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瑞穂草子  作者: 長谷川
17/21

拾陸.元服の儀

 翌日、吉村きちむら屋敷には飛沢とびさわ門下の中忍一同がぞろぞろと集まった。

 飛沢一門は当時総勢百人ほどの門徒を従えていたが、中忍と呼ばれるのはその中でも三十人ほど、それより下の下忍と呼ばれる者たちは吉村屋敷の門をくぐることすら許されない。飛沢一門では上忍一族が古くから神格化され、身分の低い者はその姿を垣間見ることすらできないという厳しい戒律が布かれていた。


 ゆえに屋敷に上がることができるのは、中忍という地位に選ばれた者だけということになっている。その中忍どもが揃いも揃って屋敷の庭に陰気な顔を並べ、一人の少年が現れるのを待っていた。

 その少年は今、屋敷の書院にいる。そこで上座に座した初老の男より一振りの刀を下賜され、それを捧げ持つようにして受け取っていた。

 上品なこしらえの黒鞘に収まった、反りのない忍刀である。


刹鬼丸せっきまる


 と、今日までそう呼ばれていたその少年は、刀と共に新たな名も授かっていた。

 元服後の名を、吉村七兵衛。

 数年後瑞穂国みずほのくにの津々浦々まで轟き渡り、あらゆる大名、将軍を震え上がらせることになる鬼の名である。


「七兵衛」


 そうして改められたばかりの名を、上座から男が呼んだ。

 男の名は吉村才蔵さいぞうという。またの名を六代目飛沢克之進かつのしん

 つまり、七兵衛の父であった。

 黒い装束に身を包み、むっつりと表情を消して鎮座している様は、不気味な彫像か何かのように見える。それほどまでに人間味のかけらもない男であった。


 無理もない。何しろこの才蔵という男もまた、過日には己の兄弟子を殺し、今日まで血も涙もない始末屋飛沢一門の棟梁として生きてきた経歴があった。

 が、その才蔵が七兵衛と違うのは、彼がそうした自分の生き様に誇りを持っている点である。彼は始末屋の子として生まれた己の運命を認め、むしろ享受し、今では厳格な上忍一族の長として一門の上に君臨していた。

 ゆえに、自らの子である七兵衛もまたかくあるべしと頭から決めてかかっている節がある。


「改めて言うまでもないことだが、これでお前も今日から一人前の始末屋として扱われる。この上は人を殺めとうないなどという戯れ言はかくて申すな。その刀を受け取ったということは、すなわち始末屋として生きることを認めたということだ。そのことを心せよ」

「……」

「しかしそれとお前が当家の次期当主としてふさわしい人間かということはまた別の問題だ。これよりその資質を見定めるために、お前にある試練を課す。――佐寛さかんを殺せ」


