貳.緋淵城下
瑞穂国は、十二の小国からなる島国である。
その島、かつては倭国と呼ばれ、代々倭王と号す者が一つの国を治めていた。
しかし遡ること二三二年前、当時の倭王が禅譲を為さずに没したため乱が起こり、倭王の寵愛を受けていた二十余人の重臣が思い思いに国を建てた。
以来、分裂した倭国は戦国乱世に雪崩れ込み、二三二年の歳月を経た今もなお次の倭王が定まらずにいる。その間、二十余国あった小国は衝突と併呑を繰り返し、ついに十二まで数を減らしたが、いつしかそれら小国の長は、
「将軍」
と呼ばれるようになっていた。
つまり瑞穂には目下十二人の将軍がおり、そのそれぞれが次なる倭王の座を狙って長く覇権を争っているというわけだ。
そしてその将軍の一人がでんと腰を据えているのがここ、春巳国の政都緋淵であった。
春巳国は瑞穂の中原東部を制する大国で、昨今、天下を争う諸国の中で最も勢いに乗っている。その版図はここ数年で燎原の火のごとく広がり、今はそれを危ぶんだ南の強国鴉土国が度々春巳の領土を侵していた。噂によれば鴉土国では今もまた、春巳侵攻のための戦支度が進められているらしい。
その巷説が人を呼び、早秋の緋淵はいつにも増して賑わっていた。
通りという通りは人で溢れ、商人たちの曳く荷車が行き交い、更には食い扶持を得ようと集まった牢人たちが仕官先を求めて彷徨っている。
その旺然たる城下町の賑わいを浮かぬ顔で眺めながら、七兵衛はとある茶屋の軒先にいた。そこで緋毛氈の布かれた長椅子に座り、好物のみたらし団子を頬張っている。
姿は牢人体に作ってあり、傍目には七兵衛もまた名君の聞こえ高い春巳将軍の下へ馳せ参じた食い詰め牢人の一人に見えるはずであった。
それがまた、七兵衛には気に食わない。
(何が名君か)
という思いで、腰のある団子をひたすら咀嚼している。
「七兵衛さん、いつまでそこでそうやって油を売ってるつもりっすか。早くしないと日が暮れますよ!」
「いや、今しばらく」
と、通りから急き立てる利吉には見向きもせず、七兵衛はなおも団子を頬張った。
隣には井ノ子から同道してきた癸助の姿もあり、のんびりと茶を啜っている。
三人のいる城下の茶屋からは、町の北東に聳える緋淵城の全貌が呆れるほどよく見えた。
緋淵城は瑞穂に数ある山城の中でも特に名城と名高く、未だ緑を湛えた低い山々の峰の間に、なるほど、五層の天守がよく映えて美しい。
しかし緋淵城が名城と呼ばれる所以はその造形の美しさだけにあらず、難攻不落の堅城としても名を馳せているところにあった。
ここから見ただけでは山の木々に遮られて分からないが、その城壁は迷路のごとく複雑に入り組み、春巳国の直参さえ気を抜くと方角を失うと言うのだから、寄せ手にとってはいかにも攻めづらい城であろう。
(おまけにあの天守の天辺でとぐろを巻いているのが、あのおろちだ)
と、七兵衛は甘じょっぱいたれの効いた団子をまた一つ口に運びながら、白く輝く天守閣を睨みつけた。
〝おろち〟というのは、近頃巷で流れ始めた春巳将軍の異名である。
春巳の〝巳〟とは遥か昔、この地を縄張りとしていたと言われる大蛇のもののけ――と言っても魑魅魍魎の類ではなく、むしろ神と呼ぶべき存在である――を指す語であり、〝おろち〟という異名もそこから来た。
つまり当代の春巳将軍は、伝説の大蛇のごとくすべてを呑み込み周辺諸国を切り従える存在として畏怖され、同時に神を崇めるのにも似た尊崇の念を持って、
「おろち様」
などと呼ばれているというわけだ。
しかしこの場合七兵衛が言うおろちには、むしろ嫌悪の念が多分に含まれていた。
七兵衛は昔から、あのおろちが大の苦手なのである。
いかに世に名君と謳われていようとも、七兵衛にとってはそのあたりにいる本物の蝮や青大将の方がまだ可愛げがあるというものだった。
ゆえに今はただ、そのおろちの面前へ出てゆくことが億劫でたまらない。
「おい、癸助」
「何だ?」
「俺は今から腹痛を催す。よって緋淵城には登城できぬ。というわけでここはお前が俺の名代としてあのおろちと話をつけ、くだんのさゆの身柄を預かってくる、というのはどうだ」
「どうだ、と言われてもな。俺は別にそれでも構わねえが、あのお方がそんな見え透いた法螺話を聞いて納得なさるかね。むしろあのご気性を慮るに、〝では私自ら吉村の脈を取り良薬を処方してやろう〟とか仰って、薙刀を片手に見舞いに来るんじゃねえのかい」
「……」
