陸.罠
おかしい。
瑞穂屈指の峻岳と呼ばれる九嵋山を前にして、七兵衛は一人首を拈った。
春巳国と佰狗国の封境に跨がる山海を横断してからこの方、三人の旅が順調すぎるのである。
「罠かもしれぬな」
と、いつになく真面目くさった顔で言ったこの男を、炉を挟んで向き合っていた利吉とさゆが振り向いた。
山海を抜けてから四日。一行はついに、九嵋山から最も近い農村にいる。
「罠?」
と、七兵衛の口を衝いて出た不穏な言葉に、さしものさゆも細い眉を曇らせた。緋淵を発ち、既に十日以上が経つ今も、この娘はよろず屋に心を開いてはいない。
そのさゆが自ら声を発して聞き返してきたということは、よほど七兵衛の言に興味を持ったということであった。さゆはそれ以外の場合にはまったくと言っていいほど口をきかず、こちらがいくら声をかけても涼しい顔で無視するのである。
これには人懐こい性格の利吉も閉口したようで、今では柄にもなく寡黙な男を演じていた。どこの馬の骨とも知れぬ輩と馴れ合う筋合いなどない、と言われれば、なるほど七兵衛たちも反論のしようがない。
が、そのさゆが珍しく会話を成立させてきたので、七兵衛は鷹揚に頷いた。
「左様。俺たちの居場所は既に北原の一味に割れている。だのに連中はそなたを攫いに来るどころか、ちらとも姿を見せようとせぬ。さては俺たちを泳がせて、禁術の書の在処まで案内させようとしているのかとも思うたが、それにしては尾行もないようだ。これを奇妙とは思わぬか」
と、七兵衛は言う。表情はやはり真面目くさっていた。
しかし、その姿勢にだらしがない。七兵衛は村の者に銭を渡して借りた空き家の奥にごろりと寝そべり、無気力に両足を投げ出しているのである。
「まあ、確かにそれはそうっすね。おれはてっきり、山を下りたあたりで一悶着あるだろうと思ってたんですが、結局ここまで何の妨害もありませんでしたし」
「いくら烏の目があるとは言え、俺たちから禁術の書を奪おうとしているのなら、そろそろ気配を見せてもいい頃だ。それがまったくないというのが、かえって気になる」
「それは向こうが巧妙に姿を隠してるからじゃないの? そういうのが得意なんでしょう、始末屋って」
「さて、な。だとしても俺たちは鼻がきく。特に始末屋はどいつもこいつも血生臭い連中ばかりだからな。接近されれば匂いで分かる。俺たちがそれに気づかぬということはまず有り得ない」
「それは大した自信ですこと」
気もなく言って、さゆは炉の火に手を翳した。七兵衛たちのよろず屋としての能力を、まったくもって信用していないという顔である。
が、当の七兵衛も口では説教くさいことを言いながら、直後には大口を開けてのんきにあくびなど零しているのだからその実力を疑われるのも無理はなかった。何よりさゆがこの男を胡散臭いと思っているのには、理由がある。
それは今から二日前、一行が一晩の宿を求めて宿場町に寄ったときのことだった。一行は男二人と女一人に分かれて部屋を取り、前の宿場から一日歩き詰めた体をゆるりと休めることにした。
ところがその夜も更けた頃、疲れ切ってすやすやと寝息を立てていたさゆのもとに、七兵衛が音もなく忍び込んだ。元は始末屋として腕を鳴らした男であるから、夜陰に紛れ、何者にも覚られることなく隣室へ侵入することなど造作もない。
が、問題はそのあとだった。七兵衛は得意の下心から褥の上にいるさゆへ手を伸ばし、その細い体をいきなり掻き抱こうとした。
途端にさゆが懐に入れていた符が弾け、七兵衛は閃光と共に見事吹き飛ばされたのである。
それはさゆが、護身のためにと符術による結界――何人もその内には立ち入らせぬ不可視の壁――を張っていたためで、真夜中に響いたすさまじい破裂音に、宿中の客がすわ何事ぞと跳び起きた。
当然結界を張っていた当人であるさゆもその場で跳ね起き、さては敵襲かと身構えたが、見れば部屋の隅では自身の護衛であるはずの男が無様にひっくり返っている。
その有り様を見たさゆは、これは一体どういうことかと怒りに肩を震わせて七兵衛を問い詰めた。すると七兵衛はけろりと居直り、
「人の理解し合う心とは、由来、言葉の外にある。ゆえにそなたとも言外に語り合うべく、夜分参上仕った」
と恥ずかしげもなく言ってのけたのだからさゆも呆れた。遅れて駆けつけた利吉などは、
「いっそそのまま地の果てまで飛ばされてしまえば良かったのに」