 才蔵は、命令をためらわなかった。七兵衛はそんな父親の能面じみた顔を一度だけ見つめ、すぐに刀を取って立ち上がる。

 そのまま上座に背を向け、書院を出た。

 濡れ縁へ出れば、その先にあるのは一面雪化粧をした庭である。


 そこに、同じく刀をいた一人の少年がいた。佐寛という名のその少年は、雪景色に溶け込むような白装束を身につけてじっと庭先に佇んでいる。

 紛れもない死に装束であった。佐寛は七兵衛が濡れ縁へ出てきたのを認めると、にっと声もなく笑ってみせた。

 とてもこれから死にゆく者の笑顔かおとは思えない。しかしそれがこの兄弟子の覚悟なのだということは、七兵衛にも分かっていた。


「厭でございます」


 と、ときに屋敷の奥から声が聞こえ、庭へ下りた七兵衛はつとそちらを顧みた。

 そこには父才蔵と、その才蔵に無理矢理腕を引かれた母光子の姿がある。どうやら光子は、我が子が人を殺めるところなど見たくないと抵抗しているようであった。

 が、才蔵は取り合わない。彼は奥から引きずってきた光子の体を縁に放ると、それを居並ぶ中忍どもに押さえさせた。


「始め」


 そう才蔵が吼えるので、七兵衛はすらりと刀を抜いた。向かいでは佐寛もまた腰から得物を抜いている。


「手加減するなよ、喜与丸」


 と、この陽気な兄弟子は言った。死ぬことなど微塵も恐れていない、という声色である。

 一拍ののち、双方、同時に地を蹴った。白い雪が舞い上がり、二つの刃が交差する。


 皮肉なことだがこの頃から既に、七兵衛はその刀術、体術において天才的な才能を発揮していた。

 どういう因果かこの始末屋嫌いの母から生まれた少年は、瑞穂最強と謳われる飛沢の業の結晶をその身に宿して生まれ落ちてしまったらしい。


 もう一つの皮肉は、そうした忍術の基本を七兵衛に叩き込んだのが、今目の前にいる優秀な兄弟子だということであった。

 だが七兵衛の刀術は、このとき既に兄弟子のそれを超えている。激しいぶつかり合いの末、ついに七兵衛の刀が佐寛の刀を絡め取り、それを頭上高く弾き飛ばした。


 丸腰になった佐寛を前に、七兵衛は躊躇なく刀を振りかぶる。

 佐寛は、逃げなかった。七兵衛の太刀筋はそんな暇を与えなかったし、それが兄弟子として弟弟子にしてやれる最後の気遣いでもあった。

 刃がひゅっと風を切る。直後に訪れる光景から、濡れ縁にいる光子は目を背けた。

 が、それきり庭は静まり返る。


 七兵衛が振るった刃を、佐寛の首をねる寸前で止めたためである。


「何をしている」


 軒先から再び才蔵が吼えた。

 しかし七兵衛は眉一つ動かさず、その才蔵を顧みて言う。


「父上の目は節穴か。この勝負、誰が見ても私の勝ちでございましょう。これで佐寛は死に申した。ならばこれ以上の闘争は無用」

「何だと」


 普段は土気色をしている才蔵の顔が、みるみる紅潮した。あるいはこの男がこれほどまでに激情を露わにしたのは、生涯でこれが初めてであったかもしれない。


「ならばわしがお前を殺してやる」


 と、怒号を上げて刀を抜き、今にも庭へ走り出て七兵衛の首を刎ねようとした。

 が、これを慌てて止めた者がある。七兵衛が持つ天賦の才を早くから見抜いていた一部の中忍どもである。


「殿、ご寛恕かんじょを、ご寛恕を」


 中忍どもは才蔵の腰に取りつくようにしてその暴挙を止めた。言い分はこうである。


「天が若殿に与え給うた始末屋としての才能は、育て上げれば瑞穂の歴史を塗り替えるほどの力となるに相違ありませぬ。やがて若殿がそこまでの力を持てば、飛沢は必ずや他の一門を圧倒し、果ては裏の天下を統べることも夢ではないはず。ゆえにここは何とか若殿の始末屋嫌いを矯正し、そのために力を尽くすが正しき道でござりましょう。とにかく今ここで若殿を見限ってしまうのは、あまりに時期尚早でございます」


 上のような進言を受けた才蔵は仕方なく、一旦その激情を収めた。才蔵にしてみれば、父であり一門の棟梁でもある己に従わぬ倅ほど憎たらしいものはなかったに違いない。

 が、その才蔵も、七兵衛が内に眠る始末屋としての天稟てんぴんは認めていた。この少年が真っ当な始末屋にさえなれば中忍たちの言うように、飛沢が闇世に君臨する唯一の存在となることも不可能ではない。


 そこで才蔵はある秘策を思いつき、濡れ縁に放り出されて呆然としている光子の腕を取った。そうして無力な細君の体を再び引きずり、屋敷の奥へと去っていく。

 七兵衛はすかさずそれを追おうとしたが、無論才蔵はそれを許さず、


「押さえよ」


 とだけ言い置いて姿を消した。押さえよ、というのは言うまでもなくその場にいた中忍たちへの命令である。

 七兵衛はたちまち中忍どもに捕らえられた。いくら飛沢の中忍どもをして神童と呼ばれた七兵衛も、老練な始末屋に数人がかりで押さえ込まれては抗えるはずもない。


「これより三月のうちに光子を殺す」


 と、それから数刻ののち、再び七兵衛の前に姿を現した才蔵は言った。

 このとき光子は、屋敷の離れにいる。才蔵はそこに光子を監禁し、手練れの中忍を見張りにつけ、妻と子を完全に引き離したのである。


「お前の始末屋嫌いの原因があの愚妻であることは承知している。となればあの女を生かしておく理由がない。狗山いぬやま殿のご息女だからと、今日まであやつの自儘に目を瞑っていたのがそもそもの間違いであった。――母を救いたいか」

