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瑞穂草子  作者: 長谷川
16/21

拾伍.回想

「喜与丸、こちらへいらっしゃい」


 と、七兵衛が母光子みつこに座敷から手招きされたのは、幽暦二一八年、まだ年も明けたばかりの頃だった。

 飛沢とびさわ一門を治める上忍吉村きちむら家の屋敷は村の北、峰の低い山々の麓にある。瑞穂国内でも特に北寄りの生馬国ありまのくにに拠点を置く一門の隠れ里はその季節、深い雪に覆われていた。


 光子の部屋は、その雪に包まれた中庭に面した場所にある。中庭の周囲にはぐるりと回廊が巡らされ、今まさにその廊下を横切ろうとしていた喜与丸こと七兵衛は、素直に母の言に従った。

 母の前で正座したその横顔には十四年後の彼のように悪擦れした気配もなく、生粋の美少年と言って差し支えない。

 この頃七兵衛、十二歳。

 飛沢村では元服を迎える歳である。


「喜与丸。明日はいよいよ元服の儀ですね」

「はい、母上」

「そなたはこの村で言う〝元服の儀〟というのがどういうものか、知っていますか」


 尋ねられた少年七兵衛は、きょとんとして首を傾げた。

 そんな息子の反応を見て眉を曇らせた母光子は、旧姓を狗山いぬやまという。元は佰狗将軍はくのしょうぐんの息女であったというだけはあり、その居住まいにははっきりと見て取れる気品があった。


 ただ、肉付ししおきがいいとはとても言えない。七兵衛がもう少し幼かった頃には今よりふくよかだったような気もするが、その体は年々痩せ細り、今では腕も白樺の枯れ枝のようだった。

 それでも白面のその相貌は、はっとするほど七兵衛によく似ている。七兵衛が生まれつき容姿に恵まれたのは、この母あってのことであろう。


 その母のすぐ傍で、火鉢に入れられた炭が赤く燃えている。いつもならそこには光子が実家さとから連れてきた唯一の老女こしもとが侍っているはずなのだが、今は姿が見えなかった。

 余談ながら、飛沢村は古来より女人禁制である。よって今この里には、七兵衛の母光子とその老女以外に女がいない。ゆえに光子は輿入れした直後から、自らの乳母でもあるその老女をたった一つの心の支えとしているところがあった。

 が、その老女さえも遠ざけて七兵衛を呼び寄せたところを見ると、よほど重要な用件があるに違いない。


「明日は父上から新たな名と刀をいただき、吉村家次期当主としての訓示を受けるのだと伺いました。それがどうか致しましたか?」


 聞き返した七兵衛の声は声変わりの時期を間近に控えた、やや高めながらもどこか乾いた少年のそれだった。

 七兵衛のその声を聞く度に、光子は複雑な顔をする。が、今回ばかりは、その声だけが原因というわけではなさそうである。


「確かにそういったこともあるでしょう。しかし、始末屋の元服というのはそれだけでは済みませんよ」

「どういうことです?」

「そなたは明日、父上と中忍一同の前で始末屋としての覚悟と自覚を問われるのです。それに応えるだけの覚悟が、今のそなたにありますか」

「私は始末屋なぞにはなりませぬ」


 七兵衛はきっぱりと言った。これには光子の方が驚いたような顔をしている。

 が、一拍ののち光子は苦笑した。息子が始末屋という職業を嫌っていることは無論母としてよく知っている。何しろ彼をそのように育て上げたのは他ならぬ光子本人なのである。


「喜与丸。その言葉、母として嬉しく思います。ですがいくらそなたが心でそう思っていても、そんなことは父上がお許しにならないでしょう」

「父上の都合など知りませぬ。私は始末屋にはならないと何度も申し上げているのに、あの人にはそれを聞く耳がない。ならば私もそれに対抗して、父上の言い分には耳を貸さぬことに決めました。だから私は始末屋にはなりませぬ」

「喜与丸」


 と、もう一度息子の名を呼び、光子は微笑みながらも少し困ったような顔をした。こういう小僧っ子めいたところは今も昔も変わらないのが七兵衛という男である。


「それでもそなたは始末屋の子として生まれたのです。それも一門の模範であるべき上忍の子として……そのさだめを拒むと言うのなら、そなたはここにいてはなりません。明日元服の儀を受ければ、否が応でもそなたは始末屋として生きていくことになるでしょう。そのような未来は、できればわたくしも望みたくはありません」

