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瑞穂草子  作者: 長谷川
2/21

壹.用心棒

 七兵衛は今、井ノ子いのこの町にいる。

 穏やかな秋晴れの空が続く瑞穂国みずほのくにの南西、亥娑国(いさのくに)の外れであった。

 戦国の世に似つかわぬのどかさに恵まれたこの国は、流れ者の七兵衛にとって大変居心地がいい。と言うのも、井ノ子は隣国弥虎国やたけのくに猴白国ましらのくにとの境を接する宿場町で、通りには他郷の匂いを孕んだ雑鬧ざっとうが満ち満ちていた。


 七兵衛はその雑鬧の中を、ゆらゆらと西へ歩いてゆく。身の丈六尺(約一八〇センチ)を超える七兵衛の長身は平均的な背格好の男女が多い井ノ子の町で、文字どおり頭一つ抜けていた。

 おまけにその見目は整い、腰の大小に切袴という武家の体をしているので、自然衆目を引きつける。


 はて、あれなるは何処のお武家様か、と首を傾げる町人らの視線を悠々と受け、七兵衛はそのまま通りを抜けた。まだ夜も明けて間もない、卯の半刻(朝七時)のことである。

 そうして七兵衛が向かった先は、町外れにある雑木林の奥だった。林の中には一本の沢が横たわっており、その向こうに一軒の庵がある。

 そこが目下の隠れ家とも言うべき七兵衛の住まいだった。橋もない沢をひょいと跳び越えた七兵衛はその庵の戸をがらりと開け、鷹揚に声を上げる。


「おう、帰ったぞ」


 早朝の陽射しを受けた庵の中は静かだった。

 聞こえるのは七兵衛の背後をさらさらと流れる沢の音だけで、今は野鳥の囀りさえ遠い。


「利吉、おらんのか」

「――へい、只今!」


 ところがそのとき、七兵衛がなおも戸口から吠え立てれば、奥の間から威勢のいい声が返った。

 次いでばたばたと慌ただしく現れたのは、齢十六、七歳ほどと思しい顔立ちの青年である。


「おかえりなさい、七兵衛さん」

「おう、お帰りなすったぞ」


 出迎えに現れた青年に尊大な口調で言い、七兵衛は腰の大小を外して彼に預けた。それから屈みもせずに草履を脱ぎ捨て、土間へ放ると、そのまま板敷に上がり、のしのしと居間の隅へゆく。

 そんな主人の無精を見た青年は、名を利吉りきちというのだが、露骨な呆れ顔を作って土間へと下りた。そうして七兵衛が揃えもせず置き去りにした哀れな草履たちを拾い上げ、きちんと上がり口に並べてやる。


「今日も健やかに午前様っすね。早速ですが、朝飯はどうします?」

「要らん。もう食うてきた」

「それはまた羨ましいご身分で。今朝はどなたの手料理を召し上がってきたんです?」

「おみち小梅こうめ

「二食も食ってきたんすか?」

「左様。昨夜は――」


 と、利吉の問いに答えながらやおら袴の紐を解き、七兵衛は炉端で着替え始めた。居間の隅には竹籠が一つ置いてあり、朝帰りの多い七兵衛のために利吉がいつもそこに着替えを用意している。

 今日は藤色の長着と襦袢がそこにあり、七兵衛はそれをむんずと掴む一方で、まただらしなく脱いだ袴を投げ捨てた。それがべしゃりと目の前で力尽きるのを、利吉はなおも呆れ顔で眺めている。


「――日が暮れた頃からお路のもとで世話になり、そのまま朝飯も馳走になってきた。が、帰りにふと小梅の顔を見とうなってな。それで長屋を訪ねたら食っていけとねだるもので」

「で、食ってきたんすか」

「おう、食った」

「どっちを?」

「どっちもさ」


 事もなげに言いながら、七兵衛は襦袢をばさりと開き、もう一方の手で腰帯を解いた。

 他方、利吉はいかにも遺憾といった顔つきで、深い落胆のため息をついている。


「七兵衛さん……毎度同じことを言うのはおれも気が引けるんですがね。その女癖の悪さ、いい加減どうにかしたらどうっすか」

「人聞きの悪いことを申すな。悪いのは俺の女癖ではなく、天が与え給うたこの美貌だ」

「一生言ってて下さい。それでなくとも、よろず屋の仕事が入らなくなってもう三月も経つんすよ? そうやって女性にょしょうのところで遊び回ってる暇があるなら、少しは今後のことも考えていただかないと」

