拾肆.日衡城にて
七兵衛らが鴉土の陣より四里ほど北の日衡城へ駆け込んだのは、さゆが捕らえられてから一刻(二時間)ほどが過ぎた頃のことだった。
日衡城は、何もない平原の真ん中に土を盛り、作った小山の上に建てられた要塞である。
だが要塞と言ってもそれほどの規模はなく、三千ほどの軍勢がやっと入れるほどで、城から溢れ出た将士は銘々小山の麓に陣取ってそこを宿所としていた。
石垣や堅牢な城壁などもない。ただ堀を掘った際に掻き上げた土を土塁として四方に積み上げ、その中に本丸となる御殿と小さな郭が二つあるだけの質素な城である。
「利吉。お前はさゆを着替えさせてから来い」
その御殿に馬を乗りつけるや否や、七兵衛はそう言い置いてさっさと奥へ姿を消した。さゆはとっさにそれを追おうとしたものの利吉に引き止められ、御殿の一室へと通される。
するとほどなく蓮香の腰元と思しい女たちが静々と現れ、頼みもしないのに真新しい着物をさゆへと着つけていった。それが済むとさゆはようやく奥へ通され、利吉の案内で御殿の中程にある広間へと足を踏み入れる。
緋淵城のそれとは違い、畳すらない板敷の広間であった。
そこでは上座、下座に分かれた蓮香と七兵衛が、二人きりで向き合っている。
「さゆか。話は吉村から聞いた。よりにもよってこの戦時に、大変なことをしてくれたな」
そこへさゆが姿を見せるや、それまで七兵衛と話し込んでいた蓮香が冷たい声を放ってきた。
その鋭い眼光に射抜かれると、さゆは大蛇に出会った仔兎のように身を竦ませ、立ち尽くしているしかない。
「まあ、そう責めるな、蓮香。この事態を招いた責任はさゆではなく、そのさゆから目を離した俺にある。お前に依頼されていた護衛の任を果たせなかった結果だ。償いはいかようにもする」
「当たり前だ。貴様には償ってもらわねばならぬことが山ほどある。今度こそ本当に、血反吐を吐くまで扱き使ってやるから覚悟しておけ」
「ま、待って下さい、蓮姫様!」
吐き捨てた蓮香の剣幕に、さゆは慌てて七兵衛の隣へと進み出た。そこでさっと膝を折り、両手を床についてやや前屈した姿勢で言う。
「今回の事態を招いたのは他でもない私です。私が後先も考えず、玄田への復讐に走ったから……だけど七兵衛は、最後までそれを止めようとしていました。こうなったのは私がその忠告に耳を貸さなかったせいです。ですから罰するのならどうか私を罰して下さい」
「ほう」
と目を細めながら声を上げ、蓮香は手にしていた扇をはらりと開いた。
そうしてはたはたと白粉を塗った頬に風を送りながら、この稀代の女将軍は脇息に半身を預けて言う。
「さすがだな、吉村。この非常時にもかかわらず、あれほど頑なであったおなごをしっかり口説き落としているとは、その根性、見上げたものだ」
「そうであろう。だが案ずるな。俺はたとえ天地がひっくり返ってもお前だけは口説かぬ」
「たわけ。そんなものこっちから願い下げだ」
刹那、不機嫌に閉じた銀扇を、蓮香は投箭よろしく七兵衛の顔面目がけて投げつけた。が、七兵衛はわずかに首を傾げてその攻撃をひょいと躱し、代わりに後ろに控えた利吉が飛来した扇を涼しい顔でぱしりと掴む。
「で、玄田のもとに禁術の符が渡ったというのはまことなのだな? それも一瞬で四方三里を焼き尽くすほどのおぞましい術だと聞いたが」
「はい。百雷燼滅の術は、五芒星が指し示す五つの方角に符を設け、その中心に文字どおり百雷を降らせる術です。北原は私がその五ヵ所に符を仕掛けて回っていたのをわざと泳がせ、五枚の符をすべて剥ぎ取っていきました。その一連の行動を見られていたのなら、私が五枚の符を置いた場所が何を示しているのかも、敵は既に見抜いているはず……」
