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瑞穂草子  作者: 長谷川
8/21

漆.北原紫幻斎

「ない……」


 と、九嵋山くびざんの腹を穿うがった洞穴の中で、さゆはへたりと座り込んだ。


 手の中では一枚の符が、松明代わりの淡い光を放っている。


 その光に照らされ、さゆの目の前に横たわっているのは、虚しく口を開けた文箱ふばこだった。中身は空で、すぐ側には地面から乱暴に掘り起こされた跡がある。

 その文箱は言うまでもなく、さゆの両親が禁術の書を封じた箱だった。それが証拠に地に投げ出された蓋の裏には一枚の符が貼られており、箱を守る結界があったことを物語っている。

 しかしその符は今無惨に破れ、何者かが外から結界を打ち壊したことを示していた。さゆが何度も急な斜面を転げ落ちそうになりながら苦労してこの場へ駆けつけたときには、既に文箱は空になっていたのである。


 持ち去られた。

 両親の形見とも言うべき里の秘宝を奪われたさゆは、茫然と座り込んでいることしかできなかった。


 よくも、よくも、よくも――。

 怨嗟の声が胸を満たしてゆく。

 玄田くろたという名の奸賊は、一体どこまで奪い尽くせば気が済むのか。里が一体何をした。


 血が滲むほどに唇を噛み、さゆは怒りに打ち震えた。秘術の里は玄田が禁術の書に目をつけるほんの半年前まで、数百年と続く安寧の中にあったのだ。

 しかしあの男はそれを己が野望のために破壊しただけでは飽き足らず、両親が、里の符術師たちが代々守り抜いてきた誇りとも言うべき秘宝さえ、したり顔で盗んでいった。


(ころしてやる……)


 うなだれ、なおも肩を震わせながら、さゆは膝の上に置いた手を壊れんばかりに握り締めた。

 禁術を守るためではない。もはや一個の復讐鬼として、自分は玄田右幽うゆうという男をこの世から滅してやりたい。

 だがさゆが白い胸の内にそんな憎悪を煮え立たせた刹那、


「――ぎゃっ!」


 と、俄然背後で蛙が潰れるような声がした。

 同時に、閃光。

 何者かが結界に触れた音が炸裂し、さゆははっと身を翻す。


「誰!?」

「ほう、やはりただでは捕まらんか。符術師とはほとほと面倒な相手よのう」


 老人の声である。とっさに光の符をかざすと、洞穴の出口を塞ぐように群がった複数の人影が見えた。

 その異様な出で立ちに、さゆは見覚えがある。


 始末屋。


 忍装束しのびしょうぞくと呼ばれる筒袖の着物に裁付袴たっつけばかま、更に覆面を巻いたその男たちは、かつて秘術の里を焼き、生き残ったさゆを追い回してきた連中だった。

 北原一門。今はその正体も知っている。

 その男たちの姿を見たさゆは立ち上がり、全身の神経を山荒やまあらしのように尖らせる。


「あなたたちは……!」

「一足遅かったな、娘。そこにあった禁術の書は、我らが既に頂戴した」


 やはり老人の声であった。現れた始末屋は皆一様に顔を覆面で隠しているため、複数いる影のうち、たれが話しているのか定かでない。

 しかしそのとき、その影の中から一人だけつと進み出た者があった。

 小柄である。さゆが必死に目を凝らすと、口布の上から唯一覗いた目元のしわが存外深い。


「おい、いつまでそこで倒れておる」


 その皺の男が、恐らくさゆの結界に触れたのであろう、仰向けに倒れていた男の頭を足で小突いた。

 男はそれで覚醒し、見る間に跳び起きるや、慌てた様子で皺の男へと頭を垂れる。


「申し訳ございませぬ、紫幻斎しげんさい様。醜態をお見せしました」

「良い。しばし下がっておれ。わしはこの娘と話がある」


 紫幻斎と呼ばれた老人は皺の刻まれたその顔で、不気味にさゆを見据えていた。

 間違いない。先程から口をきいているのは、どうやらこの小柄な老人のようである。


「さて、娘。長かった茶番もここで終いじゃ。そろそろ儂らと共に来てもらおうかの」

「冗談じゃないわ。何の義理があって里の仇に従わなきゃならないのよ。そんなことより、奪った禁術の書を返して! あれは玄田みたいな下郎が手にしていいものじゃないわ!」

