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瑞穂草子  作者: 長谷川
13/21

拾貳.百雷燼滅

 日衡城ひばかりじょうに拠った春巳軍はるみのぐん七千と、封境を越えた鴉土軍あどのぐん一万が対峙していた。

 両軍の間には、平之原たいらのはらと呼ばれる草原が渺然びょうぜんと横たわり、その東西に天嶮と名高い祓鬼山ふっきざん女禍山じょかざんがそそり立っている。


 平之原はその名のとおり、見渡す限りの平原だった。特にこれと言って目立った丘陵などもなく、奇策を用いずに真っ向から野戦を挑むにはこれほどの舞台はないであろうというほどの地形である。

 鴉土軍はその平之原の南に広大な陣を布き、北四里(十六キロ)ほど先にある日衡城を窺っていた。

 平之原を挟み込む両山は、双子山とも呼ばれるほどよく似た山で、九嵋山くびざんほどではないもののやはり瑞穂屈指の峻岳として諸国に名を馳せている。


 つまり平之原は左右を天然の城壁によって閉ざされた一本道とも呼べる地貌であった。

 その途中に築かれた日衡城さえなければ、南から北進する者を妨げるものは一切ない。

 そういう嘘も誤魔化しも効かぬ土地で睨み合う両軍の戦いの行く末を、近隣の民は息を潜めて見守っていた。鴉土軍は今のところ滞陣を続けているだけで大人しいが、それがいつ雪崩を打って日衡城に攻め寄せるとも分からない。


 春巳国はるみのくに鴉土国あどのくには以前から因縁の絶えぬ関係にあり、特に鴉土将軍あどのしょうぐん玄田くろた右幽うゆうから春巳将軍はるみのしょうぐん春巳野はるみの蓮香れんかへ向かう憎悪はすさまじかった。

 この女将軍が世に現れて以来、鴉土軍は春巳軍に連戦連敗を喫しており、北を諦めて南へ矛を転じようにも、常に蓮香によって背後を脅かされるという状態が続いているのである。


 それどころか春巳国は蓮香を将軍に仰いでからというもの、飛ぶ鳥落とす勢いで版図を拡大し始めた。

 その勢力はそれまで瑞穂随一と謳われていた鴉土のそれをあっという間に追い落とし、今や一六二万石の石高を誇る大国にまで成長している。

 対する鴉土国はむしろその春巳国に所領を圧迫され、蓮香の台頭前には一六〇万石は下らなかった石高を一四七万石にまで削られていた。

 そんな状況が、


「はて、鴉土国の六代目は、さほど器量のあるお方ではなかったか」


 という風評を呼び、これが鴉土国六代目将軍玄田右幽の自尊心をいたく傷つけたのである。

 以来右幽は蓮香に対する敵愾心を燃え上がらせ、今回のような北伐を繰り返してきた。

 が、その攻撃を、蓮香がまるで小うるさいはえでも追い払うかのように、


ね」


 と事もなげに払い除けてみせるので、右幽の蓮香に対する憎悪はいよいよ膨れ上がっていると言っていい。

 そうした経緯があって右幽の憎悪は暴走し、ついには蓮香の首を取るためならば手段を選ばぬと、秘術の里に伝わる禁術まで欲するようになった。


(――その玄田を討つ)


 と、激しい決意を燃やした少女が一人、女禍山にいる。


「これで最後ね」


 既に日も暮れた山中に、符術が生み出すほのかな明かりがともっていた。その明かりの中で、さゆは目の前の樫の木の幹に手を伸ばし、一枚の符がぴったりと貼りついていることを確かめる。

 同じように、さゆはこれまで四枚の符を樹木や岩に貼りつけてきた。

 たった今目の前にある符は五枚目である。これですべての術式は完成したと言っていい。


(あとは月が中天に昇るのを待つだけだわ)


 逸る心を抑えながら、さゆは枝葉に覆われた夜空を見上げた。遥か頭上に黒々と広がる虚空には既に満月が顔を出し、地上を青白く照らし出している。

 その満月を見上げているうちに、さゆは自然、口の端が歪むのを感じた。あと三刻もすればあの月はいよいよ天の頂に昇る。そのときついに、さゆの復讐は遂げられるのである。


 古来、符術師を始めとする妖術使いの間では、術師がその体内に宿す妖力――あらゆる妖術の源となる力――は月と共に満ち欠けし、満月の夜はその力を最大限に引き出せるものと信じられていた。

