表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
瑞穂草子  作者: 長谷川
14/21

拾參.拷問

 山中での戦いに敗れ、小猿こさるに捕らわれたさゆは、そのまま鴉土あどの陣へと運び込まれた。

 無論、小猿が担いで連れてきたわけではない。彼女が呼び寄せた忍の手によってである。


 いくら互いに女とは言え、小猿はさゆの身柄を抱えて山を下りるにはいささか小柄すぎた。しかし彼女はその愛らしい見た目に反してやることは手荒く、激痛で悶絶したさゆの両手を縛り上げ、なおかつさゆが仕掛けた禁術の符を樫の樹皮ごと削ぎ落としてしまった。

 その符の行方は知れない。さゆは鴉土軍が滞陣中に築き上げた倉の牢へ押し込まれた。

 いかにも頑丈そうな格子が組まれた、数人は入れそうな広さの牢である。


「ほう。これが秘術の里の長の娘か」


 ほどなくその牢の前に、ぞろぞろと不必要なほどの人数を連れた一人の男が現れた。黒塗りの甲冑に身を包み、金の縁取りがされた陣羽織を着た痩せ形の男である。

 齢は四十そこそこに見え、松の葉のように細い目でじろじろとさゆを見ていた。

 この男こそが北原一門に命じて秘術の里を焼いた張本人、鴉土国あどのくに将軍玄田右幽くろたうゆうである。


「此度はずいぶんと手間取らせてくれたのう、小娘。こうしてうぬの顔を拝める日を、わしがどれほど待ち侘びておったことか」

「あんたが……あんたが鴉土の将軍、玄田右幽?」

「いかにも。しかしこのわしをいきなりあんた呼ばわりとは、母親に似て不遜な娘だ。どうやら長年山中に籠もっていた田舎者は、貴人に対する礼儀というものすら知らぬらしい」

「何が貴人よ、この腐れ外道! あんたのくだらない野心のために、一体どれだけの人が犠牲になったと思ってるの? あんたみたいな人間の屑は、さっさと死んで畠の肥やしにでもなった方が世のためよ!」


 ついに里の仇を目の前にしたさゆは、牢の中に転がされながらも暴言の限りを尽くしてこの玄田を罵倒した。これには玄田も口の端を引きらせ、憤怒で言葉を失っている。

 が、これを聞いた家来衆が背後で顔を見合わせている気配を敏感に感じ取った玄田は、軽く咳を払って何とか平静を保った。

 たかが小娘の負け惜しみで激昂したとあっては将軍の威厳に傷がつく。ここはむしろ一国の主らしく長者の風格を見せ、周囲の者に、


「さすがは玄田様」


 と諸手を打たせる場面である。

 そこで玄田はことさら余裕の顔を作ってさゆを見下ろし、


「おう、おう、これは威勢のいいことだ。その様で懸命に吠えられると、むしろ愛らしくさえあるな。それはそうと、娘。汝は見慣れぬ符を用い、我が軍に何やら仕掛けようとしておったそうではないか」

「さあ、何のことかしら」

「とぼけたとて無駄ぞ。汝がこの陣の周囲に仕掛けておった符が、強力な力を秘めた禁術の符であるということは既に割れておる。何しろ我が幕下にはその道の玄人くろうとがおるのでな。小猿の持ち帰った五枚の符を、ただの符ではないと一目で見抜きおったわい」


 禁術を行使しようとしていた事実を突きつけられると、これにはさゆも口を閉ざさざるを得なかった。

 すると玄田も自然、上機嫌になる。小生意気な小娘をついに黙らせてやったという優越感が、彼の自尊心を満足させたためである。


「で、問題は汝がその禁術をどこで知り得たかだ。やはり汝は本物の禁術の書の在処を知っておったのだな。でなければ、あのような符を作ることあたうまい」

「……」

「言え。その書は今どこにある。身に帯びていないということは、再びどこぞに隠して参ったのだろう。その隠し場所を明かさねば、汝も母親と同じ苦しみを味わうことになるぞ」

