。さゆはその臭いに巻かれて立ち尽くし、とある納屋の陰に倒れた人影を見て放心している。
「さゆ!」
そのさゆの腕を、後ろから強引に引く者がいた。驚き、びくりと跳び上がったさゆが振り向けば、そこには油煙に塗れた母の姿がある。
そこは里の北の外れで、さゆは母と共に何とか賊を退け、ここまで逃げ延びてきたのであった。
しかし、火の回りが早い。里はあっという間に地獄と化し、ここも家屋が炎を逃れてはいるが安全とは言い難い。
「母さん……羅真が、羅真が」
「見ては駄目。さゆ、こちらを向きなさい」
母はさゆの体をくるりと回すと、まっすぐに自分と向き合わせた。羅真というのはたった今さゆの足元に転がっている少年の名前である。
さゆとは幼い頃から里の野山を駆け回り、共に符術を学び合った仲であった。当然母もその顔を知っている。しかし少年は無惨にも体を斬り裂かれ、既に帰らぬ人となっている。
「さゆ、よく聞いて。ここから先、お前は一人で逃げなさい。お前の腕ならきっと無事に里を脱けられる。あの山の上まで行けば、さすがにやつらも追ってはこないでしょう。結界の符を胸に入れて、ひたすらに逃げるの。いいね?」
「ま、待って、母さん。分からない。一人で逃げる? どうして? 母さんはどうするの?」
「母さんは父さんを手伝いに行く。父さんも今頃、里の者を一人でも多く逃がそうと戦っているはずだから。その父さんを、一人にしてはおけないでしょう」
「だったら私も一緒に戦う! 父さんと母さんを見捨てて逃げるなんて厭!」
「さゆ。いい子だから、母さんの話を聞いておくれ」
言った母の声は、震えていた。しかし母はさゆの頬を両手で挟み、闇の中でまっすぐに娘を見つめて言う。
「いいかい、さゆ。お前は里長の娘よ。そのお前には私たちの跡を継ぎ、禁術を守る使命がある。だからお前は生きて里を出なさい。こんなところで若い命を散らしては駄目」
「だけど、父さんと母さんは」
「母さんたちは鴉土の人間に顔を知られてしまった。逃げても長くは持たないでしょう。そうして捕らえられたあげく、里が代々守り抜いてきた禁術の在処を喋ってしまうよりはずっといい。さゆ、お前は賢い子よ。母さんの言うことが分かるね」
そう言って笑った母の目から、一粒の涙が零れるのをさゆは見た。同じように茫然とするさゆの頬を、幾筋もの涙が濡らしてゆく。
されど母は気丈であった。それ以上の涙は見せず、肉親との突然の別れに打ちひしがれる我が子の頬を、煤だらけの手で何度も拭ってやる。
「さあ、分かったらもうお行き。子は親よりも長く生きるものよ」
「母さん」
「母さんたちを恨みたければ、恨んでもいい。その代わり、決して振り向かずに行くんだよ。そしていつか幸せにおなり。母さんたちの願いはそれだけだから」
母がせっかく拭ってやった娘の頬が、またしても涙に濡れた。
これが今生の別れになる。娘にもそれが分かっている。
しかしそれ以上は何も言わず、母子はどちらからともなく抱き合った。
戦いの音が近づいている。もうじきここにも、狂風に吹かれた豪炎が押し寄せるに違いない。
「母さん、約束する。禁術の書は私が守る。母さんたちの想いは、絶対無駄にはしないから……!」
「ありがとう、さゆ。どうかお前に三賢の加護がありますように」
母は強く子を抱き締め、やがて放した。放された娘は裸足のまま身を翻して駆けてゆく。
母の言いつけどおり、後ろは決して振り向かなかった。
数刻後、長かった夜が明け、北の山から焼け失せた里を見下ろしたときの絶望を、さゆは今も生々しく覚えている。