 それも月が中天と呼ばれる空の最も高い位置に至るとき、妖術師たちの体内に秘められた妖しの力は、普段の数倍にも膨れ上がると言われているのである。


 秘術の里を発ち、よろず屋なる胡散臭い二人組を振り切ってからというもの、さゆがこの日を待ち侘びてきたのも無論そこに狙いがあった。

 百雷燼滅ひゃくらいじんめつの術。

 今宵、さゆはその術を発動させる。

 それこそが禁術の書の中に記された〝国一つをも滅ぼす術〟である。


(術式は完璧に整えた。あとは私に禁術を用いるだけの力があるかどうか……いいえ、たとえ命と引き換えにしても、必ずこの術を発動させてみせる。あの下郎に、里の無念を思い知らせてやるのよ)


 そしてその復讐が成るときは近い。そう思えば思うほど、さゆの口角は暗い悦びに歪んだ。

 百雷燼滅の術とはその名のとおり、五つの符によって囲まれた地域に百雷を降らし、すべてを焼き尽くす凶術である。

 されどさゆはその術を用いることに、いささかの躊躇いも感じてはいなかった。

 何しろさゆが今日までに仕掛けた五枚の符は、平之原に陣取った鴉土軍の陣をその中心に据えている。つまりあの月が中天に昇れば、さゆは憎き玄田のいる鴉土の陣に天誅とも呼べる雷を叩き込んでやれるのである。


 そうなれば陣は瞬く間に燃え上がり、もはや跡形も残らないであろうことは明白だった。

 あの陣にいる玄田の命運もまた、間違いなくそこで尽きる。玄田が北原を操って秘術の里にした仕打ちをほとんど忠実に再現し、やつを絶望の底へ叩き落としてやれるのである。


 間もなく訪れるであろうその瞬間を脳裏に思い描いたさゆは、喉の奥から込み上げてくる低い笑いを堪えることができなかった。

 恐怖におののき、業火に焼かれる玄田の姿が目に浮かぶ。その惨めな死に様をこの目で見届けられないのは無念だが、臨終間際、玄田が阿鼻叫喚し、これまでの己が所業を悔いながら焼け死ぬのならそれでいい。


「ふーん、それが最後の符ねー。わざわざ五枚も符を用意するなんて、ずいぶん手が込んでますこと。もしかしてそれが噂の禁術ってやつ?」

「――!?」


 ところがそのとき、俄然背後から聞こえた女の声に、さゆは驚愕して身を翻した。

 そこに、樫の木に貼られた一枚の符をまじまじと見つめる娘がいる。その顔に、さゆは見覚えがある。


「あ、あなたは……!」


 西の町で七兵衛を狙い、にわかに襲いかかってきた娘。確か小猿こさると名乗っていたその娘はそこでようやくさゆに視線を移し、にまりと含みのある笑みを浮かべた。

 その笑みに、さゆは図らずもぞっとする。この娘は自分を狙っていたあの北原紫幻斎しげんさいの娘である。

 つまり、玄田の手下。

 それを悟ったさゆはとっさに跳び退き、懐に忍ばせていた護身用の符を抜き放つ。


「北原……! どうしてあんたがここに……!」

「どうしてって、当たり前でしょ? あたしは玄田様をお守りする始末屋だよ。その玄田様の陣の周りをうろついてる怪しい女がいたら、そりゃあ追っ払いにも来るわよ」

「あなたの狙いは七兵衛じゃなかったの? あの男はここにはいないわ」

「うん、知ってる。だからあたしも困ってるの。あの与太男、あれからとんと姿が見えなくて、父様の仇を討とうにも居場所が掴めないんだもの。あんた、何か知らない?」

「私が知るわけないでしょ。あの男とはもう縁を切ったの。金輪際関わることもない」

「ま、あんたはそう思ってても、あの男はどうだろね。あの男、あんたにすごく執着してたみたいだし、そもそもあんたの護衛をあいつに命じたのは春巳野蓮香でしょ?」

「それが何よ」

吉村きちむら七兵衛は春巳野蓮香にだけは逆らわない。前々からそういう噂があるのよね。もしそれが本当だとしたら、あの男は意地でもあんたを助けに来ると思うの。だからね、その面、ちょっとだけ貸してちょうだい」