「地獄に堕ちろ、下郎」


 これ以上はないというほどの、憎しみの籠もった罵声であった。さゆは格子越しに玄田を睨み据えてそう吐き捨てると、あとは顔を背けて目も合わせようとしない。

 これには玄田もついに顔色を変え、いよいよ頬を上気させた。

 その額に青筋が浮かんでいる。

 元々侮辱に弱い男であるから、ここまで来るともう抑えがきかない。


二六じろく。二六はおるか」


 叫ぶように言った。二六とは北原一門の下忍をまとめる中忍ちゅうにんという立場の男の名である。

 余談だが、各国の始末屋には共通して上忍じょうにん、中忍、下忍げにんという厳格な上下関係が存在し、最も下っ端である下忍の中でも特に優秀な者がやがて中忍という地位を与えられた。中忍は忍務にんむにおいては数人の下忍を指揮し、それ以外のときには新たな下忍の選別とその教育に当たるという重要な使命を帯びている。


 この下忍、中忍の更に上にいるのが上忍であり、これは通常、一門の棟梁とその一族だけがそう呼ばれた。北原一門の例で言えば、棟梁である北原紫幻斎しげんさいこと一條いちじょう道順どうじゅんとその娘小猿が一門の上忍ということになる。

 なおどの一門においても下忍、中忍にとって上忍の命令は絶対であり、これに逆らうことはすなわち死を意味していた。

 二六は負傷し前線を退いた紫幻斎に代わり、此度の忍務を引き継いだ小猿から陣中での一切を任された中忍である。


 当の小猿は父の仇である七兵衛を討つことに躍起になっていて、今は戦に関わる雑務のほとんどをこの二六に押しつけていた。

 その二六が倉の奥の闇溜まりから進み出て玄田の傍に拝跪する。紫幻斎ともそう歳の変わらない、老獪ろうかいな中忍である。


「お呼びでしょうか、殿」

「そこにおったか。二六、お前はこの娘に何としても禁術の書の在処を吐かせよ。どのような手段を用いても構わぬ。ただし先の母親のように誤って殺すような真似はするなよ」

「承知致しております。一門の名誉に懸けて、必ずや」


 跪いたまま顔も上げず、二六という中忍は卑屈なほど背を丸めて玄田の言に従った。その返事を聞いた玄田はふんと不機嫌に鼻を鳴らすや、あとはさゆの面も見たくないといった様子で牢の前をあとにする。

 燭台の灯りが一つ点っただけの倉に、さゆと二六の二人が残された。

 玄田が数人の家来を連れて立ち去ってしまうと、二六はようやく草履虫のように丸めていた背を起こし、ゆらりとその場に立ち上がる。

 玄田が去った方角に、ぺっと一つ唾を吐いた。二六は玄田が北原一門を犬馬のごとく酷使しながら、内心では始末屋という存在を奴婢ぬひでも見るような目で嫌悪していることをよく知っている。


「小僧めが、何を偉そうに」


 と、玄田より十以上も年嵩のこの中忍は、侮蔑を込めて闇の中に悪態を吐いた。

 が、忍務は忍務である。北原一門は代々、この玄田家に雇われてここまで立身してきただけに、当代の主が無能だからと言って命令に背くわけにもいかない。


「おい、娘。大人しく禁術の書の在処を吐け。さすれば命だけは助けてやる。このままゆけば、おぬしは間違いなく打ち首ぞ。ならばせめて生き延びて、再びあの小僧めに報復する機を窺ってはどうだ」


 眠たそうな目で言った。どうやらそれがこの男の地顔らしい。

 が、さゆはその男の人相を牢の中から一瞥しただけで、すぐにふいと顔を背けた。その玄田の命に従って里を滅ぼした外道が何を言う、という態度である。


「この話、飲まぬか」

「里を焼いた連中に情けをかけられるくらいなら、ここで死んだ方がまし」

「愚かな。我ら始末屋を前にして、楽に死ねると思うな。今に生まれてきたことを後悔する羽目になるぞ」

「糞食らえ」


 と、娘の身でありながらそういう暴言を恥じらいもなく吐き捨てる程度には、さゆの憎悪は深かった。二六もついにそれを察し、諦めのため息をつくと、次いでひゅうっと指笛を鳴らす。