「心外だな。こう見えて俺も、先のことなら真面目に考えておる」

「へえ、そうですか。たとえば?」

「たとえばどこの賭場なら如何様いかさまがしやすいかとか、どこの高利貸なら借りた金を上手く踏み倒せるかとか」

「一瞬でも期待したおれが馬鹿でした」


 七兵衛の提案をみなまで言わせず、利吉は半ば被せるように吐き捨てた。が、先刻から利吉が辛辣な小言を並べているにもかかわらず、七兵衛はまるでどこ吹く風である。

 そのまま涼しい顔で長着を脱いだ七兵衛は、更にその下に着ていた襦袢も脱ぎ捨て、惜しげもなく裸形となった。その左の肩から右脇腹にかけて、壮絶な古傷が残っている。

 引き締まった七兵衛の裸体に袈裟のごとく走るその傷には、今も縫合の痕があった。利吉はその古傷が目に入ると、途端にさっと横を向き、わずかに顔色を曇らせて言う。


「と、とにかく、いい加減次の仕事を入れないと、おれの人足の稼ぎだけじゃやっていけなくなりますよ。毎日荷運びをして寝るだけじゃ、腕だって鈍っちまいますし……」

「そんなに気を揉まずとも、なるときはなるようになる。よろず屋の仕事とて、必要とあらば向こうから出向いてくるものだ。今までもそうであったろう」

「今までがそうだったからって、これからもそうとは限りませんよ。だいたい七兵衛さんは昔から危機感ってものが――」

「――頼もう」


 再び始まろうとしていた利吉の小言を、そのとき、不意に遮った声があった。響いたのは男の声で、先刻七兵衛が現れた戸の向こうから聞こえたようである。

 驚いた利吉がそれを振り返っている間にも、七兵衛はのんびりと新しい襦袢をまとい、


「ほれ、来た」


 と、戸口へ向けて顎をしゃくった。

 その様を横目に見た利吉は苛立ちと戸惑いが入り混じったような顔をすると、ひとまず七兵衛の刀を刀架へ置いて戸口へと馳せていく。


「へい、只今」


 そう言って利吉がからりと開けた戸の向こうには、笠を被った一人の男が佇んでいた。

 一本差に脚半を巻いた、いかにも牢人体の男である。男は利吉が出迎えに現れたことを知ると、すぐに菅笠のつば・・を上げた。

 そこから覗いた男の顔に、利吉は見覚えがある。


「よう、利吉。久しぶりだな」

癸助きすけの兄ぃ!」


 目深に被った笠の下から素顔を見せたその男は、利吉を見るや爽やかに破顔した。

 男は、名を癸助という。年の頃は今、ようやく着替えを終えてのそのそと髪を結い始めた七兵衛とさほど変わらず、数え年二十四だった。

 今は鶴月国かづきのくに亘貫わたぬきに拠点を構える情報屋で、七兵衛らとは特に仲がいい。初めに出会ったのは三年前の冬のことで、七兵衛らがよろず屋となるきっかけを作ったのもこの男である。


「兄ぃ、本当にお久しぶりです! お元気でしたか?」

「ああ、おかげさまで何とか食わせてもらってるよ。七兵衛、お前も息災そうだな。また朝帰りか」

「そうだが、何故分かった?」

「そりゃ、脱いだ着物がこれ見よがしにぶん投げてありゃあ、だいたいの予想はつくさ。また女を泣かせてんのか」

「ああ。おなごどもは皆、俺の下でいてばかりいる」

「兄ぃ、七兵衛さんの言うことは八割方聞き流して下さいね」

「言われなくてもそうするよ。邪魔するぞ」


 顔色一つ変えずに言うと、癸助は外した笠を外に立てかけ、旅姿で戸口を潜った。利吉はそんな癸助を快く迎えながら、七兵衛が脱ぎ散らかした着物を集め、一度奥へと引き取ってゆく。


