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瑞穂草子  作者: 長谷川
6/21

伍.烏操の術

 満目の緑が、鮮やかすぎて目に痛いほどだった。

 ここ数日、盛夏の気候が戻ってきている。頭上を覆う枝葉の間から、真夏の気配を取り戻した陽の光が雨のように降っていた。それが足元の獣道に点々と光のしみ・・を作っている。


 七兵衛たちは目下、春巳国はるみのくに西部に広がる山海さんかいを渡っていた。山海というのは春巳国と隣国佰狗国はくのくにの国境に跨がる無数の山々を指す言葉で、高みから見渡すと大地が時化しけの日の海のように波打って見えることから古来、そう呼ばれている。

 一旦迷い込むと方角を失うことも間々あると言われる一帯で、智恵のある人間ならば避けて通るが賢明と言う者も多かった。

 ゆえに山中に人影はなく、ふと茂みが動いたかと思えば飛び出してくるのはいつも兎や蛇の類である。


「――でもすごいっすよねぇ、符術師って。おれ、本物の符術師にお会いしたのはさゆさんが初めてなんすけど、噂だけはかねがねお聞きしてたんすよ。何でも符術師ってのは、術師一人で百の妖術が使えるって言われるくらい力のある一派らしいじゃないですか。きっと皆さん、そのために大変な修行をお積みになるんでしょうねぇ」

「……」


 その道とも呼べぬ道をぶらぶらと行きながら、先刻から利吉が一人で喋り倒していた。

 無論大声で独り言を言っているわけではない。前を行くさゆに話しかけているのである。


 どうやら利吉は他人との間に積もる沈黙が応えるたちの人間らしく、聞こえるのが草を踏む音だけでは気まずいと懸命に話題を提供している様子だった。

 が、当のさゆはと言えば、そんな利吉などには見向きもしない。黙々と山中を行く。

 時折利吉の問いに答えはするが言葉は短く、ほとんど利吉の存在を無視していると言っても良かった。

 それでも利吉は諦めない。何とかこの頑なな少女と親睦を深めようと、先程から必死に智恵を絞っている気配である。


癸助きすけの兄ぃも言ってましたよ、あれは人間のわざじゃないって。あ、もちろんいい意味でっすけどね。さゆさんの使う妖術のこと、あれはほとんど神業だって絶賛してました」

「……」

「その兄ぃの話では、紙切れ一枚で自在に火や雷を操れるんですってね。さゆさんは他にどんな術が使えるんすか?」

「色々」

「へ……へえ、そうなんすかぁ! きっとすごくたくさんの術を使えるんでしょうねぇ! ちなみにさゆさんは、おいくつの頃から符術の修行を始められたんですか?」

「覚えてない」

「そ、そうなんすかぁ! 覚えてないくらい小さい頃からってことっすね! だけどそこまでたくさんの術を使えるようになるには、きっと血の滲むような苦労をされるんでしょうねぇ。おれ、そういうのって尊敬します!」