 途端に闇のあちこちから影が跳び、音もなく二六の前に現れ膝をついた。

 集まったのは五人の北原下忍である。いずれも若く、覆面をしているため面体を見分けるのが難しい。


八七やしち八八やはち。おぬしらは外におれ。姫様以外何人なんぴとたりとも倉には入れるな。九十ひさと、おぬしはたらいに水を汲んでよ。始めるぞ」


 下忍たちが頷き、即座にそれぞれの持ち場へと散った。格子戸が開かれ、二六以下二人の下忍が声もなく牢へ入ってくる。

 ほどなく真っ先に倉を飛び出していった下忍が、なみなみと水を張った盥を牢へ運び込んできた。

 二六はそれを床に置かせ、瞼が半分垂れ下がった目を眼前の少女に据えて言う。


「やれ」


 その声の下から下忍の一人がさゆの体を押さえつけ、更にもう一人がさゆの頭を持ち上げて盥の中へと突っ込んだ。これにはさゆも驚いてとっさに多量の水を飲み、慌てて顔を上げようとする。

 が、下忍はそれを許さず、抗い難い力でさゆの頭を水中に沈め続けた。当然さゆは息ができず暴れたが、それを押さえつける二人の下忍はびくともしない。


 数瞬ののち、さゆの頭はようやく水中から引き上げられ、さゆは激しく咳き込んだ。しかしその呼吸も整わぬうち、再び顔を盥に突っ込まれ、ばたばたと両足を騒がせて苦しみを訴える。