「これ、娘。口には気をつけろ。いかにうつわ小なりとは言え、玄田様は我らに金子きんすを恵んで下さる大事な殿じゃ。そもそも返せと言われたところで、あの書はもはやここにない」

「ならさっさと取り返してきなさいよ! さもないとあんたたち全員、ここで焼き殺すわよ!」

「これは威勢の良いことじゃ。されど茶番は終いと言うたはず。あの書が偽物であることはとうの昔に割れておる。これ以上下手な芝居を打つだけ無駄ぞ」

「え?」


 ときに紫幻斎が告げた言葉を聞き、さゆは露骨に眉をひそめた。

 この男は最前から茶番、茶番と繰り返しているが、さゆには一体何のことだか見当もつかぬ。


「ま、待ちなさいよ。書が偽物って、どういうこと? 何を言ってるの?」


 相手は憎き里の仇とは言え、さゆは戸惑いを禁じ得ず、ついついその意味を尋ねてしまった。すると紫幻斎と呼ばれた老人は、


「……これはしたり」


 と、たちまち苦虫を噛み潰したような顔になる。

 それどころか老人はつと口元を覆っていた布を下げるや、


「儂としたことが、宛が外れた。行くぞ。もはやこの娘に用はない」


 と吐き捨てるように言い、人数を連れて立ち去ろうとした。

 が、それを見たさゆはますます訳が分からない。

 今日まで呆れるほど執拗に自分を追い回していた男たちが、まるで潮の引くように、にわかに関心を失って立ち去っていくのである。


「ちょ、ちょっと、待ちなさいって言ってるでしょ! 質問に答えて!」

「去れ、娘。生憎今は殺す気も失せた。かの里の長夫婦の娘とあらば何かしらの秘密を握っていようと思い追ってきたが、物の役にも立たなんだ。おかげでこちらは半年を棒に振ったわい」

「だからそれはどういう意味よ! ここにあった禁術の書は真っ赤な偽物だったって言うの?」

「左様。我らはぬしより半年も早くここへ至り、封印を解いて書を手に入れたが、そこに書かれていた術式は一つ残らずでたらめであった。おかげで玄田様はご腹立ふくりゅうなされ、偽の書などその場でことごとく焼いてしまわれたわい」

「そ、そんな……!」


 と、さゆが愕然としたのは書を焼かれたことについてではない。父母の埋めた禁術の書がまったくの偽物であったという事実についてである。

 さては始末屋が自らを誘導するためにでまかせを言っているのではとも思ったが、紫幻斎の口調に滲んだ無念はどう聞いても本物であった。

 それが更にさゆを惑わせ、平静を奪ってゆく。


「で、でも、それじゃあ本物の禁術の書はどこに……?」

「それが分かれば苦労はせぬわ。あるいは符術師秘伝の奥義などというもの自体、そもそも存在しておらぬのやもしれぬ。どちらにせよ、やはりあの女を殺してしもうたのが過ちだった」

「あの女?」

「ぬしの母御よ」


 刹那、さゆの息が止まった。

 さゆが最後に母の姿を見たのはその母に促され、燃え盛る秘術の里をあとにしたときである。

 その後の両親の消息は知れず、恐らくあの晩、二人は里と命運を共にしたのだろうとさゆは信じて疑わなかった。

 されど目の前に現れた老年の始末屋は言う。


「まったく未熟者どもめが、せっかく生け捕りにした捕虜を加減も忘れて死なせおって。こうも失態続きでは、我らの首もいよいよ危うい。お気の短い玄田様のこと、秘術の里の次は無能の集まる里とて我ら北原の里まで焼かれかねぬぞ」