「急に訪ねてきたりして悪かったな。少し急ぎの用があってよ」

「何だ。また面倒事か?」

「まあ、そう言うなって。最近お前らには仕事を回してなかったから、そろそろ利吉が金がねえと騒ぎ出す頃だろうと思ってさ」

「さすがだな。今まさに、そのことで小言を聞かされていたところだ」


 人事のように言い、七兵衛は炉端に胡座をかいて、なおも腰まで届く黒髪を結っていた。瑞穂国では古くから男が髪を伸ばすのを粋とする風潮があり、癸助も背中にかかる黒髪を今は一つに結っている。

 その癸助は言わば仲介屋とも呼ぶべき立場にいる男で、客から受けた仕事を取り次ぐためにこうして七兵衛を訪ねてくることも珍しくなかった。そうした仲介業の他にも、遠国の政争から近場の人斬り事件の真相まで、様々な情報を集めてはそれをひさいでいるから、


「情報屋」


 などという、世間にはあまり馴染みのない肩書きを名乗っている。


「実は、今回はお前らにある女の用心棒を頼みたい」


 と、その若き情報屋がおもむろに切り出したのは、七兵衛の着物を片づけた利吉が再び奥から舞い戻った頃のことだった。

 そのとき利吉は客人である癸助に茶を馳走するため、炉の上に吊った土瓶に手を伸ばしかけていたがはたと止まり、


「用心棒?」


 と聞き返す。

 他方七兵衛は、身を乗り出して部屋の隅にあった煙草盆をつつと引き寄せ、そこに置かれた愛用の煙管を取り上げた。

 その火皿に刻み煙草を詰めながら、


「それは、そのおなごによる」


 と、横柄に言う。


 利吉に睨まれた。


「七兵衛さんはちょっと黙ってて下さい。だけど用心棒って、そんなものが要るってことは、その方はどこぞのお姫様ですか? それとも何かの事件に巻き込まれてるとか?」

「今回の件に関して言や、後者だ。ときにお前ら、符術師ふじゅつしって知ってるか?」

「もちろん知ってますよ。おれもまだ本物に会ったことはないっすけど、〝符〟とかいう特殊な紙札を使う妖術師のことっすよね?」


 言いながら利吉は今度こそ土瓶を手に取り、器用に煎茶を淹れ始めた。その隣では黙っていろと言われた七兵衛が、退屈そうに紫煙を吐き出している。

 たった今利吉が述べたとおり、符術師とは瑞穂国に数多くいる妖術師の一派であった。

 しかし彼らはその中でも極めて稀少な存在だと言われている。と言うのも符術師の操る妖術は他の妖術に比べて実戦的で、古来、戦乱の場に駆り出されてはその数を減らしてきたのだと言われていた。

 瑞穂の妖術師と言えば、他に呪術師や幻術師、傀儡師くぐつしなどがいるが、彼らも普段は市井に紛れ、他の人間と変わらぬ暮らしを営んでいる。


「だけど、その符術師がどうかしたんすか?」

「ああ。今回お前らに警固を頼む、その女がな。何を隠そう符術師なんだよ」

「え!? 依頼人が符術師!? そ、それ、ほんとっすか!?」

「もちろん。ここに来る前、俺も実際にその符術とやらを見せてもらったが、そりゃあすげえもんだったぜ。何せ変な紋様が書かれた紙切れ一つで火を起こしたり、雷を呼んだりできるんだ。ありゃ人間の業じゃねえ、文字どおり神業だな」