「世の中に少しも苦労しないで生きてる人間がいるの?」

「……」


 にべもなく吐き捨てられ、ついに利吉は希望を絶たれた。

 さゆの華奢な背中からは、


「話しかけるな」


 という無言の圧力が、目に見えるほどに立ち上っている。

 そのさゆの扱いにすっかり困じ果てている利吉の後ろ姿を見ていると、七兵衛の脳裏には自然、蓮香れんかと茶を喫したときの記憶が甦った。

 それは今から数日前、よろず屋二人が緋淵あかふち城下で初めてさゆと顔を会わせたあの日のことである。


「訊きたいことがいくつかある」


 と、長躯を折って茶室のにじり口を潜るや否や七兵衛は言った。目の前では茶具一式を揃えた蓮香が主人面で端座している。

 こうして見ると、匂い立つような美人であった。しかし蓮香は色好きの七兵衛がまるで手を出す気も起きないという非常に稀有な女だった。

 狭い茶室の奥には癸助もいる。招かれたのは彼と七兵衛の二人だけ、あとは茶室の内も外も完全に人払いがされている。


「まあ、まずは座れ。茶を喫すべしと申したは貴様であろう。今日は特別に、この私自ら茶をて馳走してやる。有り難く思うが良い」

「蓮香。俺は抹茶が嫌いだ」

「心得ている」


 座敷に上がり、七兵衛がずけりと言えば、蓮香も負けじと笑顔で言った。冬の寒さに耐えた梅の蕾がぱっと開いたような、晴れやかな笑顔である。

 こういう蓮香の気性を、七兵衛は内心苦々しく思っていた。蓮香は七兵衛が抹茶など飲めぬと思っていることを承知の上で馳走すると言っている。つまり露骨な嫌がらせである。


「癸助、茶請けはあるな?」

「お先に」


 と言って、颯爽と懐紙を取り出した癸助が器から茶菓子を取り、更にその器を七兵衛へと回してきた。薄紅色や黄緑の色がついた、洒落た外郎ういろうである。

 七兵衛も仕方なしに懐紙を出し、その上にこの菓子を取った。一応、茶の湯の席での作法は心得ている。しかしこの茶席は偽装である。


 七兵衛が蓮香に茶を所望するのは、言わば内々に話をすべしという隠語のようなものであった。

 蓮香もそれを承知で七兵衛を茶室へ招く。主人と客だけが入ることを許される茶亭は、余人を交えず密談をするにはうってつけの場所だからである。

 ところが蓮香は気分がいいと、密談などそっちのけで茶を点てることがあった。七兵衛の嫌がる顔が見たいためである。

 そしてその日は運悪く、蓮香の機嫌がすこぶる良かった。


「さ、飲め」


 と、形のいい茶碗にさらさらと茶を点て、蓮香は素知らぬ顔で七兵衛にそれを差し出した。飲め、とは、侘び寂びを尊ぶ茶道にはおよそ似つかわぬ高圧的な言葉である。

 だが七兵衛はこれを飲まねば決して話が進まぬことを経験から知っていた。蓮香は紅を差した唇をにこにこと吊り上げて七兵衛の一挙一動を見張っている。飲まねば何も話さぬぞ、という意思を、そうして表しているのである。


「お点前てまえ、頂戴致す」


 渋々、七兵衛は出された碗を手に取り、二度ほど回して口に運んだ。濃茶である。


「不味い」


 と、思わず叫びそうになるのを何とかこらえ、飲み干した。ねっとりとした舌触りがいつまでも舌に残る、不愉快極まりない口当たりである。


「……結構なお点前で」

「それは重畳。癸助、そなたはいつもの薄茶で良いな」

「頂戴致します」


 にこり、と受け流すような笑顔で癸助が言った。裏腹に、七兵衛はこれでもかというほどの渋面を浮かべて蓮香を睨みつけている。

 その視線もものともせず、蓮香は涼しい顔で癸助の分の茶を点て始めた。しかして言う。


「それで? 何だ、貴様の訊きたいことというのは」

「まず一つ。何故俺にも薄茶を出さなんだ」

「そんなもの、貴様が憎いからに決まっておろう」

「執念深い女だな」

「あのさゆという娘ほどではない」

「そう、そのさゆよ」


 と言って、七兵衛は懐紙に乗せていた外郎を手掴みで食べた。しかしまだ、口の中には茶の味が濃く残っている。


「あの娘、どうやらひどくお前を嫌っておるようだな。他人には容易に心を開かぬ娘と見たが」

「ああ、そのようだな。さゆは私が玄田くろたと同じ穴のむじななのではないかと疑っているのだ。つまりくだんの禁術の書を、私も欲しているものと思い込んでいる」

「申し訳ございません、上様。上様がそんなお人じゃないってことは、俺からもよくよく言い含めておいたんですがね。あいつはどうも疑心暗鬼に陥っているようです。里を焼かれてから俺に拾われるまでの間、色んなやつに騙されては裏切られ……を繰り返してきたようですから」

「しかし、そなたにはずいぶんと懐いているようではないか、癸助。私もこれで、あの娘の心を開こうと努力はした。が、やはりそなたのようにはゆかなんだ」

「上様の場合はお立場のせいもございましょう。さゆは玄田のやり方を見て、為政者は敵と見なしているところがあります。それに、俺もこう見えて最初は苦労したんですよ。あいつは初め、自分も俺に籠絡されて遊女にされるんじゃないかと怯えてましたから」