「とすると、敵がその謎を読み解き同じように符を仕掛ければ、この日衡城に雷の雨が降るやもしれぬというわけか」
「はい。おまけに今夜は満月です。私たち妖術師が持つ妖力は月と共に満ち欠けし、満月が中天に昇ったとき最もその力を引き出せます。だから私も今夜、そのときを狙って禁術を発動させるつもりでいました。それなら玄田も間違いなく同じことを考えるはずです」
妖力が最も高まる瞬間を狙えば、それだけ甚大な被害を相手にもたらすことができる。ならば蓮香を憎悪する玄田がそのときを逃すはずがないとさゆは説いた。
しかし、ならば今宵の満月さえやり過ごしてしまえば安全かと言えばそうではない。玄田が抱えている符術師の能力によっては、たとえ満月の夜でなかろうと、そこそこの威力でもって禁術を行使することができるだろう。
「つまり玄田から禁術の符を取り戻さぬ限り、今後春巳に安泰はない。そういうことだな」
「ええ。玄田が今夜あの術を使うつもりなら、この日衡城の周りに五枚の符を仕掛けにいくはず。月が昇る前にそのうちの一枚でも取り戻せれば、禁術を阻止できるけど……」
「さしもの玄田もその符を易々と我が方に渡すほど阿呆ではあるまい。符を仕掛けるにしても大規模な護衛の兵を催し、こちらの動きを阻もうとするはず。その攻撃を防ぎつつ符を奪えるかどうかは博奕のようなものだ。失敗すれば、目下この城にいる七千の兵が死ぬ」
物憂げに言い、蓮香は脇息の上で深々とため息をついた。
だがその横顔には憂いよりも思案の色が濃く、いかにすればこの窮地を脱せるかと目まぐるしく思考を働かせているようにも見える。
「こうなっては、もはやあまり時はない。我が軍の進退について諸将を集め評定する。貴様らには追って沙汰をしよう。それまで席を外しておれ」
「心得た」
「――さゆ、そなたはしばしここへ残るように」
立ち上がった七兵衛と利吉につられ、自らも腰を浮かせたさゆを、ときに蓮香が呼び止めた。その制止を受けたさゆは思わず冷や汗を浮かべながらも、将軍の命とあっては逆らえず、再びその場へ端座する。
そんな蓮香とさゆを残し、よろず屋二人は先に広間を退出した。
引き戸の向こうに二人の姿が消え、やがて足音さえも遠ざかってしまうと、さゆはにわかに心細くなってくる。
「あ、あの、姫様。この度は……」
「言うな。いくらそなたに謝られたところで事態が変わるわけでもなし。私は過ぎたことにはこだわらぬ主義だ。それより」
と、涼しい顔で言った蓮香は脇息からわずかに身を起こし、傍に置いていた煙草盆をつと引き寄せた。
そこから朱塗りの煙管を取り上げ、慣れた手つきで刻み煙草を詰めながら美貌の女将軍は言う。
「私にはもう一つ懸念がある。玄田がこのまま勢いに乗じ、禁術の符だけでなく書までその手に収めれば、これは私にも手がつけられなくなるであろうということだ。そなたが秘術の里の焼け跡で禁術の書を手にしたことは吉村から聞いている。その後、書は無事なのであろうな?」
「はい。禁術の書は、今は癸助さんの手元にあります。鶴月国で七兵衛たちと一度別れたあと、文と共に飛脚に預けたんです。文には私の身に万一のことがあれば、癸助さんの手で書を燃やして欲しいとしたためました。私には他に頼れる人がいなかったから……」
「なるほど。それは賢明な判断だ。そなたが書を身に帯びたまま玄田に捕らえられていたら、事態はこの程度では済まなかったからな。しかしそなた、なにゆえ癸助にはそこまで心を許しているのだ? あまりあやつに懐きすぎると、そのまま遊び女にされかねんぞ」
