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瑞穂草子  作者: 長谷川
20/21

拾玖.よろず屋七兵衛

(今や遅し)


 と、幔幕の巡らされた本陣で、鴉土軍あどのぐん総帥玄田右幽くろたうゆうは爪を噛むような思いでいた。

 忽然と夜襲に現れた春巳軍はるみのぐんを北へ押し返してから、既に半刻(一時間)になろうとしている。


 一時は想定外の夜襲にひやりとさせられたものの、目下形勢は鴉土軍の優勢となりつつあった。夜襲に現れた春巳軍はわずか一千ほどで、その十倍の兵力を従えた右幽が数で押しまくればこれに抗し得るはずもなく、瞬く間に瓦解して日衡城へと逃げ去ったのである。

 これにより勢いに乗った鴉土軍は右幽の号令一下、防衛戦から大規模な追撃戦へと転じていた。憎き春巳将軍はるみのしょうぐん春巳野蓮香はるみのれんかは、右幽が捕らえた符術師の娘を救い出すためだけに無謀な夜襲を試みてきたようだが、それが運の尽きであったと言っていい。

 何故ならその行為が結果としてこちらを勢いづかせることになり、右幽の放った鴉土軍七千は怒濤のような鯨波を上げて、今や平原の孤城たる日衡城ひばかりじょうに押し寄せているのである。


(だがそれもほんの時間稼ぎよ)


 と、黒の甲冑姿に引立烏帽子ひきたてえぼしを被った右幽は、床几しょうぎの上で次々と駆け込んでくる早馬の報告を聞きながら笑み崩れていた。

 鴉土軍七千が広大な平之原たいらのはらを渡り、城に迫る勢いと知った春巳軍は全軍で日衡城を出撃し、平原にてこちらの軍を食い止めることに躍起になっている。


 だがしかし右幽の狙いは日衡城のごとき小城を獲ることではなく、春巳軍七千をこの地に足止めし、その頭上にようやく手に入れた符術師秘伝の奥義を叩き込むことにあった。

 幕下の符術師によればあのさゆという娘が用意した符は非常に強い妖力を秘めたものであり、使えば四方三里は容易に焼き払えるほどの力を帯びているという。


 さゆはその符をこの陣の周辺五ヵ所に仕掛けて回っており、その位置を図面に描き込むとすぐに五芒星を描いていると知れた。

 そこで右幽は既に北原一門の者に命じ、符を守らせながら日衡城を囲む五つの地点にそれを置くよう手配してある。あとはそれを用いる術師の能力が最も引き出されるという満月中天のときに、蓮香のいる日衡城へ容赦なく禁術を叩き込めば、これまで右幽が春巳野家に対して募らせていた宿怨もようやく晴れるというものである。


「あの春巳の売女めが雅幸の跡を継いでからというもの、鴉土国あどのくには散々苦杯を舐めさせられてきたがその屈辱も今夜で終いじゃ。あやつさえ我が前から消え去れば、この瑞穂にわしの行く手を阻める者など一人もおらぬ。蓮香が首級を上げたのちには、春巳一六〇万石を一気に我がものとし、そのまま天下の主となろうぞ。さすれば先代倭王の崩御より二百三十年余り、我が玄田家に代々受け継がれてきた悲願もついに叶うというもの」

「まことに左様で」


 と、右幽の左右に付き従う者たちもまた、この癇癖持ちの主人の機嫌を損ねまいと相好を崩して早くも自軍の勝利を祝う言葉を述べた。正直なところ、鴉土国がこの右幽の代となってより幾度となく訪れた危機を脱してこれたのは、右幽の才覚というより彼の周囲にいる玄田家譜代の賢将たちの働きによるところが非常に大きい。

 しかし右幽はそれもまた自らの生まれ持った威徳の致すところだと思い込んでいるから、側近の者たちもそんな右幽の自尊心を傷つけまいと常に細心の注意を払っていた。

 一度彼の機嫌を損ねれば味方でありながら首をねられるという事例も一再ではなく、目下鴉土侍あどざむらいは皆この主人の気性を恐れながらそれでも主家を守り立てようと健気に槍を振るっている。


(何しろこの殿もまた、器量はどうあれ血筋は確かじゃ)