「で、抱いたのか」

「てめえと一緒にすんな」


 身を乗り出して尋ねた七兵衛に、癸助はぴしゃりと吐き捨てた。

 遊女、というのは、癸助が鶴月国かづきのくに亘貫わたぬきに情報屋としての拠点を構えていることに由来する。亘貫は瑞穂でも最大の花街を擁する宿場町なのである。

 癸助はその亘貫で、表向きにはとある女郎屋の楼主という体裁を取っていた。それを思えば彼に助けられたさゆが、その弱みにつけ込まれ自分も遊び女にされるのでは、と震え上がったのも無理はない。


「だが、数いる妖術師の中でも特に優秀と言われる符術師の里が、玄田ごときに易々と滅ぼされるというのも妙な話だ。さては玄田がにわかに妖術使いなど集め始めたのは、秘術の里を攻めるためでもあったのかな」

「そうみてえだな。しかし玄田は結局、禁術の書を手に入れることができなかった。里長、つまりさゆの両親が先を見越して、禁術の書を九嵋山くびざんに隠しておいたからだ」

「そして玄田は目下、その書を血眼になって探しているというわけか。で、何故俺なのだ」

「何?」

「あの様子では、春巳の家来に禁術の書を取りに行かせると言ったところでさゆががえんじなかったのであろう。それであの娘が自ら九嵋山へ行くと言い出した、という経緯なら俺にも察しがつく。だがその護衛に俺が選ばれた理由は何だ。護衛だけなら、別に俺でなくとも務まる者がいるだろう」

「ほう。相変わらず察しだけは良いな、吉村きちむら

「馬鹿を言え。俺は顔も気立ても良いぞ」

「顔は私の方が良い。うぬぼれるな」

「うぬぼれているのはどっちだ。お前は確かに見目は良いが、性格が悪い」

「心外な。貴様にだけは言われとうないわ。のう、癸助」

「どっちもどっちですよ」


 とはさすがに言えず、癸助は二人の子供のような言い合いを曖昧に笑い流した。この二人が顔を会わせればこうして不毛な言い合いばかりしていることは癸助も知っている。

 むしろこの二人の相性が悪いのは、互いの性格が似すぎているせいであろうと癸助などは分析していた。

 が、当人たちが死んでもそれを認めないことは分かっているので、敢えて言わないだけである。


「そもそもだな、そんなにあの娘の信用が欲しいのならば癸助、お前が自分で護衛を務めれば良かろう」

「無茶言うなよ、俺の本業は情報屋だぜ。だから上様もこの一件、お前に任せたいと仰ったんじゃねえか」

「だが始末屋崩れという点では、お前とて俺と同じであろう。そのお前に娘一人守りきれぬということはあるまい」

「しかしそれでは、あの娘は癸助以外の人間に心を開くことを放棄するだろう。貴様はそれがあの娘のためになると思うか?」

「つまり、お前は何がしたい」

「私はあの娘の心を救ってやりたいのだ。そしてそれができるのは吉村、お前しかいない」


 不意に真面目な顔になり、蓮香はいささかの逡巡も滲まぬ口調で言った。

 その目は嘘をついていない。つまり蓮香は、禁術などには毛ほどの興味も持っていないということである。


「あの娘の心を、か。だがそんなことをして、お前に何の得がある?」

「知れたことを。貴様も既に見抜いているだろう。あのさゆという娘は怨讐に取り憑かれている。貴様もかつてあの娘と同じ憎悪に胸を焼かれたことがあったはずだ。そして私も癸助も、同じ業火に焼かれる苦しみを知っている」

「……」

「その苦しみから一人の娘を解き放ってやりたいと願うのは馬鹿げたことか? あの娘に過日の己を重ねるのは愚かなことか」

「蓮香」

「言ったはずだ。私はこの瑞穂の新たなる王となる者だと。だが、目の前で苦しむ娘の心一つ救えないで何が王だ。いずれ瑞穂全土を我が手中に収めるならば、天下の民はあまねく私の民。その民を一人でも多く幸福に導くのが、王たる者の使命である」


 きっぱりとそう言い切った蓮香の言葉つきは、獅子吼にも近かった。いずれは天下を治める倭王に、というのは蓮香の口癖である。

 それが蓮香の民に慕われる所以でもあった。蓮香はかつてその身に降りかかった苦い経験から、瑞穂に戦なき世を築くと豪語して憚らない。

 その自信に満ち満ちた弁舌が民の心を掴み、この稀代の為政者についてゆけば間違いないと思わせる一種の輝きを放っているのであった。

 その点、蓮香の言葉の一つ一つには白刃の鋭さにも似た説得力がある。


「……。お前もそうなのか、癸助」

「え?」

「そんな理由で、お前も俺に賭けてみたいなどと思ったのか」

「そんな理由ってこたぁねえだろ。俺たちみたいな人間にとっちゃ、充分すぎる理由だよ。あの血の臭いしかしねえ暗闇のどん底を俺たちは知ってる。そこからさゆをすくい上げてやりてえって気持ちが、俺にもないわけじゃあない」