「まあ、それでもいいってんなら俺が行ってきてやるけどな。何ならここに下剤もあるぜ」
「要らん。そんなものを服んで苦しんだあげく、あやつに嬲り殺されるくらいなら腹を切った方がいい」
「じゃ、さっさと選ぶんだな。今ここで腹を切るか、覚悟を決めて登城するか」
「この薄情者め」
と、七兵衛が悪態を垂れたところで、癸助は痛くも痒くもないといった風であった。
それどころか、七兵衛の苦悩する様を内心愉快がっている気配がある。七兵衛にとっては、それがますます憎たらしい。
かくして諦観した七兵衛は茶屋を辞し、城下の人混みに紛れながら緋淵城の大手門へと足を向けた。
担ぎ棒の先に少量の荷をぶら下げ、袖のない着物に腰帯を巻き、黒の股引を履いた利吉が傍についていると、見ようによっては小者を連れたそれなりの家格の武士にも見えなくはない。とすると牢人体の癸助は、さながら主人の警固に同道した大小姓といったところだろうか。
三人は大路を行き交う町人、商人、牢人どもの間をするすると器用に抜けて、いよいよ武家屋敷が建ち並ぶ一角へと足を踏み入れた。
普段であれば、ここまで来るとさすがに町の喧噪は遠ざかる。道行く者は武家の小者や御用商人ばかりとなり、町人の多くは名だたる春巳武士の御前に出ることを憚って、屋敷通りと下町を隔てる川を渡ることさえ平素なかった。
が、七兵衛ら三人が川に架かる橋を渡ったところで、その平素にはないことが起こった。
突然、城の大手門へと通ずる通りの向こうから、
「やい、止まれ、止まらぬか! これは春巳将軍の命であるぞ!」
と怒号が轟き、数人の青侍が血相を変えて駆けてくるのである。
「何事だ?」
これには七兵衛も眉をひそめた。後ろでは七兵衛の長身に隠れて前が見えぬ利吉と癸助も、首を長くして様子を窺っている。
両脇に漆喰で塗られた白い塀が並ぶ、閑散とした通りだった。その通りの真ん中を、青侍に追い立てられて薄桃色の小袖が駆けて来る。
追われているのは紫染めの頭巾を被った、年若い娘だった。
その顔は頭巾の影に隠れて見えないが、追ってくる青侍どもを振り返り振り返りしつつ逃げる様はいかにも必死だ。娘はそのままとある屋敷の角を右へ折れ、青侍どもも通行人を跳ね飛ばしそうな勢いでどたどたとあとを追っていく。
「な、何ですか、今の? あのお侍さん方、〝春巳将軍の命〟とか言ってましたけど……」
「委細は分からん。が、どうやらここは俺の出番のようだな」
「何だよ、出番って?」
「おなごが悪漢どもに追われているのを見過ごせるか。今はおろちなぞより目の前のおなごを助ける方が先決だ。というわけで俺は行く」
「ちょ、ちょっと待って下さいよ、七兵衛さん! あんたそんなこと言って、単にお城へ行きたくないだけでしょうが!」
利吉の制止も虚しく、緋淵城参殿を逃れる口実を見つけた七兵衛は喜々として地を蹴った。そもそも天下の春巳将軍、その麾下にある侍を「悪漢ども」などと呼ばわっている時点で問題なのだが、そのようなことを気にする七兵衛ではない。
七兵衛は紺鼠色の着物の袖を翻し、とある屋敷の門先に止まっていた荷車の上へ跳躍した。
そこから更に跳んで塀の上に降り立ち、唖然とそれを仰ぎ見ている荷車の主の視線を流して、黒く焼かれた塀瓦の上を危なげもなく駆けてゆく。
そのまま屋敷の屋根と塀が隣接する箇所まで渡ると、一蹴りで瓦葺きの屋根へと飛び移り、娘が逃げた方角へと足を向けた。
凡庸の者にはとても真似できぬ所業だが、これこそ七兵衛が元始末屋たる証である。
白昼堂々風を切って屋敷の屋根を駆け下った七兵衛は、行く手に逃げる娘の姿をまんまと捉えた。娘はさすがに走り疲れたのか、既にその足取りはおぼつかず、今にも足をもつれさせて倒れ込んでしまいそうな気配である。
その背後には例の青侍どもが迫っていた。天下の春巳将軍の名をもってしても従わぬ娘の自儘に業を煮やしたか、その顔つきは揃って険しい。
今にも腰の差料を抜き、娘の背に斬りかからんばかりの剣幕であった。
そこで七兵衛は駆け下りた屋根の軒端を蹴ると、尋常ではない高さまで一気に跳び上がり、逃げる娘の目の前へと着地する。
「あっ」
と、男が突然空から降ってきたことに驚いた娘は声を上げて尻餅をついた。
だがこれに仰天したのは、娘を追っていた青侍どもも同様であったのだろう。彼らは泡を食ったように立ち止まるや、色めき立って声を上げる。
「な、何だ貴様は!?」
ところが七兵衛は、これを無視した。