 それでも顔が水から上げられることはなく、意識が飛ぶという寸前でやっと引き上げられ、再び盥に押しつけられるということが何度も続いた。

 そのうちさゆは息も絶え絶えになり、盥の水にこれ以上はないというほどの恐怖を抱くようになる。


「いやっ!」


 裂けるような悲鳴を上げたが下忍は少しも手を緩めず、なおもさゆの頭を盥に沈めた。

 そうするうちにさゆも抵抗する力を失い、水に沈められたままぐったりと動かなくなる。


「やめ」


 その頃合いを見計らった二六が牢の隅から声を上げた。それを聞いた下忍がさゆを盥から引き離し、無造作に土の上に置く。

 転がされたさゆはまたしても激しく咳き込み、何度も大きく息を吸った。その顔からは既に血の気が引き、髪も着物も派手に濡れそぼっている。


「どうだ。書の在処を吐く気にはなったか?」


 倒れたままのさゆの傍にしゃがみ込み、その顔を覗き込んで二六が尋ねた。荒い息をつくさゆの双眸には、うっすらと涙が溜まっている。

 ところがさゆは二六の顔が迫るや否やきっとその面を睨み、渾身の力で唾を吐きかけた。

 唾は二六の頬に当たり、ぬるりと滴り落ちていく。


「次だ」


 その唾を装束の袖で拭い、抑揚もなく二六が言った。盥の水が牢の隅に捨てられ、三人の下忍がさゆを囲むように立つ。

 覆面で面体を隠し、表情を消した男どもに見下ろされると、さしものさゆも体が震えた。

 恐怖のあまり叫び出し、跳び起きて逃げ出したかったが、後ろ手に縛り上げられたこの姿では体を起こすことすらままならない。


「――犯せ」


 再び牢の隅から二六が言った。そのとき聞こえた言葉に、さゆは耳を疑った。

 次の瞬間、下忍の一人がさゆの胸ぐらに掴みかかり、濡れた着物のえりを剥ぐ。同時に別の下忍が帯へと手を伸ばし、あっという間に結びを解いてしまう。


「い、いやっ、放して! いや!」

「放して欲しくば素直に禁術の書の在処を吐くことだ。吐かねば夜が白むまでそのけだものどもがおぬしを犯し続ける」


 相変わらず無表情に二六が言った。その間にも三人の下忍はさゆの着物を剥き、暴れる娘を押さえつけている。


 ところがそのとき、俄然倉の外で半鉦はんしょうが鳴った。


 緊急の事態を告げる鉦の音である。


「何事か」


 と、二六はそれまでの眠たそうな面貌からは思いも寄らぬ機敏さで牢の外へと飛び出した。

 しかし驚いたことに、倉を出ると見張りに立たせていたはずの下忍の姿が消えている。


 そればかりか鴉土の陣の南にずらりと築かれた倉の一部が、火を噴いて燃えていた。火の手が上がっているのは、さゆの身柄を押し込めた倉より四棟先の倉である。

 このあたりの倉には武具の他、兵糧、秣の類も蓄えられているため早く火を消し止めなければ一大事になるのは目に見えていた。

 だが二六の関心は違うところへ向いている。この火の原因は失火か、それとも放火かという点である。


(どちらにせよ、騒ぎが大きくなれば敵につけ入られる)


 と、二六は即座に始末屋としての勘を働かせた。放火などの騒ぎを起こし、その混乱に乗じて敵陣深くまで侵入するというのはどこの始末屋も使う言わば常套手段である。

 そもそも倉の前に置いたはずの見張りが消えているというのが怪しい。突然の出火に慌てたのだとしても、中忍である二六の指示も待たずに独断で動くような下忍は北原にはいない。


(殿を守らねば)


 と、事態をそう結論づけた二六は、倉の中身よりもまずあの無能な雇い主の身を案じた。あれでも玄田は北原一門が代々陰から守り立ててきた玄田家の六代目当主である。

 守らねば一門の名誉に関わる。そう判じた二六が倉の中から三人の下忍を呼び出そうとしたとき、味方の陣笠を被った雑兵が一人、燃えている倉を目指して駆けてくるのが見えた。