と辛辣なことを言っていたが、七兵衛はやはり悪びれもせず、
「どんなに頑ななおなごでも、一度体を開いてしまえば心も開く。俺はその理屈で、これまで何人ものおなごを虜にしてきた。ゆえに此度も互いの肌を合わせるところから始めるべしと思うたまでよ。さすれば俺のこの色香で、さゆも明日には健気な娘になっていたに違いない」
と自信たっぷりに開き直ったため、余計にさゆの嫌悪を買った。
そんなことがあって以来、よろず屋とさゆの間の溝は深まる一方である。ゆえにさゆはつんとそっぽを向き、
「きっと根も葉もない噂だったのよ」
と吐き捨てた。冷ややかな声色である。
が、七兵衛は何のことか分からず、
「噂とは?」
と、途中まで出た大あくびを殺して言った。
時刻は既に戌の半刻(夜九時)である。九嵋山へは明日の朝夜明けと共に発つと決めてあるから、七兵衛は正直、そろそろ床に入りたかった。
「その、北原とかいう始末屋が使うっていう妖術の話。そんな噂を作って流せば、下衆な商売の役に立つとでも思ったんじゃない? だけど実際には烏を操る力なんてなくて、今頃は私たちを血眼になって捜してるのかも」
「しかしそれでは、山海を抜ける前のあの烏の群は何とする」
「あれはただの偶然よ。烏は元々群で行動する鳥だから、ああして集まるのも珍しくない」
「なるほど、それは名推理だ。そうであることを願いたいものよ」
言って、七兵衛はごろんと寝返りを打ち、その広い背中をさゆへと向けた。
それが、さゆには馬鹿にされたと映ったらしい。むっと気色ばむと語調も荒く、
「だいたいその話が本当なら、癸助さんが黙ってるはずないもの。癸助さんだって北原一門のことを調べてたからには、その噂を知ってたはずでしょう。なのにそれを私に伝えなかったのは、きっと信憑性が薄いと思ったからだわ。そんな不確かな噂をわざわざ教えて、私を不安にさせる必要はないって」
「……。さゆ。そなた、あの男にはほとほと心酔しておるようだな。さては――」
「あっ、あーっ! そ、それじゃあ、こういうのはどうっすか!?」
――抱かれたか、と、ときに七兵衛が破滅的な一言を続けようとしたのを察し、利吉が慌ててその先を遮った。ここで更にさゆの不興を買おうものなら、二度と口をきいてもらえぬどころか御役御免を言いつけられる恐れがある。
そうなってはよろず屋の看板、ひいては今後の暮らしまで危うくなると考えた利吉青年は必死だった。ゆえに言う。
「き、北原一門は、さゆさんの故郷を攻めた一件で、符術師と戦うのがいかに難儀かってことを知ってるはずっすよね。この間七兵衛さんがまんまと引っかかった結界一つを取っても、あんなもんを張られちゃあ、最後はさゆさんと北原の根比べになるわけですし」
「まんまと、は余計だ。俺はあの晩、いかなる障害も辞さぬ覚悟で夜這いを」
「だから北原としては、できれば符術師であるさゆさんとまともに戦うことは避けたい。となると、何とかしておれたちより先に禁術の書を手に入れるのが一番手っ取り早いってことになる。それで烏操の術を使っておれたちが九嵋山に向かってることをつき止め、一足先に山に入った。それなら尾行がないのにも納得がいきますし、禁術の書の場所さえ分かればおれたちと争う理由はないわけですから、わざわざ襲ってくることもないんじゃないっすかねぇ」
と、このとき利吉青年は、険悪になった主人と客の仲を取り持つことに夢中で、己が失言にまったく気づいていなかった。
失言、と言うが、なるほど利吉の立てた仮説には一応筋が通っている。筋が通り過ぎていたからこそ、失言になったと言っていい。
利吉のその仮説を聞いたさゆは瞬く間に顔色を変え、直後、板敷を蹴って粗末な小屋を飛び出した。これには利吉も度肝を抜かれ、弾かれたようにさゆのあとを追っていく。
「さ、さゆさん、待って下さい! どこに行くんですか!?」
と、薄桃色の小袖を着た後ろ姿に問いかけたものの、答えは聞くまでもなかった。
九嵋山。
さゆが里の畦道を息せき切らせて駆けてゆく先には、その名を冠した霊山が闇を従え、黒々と聳え立っている。
「さゆさん!」
敵が既に九嵋山にいる。そう信じて駆けてゆく少女の背中を、利吉は懸命に追った。
その足が、並の速さではない。飛ぶように駆けていく。
始末屋時代、利吉のその駿足はちょっとした伝説のように騒がれたほどで、彼の師である七兵衛さえも容易に追いつけないほどだった。