そんなことよりまずは目の前で腰を抜かした娘の安否を確かめるのが先である。
「大事ないか」
ことさらに優しげな声を出し、七兵衛は娘に手を差し伸べた。
平素、利吉に対するあの横柄な態度からは考えられない甲斐甲斐しさである。しかし年頃の娘の前では、七兵衛はいつもこうなのだった。
が、問題の娘は頭巾の下から、疑惑の目で七兵衛を見上げている。
無理もなかった。見知らぬ男が突如空から現れて、ついでに人の好さそうな笑みを向けてきたところでそんなものはただ胡散臭いだけである。
加えて自分たちの抗議を無視された青侍どもも面白くなかった。彼らは七兵衛が自分たちの存在を黙殺するつもりだと知るや、いよいよ刀に手をかけて声を荒らげる。
「やい、そこの唐変木! 貴様、さてはその娘の共謀者か!」
「はて、この美丈夫をつかまえて唐変木とはずいぶんとご挨拶だな。貴様ら、春巳野家の家来でありながらこの俺を知らんのか」
「ああ、知らぬな。我らが主君の名を語るなば、まずはその方の名を名乗ってみよ!」
「ふむ、そうだな。ならばここは鐘捲十左衛門とでも名乗っておくか」
「か、鐘捲十左衛門だと!?」
青侍どもは、揃って腰を抜かさんばかりに驚いた。鐘捲十左衛門と言えば、北は八亀国から南は駿兎国までその名を轟かせる大剣豪の名前である。
が、やがて一人が気づいた。
「いや、待てよ。鐘捲十左衛門と言えば、齢十二の頃に熊と戦い、単身これを討ち取ったがその代償に右目を失ったと聞く。とすれば、鐘捲は今も隻眼のはず……」
「ああ、それか。それは治った」
「治った!?」
「うむ。見てのとおりつるりとな。俺くらいの修行を積むと、あの程度の傷は気合いで何とかなるものだ。そなたらも少しは見習うといい」
「そ、そうか……さすがは天下無双と名高い剣豪……我らとは身体のつくりからして違うのだな……」
「おい、馬鹿、騙されるな! そんな話はすべてでたらめに決まっておろう! 黙って聞いておればふざけたことばかり抜かしおって、貴様が真にあの鐘捲十左衛門だと申すならば、その証拠を見せてみよ!」
言うが早いか、威勢のいい青侍の一人が刀を抜き、周りもそれにつられて抜刀した。
が、七兵衛はそれを見たところで顔色一つ変えない。ただふと足元に視線を落とし、先程の娘がそこから姿を消しているのを確かめただけである。
「やれやれ。あのおろちの麾下と言えど、やはり利口者ばかりではないか。ならば致し方ない。お相手仕ろう」
言って、七兵衛も得物を抜いた。無論本気ではないが、自分たちが追っていたはずの娘が既に逃げ去っていることにも気づかぬほど頭に血を上らせた輩を鎮めるには、これ以外に法がない。
まんまと七兵衛の挑発に乗った青侍どもは、我を忘れて憤然と攻め寄せてきた。これに対し、七兵衛は刀を正眼に構えたまま動かない。
初めの一人が、その七兵衛に正面から斬りかかった。
倒れた。
次の一人が、間髪を入れずに刀を振るった。
倒れた。
更にもう一人、気合を上げて上段から刀を振り下ろした者がいたが、これも倒れた。
あとに続く者たちは、一体何が起こっているのか分からない。
七兵衛の太刀筋が速すぎて、視界に映らないのである。
「で、次は?」
最初の位置からほとんど動かず、退屈そうに七兵衛が尋ねた。
その得物に血の痕はない。まさかこれから参謁する相手の兵を殺すわけにもいかないので峰打ちである。
だが目にも留まらぬ七兵衛の早業は、戦の経験乏しい青侍どもを戦慄させた。
中には怖じ気づいてあとじさりを始める者もいたが、そこは元来気性が激しいことで知られる春巳侍である。
「せいや!」
萎えかけた気力を奮い起こし、右の一人が気合いを上げて七兵衛に斬りかかった。それと時を同じくして、左からも果敢な者が斬りつけてくる。
七兵衛はそれを、垂直に跳んで躱した。何の予備動作もなく、しかも通常の人間では考えられないような高さで跳び上がったので、青侍どもには七兵衛が消えたように見えた。
七兵衛はそのうちの一人の頭上に躊躇いもなく着地した。そのまま踏み台にした男を塀へ叩きつけるように蹴り飛ばし、その反動を活かしてもう一人の顔面に華麗な回し蹴りを叩き込む。
次に七兵衛が通りへ降り立ったとき、残された二人の青侍は既に戦意を失っていた。
「で、次は?」
七兵衛が先程と同じ問いを繰り返すと、残りの二人は諸手を挙げて逃げ出した。
その後彼らは哀れにも、しばらくの間七兵衛を本物の鐘捲十左衛門と信じて過ごすことになるのだが、それはさておく。