 消火に駆けつけた者の一人であろう。手には水を張った桶を携えている。


「もし、あの火はどうしたことか」


 と、出火の原因を探るべく、二六はその雑兵を呼び止めて尋ねた。

 やけに背の高い足軽である。その足軽は二六に気がついて足を止めると、


「その装束、上様の透波すっぱか」

「いかにも」


 と答えた瞬間、足軽の放った桶の水が二六の顔面を襲った。不意を衝かれた二六は頭から水を被り、


「すわっ」


 とその場から跳びずさる。

 ところがそこから目も開かぬうちに、腹へ鋭い衝撃がきた。

 次いで頭を思い切り桶で殴られ、二六は呆気なく昏倒する。


「すまんな、じじい。しばらくそこで眠っていろ」


 倒れた二六にそう吐き捨てたあげく、空になった桶をその頭にすっぽりと被せて、黒い具足の足軽は立ち上がった。

 そうして何事もなかったかのように、平然と二六が出てきた倉の入り口をくぐってゆく。


 倉の中には、今にも北原の下忍に犯されようとしているさゆの悲鳴が満ち満ちていた。三人の下忍は暴れるさゆを腹這いに押さえつけ、今や遅しと二六の下知を待っている。

 そのうちの一人が灯明かりの下に晒されたさゆの白い素肌に唾を飲み、いよいよ堪えきれなくなって袴の紐を解こうとした。

 そのときである。


「おい、敵襲ぞ。西の倉が燃えておる。早う火消しに走らぬか」


 と、格子の向こうから例の足軽が声をかけた。陣笠を目深に被っているので、その正体は定かでない。

 謎の男の登場に、三人の下忍は打たれたように身構えた。そのうちの一人が言う。


「貴様、何者だ」

「俺か? 俺は、吉村きちむら七兵衛だ」


 するりと顎紐を解き、男が被っていた陣笠を手前に落とした。その笠が顔を隠した一瞬のうちに男は細い竹筒を咥え、次の瞬間、ふっと鋭く息を吹く。

 途端に竹筒から飛び出した針が、格子の間を擦り抜けて下忍の一人に突き立った。

 痺れ薬が塗られた毒針である。

 その針を額に受けた下忍は瞬く間に崩れ落ち、残りの二人はすわと跳びずさった。目が醒めるような早業である。


「で、出たな、鬼の七兵衛!」


 と、その早業におののきながら右の下忍が大声におめいた。が、そうして彼らが格子の向こうへ目をやったとき、七兵衛の姿は既にない。

 ただ七兵衛の脱ぎ捨てた陣笠が、ひっくり返って虚しく揺れているだけだった。その変幻の術に震え上がった二人は慌てて刀を抜き、それをさゆの首へと押し当てる。


「おい、吉村七兵衛! この娘の命が惜しくば姿を現せ! 我が一門の姫君が、貴様の首を所望である。大人しく武器を捨てて従えば、娘の命だけは助けてやるぞ!」

「ならば、そうしよう」


 姿はないまま声だけが聞こえた。かと思えば下忍たちの頭上から、突然刀が降ってくる。

 その物音に驚きながらも、さては上か、と二人は人間としての本能で天井を見上げた。


 そのとき七兵衛は既に、下忍の背後へと降り立っている。


「未熟者どもめが」


 と、呆れたように吐き捨てながら、左、右、と、隙だらけの二人を手刀で打った。

 首の後ろをしたたかに打たれた下忍はそのまま崩れ落ち、どちらも目を回して動かなくなる。


「まったく、北原の忍はなっておらぬな。この程度の術に惑わされるようでは、蓮香の飼っている新堂一門の方がまだましな働きをする」


 そんな当て言を言いながら、七兵衛はのんびりと先程落とした大小を拾い、それを一度腰へ戻した。

 次いでさゆの傍に膝をつくとすらりと脇差を抜き、さゆの両手を縛っていた荒縄を切ってやる。


「さゆ、無事か」


 平然と尋ねた。ようやく体が自由になったさゆは、しかし着物を掻き合わせるのも忘れ、信じられないものを見るような目で七兵衛を見上げている。


「ど、どうして……」

「ん?」

「どうしてあなたがここにいるの。それに、その格好……」

「ああ、これは数日前に何某なにがしという鴉土侍あどざむらいより拝借した。そなたが玄田に復讐せんとするならば、そのうちここに現れるだろうと思ってな。それで、利吉と共に玄田方の武士としてこの陣に潜んでおったのだ。さすがの北原も、俺が自ら懐に飛び込んでくるとは思わぬであろうしな」


 そこでその裏を掻いたのよ、と得意げに言いながら七兵衛は具足の紐を解き、無造作にそれを脱ぎ捨てた。だけに留まらず、更にすらすらと籠手こてを外し、装束を脱ぎ、それをばさりとさゆに被せてやる。