 と、紫幻斎がじろりと睨みを利かせたのは背後に控えた数人の若い影であった。彼らは棟梁格である紫幻斎に悪態をつかれるや、まるで親に叱られた子のように肩を竦めている。

 しかしそんな始末屋たちの様子など、もはやさゆの目には映っていなかった。

 わなわなと唇が震え、息が細くなる。

 その息の下から言う、


「あなたたち……母さんに、何をしたの」

「ほう、知りたいか?」


 振り向いた紫幻斎が薄い唇をにたりと吊り上げ、目を細めるように笑った。瞬間、さゆの中で何かが弾け、全身が砕けんばかりに打ち震える。

 一瞬ののち、洞穴の中にほとばしった光が轟音となり、九嵋山を鳴動させた。

 その音に驚いた山の野鳥たちが悲鳴を上げて飛び立ってゆく。

 雷鳴である。


「――面白し」


 と瞬時に洞を抜け、さゆの放った雷撃を回避した紫幻斎が、白煙の中で細く笑った。

 その笑い顔が、蛇に似ている。洞の入り口では逃げ遅れた若い忍が二人ほど倒れていたが、それを気にした素振りもない。

 ときにその二つの死骸を踏み越え、ゆらり、煙の向こうから現れた影があった。


 さゆ。

 その面、鬼相。


 されど頬は涙で濡れている。


「殺してやる……!」


 呻くように言ったさゆの手には、青白い雷気をまとう符があった。その符の力が尽きぬ限り、さゆは次々と雷が撃てる。

 だが紫幻斎に怖じた気配はなく、それどころか愉快そうに口角を歪めた。

 笑うと目尻の皺が深くなる。それがこの老人の、始末屋としての本性を剥き出しにした面貌である。


「愚かな。我ら始末屋とやり合う気か、娘。ならばこちらも相手になろう。ここは一つ、玄田様の機嫌直しに、ぬしの首から上をもぎ取ってゆこうではないか」

「そうはさせぬぞ」


 瞬間、太刀風が巻いた。紫幻斎の体は猿のごとく機敏にそれへ反応する。

 とっさに地を蹴り、身を翻し、向かってきた刃を防いだ。

 その紫幻斎に斬りかかったのは、白刃を抜いた七兵衛である。


「ようやく現れたか、七代目飛沢とびさわ克之進かつのしん

「昔の名で俺を呼ぶな。今の俺は、よろず屋吉村きちむら七兵衛だ」


 不機嫌に言った。言いながら七兵衛は渾身の力で刃を弾き、紫幻斎との距離を取った。

 一方の紫幻斎も弾かれた力を利用して再び宙へ舞い、丸めた体をくるくると回転させて背後へと跳ぶ。その身のこなし、跳躍力、どれを取っても老人とは思えぬ動きである。


「貴様が北原の現当主か」

「左様。我こそが十代目北原紫幻斎の名を継ぎし一門の長。会いたかったぞ、闇世やみよの鬼よ」

「はて、一体たれのことを申しておるのか」

「とぼけ癖のある男じゃ」


 と、紫幻斎は如才なく刀を構えたまま低い声で笑った。その頃、七兵衛の背後には木の梢から跳躍してきた利吉が降り立ち、同じく刀を抜いて北原の一味を警戒している。

 が、それを見て怒気を露わにしたのはさゆであった。さゆは麓で気絶させたはずのよろず屋が性懲りもなく現れたと知るや、口角泡を飛ばす勢いで怒声を上げる。


「あなたたち、何しに来たの!? そいつらは私の仇よ、邪魔をしないで!」

「馬鹿を申すな、そなたを守るが俺たちの仕事だ。そもそもそなた一人でこの人数の始末屋を相手取るのは荷が重い」

「ほほっ、これは愉快なことを言う。ならばその小娘ごときに隙を衝かれ、まんまと昏倒させられるほど腕の鈍った始末屋には、我らの相手などよりいっそう荷が重かろう。そうではないか、克之進?」