「……」

「あんな女でも救いたいと言うのなら、これより春巳国はるみのくにへ行け。狗山殿からの依頼がある。その依頼をお前一人の手で成し遂げてこい。それが叶えば光子は助けてやる」

「その依頼とは」

春巳野雅幸はるみのまさゆきの暗殺」


 のちにこの依頼の内容を聞いた中忍たちは、口を揃えて無理だと言った。何しろ春巳国を治める春巳野家には、始末屋界でも飛沢に次ぐ名門と名高い新堂一門がついている。

 加えて当時将軍の座にあった春巳野雅幸という男は、知略と武勇、その双方に優れた英傑として名が売れていた。

 何を隠そう、その雅幸こそが春巳野蓮香れんかの父である。だがこの雅幸の名声と勢いを恐れた隣国佰狗国はくのくにの将軍は、自らの娘を嫁にやった飛沢一門を頼り、春巳の版図拡大を急ぐ雅幸を止めよと言ってきていた。


 当然ながら一門もこの依頼を無視するわけにはいかない。だが雅幸の暗殺を成し遂げるには、こちらも忍軍をおこす覚悟で挑まねばならぬと中忍たちは承知していた。

 才蔵はそれを七兵衛に一人でやれと言う。しかも彼は依頼の内容を偽り、その真の目的は雅幸の一族郎党を皆殺しにするところにあると七兵衛に伝えた。


 土台無理な話である。しかし才蔵はできなければ死ねという程度の感情しか、もはや我が子に対して持ち合わせていなかったのであろう。

 それを聞いた七兵衛は一言も声を発さぬまま、才蔵の前から姿を消した。次に七兵衛が才蔵の前に姿を現したのは、その一月後であった。


 七兵衛が飛沢村に戻ったとき、世間は騒然としていた。


 誰もが天下取りの最有力者と見ていた春巳野雅幸とその一族が鏖殺おうさつされ、春巳国は実質国主を失った状態になっていたためである。


「春巳野雅幸の死を知った親父は、約束どおり母者を解放した。だがそれは、今後も親父に逆らえば母者を殺すという恫喝に過ぎなかった。俺は内心親父を憎悪しながらも、母者を守るために人を斬った。斬り続けた」


 月明かりが降り注ぐ御殿の中庭には、夜の静寂が満ちていた。

 さゆはそこで身じろぎ一つせず七兵衛の話を聞いている。背中に冷たい汗が流れ、隣にいる七兵衛を直視することもできないのである。


「だが唯一の誤算は、春巳野雅幸に蓮香という娘がいたことだ。春巳野家は代々その手足とも言うべき新堂一門を繋ぎ止めておくために、女児が生まれるとそれを死んだことにして、一門の上忍のもとへ養女にやっていたのだという。その蓮香が父の訃報に接して立ち上がり、齢十二にして一国を率い、雅幸の死を知って雪崩れ込んできた佰狗国の軍勢を返り討ちにした。俺を鬼と言うのなら、あれもまた立派な鬼よ」