「き、癸助さんはそんな人じゃありません! 確かに私も、初めはこのまま身売りさせられるんじゃないかって怖かったですけど……でも癸助さんのお店にいる姐さん方は、戦や飢饉で帰る家をなくしたところを癸助さんに拾われて、とっても良くしてもらったって言ってました。だからみんな癸助さんのために自分から身を売ることを選んだんだって」
「それで、そなたはその言葉を信じたわけか」
「癸助さんのお店にいる姐さん方は、みんないい人たちでした。見ず知らずの厄介者の私にも、嫌な顔一つせず親切にしてくれて……私、そんな姐さん方に何もお礼ができないって言ったら、姐さん方は昔癸助さんがしてくれたことを自分も誰かにしたいだけだから気にするなって言ってくれました。そんな風にみんなから慕われている癸助さんを、疑う気になんてなれません」
顔を上げてさゆが言えば、そのさゆを見つめた蓮香がふうっと紫煙を吐き出した。
煙は燭台の灯りの中で妖しく揺らめき、やがて光の届かぬ闇の中へと掻き消えていく。
「まあ、あの男の素行については私も疑ってはいないがな。吉村のそれに較べれば、あやつは充分信用に足る」
「でも私、七兵衛のこと誤解してました。見かけどおり胡散臭くていい加減な男だと思ったら、意外に芯が通ってて……癸助さんは、七兵衛のそういうところを見込んで私を預けてくれたんですよね。なのに私、その癸助さんの目を信じられなかった」
「惚れたのか、吉村に」
と、ときに蓮香が何気なく発したその一言に、さゆは目を見張って固まった。
かと思えばたちまちその白皙の頬に朱が上り、自然、声が裏返る。
「だっ、誰があんなすけこまし……!」
と言いかけたところで、はたと相手が一国の主であることを思い出した。
途端にさゆは悄々と乗り出しかけていた身を竦め、一つ咳を払って言う。
「生憎ながら、七兵衛に対してそのような存念はありません。ただ……」
「ただ?」
「……私、旅の間に、七兵衛にはひどいことをたくさん言いました。人殺しとか、人非人とか……なのに七兵衛は、そんな私を迷わず助けに来てくれた。自分の身の危険も顧みず、敵陣の真っ直中へ……それが、どうしてだろうって……」
少なくともあれほどの憎しみを叩きつけられておいて、何とも思わぬほど七兵衛も愚鈍な男ではあるまい。それでも彼が自分を助けに来たという事実が、さゆは未だに信じられないのであった。
仮に自分が七兵衛の立場であったなら、かように偏屈で可愛げのない娘などとうの昔に見捨てている。さゆでさえこれまでの己が振る舞いを顧みてそう思うのに、当の七兵衛が涼しい顔をしているというのは一体どういうことであろう。
「……。さゆ。そなたはあの男が何故始末屋を辞めたか知っているか?」
「え?」
と、不意に上座の蓮香から話を振られ、さゆはいささか狼狽した。
七兵衛が始末屋を辞めた理由。そんなものは知るわけがない。
何しろさゆは今日まで七兵衛との間に一定の信頼関係を築くことを怠ってきただけでなく、そもそもまともに言葉を交わしたことさえ指折り数えるほどしかなかった。
それを暗に示すべくさゆが困惑顔を浮かべると、蓮香は再び煙管の吸い口を口元へ寄せながら言う。
「あの男もな、殺されたのだ。目の前で実の母親を」
「えっ」
「戦の世の常と言うべきか。そのような憂き目を見てきたのは、何もそなたや吉村だけではない。私も両親を含む一族郎党を皆殺しにされ、癸助もまた己が故郷と呼ぶべき里を滅ぼされた。ゆえに私はこうして亡き父の跡を継ぎ、春巳野家唯一の生き残りとして領国を治めているのだ。あるいは癸助が帰る場所をなくした女どもを引き取り面倒を見ているのも、そういう過去があってのことやもしれぬ」
