參.さゆという娘
「あーあ。こいつはまた派手にやりやがったな」
と、塀の陰から癸助が呆れた声を上げたのは、七兵衛が逃げ去った青侍を見送って、得物を腰に収めた頃のことだった。
それを振り向いた七兵衛はしかし、何食わぬ顔である。それどころか足元に倒れた青侍どもをあっさり無視すると、物陰に隠れていた癸助らのもとへすたすたとやってきた。
「おい。そんなことより、あの娘は」
「ここにいるよ。お互い怪我もないようで何よりだが……しかし何だってお前がこんなところにいるんだ、さゆ?」
そう言って癸助が顧みた先には、確かにあの頭巾の娘がいた。
驚いたのは、その娘を癸助が〝さゆ〟と呼んだことである。
「さゆ? ということは、その娘が例の符術師か」
思わず、七兵衛はまじまじと娘を見た。さゆと呼ばれた娘は居心地が悪そうに肩を竦め、手を前で合わせてうつむいている。
その手が透き通るように白い。それだけで七兵衛はこのさゆという娘を気に入った。
体つきは華奢でいかにも田舎の娘という印象だが、そこがまたいい。七兵衛は遊び女のように派手な娘よりこういう素朴な娘の方が好きなのである。
贅沢を言えば、もう少し豊満であればなお良かった。
何がどう良いのかは、敢えて言うまい。
「ああ、そうさ。紹介しよう。さゆ、この二人が前に話したよろず屋だ。背の高い方が七兵衛、そっちの若いのが利吉。約束どおり、お前の護衛を任せるためにここまで連れてきたんだが……一体城で何があった?」
「……いえ。特に何かあったわけじゃ、ないんです」
さゆがようやく口をきいた。
その薄紅色の唇から零れた声を聞いて、七兵衛は内心膝を打つ。
(癸助め、さすがは俺の好みを分かっておるな)
と、先刻までその癸助を憎々しく思っていたことも忘れ、彼の目利きを絶賛した。
さゆの声は、まるで凛と鳴らした陶器の音のように透き通っている。それがまた七兵衛の好みと符合した。
ただ少し声の調子が暗いのだけが気になるが、それ以外はまったく七兵衛の理想どおりである。
とすると、あとはその面貌だけ――と、今が非常事態であることも忘れて、七兵衛はおもむろに頭巾の下を覗き込もうとした。
そのときさゆの白い手がにわかに動き、自ら頭巾の結び目を解く。
そうしてするりと外された頭巾の下から現れたのは、地に向かってまっすぐに伸びた黒髪と、ほどよく整った少女の白面。
その顔立ちはどこか芯の強さを窺わせたが、同時に微かな憂いの色を帯びている。
「お久しぶりです、癸助さん。その節はありがとうございました。あのあと、変な連中に尾行けられたりはしませんでしたか?」
「いや、大丈夫だ。俺も伊達に情報屋なんざやってねえからな。その辺のことは心得てる」
「そうですか。良かった……」
ほっとしたようにそう言うと、次いでさゆは傍らに佇むよろず屋二人に目をくれた。
が、ちらりとも笑わない。それどころか目を合わせるのも避けるようにうつむくと、再び癸助へと向き直る。
「すみません。本当は、こんな騒ぎにするつもりじゃありませんでした。できれば穏便に城を抜け出したかったんですけど……」
「城を抜け出す? そいつは何でまた?」
「……。九嵋山へ、行こうと思ったんです」
「何だって?」
「ごめんなさい。癸助さんに助けていただいたご恩を、忘れたわけじゃありません。だけど私、九嵋山へはやっぱり一人で行こうと思うんです。これは私の里の問題だから」
「おいおい、ちょっと待て。それじゃ話が違うだろ。お前のことはこのよろず屋二人が九嵋山まで送り届けるって、上様が――」
「――九嵋山と言えば、この春巳の隣国佰狗国にある霊山だな。あの山にはかつてもののけの王たる妖狐が棲み、今もその伝説を恐れてまったく人が寄りつかぬと聞く。そのような山へ、一体何用だ?」
と、ときに二人の会話を遮ったのは、他ならぬ七兵衛であった。
その七兵衛を、癸助とさゆが同時に振り返る。癸助は早くも弱り果てた様子だが、さゆの方は何やら値踏みするような目で七兵衛を観察していた。
が、やはり視線は合わせない。それどころかまるで親の仇でも前にしているかのような敵意をまとい、半ば癸助の陰に隠れるようにして七兵衛から距離を取っている。
「……癸助さん。この人たち、禁術の書のことを知らないんですか?」
「あ、ああ、それがまだ、詳しいことは話してなくてな。依頼の詳細は自分が話すと、上様に釘を刺されてるんだよ」
「なら、余計なことは一切お話にならなくて結構です。これ以上里の秘密を洩らしたくない。癸助さんのことを疑うわけじゃありませんけど……この件はもう私一人で大丈夫です」
「しかしな、さゆ」
と言いかけたところで、癸助がにわかに口を噤んだ。
その理由は七兵衛にも分かる。先程七兵衛が騒ぎを起こした通りの向こうから、またどたどたと品のない足音がやってくるのを聞きつけたからだ。
おまけに今度は馬の嘶きまで混じっており、これにはさゆも顔色を変えた。
彼女は弾かれたようにその場を離れようとしたが、それを癸助の腕が止める。
「行くな、さゆ。もう手遅れだ」
「え?」
戸惑いを露わにしたさゆに対し、男三人は冷静だった。
中でも七兵衛は危機感のかけらもないような顔で腕を組み、つい先刻己が駆け下りてきた屋敷の屋根を見上げている。
「おう、これは兄殿。久しいな」
七兵衛がそう声をかけたのは、屋根瓦の上に佇んだ黒装束の男であった。
それでようやく男の存在に気づいたさゆがぎょっとしている。何故なら屋根の上の人影が一人ではなく、同じような黒装束の集団がずらり、気配もなく居並んでいたためである。
「よくぞ参られた、鐘捲十左衛門殿」
と、その異様な集団の中から一人が言った。
顔の半分を布で覆っているため人相もろくに分からない。が、布の上から覗く双眸だけは冷え冷えと七兵衛を見下ろしている。
「我が義妹が座す緋淵でかような騒ぎを起こすとは、相も変わらず剛胆なこと。貴兄がもし隻眼の剣士であったなら、ここにいる我が門弟が四方からその胸を貫いておったぞ」
「であろうな。顔見知りがいて良かった」
けろりとして言った。まるでこの七兵衛には、頭上から黒装束が注いでくる冷ややかな眼差しも肌を刺すような殺気も、まったく応えていないようである。
尋常のことではなかった。現にこれほど明確な殺気を浴びた経験のないさゆなどは足が震え、今にもその場に頽れてしまいそうな顔色をしている。
「抗うなよ。始末屋だ」
屋敷の屋根を見上げたまま、七兵衛が言った。
馬蹄の音が止み、通りで人数が騒ぎ出している。