 と幔幕の隅にうずくまって思っているのは、先刻味方の雑兵に化けた七兵衛に殴り倒された北原の中忍二六じろくであった。

 あれから二六は水をかけられて正気を取り戻し、今こうして再び右幽護衛の任に就いている。


 せっかく捕らえたさゆをまんまと逃がしたことについては、案の定癇癪を起こした右幽に咎められたものの、上忍である小猿こさるが取りなしてくれたため二六は何とか罰を逃れた。

 どうも右幽は、十八という年齢のわりに幾分か幼いあの一門の姫を、どこかで恐れている気配がある。


「注進」


 と、そこへもはや何度目になるとも分からない使番が飛び込んできたのは、右幽が天上の月を見上げて早く昇れと悪態をついていた頃のことであった。

 あれほどの術を使うには月が中天に昇ったときが最も確実だと術師には言い含められていたが、何とか敵の裏を掻き、その前に憎き蓮香のしゃっつらへ禁術をぶち込んでやることはできないかと再び術師を呼んで諮ろうとした、まさにそのときである。


「おお、来たか。して、どうじゃ、北での戦いの様子は」

「はっ。それが、北原の姫より重大な報告が届きましてございます」

「何ぞ、敵に不審な動きでもあったか」

「いいえ、その逆です。お殿様が喜びそうなお知らせが二つ。小さいお知らせと大きいお知らせ、どっちを先に聞きたいですか?」

「すわっ」


 と、右幽が床几から跳び上がって驚いたのも無理はなかった。何しろすぐ背後から突然、女の声が聞こえたのである。

 振り向けばそこには肩に一羽の烏を乗せてにこにこと笑った小猿がいた。一体いつからそこにいたのか、右幽の左右にいた者さえ分からないほどの侵入術である。


「こっ、小猿っ、貴様、断りもなくわしの背後に立つとは何事じゃ!」

「お殿様がそれだけ隙だらけってことですよぉ。だから言ったじゃないですか、油断してるとあっという間に後ろから首を取られちゃいますよーって」

「その背後を守るが貴様ら始末屋の務めであろう。徒に主を脅かすでない!」

「脅かしてるんじゃなくて忠告してあげてるんだけどなぁ。始末屋を怒らせたらどうなるか、お殿様はまだ分かってないみたいだから。何度も言ってますけど、あたしを父様と同じだと思わない方がいいですよ。あたしはお金じゃなくて、あたしが気に入るか気に入らないかで雇い主を選んでるから」


 小猿の父、すなわち十代目北原紫幻斎しげんさいは意外に義理堅いところがあるが、娘の小猿はまったくの奔放であった。右幽もそれを知っているから、この掴みどころのない女忍者をことさらに恐れている。

 小猿は一度、七兵衛に右手を奪われて戻った父が右幽に散々面罵されたところを目撃しており、以来こうして右幽を脅かしては恫喝とも取れる振る舞いを続けていた。


 今この娘が敵に寝返れば、陣中にいる北原一門の者どもが一斉に右幽の首を狙って飛びかかってくることはまず間違いない。

 それを辛うじて防いでいるのは、十代目紫幻斎の右手を奪った男が右幽の宿敵春巳野蓮香に味方しているという、首の皮一枚ほどの利害の一致だけなのである。


「ふ、ふん、まあ良い。それで何なのだ、その重大な報告というのは」

「それじゃあ、まずは小さい方のお知らせから。どうも春巳軍は日衡城からこちらの迎撃に出した軍の他に、三百程度の別働隊を作って城の周りを走り回らせてるみたいです。その中にあのさゆって娘も混じってるところを見ると、こっちが禁術を使おうとしてることを向こうも読んでるみたいですね。あの別働隊は、それを阻止するために符を探し回ってると見てまず間違いないでしょう」

「ほう。それはまた、おろちも無駄な足掻きを見せる。禁術の符は決して彼奴らの手の届かぬところに置いてあるのだろう?」

「それはもちろん。上手くすれば禁術で春巳軍ごと吉村きちむら七兵衛も叩き潰せるかもしれませんから。一門の誇りに懸けて、あんなやつらにだけは絶対符を渡しません」

「ならば良い。しかしこれは好機じゃ。その別働隊にあのさゆとかいう娘が加わっているというのなら、それを再び捕らえることはできなんだか。禁術一つでこれほどの威力を持っているのなら、わしは何としてもすべての禁術を集めたい。そのためにはあの娘の隠した禁術の書がどうしても必要じゃ」