「だ……だけどそれじゃあ、あなたが癸助きすけさんの里を焼いたっていうのは?」

「おう、それか」


 と短く答え、それから七兵衛はちょっと思案顔をした。

 その目がさゆを捉えてくる。言葉を迷っている、という風ではない。

 むしろさゆの顔色を注意深く窺っているようであった。それに気がついたさゆは、微かに眉をひそめて言う。


「何?」

「いや。そなたにはちと酷な話だと思うてな」

「里が焼かれる話だから? それなら」

「そうではない。癸助の出自についてだ」

「癸助さんの?」

「ああ。あいつも元は嶽垣たけがき一門という名の始末屋の一人だった。赤子の頃、口減らしのためか山中に捨てられておったのを嶽垣の者に拾われたと申してな」


 嘘、と呟いたつもりが、声にならなかった。

 あの癸助が元始末屋。さゆにとっては寝耳に水の話である。


「この嶽垣一門の棟梁、嶽垣源十郎げんじゅうろうというのがまた曲者であった。本名を吉村源蔵げんぞうという。俺の伯父貴だ。つまり、俺の親父の兄ということだが」

「そ、それって、兄弟で別々の一門を率いてたってこと?」

「まあ、そういうことになるな。普通始末屋というのはどこの一門であっても、一度門下に加わった者の足抜けは決して許さぬという掟がある。だが源蔵は弟の方が自分よりも優れているという理由で飛沢の六代目に選ばれたことを不服とし、一門を出奔した。そうしてまんまと追っ手を躱し、新たに嶽垣一門という名の始末屋を興して、その棟梁に自らを据えたのだ」

「その一門に、癸助さんが……」

「左様。しかしいくら兄弟とは言え、一門の掟をゆるがせにした者を放っておくわけにはゆかぬ。ゆえに親父は源蔵を追い続け、源蔵もまた飛沢を潰そうと画策した。そしてある年、ついに充分な力を蓄えた嶽垣一門が飛沢村に強襲をかけてきた。始末屋同士の血みどろの戦だ。その戦のさなか、母者は俺の目の前で嶽垣の者に殺された」


 七兵衛の横顔は、動かなかった。

 その横顔を食い入るように見つめたさゆの呼吸もまた止まっている。


「俺は復讐に狂った。一門の下忍中忍を率い、一度は退いた嶽垣を追ってその里を襲い、源蔵以下嶽垣の門徒を殺し尽くした。癸助はそのとき、たまたま里を離れていたがゆえに命を拾ったようだ。だがやつが急報に接して駆け戻ったとき、そこから里は消えていた」


 そこまで徹底的に、七兵衛は嶽垣のすべてをこわし尽くした、と淡泊に告げた。

 さゆは、やはり何も言えない。想像していたより遥かに壮絶な七兵衛の半生を知った今、挟むべき言葉が見つからないのである。


「望みを果たしたというのは、つまりそういうことだ。俺は俺の勝手な都合で蓮香の一族を殺し、癸助の里を焼いた。だがそうして復讐を遂げたあと、俺は生きる目的を失った。それまでの俺の人生は母者のためにあったのだ。その母者が死に、自分が始末屋を続ける理由をどこにも見出せなくなった」


 かと言って、始末屋には足抜け厳禁の鉄則がある。そもそも生きる理由を失くした七兵衛にとって、命懸けで始末屋を辞めることにさほど利があるわけでもなかった。

 ならばいっそ死ぬべきかと、そんなことを考えたこともある。そう語った七兵衛に、さゆはますますかけるべき言葉を失った。

 が、この話には続きがある。


「その頃だな。利吉が俺の前に姿を現したのは」

「え?」

「あいつは元々五歳か六歳の頃に、飢饉に遭った村から買われてきたのだ。それが年少の下忍にしては妙に始末屋の才があったので、面白がった中忍が俺と利吉を引き合わせた」


 このとき、利吉は齢わずか十。それでいて同じ年頃の下忍の中では抜きん出た才能を発揮し、早くから〝麒麟児〟の異名を博していた。

 しかし、これがまたおかしな子供だったのである。

 まず、ほとんど口をきかない。声をかけられれば答えるが、自ら他人に接触するということをまったくしない少年だった。

 おまけに子供らしい感情の豊かさとも無縁で、当時既に才蔵から形ばかりの家督を譲られていた七兵衛の前でさえ、終始むっつりとしてにこりとも笑わなかった。


 そうした個人的感情を持ち合わせていないということは、始末屋にとって非常に望ましい条件ではある。しかし俗世であればはしゃぎたい盛りであろう年頃の少年が、人を寄せつけずにただ黙々と農耕や忍術の修行に励む姿というのは、同じ始末屋の目にも奇妙に映るほどであった。