 牢の中でほとんど裸にされていたさゆは、濡れたまま床に転がされたこともあり、あちこち土にまみれていた。

 七兵衛はそのさゆを助け起こし、濡れた小袖を器用に脱がせ、それでもってさゆの顔についた土をせっせと拭い落としてやる。


 しかしその間、さゆは茫然と座り込んでいるばかりでろくに瞬きさえしなかった。

 さすがの七兵衛もその様子をいぶかしみ、さゆの腰に細帯を回しながら言う。


「おい、さゆ。どこか痛むのか」

「違う」

「ならば立て。このような場所に長居は無用だ。今なら火事で陣中が混乱している。その隙に逃げるぞ」

「どうして助けに来たの」

「何?」

「これは罠よ。あの小猿って女が、あなたを誘き出すために私を捕らえたの。それくらい、あなたにも見抜けたはずでしょう? なのに」

「さゆ。俺はおなごが好きだ」

「は?」

「ゆえにおなごのためなら水火も辞さぬ。俺にとって、世のおなごは皆等しくずべきものだからな」

「ふ、ふざけないで、私は真面目に訊いてるのよ!」

「俺はいつでも大真面目だ」


 ぬけぬけと言い、立ち上がった七兵衛は未だ座り込んでいるさゆへと手を差し伸べた。さゆはその手を見て顔を伏せ、それきり固く唇を結んでいる。

 倉の外では依然半鉦がけたたましく鳴り、鴉土の将士の騒ぎ立てる声が聞こえた。七兵衛はそちらにちらと一瞥をやり、白い小袖姿のまま更にさゆへと手を伸ばす。


「ほれ、さゆ。行くぞ」

「……」

「人殺しの手を借りるのは厭か?」

「違う」

「ならば」

「私は行けない。玄田に奪われた禁術の符を取り戻さないと」

「禁術の符?」

百雷燼滅ひゃくらいじんめつの術。成功すれば、四方三里を焼き尽くす滅びの術よ。その術を喚び起こす符を玄田に奪われた。あれを取り戻さないと大変なことになる」

「しかしその術、玄田ごときに扱えるのか?」

「あいつの下には優秀な符術師がいる。私の作った符を一目で禁術の符と見抜くくらいのね。玄田がその符術師に命じて禁術を使えば、春巳軍はるみのぐんはあっという間に潰滅するわ。そうなる前に、何としてもそれを止めないと」

「だが今のそなたでは玄田の前に辿り着くことすら叶うまい。ここは一度日衡城ひばかりじょうまで退き、然るのちに方策を練るのが良かろう。あの城には蓮香れんかもいる。そなたが一人で犬死にすることはない」

「だけど」

「さゆ。俺を信じろ。この吉村七兵衛、我が命に代えてもそなたを守る」


 七兵衛が毅然と放った言葉が、はっとさゆの瞳を揺らした。そのさゆへ向け、七兵衛はなおも手を差し伸べ続けている。

 肩を震わせ、声を失ったさゆが、ついに自らその手を掴んだ。

 七兵衛はそれをしかと握り返し、さゆを引き上げ、手を引いて牢を出る。


「おっと」


 ところがいざ倉の外へ出たところで、七兵衛はにわかに足を止めた。入り口の前から、先刻桶を被せてやったはずの二六の姿が消えている。

 代わりに七兵衛を待ち受けていたのは、十人ほどの北原の忍であった。

 忍衆は皆一様に黒の装束を身にまとい、倉を出てきた七兵衛を半円状に取り囲んでいる。


「やっぱり来たわね、吉村七兵衛。今度こそ年貢の納めどきよ」


 その包囲の輪を見て足を止めた七兵衛の頭上から、得意げな少女の声が聞こえた。

 見上げれば、木造の倉の切妻屋根に小猿が腰を下ろしている。よほど機嫌がいいのか、満面の笑みを湛えてぶらぶらと足を揺らしている様は、とても始末屋の娘とは思えない無邪気さである。