その鍛え抜かれた双脚から、妖術が使える以外はごく平凡な少女であるさゆが逃げ切れるはずもない。
「いやっ、放して!」
やがて背後からぐんぐんと近づいた利吉がその腕を取ると、さゆは暴漢に捕まった生娘のように暴れた。
利吉はそれを持て余しながらも、何とかさゆをなだめようとする。
「さゆさん、聞いて下さい! さっきのあれはただの憶測です。不用意な言い方をしてすみませんでした。今日はもう遅いですし、山に入るのは日が昇ってからにしましょう。ね?」
「厭よ! もしも連中が私より先に九嵋山に入ってるなら、朝が来るのなんて待ってられないわ! 早く、早く禁術の書の無事を確かめなきゃ……!」
「落ち着け、さゆ」
と、ときに揉み合う二人の背後から、どっしりと重みのある声が響いた。
見ればいつの間に追ってきたのか、そこには音もなく現れた七兵衛が腕を組んで佇んでいる。
「気持ちは分かるが、今宵はいくら月が明るいとは言え、峻嶮で聞こえるあの山を夜中に登るのはあまりに危険だ。ここは利吉の言うとおり、日が昇るのを待って山に入るが得策だろう」
「あなたたちは、あの書がどんなに危険なものか知らないからそんな悠長なことが言えるのよ! あれがもし玄田の手に渡ったら、春巳国どころか瑞穂中が大厄災に見舞われることになるわ!」
「しかし、それほどの禁術が記されているというその書が、そう易々と敵の手に渡るものかな。だとすればそなたの両親は、よほど杜撰なやり方で書を隠したということになるが」
そう言った七兵衛は利吉同様、ここまで畦道を馳せてきたにもかかわらず、汗をかくどころか息一つ乱していなかった。
一方のさゆはと言えば肩で大きく息をしながら、七兵衛の言に束の間ぐっと押し黙る。
「……確かに父さんと母さんは、禁術の書を封じた箱に強力な結界を張ったと言っていた。だけど玄田は、始末屋の他にも腕のいい符術師を雇ってる。その術師の中に父さんや母さんより優れた術師がいたら、結界はすぐに破られるわ。こんなところでぐずぐずしてなんかいられない」
「だとしても、相手とて広大な山一つ隅々まで探し回るのがいかに骨の折れることか、よくよく理解していよう。ならば策を弄してそなたを焦らせ、体良く封印までの道案内をさせようとしている可能性もある。だとすれば、ここで動くは敵の思う壺だ。第一、闇の中での戦いを最も得意とする始末屋を夜間に相手取るのは分が悪い」
長身の七兵衛が小柄なさゆの前に立つと、自然、彼女を上から見下ろすような形になった。さゆはそれに気圧されたらしく、またしてもうつむいて押し黙る。
しかし、そのときだった。
理路整然とこちらの不利を説いた七兵衛の頭上を、ばさばさと無粋な音を立て、通り過ぎた影がある。
「――かあ、かあ、かあ」
その羽音の主が三人のいる畦道の先に降り立ち、嘲笑うような声を上げた。この夜分に烏が鳴くというのは、いかにも不気味なことである。
それも一羽や二羽ではなく、初めの一羽が現れると、里のあちこちから無数の烏が群がってきた。
その群はやがて満月の光を受けながら一斉に闇の中を羽ばたき、里より一里ほど西にある九嵋山へと吸い込まれていく。
「か……烏が、山に集まってく……!」
その異様な光景を目にしたさゆは、利吉に腕を掴まれたまま慄然と立ち尽くしていた。あたかも三人を山へ誘うかのような烏の群は、とても自然に集まったものとは思えない。
――烏操の術。
このときさゆは否が応でも、その特異な妖術の存在を信じざるを得なくなった。
そして、その術に操られた烏たちが一斉に山へ向かって飛んでゆく理由など一つしかない。
「罠だ。行くな」
落ち着き払った声色で、七兵衛が短く言った。その声にさえびくりと肩を震わせるほど、少女の緊張は極限に達している。
だがしかしあの山に今、里を滅ぼした連中がいるのだ。その思考がさゆという娘の心をみるみる塗り潰してゆくことに、七兵衛は気づけなかった。
不覚と言っていい。次の瞬間、ひゅっと何かが空を切り、七兵衛の眼間で光の線が弧を描く。
「――迅風招雷!」
符だ。さゆの手の中で光を放った紙切れを七兵衛がそう認識した刹那、彼の目の前は真っ白になった。
直後に聞こえた雷鳴を聞き届ける暇もなく、並んだ七兵衛と利吉の体を青い稲妻が貫いていく。
次に気がついたとき、七兵衛は畦道に寝転んで空を見ていた。
ため息が出るほど美しい、中秋の名月である。