 七兵衛はそうした利吉の奇妙さに興味を持った。だけでなく、からかい甲斐のある童だと思った。

 というのも、利吉はこちらが冗談を言ったところでちらりとも笑わぬくせに、七兵衛が菓子などくれてやると押し伏して躙り寄り、畏まってその菓子を受け取り、表情のない面を耳まで真っ赤にして喜ぶのである。


 無理もなかった。先にも述べたが、飛沢では上忍一族が異常なほどに神格化され、いかなる下忍も中忍も上忍は神であるという認識の下に成り立っていた。

 特に幼い下忍には、それを指導する中忍どもがくどいほどに上忍は神だという思想を刷り込んで育て上げる。ゆえに利吉は七代目当主である七兵衛を人の姿を借りた神だと信じ、動かし難い崇拝の念をもって仕えていた。その宗教的思想と結束が、世間をして飛沢を瑞穂最強と言わしめるほどの集団に成長させたと言ってもいい。


 以来利吉は七兵衛がゆくところには必ずと言っていいほどついて歩き、健気なほどに世話を焼き、とかく七兵衛の役に立とうと躍起になっていた。

 七兵衛がくぐれと言えば喜んで股の下をくぐらんばかりの従順ぶりで、七兵衛はそんな利吉をからかうのが日課になり、そうした日常に一抹の安寧を得るようになった。


「しかしそこでまた事件が起こった。今度は我が一門が本拠を置いていた生馬国ありまのくにより、昨今、将軍家が一人の仙人によって脅威に晒されていると泣きつかれてな」

「仙人?」

「そなたも聞いたことがあろう。仙人とはあらゆる方面の妖術に長け、特に仙術と呼ばれる奇怪な術を用い、不老長寿の力を得た者たちのことだ」

「え、ええ……もちろんそれは知ってるけど、仙人が人を襲うなんて話は聞いたことがないわ。彼らは俗世との縁を切ることで人の身を捨て、仙界に入った存在よ。その仙人が自ら捨てたはずの世に干渉するだなんて」

「俺も初めはそう思った。が、生馬国の将軍家より、あの邪悪なる仙人を何とかしてくれと催促する使者があとを絶たぬ。ついにそれを無視するわけにもいかなくなり、ひとまず数人の下忍中忍を放って様子を見た。が、一向に仙人を仕留めたという報告がない。そこで更に人をやったが、これもまた戻ってくる気配がない」

「まさか」


 さゆは耳を疑った。仙人を暗殺するために向かった者たちが戻らなかったということは、すなわち仙人がその者たちを返り討ちにしたということである。

 それは同時に、仙人が世を騒がせていることの左証であるとも言えた。仮に将軍家の言い条が何かの間違いだとすれば、仙人が始末屋と争う理由はない。彼らの手にかかれば妖しの術の心得がない者どもをあしらうことなど、鼻毛を抜くより簡単なことなのである。

 しかしそれを敢えてせず、真っ向から迎え討ったということは、


「挑発」


 と、当時の七兵衛もそう受け取った。自らの命を狙って現れた始末屋を返り討ちにすることで、仙人は矮小な力しか持たぬ俗世の人間どもなど何するものぞと、声高に宣言しているように思えたのである。

 この仙人の名を、黄宵おうしょうといった。数百年も前から生馬国の最北にある霊山に籠もっているということ以外、素性の分からぬ老仙である。


 それからも七兵衛は飛沢の忍をその霊山へ送り続けたが、里から人数が減るばかりで成果は芳しくなかった。

 これに業を煮やしたのが、既に隠居しながらも一門を裏で操り続けていた七兵衛の父、才蔵である。


「このままでは近年瑞穂最強とまで評された一門の名に傷がつく。しかし七兵衛、他の始末屋をして〝鬼〟と恐れさせるほどの腕を持つお前ならば、あるいは仙人の首を掻き切ること能うだろう。かくなる上は棟梁であるお前自ら北へ赴き、仙人の息の根を止めて参れ。これ以上飛沢の名を貶めるわけにはゆかぬ」

「承知」


 と、このとき七兵衛は、この男にしては珍しく憎き父親の命令にも逆らわずに頷いた。いつもなら可愛げのない冷笑を添えて当て言の一つや二つ吐き捨てるところだが、一つはこの異様な事態に七兵衛も危機感を募らせていたことが大きい。