「そう仰るだろうと思って、既に手は回してあります。あの娘を狙えば吉村七兵衛もきっと出てくるだろうし、仮に出てこなくても、こそこそ動き回ってる連中の足止めにはなるでしょう」

「なかなか良い判断じゃ。して、大きい方の知らせというのは?」

「ああ、それは、春巳野蓮香が逃げました」

「え?」

「二百くらいの旗本だけを連れて、日衡城の搦手からめてから落ち延びたみたいです。そのまま北進してるところを見ると、一度緋淵に戻って体勢を立て直すつもりじゃないかなぁ」


 と、まるで人事のように小猿が話すので、右幽やその左右の者たちはしばし呆気に取られていた。

 が、それからややあって左右の者たちが呆然と顔を見合わせた頃、立ち尽くした右幽がにわかに空を仰ぎ、呵々と大声を上げて笑い出す。


「これはしたり。あの女狐め、ついにこのわしに恐れを成して逃げおったか。初めからそのように殊勝にしておれば、わしももっと可愛がってやったものを」

「しかし上様、春巳野蓮香が北へ逃亡したとあっては、せっかくの禁術が意味を成しませぬ。標的である日衡城にかの者がいないとなれば、禁術はあの小城と残った春巳軍を焼くだけで、大将首は取れませぬぞ」

「何を寝ぼけたことを抜かしておる。ならば一刻も早く敵勢を抜き、逃げた蓮香を追い立てれば良いだけのこと。禁術の符は緋淵あかふちを焼くためにとっておけ。こちらにはまだ三千の軍がある。このまま一気に押し出し、抵抗する春巳軍を叩き潰して、おろち狩りと洒落込もうぞ」


 数で春巳軍に勝る右幽はいよいよ勝利を確信し、全軍に下知を出した。蓮香の逃亡という事態にこの男にしてはひどく冷静に対処できたのは、ひとえにそうした展開もまた鴉土軍の想定にあったためである。


(あの女の気性を慮るに、逃げを選ぶは最後の手段と思うておったが、あやつもやはり命は惜しいか。あるいはそれでわしの裏を掻いたつもりやもしれぬが甘い。大将が逃げたと知れば将士は嫌でも意気阻喪し、そこにこちらが数の優位をもって攻めかかれば、いくら春巳軍とは言え早々に崩れ去るであろう。あとは北原の烏に蓮香を追跡させ、追いに追って疲弊させたあとに首を取るまでよ。この戦、わしがもらったわ)


 本陣に残った軍もいざ出撃と決まり、慌ただしくなる幔幕の内で、右幽は狂喜に体が疼くのを堪えるので必死であった。逃げた蓮香の所在は小猿操る烏が追っているため、その姿を見失うことはない。