「やられた」
その月に向かって、七兵衛は仰向けに倒れたまま悪態をついた。
一体どれほどの間気を失っていたのか分からないが、気づけば月は天心にかかろうとしている。
そこでむくりと体を起こせば、隣では利吉が未だに目を回していた。それを見た七兵衛はちっと舌打ちし、立ち上がるや否や容赦なく利吉を蹴りつける。
「おい、起きろ馬鹿者」
「痛っ! す、すみません、七兵衛様! 忍務ですか!?」
「お前はどこの始末屋だ。寝ぼけている場合か」
あまりの痛みに跳ね起きた利吉は、畦道を転がるようにしながら身を起こした。が、少々意識が朦朧としているらしく、仏頂面で佇む七兵衛を見てははてと首を傾げている。
「あ、あれ、七兵衛さん……? おれたち、何してたんでしたっけ?」
「雷に頭をやられたか。お前がのんきに下忍時代へ戻っている間に、さゆが行ってしもうたぞ。まったくお前というやつは、それでも元飛沢の忍か」
「……! そ、そうだ、さゆさん! 確かおれたち、さゆさんの符術を食らって……!」
自らの失態を棚に上げ、恨み言を垂れる七兵衛を半ば無視し、利吉はその場に立ち上がった。見ればさゆの姿は既になく、月の光だけが皓々と里の田畠を照らしている。
あれほど夜を騒がせていた烏の声もふっつりと止み、あたりには異様な静けさがあった。
虫も鳴かぬ。その不気味な静寂が、利吉の焦燥を更に煽ったようである。
「七兵衛さん。あの様子じゃ、さゆさんは一人で九嵋山に……!」
「であろうな。まったく、意外に奔放な娘だ。そういうところも悪しゅうはないが、しかしいきなり人に雷を見舞うとは……」
「そんなこと言ってる場合ですか! とにかく追いかけますよ! さゆさんの身に万一のことがあったら、七兵衛さんだってただじゃ済みませんからね!」
「それは困る」
と、このとき七兵衛はさゆの護衛の依頼主である春巳将軍の加虐的な笑みを思い浮かべ、恐懼した。先刻の烏の件を見るに、北原があの山に潜んでいることはまず間違いない。
その死地とも言うべき九嵋山へ単身飛び込んでいったさゆを追い、七兵衛と利吉は地を蹴った。
その足が異様に速い。
速駆けと呼ばれる始末屋独特の走法である。
「これはまた、難儀な山だな」
と、やがて九嵋山の麓へ辿り着くや、山肌を見上げた七兵衛がうんざりとした口調で言った。
なるほど、九嵋山は天嶮の霊山という噂に違わず、見上げた先には険しい斜面が延々と続いている。
それも人が歩けるような勾配ではなく、木々も半ばまで横様に生え、幹を曲げて何とか立っているような有り様であった。
斜面のあちこちからは岩も突き出し、山全体が頑強な鎧をまとって大地に鎮座しているようにも見える。
これほど峻烈に人を拒む山というものを、七兵衛もかつて目にしたことがなかった。九嵋山の斜面はどこから見上げても崖と言って良く、ここまで来ると太古にもののけが棲み人を遠ざけていたという伝説にも頷ける。
されどそこで引き返すわけにもいかず、やがて二人のよろず屋は道なき道を駆け上がり始めた。
その足取りが猿のように軽い。地面を直接踏み締めて進むのではなく、突き出した岩、緩やかに曲がった木の幹などを次々と蹴り、器用に飛び移って登ってゆくのである。
(しかしこの山を、さゆはまことに登っていったのか。――)
と、七兵衛は一抹の疑念を抱かずにはいられなかった。夜目の利く始末屋上がりの七兵衛たちならいざ知らず、これほどの闇の中を少女が手探りで登ってゆくにはあまりに険しすぎる山だ。
一歩踏み間違えれば瞬く間に足を滑らせ、真っ逆さまに落下して、最悪の場合、そこらの岩に体を叩きつけられ死に至る。その情景が七兵衛の脳裏にはありありと浮かんだ。
あるいはさゆは北原の手にかかる前に、どこかで動けなくなっているのではないか。
そんな懸念がふと頭をもたげ、七兵衛がついに足を止めて山の中腹から眼下へ目をやった、そのときである。
「ぱん!」
と、不意に頭上から盛大な破裂音が聞こえ、二人ははっと顔を上げた。
閃光が降ってくる。近い。しかも聞こえたあの音は、忘れもしない、二日前の晩に七兵衛を軽々と吹き飛ばしたさゆの結界の音である。
「あの音は……!」
岩の上にいる利吉が血相を変えた。それを横目に見るよりも早く、七兵衛は足場にしていた木の幹を蹴り、岩から岩へ飛び移った。
人声がする。
さゆのものではない。嗄れた老人の声である。