「そこまで情が移ったか、はたまたただの物好きか」

「両方だな。あんな風に懐かれたんじゃ、捨て置けねえのが人情ってもんだろ」

「だが俺は、お前たちを救った覚えはないぞ」


 言った刹那、蓮香の顔色が変わった。呆れた、という顔色である。


「たわけ」


 と、そこで蓮香は形のいい顎を持ち上げ、気持ち上から七兵衛を見下すように言った。


「だからこそ私は、この任を貴様に預けると言っている。ここで貴様を討ったところで父母が甦るでもなし、ならば貴様が血反吐を吐くまでこき使い、少しでも我が覇業に貢献させるがせめてもの復讐だ。そして貴様もそれを肯んじているからここにいる。違うか」

「しかし、だからと言って不味い茶を無理矢理飲ませるというのはいかがなものか」

「それは私の趣味だ」


 蓮香はやはりきっぱりと言った。もはや反論する気概も削がれるほどの潔さである。

 そういうところがやはりおろち・・・だと、七兵衛は内心うんざりした。それが顔に滲み出ていたのか、次席では癸助が下を向いて笑いを噛み殺している。


「まあ、上様はともかく、俺はもう言うほどお前を恨んじゃいねえよ。お前がいなきゃ、俺は今もまだ始末屋稼業を続けてたかもしれねえ。それがこうして堅気かたぎになれたのは、他でもないお前の〝力〟のおかげだ。それについては感謝してる」

「その前に堅気か、お前は?」

「お前よかよっぽど堅気だろ。最近は刀を振り回すことも減ったし」

「そういうものか」

「そういうもんだよ」


 と、ときに七兵衛の頭の上で、かあ、と烏が一声鳴いた。

 記憶の中でのことではない。

 利吉やさゆと共に歩く山中の、こずえの先でのことである。


「問題はあれだな」


 と、あの日からりと茶室の障子を開けた七兵衛は、庭先に降り立った一羽の烏を見やって言った。

 それを見た蓮香と癸助もまた七兵衛の視線の先を追い、かあ、かあ、と喧しく声を上げる黒い鳥に目を据える。


「やれるか?」


 尋ねたのは蓮香であった。七兵衛が一瞥いちべつすると、その横顔にはいささかの憂いが煙っている。


「やれるだけやってみるしかあるまい。生憎俺も烏の一族と直接やり合うたことはないのだ。ゆえに勝手が分からぬ。が、噂がまことなら、非常に厄介な相手だろうな」

「……。死ぬなよ、吉村」

「いや、今回ばかりは死ぬやもしれぬ」

「それでも死ぬな。貴様が死ねば、私も日頃の憂さをぶつける相手がいなくなって困る」

「決めた。死のう」

「どうせ死ぬなら私に斬られて死ね。勝手に死ぬことは私が許さん」

「言っていることが無茶苦茶だぞ、蓮香」

「人を斬れぬ身の貴様に、酷なことを頼んでいるのは百も承知だ。私にもそれくらいの負い目はある。だから、死ぬな。私の頼みを引き受けて貴様が死んだとなれば、これほど寝覚めの悪いことはない」

(ほう)


 と、ときに横を向いて言い捨てた蓮香の言に、七兵衛は意外な思いを抱いた。どうやらおろち、おろちと七兵衛が散々非難してきた女にも、いっぱしの人の心はあったようである。

 七兵衛はすかさずそれをからかってやりたくなったが、後々の報復を恐れてやめた。

 一度蓮香の恨みを買うとあとが怖い。こういうときは何も聞かぬふりをしておくのが最も賢明であることを、七兵衛も蓮香との長い付き合いで熟知している。


「では明後日みょうごにち、貴様らは南の日衡城ひばかりじょうへ向かう我が軍に同行せよ。その軍は私が直々に率いてゆく。陣触れも既に出してあるゆえ、明日には方々から将士が参上まいのぼってこよう。貴様らはその人数に紛れ、行軍が山海の麓に差し掛かった頃に抜けるが良い」