「では逃げます。今すぐにでも」

「逃げると言っても、どこへ?」

「どこへなりとも。私はこの陰気臭い村を出られるのなら、どこへ行こうと構いませぬ」

「しかし、一門に属する者は決して出奔してはならぬというのが始末屋の掟ですよ」

「確かにそうです。ですがそんな掟は、始末屋でない私には関係がありません。ついては母上もお覚悟を」

「覚悟?」

「逃げると言っても、私一人が自由になるわけには参りませぬ。母上のことは私がお守り致しますゆえ、共に一門を脱けましょう」


 七兵衛は、光子が望んでこの家へ嫁いできたわけでないことを知っていた。むしろ佰狗将軍ちちおやの命令で、半ば無理矢理輿入れさせられたことも知っていた。

 それならばこの際、その母親も共に村の外へ連れ出してやるのが孝行というものである。そう考えての提案だったのだが、しかし光子はゆるゆると首を振った。


「いいえ。わたくしは参りません。逃げるのならそなた一人で逃げるのです、喜与丸」

「何故です? 私は、母上を置いては行けません」

「そなたは幼い頃より始末屋としての訓練を受けている。ゆえにそなた一人ならば、あるいはこの村を出て独力で生きてゆくこともできるでしょう。しかし母は無力です。共に行けば必ずそなたを苦しめてしまう。ですからわたくしは参りません」

「それは困ります。母上が残ると仰るのなら、私もここに留まります」

「ですが、それではそなたは始末屋として生きることを余儀なくされるのですよ」

「それも困ります。ですから明日、私は元服の儀を受けません」

「喜与丸」

「さすれば始末屋にならずに済むのでしょう。ならば私は元服などしなくて結構。生涯幼名のままでも構いませぬ」

「これはそう簡単な話ではないのです、喜与丸」

「分かっております。それでも、こうでもせねば父上は」

「元服を拒めば、父上はそなたを殺します。だからそなたはここにいてはならぬのです」


 母からの予期せぬ宣告に、七兵衛は思わず黙った。そんな我が子の姿を見つめ、光子は悲しげな顔をしている。

 元服を拒めば死。それはすなわち、この村に留まる以上は始末屋となるか死か、そのどちらかを選択せねばならないということであった。

 それからしばしの沈黙を挟み、やがて七兵衛は言う。


「明日の儀式、始末屋として生きる覚悟とは、一体何を問われるのです?」

「……」

「母上は元服の儀というのがどういうものか、ご存知なのでしょう?」

「ええ、知っています。ですが、わたくしの口からはとても」

「教えて下さい。その儀式の内容によって、私も身の振り方を考えとうございます」


 七兵衛は、一途に光子を見つめて言った。

 一方の光子はしばらくその視線から逃れるように目を伏せていたが、やがて物憂げな嘆息をつき、花弁のような唇を開く。


「明日、そなたは父上から、佐寛さかんを殺すよう命ぜられます」


 母子が向き合って座る座敷は、それきり水を打ったような静寂に包まれた。

 佐寛というのは、七兵衛の兄弟子の名前である。七兵衛とは齢三つしか違わないものの始末屋としての才著しく、若くして中忍の末席に列せられ、七兵衛が物心つく前から世話係として傍にいた。

 無論、七兵衛に始末屋としての技を教えたのもこの佐寛である。性格は始末屋にしては陽気なたち・・で、極度の始末屋嫌いを発症している七兵衛を他の中忍どものように責めることもなく、むしろ受け入れている風であった。


 つまるところ、この飛沢村で数少ない七兵衛の理解者の一人、というのがこのときの佐寛の立ち位置である。吉村家の長男として生を受けた七兵衛は、彼を実の兄のように思って今日まで過ごしてきた。

 だが明日の儀式では、その佐寛を斬らねばならぬという。

 七兵衛は沈黙を続けた。


「これは吉村家の当主が代々必ず通ってきた道。今日まで己に尽くしてきてくれた兄弟子を斬ることによって自らの心を殺し、始末屋の何たるかを知り、同時に上忍一族としての自覚を育む……そのための儀式なのだと父上は仰いました。佐寛は初めからそのためにそなたの側仕えとして選ばれたのです」

「……。佐寛は、それを知っているのですか」


 尋ねた七兵衛の声は、少年のものとは思えぬほどに低かった。

 光子はそんな我が子を見つめて言う。


「ええ、知っています。そなたの側仕えとなったその日から」


 七兵衛は、それからまたしばらく黙った。ただ白いだけの、何もない明かり障子の一点を見つめて、されどその目は遠く、この世の果てでも見ているような顔をしている。


「分かりました」


 やがて七兵衛が母に返した答えは、それだけだった。

 何をどう分かったのかは、光子にも分からない。


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