「またそなたか、北原の姫。俺はしつこいおなごも嫌いではないが、これはちとしつこすぎるな」

「別にあたしはあんたに好かれたって嬉しくも何ともないもーんだ。むしろあんたみたいなふざけた男は大っ嫌い。さっさとここで死んじゃえ!」

「これは困った。そこまで拒まれると逆に落としたくなる」

「ちょっと、そんなこと言ってる場合!?」


 この危機的状況においても女を口説くことばかり考えている七兵衛に、さゆが上擦った声を上げた。

 今のさゆの懐には何の符の用意もない。とすれば、五倍の数の敵を相手に戦えるのは七兵衛ただ一人である。


「さゆ、これを持て」


 と、ときに七兵衛が前を向いたまま、さゆの手の中に何か押しつけた。いつか七兵衛がさゆに貸したのと同じあの脇差である。

 七兵衛はそれを持たせたさゆをぐいと背後に押しやると、その背が倉の壁につくまで下がらせた。

 言葉を発する暇もなく押しやられたさゆは、瞠目どうもくして七兵衛と脇差とを見較べる。


「あ、あの、七兵衛、これ」

「そこを動くな。いざというときはそれを使え。ただ振り回すだけでも威力はある」

「だ、だけどあなたは?」

「露を払う。しばし待っておれ」


 言うが早いか、七兵衛は腰に残った本差をすらりと抜き放った。その刀身が明るい月明かりを受けて妖しく光り輝いている。

 かと思えば北原の忍衆も銘々に得物を抜き、あたりはぎらぎらと騒ぐ妖光ばかりになった。

 敵は皆黒装束をまとっているため闇に溶け込み、まるで刀だけが光りながら宙に浮いているように見える。


「来い。どいつからでも相手になるぞ」


 挑発である。七兵衛は下から手招くような仕草で言った。その七兵衛へ向け、すかさず飛びかかった二つの影がある。

 左右からの挟撃。その一方を刀で受け止めたかと思うや、七兵衛は両足を宙に躍らせ、もう一方から来た忍の刀を蹴り飛ばした。

 次いで素早く身を翻し、丸腰になった忍の顔面を刀の柄頭で叩き、更に右にいたもう一人を目にも留まらぬ速さで蹴りつける。


 頭の側面をしたたかに蹴られ、吹き飛んだ忍はそのまま動かなくなった。その仲間を後目に更に一人、二人、三人と、北原の下忍が刀を振り上げ七兵衛へと殺到する。

 そのいずれをも鮮やかに躱し、ほとんど立ち止まることをせず、七兵衛は流れるような動きで下忍衆をあしらった。

 そこへ今度は三人の忍が同時に宙へ跳び上がり、三方から斬りかかってくる。


 それを見たさゆがあっと息を飲んだのも束の間、七兵衛は右足にぐっと力を込めるや弧を描くように蹴り上げた。

 その爪先に、微量の砂が乗っている。砂は七兵衛が右足を振り上げた拍子に宙へ飛び、目潰しとなって三人の下忍に襲いかかった。

 案の定下忍がそれに怯んだところを次々と殴り、蹴りを入れ、七兵衛は瞬く間に敵の数を減らしてゆく。


 その体捌たいさばきたるやまるで闇の中を舞う蝶のごとく、ひらひらと四方からの攻撃を躱す様はどこか優雅でさえあった。

 が、どれほどの剣撃を浴びようと、七兵衛は刀を振るわない。ただ向かってくる刃を受け止め、それをなすための道具として使うだけである。


 そうこうするうちに最後の一人となった下忍が七兵衛の使う体術に恐れを成し、懐から取り出した手裏剣を放った。それを一つ、二つと刀で弾きながら間合いを詰め、七兵衛はその脾腹ひばらに鋭い蹴りを叩き込む。