さゆは絶句した。上座の蓮香はまるで世間話でもするかのように平然と紫煙を吐き出しているが、その彼女が告げた事実は想像を絶する威力でもってさゆの頭を殴りつけてくる。
七兵衛、蓮香、癸助。目下自分を取り巻くこの三人が、同じように肉親や故郷を失った過去を持っているとはさゆは夢にも思わなかった。
その真実をどう受け止めるべきかと当惑している間にも、蓮香はぱちりと煙管を盆へ戻し、更に言う。
「先代の倭王が崩御されてより早二百三十余年、戦禍渦巻くこの国ではさほど珍しくもない話だ。しかしそもそも、そのような悲劇が当然となっているこの世がまずおかしい。ゆえに私は天下に武を布き、二度と戦乱の起こらぬ世を創る。その夢さえ叶えば、いずれはこの瑞穂から始末屋などというおぞましき輩も淘汰されることであろう」
「そ……それじゃあまさか、蓮姫様のご一族や、癸助さんの里を滅ぼしたのも……」
「ああ、始末屋だ。それもたった一人の男によって、私も癸助も一度はすべてを奪われた。その男の名は――吉村七兵衛。かつてこの瑞穂で〝闇世の鬼〟と呼ばれ、あらゆる者から恐れられた最凶の始末屋だ」
「え?」
さゆは、またしても絶句した。耳を疑い、たった今聞いたばかりの言葉を反芻してみたが、やはり浮き上がってくる名は一つしかない。
吉村七兵衛。確かにあの男は元始末屋だと言っていた。
しかし蓮香や癸助の一族、故郷を滅ぼしたとはどういうことか。
その事実とさゆの頭の中にいる吉村七兵衛という男が、どうやっても結びつかない。
「今の吉村しか知らぬそなたには信じられぬやもしれぬが、あれであの男は瑞穂史上、最も多くの人間を殺めた始末屋と恐れられておったのだ。始末屋飛沢一門の七代目飛沢克之進と言えば、当時は名を聞いただけで卒倒する将軍、大名もいたというからな」
「嘘」
「私がその吉村に一族を鏖殺されたのは、今のそなたとさほど歳も変わらぬ頃だった。ゆえに当時は私も憎しみを燃やし、あの男への復讐ばかり考えておったものだ。だがそれも今となっては過去の話。始末屋を抜け、あのとおり腑抜けとなったかつての鬼を斬ったところで、何の面白味もないからな」
「そんな……そんな理由で、姫様は復讐を諦めることができたんですか? 一族をみんな殺されて、それでも七兵衛を許せたんですか?」
「私はあの男を片時も許した覚えはない。ただ殺す気が失せたのだ。前に癸助も同じようなことを言っていた。その理由を知りたくば」
あとは本人に聞け、とそう言って、蓮香は軽く手を振った。その所作にさゆがふと背後を振り向けば、そこにある引き戸の向こうからどやどやと春巳野家譜代の諸将が乗り込んでくる。
既に甲冑で全身を鎧った男どもは口々にこの事態についての私見を述べ始め、中には早々に日衡城周辺の地理が描かれた図面を広げる者までいた。
その男臭い空気に広間を押し出されたさゆは、敷居の傍で一度蓮香に会釈してから、すごすごとその場を退散する。
それからしばし慣れぬ殿中を彷徨えば、小さな中庭を囲む回廊で、さゆはついに七兵衛を見つけた。
先刻小猿に斬られた白装束は既に脱ぎ、鈍い色の小袖に袴を履いた姿である。
その姿のまま沓脱石へ足を下ろし、ぼんやりと回廊の縁に腰を下ろした七兵衛は、口に得体の知れない青草を一本咥えていた。
さゆはその姿をじっと観察したが、所在なげに咥えたその草をぶらぶらと揺らしている様は、とても瑞穂最凶の始末屋と恐れられた男のそれには見えそうもない。
「さゆ、無事か。蓮香に焼きなど入れられなかったか」