 と、紫幻斎はやはり蛇のように笑いながら、またしても古い名で七兵衛を呼んだ。克之進というのは七兵衛がまだ始末屋であった頃の号で、紫幻斎という名もそれに当たる。

 始末屋には代々、一門の当主が定められた一つの号を襲名するというしきたりがあり、紫幻斎が七兵衛を克之進と呼ぶのはその名残であった。


 が、さゆがこのとき目を見張って固まったのは、そういう始末屋の事情を知ってのことではない。

 紫幻斎が七兵衛に向かって投げた〝始末屋〟という言葉に愕然としたのである。


「じじい、何度も同じことを言わせるな。俺はよろず屋七兵衛だ。だいたい貴様は愛嬌というものを知らぬ。爪を隠すのにも女を口説くのにも、まず肝要なのは愛嬌だ」

「くくく……ますます面白し。始末屋時代には愛嬌などとは無縁であった〝鬼の七兵衛〟がそれを言うか。貴様の悪名は、我が一門にもよくよく聞こえておるぞ。しかし惜しいかな、どうせ対峙するならば呪いによって牙を抜かれる前の鬼と相見えたかったわい。今の貴様からは、闇世を震え上がらせていた頃の覇気をまるで感じぬ」

「当然であろう。俺には貴様らと争う理由がない」


 答えた七兵衛の言葉つきは恬淡てんたんとしていた。その目は眼前の紫幻斎だけを見据え、微かに肩を震わせたさゆの方には見向きもしない。


「ここは穏便に刀を引け、紫幻斎。貴様らがさゆを狙う理由はもはやなくなったのであろう。ならばさっさと鴉土国あどのくにへ引き返し、貴様らの主にそう伝えよ。俺も益のない争いはしとうない」

「つれないことを申すな、克之進。儂はかねてより、この余生のある内に、かつて化生けしょうだらけの闇世でなお〝鬼〟とまで呼ばわれた貴様と斬り合うてみたいと思っておった。何よりここで鬼を討ったとなれば、我が一門の名もいよいよ瑞穂三界に轟き渡ろうというもの。貴様は益もなしと申すが、我らにとっては一門の名を売る千載一遇の好機よ」