 何よりこちらが囮の軍を突破したと知れば、蓮香は禁術を恐れて一つところに留まることもできず、緋淵に戻るどころか春巳国内を逃げ回るしかないことは明白であった。


 そうして命を刈られる恐怖に怯え、逃げ惑う蓮香の姿を思い浮かべただけで右幽は身をよじるような快感に叫びたくなる。

 あの小生意気な女将軍をついに自らの手でここまで追い詰めたのだと思うと、これまで感じたこともないほどの愉悦が腹の底から噴き出してくるのである。


「それ、それ、何をしておる。早うわしの馬を曳け。ええい、これ以上は待てん。ここはわし自ら先登に立ち、今すぐに動ける者を連れて、先に」


 と、忙しなく采配を振るい、右幽が声を励ましたそのときであった。

 俄然わっと陣の東が乱れたかと思えば、闇をつんざくような喊声が上がる。

 これには右幽を始め周囲の者も度肝を抜かれ、すわ何事ぞと硬直した。

 その間にも混乱は陣全体へ伝播し、今にも出撃せんとしていた将士が出鼻を挫かれ、あちこちで右往左往している。


「おいっ、誰ぞ状況を説明せい。一体何が起こっておる!」

「――は、春巳軍です! 春巳軍の騎馬隊が、東の祓鬼山ふっきざんより逆落としの勢いを駆り、我が陣に攻め込んで参りました!」

「何だと」


 使番の知らせに左右の者がどよめき、右幽もまた耳を疑った。鴉土の陣の東西を守る祓鬼山と女禍山じょかざんは、先にも述べたとおり九嵋山にも負けず劣らずの天嶮である。

 その山の斜面を敵が攻め下ってきたということが、右幽にはにわかに信じられなかった。あれは人が手足を精一杯使って登るのさえ難儀する山である。

 何かの間違いではないかと思い、再三人をやって確かめさせた。

 が、何度やっても返ってくる報告は同じである。


「殿っ、お早く馬にお乗り下され! 敵勢がすぐそこに迫っておりまする!」

「ば、馬鹿な……あの馬返しの山を、騎馬武者が越えてきたというのか。そのようなこと、有り得るわけが」

「殿、蓮香です! 春巳野蓮香が、我が陣に乗り込んできた騎馬隊の指揮を執っております! あの跳ね馬と白面の風貌、間違いありませぬ!」

「まさか」


 東からの急報にますます耳を疑い、右幽は全身を震わせて立ち尽くした。

 しかし蓮香と言えばつい先刻小猿から、日衡城より北へ落ち延びたとの報告を受けたばかりである。


(その蓮香がこのような場所にいるわけがない)


 そう思い、事実を正そうと、右幽は青い顔で小猿を顧みた。

 が、そこには既に小猿の姿はない。代わりに彼女の忠実な部下である北原中忍の二六が立ち尽くしているだけである。


「おい、二六。小猿はどうした」

「やつがれがお先に逃がし申した。どうやら我ら、敵大将の影武者に惑わされたようでござる」

「影武者だと」

「蓮香は出撃した雑兵どもに紛れて日衡城を出、戦場の混乱に乗じて祓鬼山へ駆け込み、山を渡ってここへ至ったに相違ありませぬ。あの女が過去にも同じ手を使い、佰狗国はくのくにの軍勢二万を寡兵で打ち破ったことはあまりに有名」

「き、貴様、何をぬけぬけと……! さてはこのわしを嵌めるため、虚偽の報告を上げて謀りおったな!」

「滅相もござりませぬ。ただ、此度のことは」


 と、身を屈めた二六がみなまで言い終わらぬうちに、激昂した右幽が白刃を抜き、いきなりその老躯へと斬りかかった。

 ところが次の瞬間、二六は矢でも当たったかのように跳び上がり、そのまま背後へと降り立って右幽の癇癪を回避する。


「これは無念。殿は我ら北原との縁をお切りあそばすか。ならば我らもこれ以上鴉土軍に加担する義理はなし。者ども、撤収じゃ」

「待てっ」


 と右幽が叫ぶのを待たず、二六はひらりと幔幕を跳び越えてその向こう側へと消えた。

 同じように鴉土の陣の各所で待機していた北原の下忍どもが次々とその二六に続き、潮が引くように闇へと去っていく。

 それを見た右幽が、


「斬れっ」


 と声を荒らげても、陣中は既に春巳軍の奇襲で混乱し、それどころの騒ぎではない。


「ええい、者ども、何をしておる! 裏切りじゃ! 北原一門の謀叛ぞ、やつらを一人残らず叩っ斬れい!」

「殿、お鎮まり下され。始末屋の変節は世の常、今はあのような信義なき者どもにかかずらっている場合ではござりませぬ。どうかお馬に、お馬にお乗り下され。春巳の女鬼おにが、もうすぐそこに迫っておりまする。お早く」


 怒りで我を忘れた主人を押さえ、側近の者たちは泣くようにそう懇願した。彼らがそうする間にも東から来た鯨波はいよいよ右幽のいる本陣にまで迫り、逃げ惑う鴉土の雑兵たちが悲鳴を上げて駆け去っていく。


「おのれ、おのれ! この屈辱忘れまじ! 春巳野蓮香、いずれその首我が手でへし折ってやる!」


 その光景を見た右幽は激しく地団駄を踏み、供の者が曳いてきた黒鹿毛へと跨がった。

 が、直後、本陣の幔幕を突き破り、ついに春巳の騎馬武者が右幽へと殺到してくる。篝火が倒れ、燃え移り、慌ててその行く手を遮った鴉土侍が次々と槍玉に挙げられる。


「また会ったな、玄田右幽。その醜い髭面、今日こそ私がもらい受けてやる。覚悟!」

「れ、蓮香」


 その騎馬武者の先頭を切って現れたのは、雄々しい白馬を駆った蓮香であった。

 手には薙刀。煌びやかな朱の具足は既に大量の返り血に濡れ、にたりと笑ったその顔はまさしく鬼のようである。


「ひいっ」


 と、そのあまりに恐ろしい形相を目にした右幽は縮み上がり、直前までの威勢も忘れて即座に馬首を返した。蓮香と戦場でまみえるのはこれが初めてではないが、今宵の蓮香はまさに鬼神である。