 薙ぎ払われた下忍は地に倒れてもんどり打ち、やがて動かなくなった。七兵衛が立ち尽くしてそれを見届けた、そのときである。


 ひゅっと俄然太刀風が巻き、七兵衛はとっさに身を倒した。その眼前を、すさまじい速さで刃が通り過ぎていく。

 それを仰向けに倒れてかわした七兵衛に、更なる追撃が来た。

 地に向かって振り下ろされた刀を転がり躱す。しかしそうして跳び起きたところへ、息をつかせぬ速さで刃が来る。


 その刃が人影と共に宙を飛び、一瞬の隙を晒した七兵衛の肩を斬り裂いた。

 噴き出した血を跳び越えた人影はそのままくるりと宙返りして着地する。そうしてにまりと満悦の笑みを浮かべたのは、言わずもがな小猿である。


「七兵衛!」


 七兵衛が白い装束ごと斬られたのを見たさゆが、倉の傍から悲鳴を上げた。

 が、当の七兵衛は至って落ち着いている。ゆらりと小猿に向き合うと、斬られた右の肩に触れ、その具合を確かめながら言う。


「なかなかやるな、北原の姫。自分の血を見たのは久々だ」

「そりゃそーでしょ。あんた、全然本気出してないもん。いーの? このままだとほんとに死んじゃうよ?」

「とは言ってもな。やはり俺にそなたは蹴れぬ。おなごはなぶるものではなくいたわるものだ」

「だったら無駄な抵抗はやめて大人しく斬られてよ」

「たった今斬られたばかりだが」

「そーじゃなくて、もっとざっくり」

「それは厭だ。さすがの俺も次に斬られたら死ぬ自信がある」

「だって殺す気で斬るもん」

「俺はまだ死ぬわけにはゆかぬ」

「何それ。こないだは命なんて惜しくないとか言ってなかったっけ? だいたい今まで散々人を殺してきたやつが、自分だけ助かろうなんて虫がいいんじゃないの?」

「そうだな。だから俺はここで死ぬわけにはゆかぬのだ」

「意味分かんない。やっぱりあんた、ふざけてるわ。というわけで斬っていい?」

「俺は、それどころではないと思うがな」

「は?」


 と、小猿が聞き返した直後であった。やにわに陣の北から鯨波げいはが上がり、鴉土軍あどのぐんに動揺が走ったのが分かる。

 春巳軍はるみのぐんの夜襲。けたたましい半鉦の音と共に、足軽どもが騒ぎ回っているのが聞こえた。それを知った小猿は陣を顧み、その小さな肩をたちまちわなわなと震わせる。


「夜襲!? 何で今!?」

「俺が蓮香を唆した。北原一門が俺を討つことに現を抜かしている今なら、日衡城への偵察も疎かになっているに違いないとな。ほれ、分かったら早うそなたらの殿を守りにゆかぬか。これ以上失態を重ねれば、今度こそそなたの父御の首が飛ぶやもしれぬぞ」

「もうっ、最低! あんたなんか烏の餌になって死んじゃえ!」

「そんな死に方は厭だ」


 とぼやいた七兵衛にみなまで言わせず、ときに小猿が意味の分からない言葉を叫びながら右手を振った。

 すると瞬く間に陣のあちらこちらから烏が集まり、耳が割れるような鳴き声を上げて七兵衛へと突っ込んでくる。


「これはまずい」


 と七兵衛が漏らすうちにも、小猿はこの男の相手を烏に任せ、自らは素早くさゆに向き直った。こうなったらさゆの身柄だけでも玄田のもとへ届けようという気配である。

 その思惑に気づいたさゆははっと脇差を抜いて身構えたが、まともに戦って勝てる相手でないことは先の敗北が証明していた。

 おまけに今は得意の符も手元にない。途端にさゆは足が震え、脇差を小猿に向けたまま慄然と凍りつく。


「さゆ」


 飛来した烏の大群は、逃げろと告げた声ごと七兵衛を呑み込んだ。無数の烏にばたばたと目の前を飛び回られては視界がきかないどころか、その場を動くことすらままならない。

 その間にも小猿はさゆに狙いを定め、今にも地を蹴り跳躍するかに見えた。

 ところがそこへ、俄然、宙に放られた火玉がある。


 小猿がそれに気づいた刹那、火玉はすさまじい音を上げて弾け、飛び回っていた烏どもを驚かせた。

 爆竹である。

 更にそこへ一陣の風のように駆けてきた馬があり、逃げ惑う烏の間から鮮やかに七兵衛を攫っていく。


「七兵衛さん、さゆさんを!」

「分かっておる」


 烏の群に飛び込んだ馬の上には利吉がいた。その利吉が颯爽と手綱を捌けば馬は即座に反転し、今度はさゆに向かって駆け始める。

 利吉の背後に飛び乗った七兵衛はそこですかさず体を倒し、駆け抜けざまにさゆの身柄を抱き上げた。馬はそのまま倉の横を擦り抜けて北へと駆け去っていく。


「あーっ! こらっ、逃げるな卑怯者ーっ!」


 三人の逃げ去ったあとには、小猿の叫びだけが虚しく響いた。七兵衛が火を放った西の倉は、未だ明々と夜を照らしている。

 その騒ぎと春巳軍の夜襲が相俟あいまって、鴉土の陣はすさまじい混乱に陥った。

 七兵衛、利吉、さゆを乗せた馬は、そんな大騒ぎの中をまっしぐらに駆けてゆく。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