が、ときに七兵衛が、中庭の方を見つめたまま突然そんなことを言った。さゆはそのとき廊下の角に身を潜めていたのだが、どうやらとうに露れていたらしい。
いきなり名を呼ばれたさゆはぴっと肩を跳ね上がらせ、決まりの悪いまま七兵衛の背中を見つめた。
しかしいつまでも物陰に隠れていたところで始まらない。さゆは渋々と七兵衛に歩み寄り、気まずさを誤魔化すためにことさら平静を装って言う。
「それ、何咥えてるの?」
「知らん。そこに生えているものを適当に抜いて咥えてみた」
「毒草だったらどうするのよ。お腹でも空いてるの?」
「いや。口が寂しい」
「は?」
「もう二月も煙草を飲んでおらぬ。おかげで口が寂しゅうで敵わぬのだが、依頼の最中は喫煙せぬことにしておるのだ。ゆえにこうして気を紛らわしている」
「どうして依頼の間は煙草を吸わないの?」
「始末屋時代からの習慣だ。敵地に忍び込むのに紫煙の匂いを染みつけていたのでは、それだけで侵入が発覚する恐れがある。ゆえに始末屋は匂いを嫌うのだ。その名残が今もこうして残っている」
「そ、そう。それはそうと、利吉は? 一緒に広間を出たんじゃなかったの?」
ときに七兵衛の口から出た始末屋という言葉にどきりとし、さゆは思わず話題を変えた。
そんなさゆの言動を不審に思ったのか、七兵衛は初めてこちらに一瞥を向けてきたが、すぐにまたその視線を中庭の竹藪へと戻して言う。
「あやつならそのあたりの部屋で倒れておる。何しろ蓮香に先の夜襲を促すため、鴉土の陣からこの城までを四半刻(およそ三十分)で駆けたのだ。元々足の速い男ではあったが、最近体が鈍っていたので、本気の速駆けは応えたようだな」
「あの距離を四半刻で、って……」
言いながら、さゆは自分が鴉土の陣から日衡城まで馬に乗って駆けてきた道のりを思い返した。あのときは馬一頭が三人を乗せていたせいもあるが、少なくとも陣を出てからこの城に辿り着くまで四半刻以上はかかったはずだ。
つまり利吉は馬よりも速く大地を駆け、七兵衛とさゆの危急を蓮香に報せたということであった。
それを知ったさゆは唖然と言葉を失ったが、一方の七兵衛はこの程度できて当たり前、という顔つきをしている。
「しかし難儀なことになった。今頃評定の席は撤退か抗戦かで割れに割れておるだろうな。春巳軍はその精強さで聞こえておるが、さすがに一晩であの敵陣を落とすことはできまい」
「だけどそれじゃあ、総攻めをやめて後退したところへ術を叩き込まれるかもしれないわ」
「左様。ゆえに一度攻めると決めたら、玄田の首を取るまであとには退けぬ。たとえ全滅しようとも、前へ前へ出る他ないのだ。玄田もそれを見越して防備は固めておるはず。それを承知で死ぬまで戦うか、玄田の持つ禁術を恐れて逃げ回るかだな」
それなら禁術を止めればいい、と言おうとしてさゆは口を噤んだ。
恐らく玄田は禁術の符を守るため、それ相応の兵力を繰り出してくるに違いない。ゆえにこちらはその攻撃を防ぎつつ符を奪還せねばならず、だとすれば成功の見込みは五分である、とは、先刻の蓮香の言だった。
失敗すれば春巳軍が潰滅的な打撃を被るであろうことは想像に難くない。下手を打てば大将である蓮香の首も取られかねない瀬戸際である。
だがここで蓮香が退却したとしても、禁術の符が玄田の手にある限り春巳の危機は続くのだった。
そのため蓮香は本拠である緋淵に戻ることさえ能わず、禁術の脅威に怯えながら各地を転々とすることになるであろう。
「ごめんなさい。全部私のせいよ。あのとき私があなたの言うことを聞いていたら……」
「謝るな、と蓮香に言われなんだか」
「聞いてたの?」