 これは分が悪いと逃げ出した右幽の背に、雄叫びを上げた春巳の騎馬武者が追い縋った。

 が、鴉土の将士も必死である。主君の首を取らせまいと、逃げ惑っていたはずの雑兵、騎馬武者があちこちから集まり、決死の形相で蓮香の前に群がり始めた。蓮香はそれをものともせず、薙刀を振るって雑兵どもの中へと突き入っていく。


「殿、お逃げ下され!」


 家来衆の必死の叫びを聞きながら右幽は馬に鞭を打たせ、無我夢中で自陣を駆けた。途中で何人か味方の兵を蹄にかけたが、もはやそんなことには構っていられない状況である。

 そうしながら逃げに逃げ、采配も投げ捨て、気づいたときには供回り十騎ほどで陣を飛び出していた。

 供勢は手に手に松明を持ち、右幽を守るようにしっかりとその馬を囲み、明るい月明かりを受けながら南へと主を導いていく。


「ま……負けた……こんなことが……こんなことがあるものか……このわしが、またしてもあの女郎めろうごときに……」

「殿、お気を確かに。辛くも難を逃れたとは言え、我らは未だ春巳領内におりまする。何とか無事に封境を越え鴉土国へ戻るためには、まず追っ手を躱さねば」

「そんなことは分かっておる。分かりきったことをほざいている暇があったら、何としてもわしを鴉土まで送り届けよ。かくなる上は一度国元へ戻って更に妖術師を募り、今度こそ春巳を焼け野原にしてくれる。無論、このわしを謀りおった北原一門も皆殺しじゃ」

「その意気でございます」


 再び癇癪を起こしつつある主人に内心辟易しながらも、供の十騎は健気に右幽を守って駆け続けた。何しろ鴉土一五〇万石を一身に背負うこの男を守れるのは、目下ここに居合わせた十人の他にはいないのである。

 いかに暗愚な主であろうと、この男を失えば鴉土はたちまち混乱し、そこを敵対する周辺諸国に攻め込まれてはひとたまりもなかった。

 右幽にも世継ぎはいるがまだ十一と幼く、敗戦後の混乱を収められるかと言われれば答えは限りなく否である。


 右幽を守る十騎はそれぞれにそのような不安を抱えながら、ひとまず追っ手の目を避けるべく陣の南にある森の中へと馬を入れた。森の中には南へと抜ける間道が走っており、供のうちの一人がそのあたりの地形を詳細に覚えていたため、ひとまず道に迷う心配はなさそうである。

 そうこうしているうちに満月はいつの間にか中天を過ぎ、禁術によって春巳軍を焼き払うという右幽の企みが虚しく終わったことを告げた。

 枝葉の間からその月を見上げた右幽は慨嘆し、大息をついてがっくりとうなだれる。


「おのれ……今日という今日こそは、いよいよあの目障りなおろち退治が叶うかと心躍らせたものを、天は何故ことごとくこの右幽めをお見捨てあそばすのか」

「――それは貴様に大義がないからであろう」

「何奴」


 刹那、暗い森の中に響き渡った男の声に、全員が馬を止めて血相を変えた。十騎の供に守られた右幽もその中心で竦み上がり、どこからともなく聞こえた声の主を探して右顧左眄する。

 ところが次の瞬間、俄然あたりに一陣の風が吹き、騎馬武者たちが手にしていた松明が一斉に消えた。

 それに驚き、供の一人がわっと声を上げた途端、闇の中に短い呻きと鈍い音が鳴り響く。


「ど、どうしたっ」


 と、その異変に震え上がった右幽が叫ぶ間にも右の一人、前の一人、更に左の一人と、右幽を守る家来衆が次々と馬を落ちた。落ちた者はそのまま地面の上で昏倒し、右幽の呼びかけにも死んだように答えない。