 だがそれ以上に、七兵衛はこのおよそ仙人らしからぬ黄宵という名の老仙に興味を持っていた。

 一体彼が何故生馬国の将軍家を脅かすのか、その理由を知りたいという好奇心に動かされたのである。


 かくして七兵衛は自らも供をすると言って聞かぬ利吉を里に押し留め、単身北の霊山へ向かった。ようやく里の雪も溶け、季節が春めいてきた頃のことである。

 やがて辿り着いた霊山は、先に七兵衛たちが望んだ九嵋山くびざんほどの荒々しさはないものの、仙界の気を静かに湛えた厳かな山であった。

 それも不思議なことに山とその周辺だけは今もどっさりと雪が残り、はて、俺はこれからこの山中を当てもなく歩き回るのかと七兵衛が思わずげんなりしたほどである。


 が、目的の人物は意外にもあっさりと見つかった。

 七兵衛がいざ歩き疲れる覚悟を決め、雪深い山中に分け入ろうとしたとき、


「やあ」


 と、麓の岩の上から声をかけてきた人影があった。

 芥子色の作務衣さむえに身を包み、白い髭を腹まで垂れるほど蓄えた老爺である。

 その男が件の黄宵であることは七兵衛にも一目で理解できた。

 何しろ岩の上にのんびりと胡座をかいたその人物は、


「仙人」


 と告げられておよそ人が脳裏に思い描く仙人の姿、まさにそのものだったためである。

 が、黄宵のかけてきた声があまりに伸びやかだったので、七兵衛もつい、


「おう、じじい。お前が噂の仙人か」


 と、鷹揚に返事をした。

 すると黄宵はにっこりと笑って頷き、


「ああ。いかにも、わしが黄宵だ」


 と言う。

 七兵衛はその無邪気さに思わず毒気を抜かれた。本当にこれが目下一国を騒がせている邪悪な仙人かと眉をひそめたが、しかし老爺は自分で自分を黄宵だと言う。


「では、黄宵よ。曲がりなりにも仙人なら、お前もその千里眼で俺がここへやって来た理由を既に見抜いておろう。大人しくその首を渡せ」

「厭じゃ。儂にはなんじに首を渡す理由がない」

「ここ生馬国のさるお方がお前の首をご所望なのだ。俺はそのさるお方より依頼を受けてやってきた。死ぬのが厭だと申すなら、初めから将軍家に妙なちょっかいなど出すものではない。大人しく仙界に引き籠もっておれば良かったのよ」

「まっこと、そのとおりじゃな。しかしそれも儂が本当に俗世へ手を突っ込んでおるならばの話じゃ。この意味が分からぬほど、汝は愚鈍な男ではないと見たが」

「つまり、お前は将軍家にちょっかいなど出してはおらぬということか?」

「いかにも、いかにも」


 依然にこにこと口髭を綻ばせながら、老仙は何度も頷いた。

 その挙動からは、確かに邪悪な気配は感じられない。しかし相手は瑞穂におけるあらゆる妖術を習得し、何百年もの時を生きてきた人ならざる者である。


「しかし左様ならば、なにゆえかの国の者どもがあのように騒いでおると言うのか」

「それは儂にも分からぬ。が、どうやらこの国には、儂にこの山に居座られては困る者どもがおる様子。かと言って儂にも他に行き場がない。ゆえにこうして困っておる」

「仙人というのは、困ると左様ににこにこと笑うものなのか。人間とはずいぶん違うな」

「これはまた面白いことを申す童じゃの。年寄りが目の前で困じておると言うに」

「ならば訊くが、お前の言うことがまことなら、何故俺の差し向けた飛沢の者どもを帰さなんだ。いくら始末屋と言えど、仙術を用いれば生かしたまま追い払うことも容易であったろう」

「儂は汝を待っていた」

「何?」

「汝は人を斬ることに倦んでおるようじゃな、吉村七兵衛」


 何の脈絡もなく黄宵が言った。

 刹那、七兵衛の手が腰の得物に触れたのは、まだ名乗ってもいない名を見事に言い当てられたためである。


「ほう、やはり腐っても仙人だな。名乗ってもいない男の名が分かるのか」

「名ばかりではない。儂にはそなたの半生が見える。実に数奇な宿命を負うた子よ。しかし人の世に対する関心を失って久しい儂にもこれだけは言える。汝は始末屋には向いておらぬ」


