拾漆.生きる道
「この傷は、そのとき利吉を庇って受けた傷だ」
と、七兵衛は先刻、決してさゆには触れさせなかった例の傷に手を当てて言った。
「亡霊となって利吉への報復に現れた黄宵は、その刃に呪いを乗せていた。それが人を斬れぬ呪いだ。その刃を利吉の代わりに受けたがゆえに、皮肉にも俺は始末屋を辞めることになった。人を斬れぬ始末屋に存在している価値などない。元より人殺しに倦んでいた俺には、始末屋であることにこだわる理由もなかった」
「だから、利吉は今もあなたを……だけど、一度始末屋になった者が一門を脱けるのは御法度なんでしょう? それなら、あなたたちは」
「左様。今も飛沢に追われている。よろず屋などという怪しげな稼業をしているのもそのためよ。各地を転々としておれば、それだけでも飛沢に見つかりにくくなるからな」
「どうして……初めからそうなることが分かってたなら、他に道はなかったの? 飛沢一門が存在する限り、あなたたちはそうして逃げ続けなきゃならないんでしょう?」
「そうだな。だがこの呪いを解くためには、どうしても一門を脱ける必要があった」
「え?」
依然青草を咥えたままの七兵衛の言に、さゆは思わず聞き返した。
呪いを解く法がある。その言葉がさゆの胸に一種の高揚を喚び起こしたのである。
「その呪い、解けるの? でも、一体どうやって?」
「単純なことだ。俺が今まで殺した人間の数だけ他人を救う。それが呪いを解く唯一の道だと、消える間際に黄宵は言った」
「他人を救う?」
「左様。それもただ救うのではない。不幸を引き取るのだ。黄宵が俺に与えた力でな」
言って、七兵衛はそれまで傷に触れていた己が手を眺めた。
理由はどうあれ、これまで何十、何百という人間の命を奪ってきた鬼の手である。
「俺は相手が己にとっての不幸だと感じているものを、文字どおり引き取ることができる。目に見えるものでも見えないものでもだ。分かりやすい例で言えば、仮に目の前で重い病に苦しんでいる者がいるとする。その者が己が病を〝不幸〟だと嘆くなら、俺はその病を引き取ることができる。代わりに俺が同じ病を患うことにはなるが、それによって相手は救われる。ただし、俺が引き取ることのできる不幸は一人につき一つまで、という制限もあるがな」
「そんな」
「呪いを解きたければ、そうやって人を救い続けろと黄宵は言った。しかし始末屋などに身を置いていては、人を救うどころか呪いを深めるばかりだ。ゆえに俺は始末屋を脱けた。生憎自分が殺めた人間の数など、もはや覚えておらぬがな」
それでもまずは、誰かを救うところから始めねばならぬ。己が手を見つめたままそう話す七兵衛を、さゆは半ば愕然と見つめた。
そのような途方もない難業を、この男は本当にやり遂げるつもりでいるのだろうか。さゆはその際限のない道のりを思っただけで気が遠くなった。
これまでに殺めた人の数が、十人、二十人程度ならば良い。しかし先程の蓮香の話がただの誇張でないのなら、今目の前にいるこの男は、瑞穂史上最も多くの人間を殺めた鬼として恐れられた男なのである。
「だ、だけどそれじゃああなたは、始末屋を辞めてからどれくらいの人を救ってきたの?」
「さて、な。それもあまりよく覚えておらぬ。だが実に様々な不幸を引き取ってきたことは確かだ。果ては利吉や癸助の不幸もな」
「利吉や癸助さんも?」
「ああ。あやつらは自らの半生にけじめをつけるため、それまで貫いてきた生き方こそが己の不幸だと言った。ゆえに俺はそれを引き取ったのよ。結果、癸助は始末屋であることを辞め、利吉は人並みに笑うようになった」
どちらも人間になった、ということである。さゆは七兵衛の話をそう受け取った。
七兵衛は始末屋を化生と言ったが、さゆもまさしくそう思うのである。あれらは人の心を持たず、なればこそどんな非情な所業をも平然とやってのけることができるのであろう。
だが目の前にいるこの男は違ったのだと、さゆは夢から醒めたような思いで七兵衛を見つめた。この男は人でありながら、鬼であることを強いられてきた。
そして今、鬼として生きてきた半生の償いを背負わされている。
それはあまりに理不尽ではないか、と、さゆは自分事のように思うのである。
(だから、蓮姫様や癸助さんは)
この男を許すことができたのか、と、さゆは初めて合点がいった。すべての真相を知った今、さゆもまた奇妙なほどにこの男に対して抱いていた嫌悪や疑念を失っている。