「何だ、またお前自ら戦に出るのか。日衡城には常時二千もの軍勢を割いているのだろう」

「そうだが、此度の戦、玄田方は一万の軍を率いてくるという噂もある。それほどの大軍を前にしては、私自ら援軍にゆかねば兵の士気も上がるまい」


 それから蓮香は、木深い山海に入れば少しは敵の目をくらますことができるやもしれぬと言い、そのための案内あないをつけるとも言った。

 そうして蓮香が山の案内役として寄越したのが、目下一行の先頭を行く一人の忍である。


 忍は代々春巳野家に仕える始末屋新堂しんどう一門の者で、名は何某なにがしと言うらしいが既に忘れた。新堂一門はこの山海の何処かに本拠となる隠れ里を持ち、近隣の山々を自らの庭のように知悉ちしつしているというから頼もしい案内役ではある。

 しかしその一門の忍何某は七兵衛たちと引き合わされた当初から一切口をきかず、さゆ以上に固い沈黙を守り続けていた。

 途中、こちらを振り向きもしないので、最後尾をゆく七兵衛の位置からはもはや何某がひどい猫背であることしか分からない。


「拙者が案内できるのはここまで」


 と、その何某が初めて口を開いたのは、山中を歩き続けて丸一日が過ぎた頃だった。

 目の前には裾野へと続く下り斜面が広がっている。その斜面を下りた先は、既に国替わって佰狗国の領土である。


「姫様より、これより先はお三方の邪魔をせぬようにと仰せつかってござる。ご武運を」

「苦労であった。その方らの姫には、俺たちは無事佰狗国へ入ったと伝えよ。それから、いかに玄田卑小なりとも気は抜くなとな」

「御意に」


 ぼそぼそと早口に暇を告げると、何某は素早く身を翻して木立の間へと消えた。その敏捷さは人というよりもはや獣のそれである。

 結局最後まで名前は思い出せなかったが、いかにも始末屋臭いやつだと七兵衛は呆れた。

 一方のさゆはと言えば、あからさまに薄気味の悪いものを見る眼差しで、忍の消えた灌木かんぼくの先を見やっている。


「あれも始末屋なんでしょう」


 底冷えのする声で言った。その声をさわさわと鳴る葉擦れの音の間に聞いた七兵衛は、ふとさゆへ目を向ける。


「左様。あれは古くより春巳野はるみの家を主家とする新堂一門の者だ。始末屋というのはいくつかの門流に分かれていて、そのそれぞれがそれぞれの主家を戴いている。中には特定の主君を選ばず、金によってあちこちの家に忍の技をひさいでいる一門もあるが」

北原きたはら一門というのは?」

「何?」

「癸助さんに教えてもらった。私の里を滅ぼしたのは、玄田に雇われた妖術師と北原一門っていう始末屋の一味だったって。その北原というのも、お金で雇われればどんな仕事でも請け負う連中なの」


 さゆは依然無表情だったが、その声音には隠れもしない嫌悪の情が溢れていた。

 が、これには七兵衛も利吉と顔を見合わせる。さゆの里を実際に襲ったのが北原一門なる始末屋だという事実を、二人はこのとき初めて知ったためである。


「いや。北原一門も新堂一門と同じく、昔から鴉土あどの玄田家を主家と定めている一門だ。だが、そうか。秘術の里に直接手を下したのは、あの一門だったのだな」

「それだけじゃない。里が滅んでからこれまで、私を追いかけてきたのもあいつらだった。どこへ逃げても音もなく忍び寄ってくる、気味の悪い連中だったわ」


 さゆは新堂一門の何某が消えたくさむらから既に目を逸らし、身震いを押さえるような口振りで言った。

 その表情にはやはり嫌悪の色が濃い。里の直接の仇であり、自らを執拗に追い回す相手が始末屋という存在であることを知れば、誰もが同じ反応をしたであろう。


 だが七兵衛にはそれよりも気にかかることがある。ここまでさゆの里を襲ったのは玄田がひそやかに放った鴉土の雑兵どもであろうと早合点していたのだが、その実動部隊が始末屋北原一門であったとすると、いささか事情が異なるのであった。