 言いながら、黄宵はやはり微笑していた。岩の上の老人の、微かに青みがかった不思議な色の眼には、まるで子を眺める父か母のような奇妙な慈愛の光がある。

 その眼差しに包まれた七兵衛は自然、この老人の言うことを信じてもいいという気になった。

 理由は特にない。今にして思えば、そのとき既に七兵衛は黄宵の使う仙術に惑わされていたのやもしれぬ。


 が、当時の七兵衛は左様な発想には毛ほども至らず、


「ならば俺にも仙術とやらを教えてはくれぬか、黄宵。始末屋となってからこの方、俺はこの世に嫌気が射すばかりだ。いっそお前のような仙人となって、俗世に別れを告げるのも悪くない。俺のような男でも仙人にはなれるか?」


 と、つい無邪気に尋ねた。


「なれぬ」


 黄宵は即答した。

 しかし、と言う。


「これは汝のこれまでの行いのためではない。ただ汝には堪え性がない」

「堪え性?」

「左様。仙人になるための修行というものは、汝ら始末屋のそれよりも遥かに長く苦しいものじゃ。が、汝は童の頃より始末屋としての修行すら嫌い、方々を逃げ回っておったろう。それも始末屋になりとうないがゆえではない。極度の物臭ゆえじゃ」

「なるほど。それは確かに無理だな」

「じゃが仙人の真似事ならさせてやれる。儂の仙術にかかれば、人にあらざる力を与えるのも容易いことじゃ。汝はその力を望むか?」

「それは、その力の内容による」

「それを明かしてしまっては面白みがなかろう。が、これだけは言える。儂の力をもってすれば、汝を始末屋という宿命の軛から解き放ってやれる」


 当時の七兵衛にとって、それ以上はないというほどの甘い誘惑の言葉であった。何しろ七兵衛は名を刹鬼丸せっきまると呼ばれていた頃から、自らを始末屋の子とした天を恨み、その宿命を嘆き続けてきたのである。

 ゆえに思わず、


「それはまことか」


 疑いもせず尋ねた。

 すると黄宵は大仰に頷き、


「ああ、まことじゃ。あとは汝の心次第。儂の言葉を信じるか、それとも命を終わらせることによってその宿命から逃れるか、好きにせい」


 と言う。

 七兵衛は、この老仙の言うことをいよいよ信じてみる気になった。

 どうせ生きて始末屋を脱けることが叶わぬのなら、老獪な仙人の狂言に踊らされてみるのも悪くはない。不思議とそういう境地になり、ほとんど迷いもせずに黄宵の誘いに乗った。


「されば」


 と、我が意を得た黄宵は言う。


「汝はこれより三月ののち、生馬国の西にある百重ひゃくえという宿場に来よ。その宿場の宇津屋うづやという宿の二階、北の角部屋にて子の刻(零時)に汝を待つ。その間、決して里へは帰るな。帰れば汝は父君ふくんによって儂を討たなんだ罪を問われ、獄に繋がれることになる。汝がいかに言葉巧みでも、儂を陥れんとしている者どもがその罪を密告し、これ汝の怠慢なりと厳しく讒言ざんげんするであろう」

「心得た。しかし何故三月も先なのだ?」

「儂にも色々と支度がある。大がかりな術を使うには、それなりの下準備というものが必要じゃ。じゃが案ずるな。この儂に限って術をしくじるということはない。支度さえ整えば、必ずや汝との約定を果たしてみせようぞ」