 何が起こっているのか分からないまま、あたりには供の者たちの悲鳴ばかりが響き、一人、また一人と護衛の数が減り続けた。

 乗り手を失った馬もまた混乱し、中にはいななきを上げて駆け去ってしまうものもいる。


「殿、お逃げっ」


 と、この異常な事態に震駭し、叫ぼうとした最後の供が横からの殴打を受けて馬を落ちた。それにより右幽はいよいよ闇の中に一人残され、姿の見えない敵に慄然と凍りつく。


「な……な、な、何者ぞ! 闇に紛れてこのわしを襲うとは、身の程知らずの不届き者め! 潔く姿を現せ!」

「そう喚くな。ここにいる」

「ひっ!」


 そのとき真上から聞こえた声に驚き、右幽は悲鳴を上げて仰け反った。そうして見やった頭上には一本の枝が伸び、その上に黒々とした人影がある。

 一度は雲に隠れた満月が、やがてその光によってゆっくりと照らし出したのは、悠然と木の枝に腰掛けた若い男であった。

 齢、二十五、六歳ほどか。腰まで届く黒髪は頭の上で一つに結われ、薄ら寒いほどよく整った顔立ちをしている。


「き、き、貴様は」

「お前が玄田右幽か。存外貧相な顔をしているな。どう見ても将器ではない」

「ぶ、無礼な! 貴様、一体何者じゃ!」

「俺か? 俺は吉村七兵衛だ」

「きっ」


 と、男が告げた名を復唱しようとして言葉にならず、右幽は眼窩がんかから目玉が零れんばかりに目を剥いて木の上の影を凝視した。

 吉村七兵衛。かつて七代目飛沢克之進とびさわかつのしんとして、始末屋界最凶と言われる一門を率いていた男。

 そんな男が目下自分の頭上にいるという事実が受け入れられず、右幽はぶるぶると大仰に震え出す。


「ま……まさか、あの伝説の始末屋が、何故ここに……」

「何だ、北原から聞いておらなんだか? お前が執拗に狙っていた、秘術の里の長夫婦の娘。あれの護衛を蓮香より任されたのがこの俺よ。お前のやり方はこれまでとくと見せてもらった。俺が天ならとうに雷の一つでも落としてやっているところだな」

「で、では貴様は、あの女郎の指図でここに」

「いや、それは違う」


 言って、七兵衛は小鳥が枝から飛び立つような軽やかさでひらりと地面に降り立った。

 それを見た右幽は馬上で縮み上がり、全身を震わせるばかりで手綱を捌く力もない。


「この一件、蓮香は一切噛んでおらぬ。あやつは俺がここにいるとは知らずにお前を捜し、今も鴉土の陣にて暴れ回っておるだろう」

「な、な、ならば、貴様は何故ここにいる。このわしを討てと、一体誰に命ぜられたのだ!?」

「――誰でもない、俺自身にさ」


 短く言った七兵衛の手が、腰の刀をすらりと抜いた。それが月光を受けて青白く閃き、右幽の恐怖を煽り立てる。

 が、右幽もまた一国の主であった。志半ばで討たれてなるものかと自身を叱咤し、大音声を上げて自らも腰の業物を振り抜いた。


「おのれ、幽鬼の分際で我が首を欲すとは不遜の輩め。我こそは鴉土国将軍、玄田右幽である!」


 とおめき、馬腹を蹴って果敢にも七兵衛へと向かってゆく。

 七兵衛は、動かなかった。ただ凝然と大木を背にして立ち尽くし、向かってくる右幽を待ち受けた。


 胸の傷が疼くようである。


 だが構わぬ、と呟き、刹那、七兵衛は刀の刃を内に向ける。


「鬼め、覚悟っ」


 馬を馳せつつ、右幽が馬上で太刀を振り上げた。その右幽が白刃を振り下ろした瞬間、七兵衛は跳躍し、闇間に刃を一閃させる。


 風が唸った。


 次に七兵衛が大地を踏み締めたとき、右幽の首から血が噴き出し、声も発さぬままに地に落ちた。


 立ち上がり、七兵衛は黙然と動かなくなった右幽を見やる。

 再び雲に隠れた月が闇を払うように地上を照らし、やがてその清光は七兵衛の全身をも濡らしてゆく。


「……黄宵おうしょう、やはりお前の言ったとおりだな。どうやら俺は、始末屋には向いていなかったようだ」


 手の中の刃は、静まっていた。

 七兵衛はその刃を取り出した懐紙で拭い、鞘へ戻し、次いで傍にいた空馬のくつわを取る。


 大人しそうな馬であった。七兵衛はその背にひらりと跨がり、戛々かつかつと数歩進ませて、それから緩やかに駆け出した。


 月が明るい。


 今宵は前途がよく見えた。

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