「いや。だがあいつならそう言うだろうと思ってな。元より俺も、玄田に一矢報いたいと望んだそなたの心中が分からぬでもない。しかしまあ、人は変われば変わるものだな」
「え?」
「少し前までのそなたなら此度の一件、諸悪の根源は玄田であると喚き散らしておったろう。あの男さえいなければ、自分がこんな馬鹿げた真似をすることもなかったとな。正直なところ、俺はそれを少々危惧していた。が、どうやら杞憂であったようだ」
実際にそんなことになれば、さすがの蓮香も黙ってはいなかったであろう。となれば自分は、怒れる蓮香にあの場で真っ二つにされていたやもしれぬ。
そう思うとさゆは恐怖で身が縮むような思いがした。
が、同時に恥じ入る気持ちもある。
七兵衛の言うとおり、確かに少し前までの自分ならば、すべての責任を玄田一人になすりつけ、自らの無罪を声高に主張したに違いないと思ったのである。
そんな自分の姿がありありと目に浮かんだために、さゆにはもはや反論のしようもなかった。
赧然とうつむいたその面輪には、淡い自嘲が浮かんでいる。
「馬鹿ね、私。癸助さんも蓮姫様も、あなたや利吉も、みんなが私のためを思って動いていてくれたのに、私一人が自分のことばかり考えてた。これじゃあの外道と変わらないわ。もっと早くそれに気づいていれば、こんなことにはならずに済んだのに」
「しかし、そなたは気づいた。それがあの悪党との違いだ。本物の外道というものは、己が仕打ちが他者を不幸にしていることに気づかぬ。あるいは認めぬ。その点、そなたは素直であった。素直であることはおなごの美徳だ」
相も変わらず、七兵衛は竹藪を見つめたままゆさゆさと青草を揺らして言った。まるで気のない口振りだが、さゆにはそれがこの男なりの気遣いなのだと察しがつく。
意外に細やかな心配りのできる男であった。七兵衛はさゆがこれ以上の自責に苛まれることを回避するために、敢えて露骨に慰めるような態度を取らなかったのであろう。
かと言って、逆に責めもしない。
その微妙な按配が、むしろさゆを慰めたと言っていい。
「七兵衛」
「ん?」
「着物を脱いで」
「ほ?」
「さっきの傷、見せて。あの小猿って女に斬られてたでしょ」
「ああ、それか」
と、ときにさゆが持ちかければ、七兵衛は俄然落胆したような表情を見せた。
その反応を不思議に思い、さゆは首を傾げて言う。
「何よ、〝それ〟って?」
「いや。このような場所で突然脱げなどと申すので期待した。が、儚いときめきであったな」
「一体何を期待したのよ!」
今度ばかりはさゆも語調を荒らげた。が、七兵衛はやはり悪びれた素振りもない。
それどころか、
「あの傷ならば別に大したことはない。既に血止めも施した。そう気に病むな」
と、頑なに傷を見せることを拒んだ。
しかしさゆは首を振り、そんな七兵衛を諭すような口調で言う。
「そうじゃなくて、符術には人の傷を癒やす術もあるのよ。それでなくとも、あなたは北原に命を狙われてる。この状況じゃ、いつまたやつらに襲われるとも分からないでしょう? だったら些細な傷でも早めに治しておかないと」
「ほう、これは驚いた。あのさゆがこの俺の身を案じておるのか」
「もう、いちいち茶化さないで! いいから傷を見せなさいってば!」
「おい、待て」
止める七兵衛の声をみなまで聞かず、隣に膝をついたさゆは、すかさず七兵衛の衿を剥いだ。
が、その右肩に巻かれた繃帯より先に、さゆの視界へ飛び込んできたものがある。
七兵衛の左肩から右脇腹にかけて走った、一本の古傷であった。
その傷を目にした途端、さゆはひゅっと息を飲み、愕然と唇を戦慄かせる。
「な……何、この傷……」