 紫幻斎のその言葉を合図としたかのように、七兵衛を囲んだ北原の手勢が一斉に刀を抜いた。

 それを一瞥した七兵衛は小さく舌を打ち、さも大儀そうな口振りで言う。


「どうしてもやるのか」

「無論」

「ならば、俺も加減はせぬぞ」

「さて、それは見物じゃな。人を斬れぬ呪いに冒された鬼が果たしてどう足掻くのか、この紫幻斎がとくと見届けてやろうではないか!」


 言うが早いか紫幻斎はとっと地を蹴り、刃を振りかざして宙に躍り上がった。七兵衛もそれに合わせて跳躍し、宙空で刃をぶつけるとそのまま交差し着地する。

 その七兵衛へ群がろうとした北原の忍の前に、利吉が体を滑り込ませた。

 懐に暗器を忍ばせてある。手裏剣と呼ばれる、投擲とうてき用の小さな十字の刃である。


 それを素早く取り出すや、利吉は端から忍を狙い撃ち、相手が怯んだところへ猛然と斬りかかっていった。

 一方の七兵衛は、その利吉の攻撃をかわして迫った忍を一人、二人と打ち倒す。斬っているのではない。刀の峰で急所を打ち、その場に昏倒させているのである。


「喝っ!」


 と、そこへ獣のように飛びかかってきた紫幻斎の刃を受け止め、二合、三合と七兵衛は激しくしのぎを削った。

 が、四合目を打つと見せかけて紫幻斎の刃を躱し、再び体位を入れ替える。そうすることで、洞の入り口に立ち尽くすさゆの傍へと移ったのである。


「さゆ、そなたはその洞の奥に身を隠していろ。こやつらは俺と利吉が引き受ける」

「厭よ。私に指図しないでちょうだい、人殺し!」


 ときにさゆの口から飛び出した罵声を聞き、七兵衛は目を丸くした。

 その語調があまりに鋭かったので、不覚にも面食らったのである。


「あなたも始末屋だったなんて、そんなの聞いてないわ! 今までずっと騙してたのね!」

「いや、別に騙してはおらぬ。俺と利吉は始末屋だ。殺しの稼業からは手を引いた」

「どっちだって同じことよ! あなたたちみたいな殺し屋に助けてもらう義理なんてない。私は私の手で両親と里の仇を討つわ!」

「おい、待て」


 叫ぶや否や駆け出したさゆを止めようと、七兵衛はとっさに手を出した。が、その指先がさゆの肩に触れる寸前、またしても閃光が起こり、七兵衛の手は音を立てて弾かれる。

 当然であった。さゆは未だその懐に結界の符を入れていた。

 しまったと思ったときには既に遅く、さゆは紫幻斎の正面に飛び出している。


「どけ、娘!」


 紫幻斎が吼えた。されどさゆには結界がある。

 怯まず、手にしていた符を構えた。先刻七兵衛らを昏倒させ、北原の忍を襲った雷撃の符である。


「迅風招雷!」


 雷撃は四方に炸裂した。先の二回の稲妻とは較べものにならぬ規模である。

 青白い雷は八岐やまた大蛇おろちのごとく暴れ狂い、方々の岩を砕き、利吉と戦っていた北原の忍まで巻き込んだ。

 危うく利吉もその巻き添えを食いそうになり、慌てて崖の先へと飛び込むと雷撃を避け、斜面の下へと滑り落ちていく。


 紫幻斎も跳び上がってそれを躱したが、直後、真横から別の雷蛇が牙を剥いてそこに迫った。

 すさまじい勢いで地を這った雷撃はやがて爆発を呼び、あたりには濛々と砂煙が立ち込める。


「仕留めた……!」


 と、さゆは荒い息をしながら、されど口辺に笑みを浮かべて汗を拭った。力を使い果たした符は黒く焼け焦げてしまったが、最後の一撃には確かな手応えを感じたのである。

 その頃には利吉も斜面から顔を覗かせ、恐る恐るといった素振りで洞穴の前のわずかな平地を窺った。

 が、そのとき、怯えた利吉の視線の先で、土煙の中を跳び上がった影がある。


「――! さゆさん、上です!」

「えっ」


 上、と言われ、さゆは素直に自身の頭上を仰ぎ見た。そこに、洞穴の上の斜面に足場を得、さゆを見下ろした紫幻斎がいる。

 その手には、半弓。矢は既につがえられていた。

 どうやら先刻のさゆの一撃は、紫幻斎ではなく岩を直撃していたらしい。


 それに気づいたさゆが目を見張った刹那、びんっと弦音が鳴った。

 途端に紫幻斎の手を離れた矢が、さゆを目がけて一直線に飛んでゆく。


「あっ!」


 とさゆが声を上げたときには閃光と共に結界が砕け、その右肩に矢が突き立っていた。さゆはその衝撃で背中から倒れ込んでいく。

 そのまま地面に頭を打ちつける直前、駆けつけた七兵衛がとっさにその体を支えた。

 結界を破られた負荷のためか、さゆは気を失っている。その肩に刺さった矢のには、一枚の符が巻くように貼られていた。恐らくはその符がさゆの結界を破ったものと思しい。


「さゆ!」

「まったく、どこまでも短慮な娘よ。我らが何故この地の結界を破り書を手にすることができたのか、それすらも考えずに飛び出してくるとは、呆れ果てて物も言えぬわ」

「じじい、貴様……!」

「貴様も貴様だ、克之進。生き恥を晒して飛沢一門を出奔しただけでは飽き足らず、今や春巳はるみ女郎めろうごときに顎で使われ、左様な娘のお守りなどさせられておる。四年前、呪いを受けたと分かったときに大人しく腹を切っておれば、そこまで落ちぶれることもなかったであろうに」