 何しろ里一つを滅ぼすともなれば、その作戦にはかなりの数の始末屋が投入されたものと推測できる。

 つまり北原一門には此度の一件に際し、それだけの人数を動員できる用意がある、ということである。


「なるほど。この一件、北原が忍軍にんぐんおこすほど本腰を入れてきているとなると、これは思った以上に厄介だな。此度は玄田もそこまで本気だということか」

「忍軍?」

「ああ。始末屋の間では、同門の忍が三十人以上集まったものを忍軍と呼ぶ。しかしどの一門も滅多なことがなければ使わぬ戦法だ。それを敢えて使ったということは、北原もよほど玄田にせっつかれているものと見える」

「ずいぶんと詳しいのね」

「癸助から聞かされなんだか?」

「何を?」


 怪訝な顔で尋ねられ、七兵衛は思わず口をつぐんだ。


(癸助め、余計なことはべらべらと話しておきながら、肝心なことを教えておらぬな)


 と、内心悪態をつきたくもなる。どうやらさゆは、七兵衛も元は始末屋であったという事実を知らずにここにいるようだった。

 が、無理もない。仮に癸助がその事実を明かしていれば、己が故郷を滅ぼした一味とかつて同業であった者に守られるなど、この娘が肯んじるはずもないであろう。

 それを言えば癸助もまたさゆに憎まれてもおかしくない経歴の持ち主なのだが、そういうところは抜かりのない男である。


(これは言わぬが花だな)


 というやりとりを、七兵衛は目だけで利吉とした。

 利吉もまた始末屋の頃から門弟として七兵衛に従ってきた青年であるから、そのあたりの呼吸は心得ている。


烏操うそうの術だ」


 脈絡もなく言った。

 おかげでさゆはますます怪訝な顔をしているが、七兵衛は取り合わない。


「癸助から聞かなんだか。北原一門は烏を使う。何とかという妖術の一種で、烏に己が意識を込め、その耳目を自身の体の一部のようにできるのだという。ゆえに北原の忍は遠く離れた場所にいながら、瑞穂の津々浦々を自在に見て回ることができるのだ。そなたがどこへ逃げてもすぐにやつらに見つかったのは、その術によって烏に尾行けられていたためであろう」

「うそ」


 七兵衛がそう話して聞かせた途端、やにわにさゆの顔つきが変わった。どうやらこちらも癸助は話していなかったようだ。

 ただし始末屋の間では常識とも言えるこの話を癸助が知らぬわけはないので、恐らくはさゆが過剰に怯えることのないようにとあの男も気を遣ったのだろう。

 しかし事態は、次第にそんなことを言っていられる状況ではなくなりつつある。


「そ、そんなの聞いてないわ。だけどもしそれが本当なら、私たちが禁術の書を取りに向かってるってことが、敵にれるかもしれないってことじゃない」

「いや。もう露れている」

「え?」


 言って、七兵衛は腕を組みながら、つと頭上を仰ぎ見た。その視線を追ったさゆが、言葉を失い立ち尽くす。


 見渡す限りの烏、烏、烏。

 三人の頭上に伸びる枝という枝は、いつの間にか烏の群で真っ黒に埋め尽くされていた。


 その烏どもが、じろりと眼下の七兵衛らを見下ろしている。

 そうするうちにもまた一羽、更に一羽と、どこからともなく烏が集まってくる。


「な……何よ、これ……」


 呟き、さゆがあとずさるや否や、一羽の烏がかあと鳴いた。その一声を皮切りに、それまで黙りこくっていたはずの烏の群が一斉に赤い口を開いて鳴き始める。

 喧々囂々けんけんごうごう、まさにそうとしか形容できない騒ぎの中で、顔面蒼白になったさゆが耳を塞いだ。

 七兵衛は依然腕を組んだまま、頭上を覆う烏の群をじっと睨み据えている。



          *



「かあ」


 払暁を迎えた廃屋に、一羽の烏が留まって鳴いた。

 天を染める陽の光が、少しずつゆっくりと地上の闇を払ってゆく。


「かあ、かあ、かあ」


 その烏が鳴く屋根の下、崩れかかった小屋の中にのそりと動く影があった。

 雨風に曝され、腐り落ちた屋根の陰には、未だ濃い闇が溜まっている。

 その闇の中に身を潜め、影の主はにたりと笑った。


「……そうか。鬼の七兵衛がな」

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