目を疑うような、壮絶な傷痕だった。見るからに刀創だが、その痕は今も赤黒く腫れ上がり、まるで七兵衛の胸板に得体の知れない生き物が張りついているようにも見える。
気の弱い者が見れば、それだけで腰を抜かしてしまいそうな傷だった。
さゆはその傷に吸い寄せられるように、恐る恐る右手を伸ばしてゆく。
「――触れるな」
が、その手を俄然七兵衛に掴まれ、さゆはまたしてもびくりと肩を震わせた。
目の合った七兵衛が、見たこともないほど深刻な顔をしている。この男にもこのような顔ができたのか、と驚きたくなるような表情である。
「触れればそなたにまで穢れが伝染る。ゆえに触れるな」
「穢れ? いいえ、これは妖気よ。この傷の内側には、ひどく禍々しい妖気が渦巻いてる。まるで人の怨念みたいな……だけどそれより、もっとおぞましい……」
「そなた、それが分かるのか?」
と、尋ねたときには、七兵衛の顔はいつものそれに戻っていた。その問いを受けたさゆは途端に呆れ顔になり、七兵衛の手中から自らの手を抜き取って言う。
「私を誰だと思ってるのよ。妖術師なら、他人の体内にある妖気くらい感知できて当たり前でしょう。だけどこの傷、どうしたの? こんなもの、一体どこで……」
「さあな。何分昔のことだ。俺もよう覚えておらぬ」
「嘘をつかないで。これだけの傷を受けたときのことを忘れるなんて有り得ないわ」
さゆがそう問い詰めると、七兵衛は間が悪くなったようにそっぽを向いた。さゆはその視線の先を追いかけたが、七兵衛はまるで拗ねた子供のように目を合わせようとしない。
よほど話したくない内容なのかとも思ったが、こうなるとさゆもむきになった。
何としても聞き出してやると身を乗り出し、聞き分けのない童を叱る要領で、ことさら眉を吊り上げて言う。
「七兵衛」
「呪いだ」
「え?」
「俺はこの傷に呪われておる。ゆえに人を斬れなくなった。人を殺めれば呪いに体を乗っ取られ、無意識に自害しようとする。殺めるまではゆかずとも、刀で人を斬れば同じだ。先程のように、身を守る程度の応戦はできるのだが」
さゆは再び息を飲んだ。七兵衛は依然横を向いている。
その横顔に、さゆがこれまでこの男からは感じたこともない憂愁があった。
言われてみれば七兵衛は、先刻鴉土の陣で北原と争ったときも刀は使わず、ただ敵の刃を掻い潜るための楯代わりとしていたのをさゆも覚えている。
しかし〝呪い〟とはどういうことかと、さゆの思考は混乱した。
呪いに牙を抜かれた鬼。
確か紫幻斎が九嵋山でそんなことを言っていたような記憶がある。
それが人を斬れぬということならば、七兵衛はこの傷を受けた瞬間から始末屋としての存在意義を失ったということではないかとさゆは思った。
始末屋とは瑞穂の闇を跳梁跋扈し、人の血肉を喰らって生きる生き物である。少なくともさゆは里を焼かれた一件以来そういう認識でいるから、自然、人を斬れない始末屋など物の役にも立たないではないか、という思考が真っ先に出る。
「そ、それじゃあひょっとして、その呪いが、あなたが始末屋を辞めた理由?」
「そうだ。だがそれだけが理由ではない。俺は元々始末屋などには向かぬ男だったのよ。そして人を斬るのに飽いた」
「飽きた? だけど蓮姫様は、あなたも目の前でお母様を殺されたって」
言った瞬間、またもや七兵衛の顔色が変わった。彼は珍しく目を見張ってさゆを振り向くや、たちどころに渋面を浮かべ、それまで後生大事に咥えていた青草をぺっと吐き捨てて言う。
「ちっ……あの口軽めが。余計なことを喋りおったな」
「あ、待って、七兵衛! どこに行くの?」
「蓮香に文句を言ってくる」