 黄宵は最後まで微笑を絶やさなかった。七兵衛はそんな黄宵に頷き、別れた。

 一度山に背を向け、歩き出し、ふと岩を振り向いたときには既に黄宵の姿はない。音もなく消えたようである。


 それから七兵衛は黄宵の言を守り、三月の間一度も里に戻らなかった。戻らなければその生死を確かめるべく、一門の者が総出で自分を捜しに来ることは分かりきっている。

 ゆえに七兵衛は名を変え、身分を偽り、手頃な女郎屋を宿代わりにして入り浸り、金を払わぬ代わりにしばらくの間店の用心棒として働いた。

 と言ってもほとんど店の奥に引っ込んで自堕落な生活を送っていただけなのだが、その恵まれた容姿ゆえ女たちも嫌な顔一つしない。むしろ入れ替わり立ち替わり、七兵衛の機嫌を取ろうと媚態の限りを尽くしてきたほどである。


 そういう女たちと陽気な三ヶ月を過ごし、七兵衛は満を持して百重に向かった。

 既に季節は雨期に差し掛かっている。七兵衛が町に入った日も、霈然はいぜんと雨が降っていた。


 このとき、七兵衛と時を同じくして百重の町に入った者がいる。


 その年元服し、下忍としての初忍務を与えられて帰郷する途中であった利吉である。


 通常、元服した下忍というのはその直接の師によって初めての忍務を与えられるものだが、利吉の場合は少し違った。当時飛沢村は棟梁である七兵衛が仙人を討ちに行ったまま三月も戻らぬということで大騒ぎになり、ほとんどの者がその生存を絶望視していた。

 そこで下忍の中でも特に七兵衛に思慕を寄せ、なおかつ始末屋としての奇才を顕していた利吉が吉村家の屋敷に呼ばれた。その庭で陰の当主たる才蔵と対面した利吉は、七兵衛を殺した黄宵を討て、と直々に忍務を授かったのである。


 利吉は無表情のまま才蔵に低頭し、元服の儀とも言える初忍務を拝し、単身飛沢村を発った。このとき利吉少年の胸中には、彼にとって唯一無二の神であった七兵衛を仙人ごときに奪われたという、絶望に近い憎しみだけが燃え上がっていた。

 その憎しみが、彼の始末屋としての能力を最大限に引き出したと言っていい。

 結果として利吉は齢わずか十二という若輩でありながら、まるで虫でも殺すかのように呆気なく黄宵を殺害した。その死骸を斬り刻み、野に打ち捨て、利吉は暗然と飛沢村への帰路に就いた。その途次で立ち寄ったのが、何の因果か百重の町だったのである。


 しかも、そこで一泊するために選んだ宿の名が宇津屋といった。

 選んだ理由は特にない。ただ一軒目に訪ねた宿は満室だと断られ、二軒目も同じく断られ、三軒目に足を向けたのがたまたま同じ並びにあった宇津屋だった。

 その日、百重の町の南では長雨のため川が増水し、橋が流され、多くの旅人が最寄りの宿場であるこの町で足止めを食っていたのである。

 そんな状況であるから、当然宇津屋もほとんどの部屋が埋まっている状態で、唯一北の角部屋だけが空いていた。利吉はそこに泊まることにした。


 橋が流されてしまったのでは、利吉もまた村へ帰るに帰れない。明日からの旅をどうしようかと案じながら眠りに就いた。

 事件が起きたのは、その晩のことである。


 夜半、ふと目が醒めると、利吉は自身の体が床に縫いつけられたように動かないことに気がついた。いわゆる金縛りというやつである。

 何とか四肢の自由を取り戻そうともがいたが、虚しかった。そうこうしている間に、何かがぼんやりと闇の中に浮かび上がった。

 動けない利吉の枕頭に現れたのは、何と黄宵である。


 平生、感情というものとはまるで無縁に育った利吉少年も、これにはさすがに驚いた。この仙人は間違いなく自分がこの手で殺したはずである。そう宣言しようとしたが、声さえも出なかった。

 黄宵は白髭を蓄えた顔で無表情に利吉を見下ろすと、おもむろに何かを手に取った。利吉が枕元に置いていた一口の忍刀である。


 そのまま一言も発さずに鞘を払い、刀身を不気味に光らせて、黄宵は刀を構えた。

 殺される。目を見張った利吉がそう悟ったとき、黄宵は初めて笑った。

 笑うと同時に、利吉目がけて容赦なく刀を振り下ろした。


 その瞬間、とっさに利吉と黄宵の間に飛び込んだのが、黄宵との約束を守って現れた七兵衛だったのである。

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