 そのとき利吉が差し出した茶を受け取りながら、癸助は身振り手振りで自身が見た符術師の業を語って聞かせた。

 その話を聞いた利吉はいよいよ身を乗り出し、童のように目を輝かせながら言う。


「すっげえ! おれ、本物の符術師の話を聞いたのなんて初めてっすよ! 七兵衛さん、おれもその符術ってのを一遍見てみたいです。この依頼受けましょうよ、ねっ、ねっ!」

「阿呆、俺の仕事を勝手に決めるな。選ぶのはこの俺だ」


 と、ときに火皿の吸い殻をぽん、と灰吹きへ落としながら、七兵衛が不機嫌に言った。

 機嫌が悪いのは、先刻黙っていろと言われたことを根に持っているわけではない。昨夜はお路と遅くまで戯れていたため、眠いのである。


「で、その符術師には何故用心棒が要る? 先刻お前は、そやつが何か事件に巻き込まれていると申したが」

「ああ。詳しいことは俺の口からは言えねえが、早い話が、その女を狙ってる輩がいるのさ。女の名前はさゆ・・。そいつは今、春巳国はるみのくに緋淵あかふちにいる」


 言って、癸助はまだ熱い湯飲みの茶を音を立てて啜った。

 が、それと時を同じくして、癸助の答えを聞いた七兵衛の顔色がみるみる変わってゆく。


「待て。緋淵だと?」

「ああ、そうだ」

「癸助。それはまさか」

「そう、そのまさかさ。俺の店で匿ってやるのにもさすがに限度があったんでな。それで今は、春巳の将軍様にそいつの身柄を預けてあるんだ」

「――断る。他を当たれ」


 にべもなく言った。言った七兵衛は横を向き、苦虫でも噛み潰したような顔をしている。

 しかし癸助は動じなかった。彼は七兵衛がこう出るであろうことを予測していた。

 ゆえに自然、態度にも余裕が出る。何より、利吉が淹れた茶がうまい。


「そうか、そりゃあ残念だな。さゆはお前好みのいい娘なんだが」

「その手には乗らんぞ。おなごなら今は足りている」

「歳は、利吉と同じ十六でな。歳のわりにしっかり芯の通った娘だぞ。顔もそう悪くないし、肌も白い。おまけに声が澄んでてな、これがまたそそるんだ」

「……。十六か」

「ああ、十六だ」

「胸は」

「乗るか?」

「いや、乗らん」


 癸助が差し出した甘い誘惑に、七兵衛は危うく乗りかけた。この男はことに好色で、特に若く色白な娘に弱い。

 されど七兵衛は首を振り、脳裏に浮かびかけたそのさゆという娘の姿を振り払った。さしもの七兵衛にも己が生涯の八割を占める色事より、我が身の可愛さが先立つことがある。


「ああ、そうかい。お前がそう言うならしょうがないな。今回の依頼は春巳の将軍様直々のお申し出だ。礼金は弾むし名も上がるしで、受け手ならいくらでもいる」

「左様か。ならばなおさら他を当たれ」

「そうするよ。ま、上様はお前をご指名だったんだけどなぁ。俺の推薦もあるにはあるが、最初にお前の名前を出したのはあの方だよ」

「だから何だ。俺にもそれを断る権利くらいある。そもそも娘の護衛など、あの荒馬が一人ついておれば事足りるだろう」

「いや、ありゃ荒馬というより龍だろ。そして龍には逆鱗がある。そいつに触れちまったらどうなるかは、お前が一番よく分かってるよな?」

「……」

「ま、そういうわけだから、せいぜい上手い言い訳を考えとくこった。じゃ、俺はこれで」


 あくまで恬淡とした口調を変えず、癸助は刀を取って暇を告げた。それをすっと腰に差し、結った髪を左右に揺らして土間へ向かう。

 そこで草鞋に足を入れ、屈んで緒を結い直した。

 そうしていざ庵を発とうとした、そのときである。


「――待て、癸助」


 呼び止める七兵衛の声を聞き、癸助はくるりと振り向いた。瞬間、目の前に飛んできた紙の包みを片手でひょいと掴み取る。

 包みの中身は見ずとも分かった。

 ずしりと重いその感触は、間違いなく小判である。


「……仲介料だ。その依頼、引き受けた」

「まいどあり」


 握った感触が確かなら、額は二両か三両であろう。それを懐に入れた癸助は、精悍な顔立ちを途端ににこにこと笑み崩した。

 一方、炉端で腕を組んだ七兵衛の表情は暗い。

 彼のついたため息が、炉の隅の灰をはらりと散らした。

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