「黙れ、老いぼれ。俺の生き方を、貴様のような老猿にとやかく言われる筋合いはない」


 ときに言った七兵衛の声が、一段と低かった。次いでさゆを地に寝かせ、ゆらりと立ち上がった七兵衛の目が、紛れもない狂気を帯びている。

 その身から噴き出し、立ち上った獰猛な殺意が瞬く間に紫幻斎を呑み込んだ。

 されど老人はおののくどころか目を細め、にたりと笑って七兵衛を見下ろしている。


「ようやく角を見せたか、闇世の鬼よ」


 紫幻斎は愉悦のあまり舌舐めずりでもしそうな心境だった。今の七兵衛の面貌はどう見ても始末屋のそれである。

 が、それを見て慌てたのはむしろ利吉の方だった。利吉は主が怒りで我を忘れていると知るや急いで斜面の縁を這い出し、声の限りに叫ぼうとする。


「駄目です、七兵衛さん! そいつを斬ったりしたら、呪いが――」


 しかしその言葉をみなまで言わせず、やにわに横から斬りつけてきた人影があった。北原の忍が、紫幻斎の他にもまだ生き残っていたようである。

 利吉はその防戦に追われ、もはや七兵衛を止めるどころではなくなった。

 直前の利吉の声は、やはり七兵衛には届いていない。


「俺の目の前でおなごを傷つけた罪は重いぞ、じじい。貴様らに里を焼かれたこの娘を、いたぶりわらって何が愉しい」

「何じゃ、麓で仲違いしていたかと思えば、思いのほかその娘に入れ込んでおるようじゃな。そのような愚かな娘に、何故そこまで肩入れする?」

「泣いていた」

「ほ?」

「貴様らに母を殺され、泣いておったろう」


 その娘に更なる追い討ちをかけるとはどういう了見か、と七兵衛は訊いているのだった。

 それを察した紫幻斎は束の間呆気に取られるや、すぐに仰け反って笑い出す。


「ふはははっ、そうさな。確かに泣いておったわ。しかしそれがどうした。その涙のために儂を斬れば、貴様の命もそこで尽きるのだぞ」

「本当にそう思うか?」

「噂がまことならば」

「では、試してみよう」


 低く言った。瞬間、紫幻斎の視界から七兵衛の姿が消えた。


 紫幻斎が一つ瞬きをした、その間の出来事である。


「馬鹿な」


 驚いた老人の呻きを利吉も聞いた。打ちかかってきた忍は既に斬り捨ててある。

 そうして斜面を見上げた利吉の足元へ、ときにごろりと何かが転がってきた。

 刀を握った老人の右手である。

 見れば、岩の上にいる紫幻斎の手首から先が、ない。


「ぐわあああっ!」


 紫幻斎も一拍遅れてその事実に気がついたらしく、悲鳴を上げて斜面を転がり落ちた。

 血の噴き出した右手首を、必死の形相で押さえ込んでいる。我が身に起こった出来事が信じられぬ、という顔である。


 その紫幻斎を、彼のいた岩よりも更に上の高みから、七兵衛が冷然と見下ろしていた。

 刀の先を、血が滴っている。

 ときにその七兵衛を、額に珠のような汗を散らした紫幻斎が目を剥いて睨み上げる。


「お、おのれ、克之進……未だそれほどの技と力を持ちながら、なおも闇世に背くと言うか……! 心に鬼を飼ったまま、よくも堅気に身を落としたなどと……」


 と言いさして、何が可笑しかったのか、紫幻斎は不意に笑った。

 その笑いはやがて大笑に変わり、狂気ともつかぬ老人の笑いがもののけの山に響き渡る。


「だが忘れるな、克之進。儂の右手を奪った代償は高くつくぞ。貴様がいくら逃げ回ろうと、闇に生まれ、闇に還るが始末屋のさだめ。そのさだめからは決して逃れられぬということを、今に思い知るがいい!」