「姫様は今評定中よ。邪魔をしたら怒られるわ。それより聞かせて。あなたが始末屋を辞めた本当の理由を」
「そんなことを聞いてどうする。何もかも終わったことだ」
「それでも知りたいの。蓮姫様や癸助さんが、どうしてあなたを許せたのか」
立ち上がり、今にも奥へ踏み込もうとしていた七兵衛を引き止めて、さゆは真剣な声を上げた。
すると七兵衛も足を止め、立ち尽くしたまま廊下の奥に溜まった闇を睨んで言う。
「……。その口振りだと、俺が蓮香の一族を滅ぼしたことは既に知っておるようだな」
「ええ。さっき蓮姫様に聞いた」
「癸助の里を焼いたこともか」
「あなたが瑞穂最凶の始末屋として恐れられてたってこともすべて」
包み隠さず、さゆは自分が知った限りの真実を七兵衛に伝えた。
それを聞いた七兵衛は腕を組んでため息をつくと、つと中庭を振り返り、その場から天上の月を仰いで言う。
「あやつらが何故俺を生かしておるのかは知らぬ。あるいは殺したいほど憎いと言われ、ならば殺せと居直った俺に腹が立ったのやもしれぬ。俺は、蓮香や癸助にならば殺されても構わぬと思っているのだがな。どうもやつらにはそのつもりがないらしい」
「あなたが二人の肉親や故郷を奪ったのは、誰かにお金を積まれたから?」
「いいや。どちらも俺の望みを果たすためにやったことだ」
「あなたの望み?」
始末屋であった七兵衛が他人の依頼で動いたのではなく、己が意思によって事を起こしたというのがさゆにはいささか意外だった。
七兵衛はそんなさゆに一瞥をくれると、観念したように再び回廊の縁へ出、そこに腰を下ろしながら言う。
「――刹鬼丸」
「え?」
「それが俺の幼名よ。鬼をも殺す始末屋になれかしと、どこぞの糞親父がつけた。だが俺の母者はその名をひどく嫌っていてな。親父の目の届かぬところでは、俺を喜与丸、喜与丸とひそかにそう呼んでいた」
「きよまる?」
「お前が人に与えるべきは死ではない、喜びであれ。それが母者の口癖だった。俺の親父とお袋は、いわゆる政略婚というやつでな。ここより西の佰狗国の将軍が、瑞穂最強と名高い飛沢一門と昵懇となるために、嫌がる娘を無理矢理化生の嫁とした」
言って、七兵衛は唐突に縁から身を乗り出した。そうして彼が手を伸ばした先に、先刻吐き捨てたのと同じ青草がある。
七兵衛はそれを引っこ抜き、またしても口に咥えた。
が、その表情はどこか憮然としている。こんなものを口にしたところで何も慰められるところがない、という顔つきである。
「ゆえに母者の親父に対する、いや、始末屋というものに対する反発はすさまじいものだった。己が腹を痛めて産んだ子が、ゆくゆくは殺戮者になるなどという現実を認めとうなかったのだろう。俺はそんな母者が好きだった。尊敬もしていた。ゆえに人を殺すなという母者の教えを守ろうとした。決して始末屋などにはなるまいとな」
「それって……」
「その俺が七兵衛と名を改めたのは十二のときだ。それも俺の望んだ名ではない。生まれたときから一門の七代目当主となることが決まっていたから名が七兵衛。笑えるくらい単純だろう」
言いながら、しかし七兵衛はにこりとも笑わなかった。
それを見つめるさゆの表情も硬い。どのような反応を返せば良いのか、正解が分からぬためである。
「俺の半生はこの名がすべて表している。実に退屈でつまらぬものだ。だがそんな半生でも話せば長い。それでも聞くか?」
「ええ、聞かせて。今度はちゃんとあなたの言葉に耳を傾けたいから」
さゆが言えば、七兵衛のため息が青草を揺らした。だがその無駄に整った横顔に、憮然としたものは既にない。
その目は今、中庭に積もった闇を見つめ、遠い過去に思いを馳せている風である。