むしろその哀れなまでの運命に、さゆは心から同情した。肉親を奪われることの悲しみも、追っ手から逃げ続けなければならぬ苦しみも、さゆにはまるで鏡に映したようによく見えるのである。
が、唯一不思議なのは、それだけの宿命を負った七兵衛が、こうして飄々と生きていることだった。
彼がこれまで辿ってきた境遇を思えば、少し前までのさゆのように世間に対して旋毛を曲げ、暗い諦念ばかり抱いて生きていたとしてもおかしくはない。
されど七兵衛は、その性格こそ多少屈折しているとは言え、逃げも隠れもせず堂々と運命に立ち向かっている。
(つらくはないのかしら)
と、さゆは更に七兵衛の横顔を見つめた。その強さは果たしてどこから来るのか、尋ねてみたい心境になった。
同じように、自分も生きてゆけるだろうか。
肉親を失い、帰るべき里を失っても、七兵衛のように生きてゆけば、やがて辿り着く境地があるのだろうか。
「ねえ、七兵衛。その呪いは、いつか本当に解けると思う?」
「さあな。それはやり遂げてみねば分からぬ。だが俺は正直、呪いなどもうどうでも良いのだ。そんなものは始末屋を辞めるための方便に過ぎず、今はただ理由を探している」
「理由?」
「左様。己が生きてゆくための新たな理由だ。それが今、見えかけている。が、掴めるかどうか自信がない」
と、この男にしては珍しく、七兵衛は気弱な声を上げた。七兵衛の生きる理由と言えば、それはすなわち死んだ母に代わるものということに違いない。
(それって)
と思い当たることがあり、さゆは束の間考えた。
たった今自分の中に浮かんだ想念が、七兵衛の中の答えと一致しているかどうかは分からない。そこで、
「その〝理由〟って、もしかして蓮姫様のこと?」
と、思わず尋ねた。
振り向いた七兵衛の口から、ぽろりと青草が落ちていく。
「さゆ。今、何と申した?」
「だから、あなたが今を生きてるのは蓮姫様のためなんじゃないかって。さっきあの小猿って女が言ってたもの。あなたは何があっても蓮姫様にだけは逆らわないって」
「それは逆らえばあのおろちに何をされるか分かったものではないからだ。俺とて我が身は可愛い。おろちの毒牙にかかり、動けなくなったところを絞め殺されるなどというのは御免だ。俺は、死ぬならもっと楽に死にたい」
「それじゃあ私を助けてくれたのは何故? 私、あなたにはあんなにひどいことを言ったのに、そんな私を命懸けで助けてくれたのは?」
「そんなものは決まっている。――さゆ、そなたが美しいからだ」
狙い澄ましたように言って、七兵衛はさゆの顎を掴んだ。その面輪に不敵な笑みがある。
途端にさゆは赤面し、ふざけるな、と一喝してやろうとした。
が、あまりのことにぱくぱくと開いた口からは声も出ず、さゆはますますうろたえる。そんなさゆの様子を見た七兵衛がここぞとばかりに唇を寄せようとした、そのときである。
「――はい、七兵衛さん、軟派の時間はそこまでですよ。蓮姫様がお呼びです。ついでにこの扇も姫様に返してきて下さい」
と、にわかに聞き慣れた声が上がり、七兵衛の脳天にごすっと閉じた扇を突き立てた人物がいた。
言わずもがな利吉である。その表情にはいつもの朗らかな笑みが浮かび、しかしよほどの力で突き立てたのか彼が手を離しても、蓮香の銀扇は見事七兵衛の頭頂を占拠し誇らしげに屹立していた。
「おい、利吉。お前は俺に何か恨みでもあるのか」
「そりゃあもうありすぎて、全部挙げてる間に禁術が降ってきちまいますよ。さ、分かったらとっとと行って下さい。もうあまり時間がないんですから」
やはりにこにことそう話し、利吉はその笑顔でもって物臭な主人の尻を叩いた。
催促を受けた七兵衛はばつが悪そうに舌打ちしていたが、ほどなく憮然と腰を上げる。蓮香が呼んでいる、という利吉の言葉が思いの外効いたようである。
「仕方がない。では、さゆ。この続きは玄田の件が片づいたあとにでもとっておこう。俺はおなごを裏切らぬ。期待して待っておるが良い」
「いいから早く行けって言ってるでしょうが!」
依然頭に扇を突き立てたまま得意顔をしている七兵衛に、利吉が更なる怒号をぶつけた。が、案の定七兵衛はどこ吹く風で、利吉に叱られたからというわけでもなくゆらゆらと奥の広間を目指して歩いてゆく。
「ったく、あの人はいっつもあの調子なんだから……」
「七兵衛って、始末屋をしてた頃からああだったの?」
「ええ、おかげさまでおれはがきの頃からあの人に振り回されっぱなしでしてね。まるででっかい子供みたいでしょう? 本当に世話が焼けるったらありゃしないっすよ」