 唾を飛ばし、裂けるような笑みを浮かべて吼えた紫幻斎は、次の瞬間姿を消した。その後ろ姿が猿のようにくさむらへ飛び込み、斜面を駆け下りていくのが見える。

 だがそれを追う影はなかった。紫幻斎の連れていた忍衆は一人残らず利吉に斬られるか、さゆの符術にたおれるかして、一様に地に伏している。

 ところがそのとき、山を包み込んだ静寂を小さく破る音があった。利吉がはっと見やった先で、洞の上の斜面から七兵衛の刀が転がり落ちてくる。


 ゆらり、月を背に高台に立った七兵衛が、物も言わず脇差を抜くのが見えた。

 途端にぞっと背筋が凍り、利吉は慌てて斜面を駆け登っていく。


「七兵衛さん!」


 抜き放った脇差を、七兵衛は己の腹に向けた。

 それを一思いに突き立てようとした瞬間、利吉が七兵衛の腕を取り、すんでのところで食い止める。

 だが脇差を握った七兵衛の手はなおも腹を裂こうとし、利吉の制止に抗った。

 その手を見つめた七兵衛の双眸から、自我の光が消えている。


「しっかりして下さい、七兵衛さん! 呪いなんかに呑まれちゃ駄目です! おれの声を聞いて下さい、七兵衛さん!」


 執拗に腹へ向かおうとする刃を引き止め、利吉は声の限りに叫んだ。双方の力が拮抗し、七兵衛の手中で脇差が微かに震えている。

 が、そのとき、


「――利吉」


 七兵衛が呼んだ。

 利吉がはっと目を上げた先で、七兵衛の眼が自我を取り戻している。


「少し、こらえる。足を使え」

「へい!」


 頷くが早いか、利吉はぱっと七兵衛の手を放し、直後に頭上の枝を掴んだ。

 ぶら下がり、地を蹴って勢いをつけるや、その足で七兵衛の両手を蹴り上げる。

 途端に脇差は宙を舞い、月明かりを受けながら崖下へと落ちていった。

 それでようやく七兵衛の暴走も止まり、両者、深い息をつく。


「大丈夫ですか、七兵衛さん? どこかお怪我は」

「ない。だが久方ぶりに人を斬ったせいか、前にも増して体が言うことを聞かなんだ」


 答えた七兵衛の息は上がり、額には汗が浮かんでいた。

 脇差を握り締めていた手は赤く腫れ、掌にはうっすらと血も滲んでいる。


「それともあのじじいの戯れ言に、我が心が惑うたか。どちらにせよ不甲斐ないことよ」


 吐き捨て、苦々しい顔をした七兵衛は、やがて逃げるように斜面を下った。

 利吉も数瞬、その背を何とも言えぬ表情で見つめるや、あとを追って洞穴の前へと下りてゆく。


「さゆ」


 ときに大小を拾い上げ、血を拭って鞘に戻した七兵衛が、倒れたままのさゆの傍らへ膝をついた。

 その右肩に突き立っていた矢を抜くと、ひとまず止血を施してやる。しかしさゆが気がつく気配はなく、紫幻斎の放った矢を掴んだ利吉が、鏃の具合をちょっと確かめながら言う。


「北原の連中、どうやら玄田方についた符術師から面倒な技を習ったみたいっすね。ですが、幸い毒は塗られてないみたいです。元々はさゆさんを攫うつもりでいたようですから、殺す用意はなかったんでしょう」

「そのようだな。とにかくまずは山を下りるぞ。このままではろくに手当もしてやれぬ」

「へい」


 頷きながら、利吉は矢を両手で持ち、それを真ん中からぽっきりと折ってしまった。その様子を後目に七兵衛はさゆを抱え上げ、横抱きにして軽々と立ち上がる。

 そのとき、先刻さゆが流した涙の跡を、月がうっすらと照らし出した。

 目が腫れている。

 七兵衛はそれを見ないよう、顔を背けた。

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