呆れ果てたような口調で言い、利吉はため息と共に腕を組んで七兵衛の消えた廊下を見やった。そんな利吉の言い草が何やら可笑しく、さゆは思わず笑いを零す。
ところがそれを見た利吉が、自分の方を向いたまま固まっていることにさゆは気づいた。
「何?」
と言うように首を傾げれば、途端に利吉は慌て始め、あたふたと落ち着きを失って言う。
「あ、いえ、その……す、すみません。たださゆさん、やっと笑ってくれたなあと思って」
「え?」
「癸助の兄ぃの前で笑ってるのはお見かけしましたけど、さゆさん、おれたちの前ではずっと仏頂面だったじゃないっすか。それが少し前の自分を見てるみたいで、実はちょっと落ち着かなかったんすよね。でも今のさゆさんを見たら、何だか少しほっとしました。今回ばかりは七兵衛さんのお手柄っすかねぇ」
言って、照れたように笑う利吉を見ていると、何故かさゆまで面映ゆくなった。言われてみれば、確かに自分はこのよろず屋二人の前ではちらりとも笑ったことがなかったような気がする。
しかしそのとき、
「少し前の自分」
と利吉が言ったのを聞いて、さゆは複雑な心境になった。利吉が元は感情を知らぬ子であったということは、先の七兵衛の話を聞いて知っている。
その利吉が今、こうして人並みの感情を持ち合わせているのもまた七兵衛のおかげなのだと思うと、さゆの胸にはこれまで彼らに叩きつけてきた暴言の数々が甦った。
と同時に、九嵋山の麓の村で七兵衛に向かって吐いたその暴言を聞いた利吉が、我を失うほどに憤激していたことをまざまざと思い出したのである。
「ごめんなさい」
と、そこでさゆは感情の命じるままに、利吉へ向かって頭を下げた。
驚いたのは、突然謝られた利吉の方である。それがあまりに何の脈絡もないところからきた謝罪だったので、この異性の扱いに疎い青年は度を失い、
「えっ、ど、どうしたんすか、いきなり? あ、頭を上げて下さい。おれ、さゆさんに謝ってもらうことなんて……」
「九嵋山で北原一門と戦った次の日の朝、私、七兵衛にとんでもないことを言った。それを聞いたあなたがあんなに怒っていた理由が、やっと分かったの。何も知らなかったとは言え、とても許されないことを言ったわ。だから、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
「さゆさん……」
一心に頭を下げるさゆの姿に、利吉はしばし言葉を失った。さゆにしてみれば、これまでの自らの醜態を詫びねば気が済まぬ、という心境だったに違いない。
が、利吉は結局、
「もういいですよ、さゆさん。頭を上げて下さい。あのときのことはもう気にしてませんから。というかおれの方こそ、お見苦しいところをお見せしちまって……」
と言って頭を掻いた。
それを聞いたさゆが目を上げれば、利吉はそのさゆに微苦笑を注いで言う。
「おれ、駄目なんすよね。昔から自分のことをどうこう言われるのは平気なのに、七兵衛さんのことを悪く言われるとすぐに頭に血が上っちまって……七兵衛さんにはいつもその面倒な癖を何とかしろって怒られてるんすけど、これがなかなか……」
「利吉は今も七兵衛のこと、神様だと思ってるの?」
と、ときにさゆは思わず尋ねた。利吉が始末屋を脱けた今もなお、七兵衛のことを一途に慕っているのはさゆも知っている。
表向きにはいつも憎まれ口ばかり叩いているものの、それがこの青年なりの愛情表現なのだということはさゆにも分かっていた。
が、さゆが気になったのは、その利吉の思慕の念が神としての七兵衛に向かうものなのか、はたまた一個の人間としての七兵衛に向かうものなのか、という点である。
「あははっ、さすがのおれも、もうそこまで無知じゃないっすよ。何せ七兵衛さんはあのとおり、ぐうたらで物臭で自分勝手でわがままで女ったらしで金遣いも荒くていい加減なひねくれ者ですから、どう考えてもあんなのが神様なわけないでしょう?」
「う、うん、そうね……」
「でも、それでもやっぱり七兵衛さんは、おれの恩人であり憧れの人っすから。だからおれは今も昔もこれからも、あの人についていくんすよ」
そう言って笑った利吉の顔色には、いかにも青年らしい爽やかさがあった。その笑顔を見たさゆは何故か無性に安堵し、気づけば自身もまた笑みを零している。
と同時に確信した。どんな逆風が吹こうとも、自分が自分を諦めぬ限り道はある。
その道をまっすぐ行けば、答えは必ず見つかるはずだ。