 笑いながら言った小猿が、すらり、腰から刀を抜いた。その無邪気な口振りとは裏腹に、彼女の握る刀には思わず怖気が走るほどの殺気がまとわりついている。

 それを肌に感じたさゆは、途端に足が震え出すのを感じた。この娘の狙いはさゆの身柄であると同時に禁術の符であるに違いない。

 ならばここでこの娘を退けなければ、さゆの復讐はまんまと邪魔されてしまうということだった。

 それを察したさゆは己を叱咤し、両足を突っ張って目の前の始末屋と対峙する。


「冗談じゃないわ。これ以上、人殺し同士のいざこざに巻き込まれてたまるもんですか」

「言っとくけど、あたし、こう見えて結構強いよ? 痛い思いしたくなかったら大人しくついてきた方がいいと思うけど」

「私には、あんたたちに従う義理なんてないわよ!」


 吠えると同時に、さゆは素早く符を構えた。その符から放たれた雷の矢が、まっしぐらに小猿へ向かって飛んでいく。

 その青い雷撃を、小猿は跳び上がって回避した。跳びながら刀を咥え、頭上にあった枝を掴み、それを支点にくるりと一回転したかと思えば次の枝に飛び移っている。


 まったく呆れたくなるような身体能力であった。そうしてさゆをからかうように頭上の枝をひょいひょいと渡っていく様は、まさしく猿のごとしである。

 さゆはその動きに翻弄されながら舌打ちし、手当たり次第に雷撃を放った。が、その雷が小猿の乗った枝を撃ったかに見えた瞬間、小猿の体が宙に舞い上がり、目にも留まらぬ速さで棒手裏剣を投げつけてくる。


「あっ!」


 黒く艶消しされた手裏剣の姿は、素人のさゆの目には捉え難かった。そのうちの一本が、さゆの構えた雷撃の符を貫くと同時に結界を打ち砕く。

 九嵋山で紫幻斎が使っていたのと同じ、結界破りの術だった。

 小猿の投げた暗器にはそのための符が巻きつけられており、それがいとも容易くさゆを守っていた不可視の壁を破壊したのである。


「あははっ、やっぱり同じ手を使ってた。お殿様お抱えの符術師に符をもらっておいて良かった」


 やがてどこからともなく聞こえた小猿の声に、さゆは不覚にも狼狽した。砕けた結界が放った閃光に視界を奪われているうちに、小猿の姿を見失ったようである。

 そこでさゆは闇に覆われた山の木々を見上げ、右へ左へと必死に目を凝らしたが、どこにも小猿の姿を見つけられなかった。


 途端に、得も言われぬ恐怖がさゆの全身を包み込む。唯一手元に残った光の符だけが、虚しくさゆの体を照らしている。

 そのとき、闇を貫くような鋭い鳴き声が聞こえた。

 その声に跳び上がって驚き、振り向いたさゆへ、一羽の烏が猛然と襲いかかってくる。


「きゃあっ!」


 ばたばたと喧しい羽音を響かせ、烏は両脚の鉤爪を使ってこれでもかと言わんばかりにさゆを攻撃した。これにはさゆもたまらず悲鳴を上げて腕を振り、何とか烏を追い払う。

 が、そうして大きく腕を広げ、すっかり無防備になったところに小猿がいた。

 いつの間に忍び寄ったのか、小猿はさゆの前にしゃがみ込み、こちらを見上げてにまりとする。

 次の瞬間、小猿が跳び上がりざまに構えた刀が、さゆの腹部へと直撃する。


「うっ!」


 と、その一撃を受けたさゆは呻き、為す術もなくその場に崩れ落ちた。峰打ちである。

 しかし腹部に思い切り打ち込まれた一撃の痛みは筆舌に尽くし難く、さゆは声を上げることもできずにうずくまった。何とか体を起こそうにも、この十五年経験したこともないような激痛に目を開けることすら叶わない。


「あーあ、ほんと馬鹿な女。父様もこんな女に振り回されてたなんてねー」


 呆れたような小猿の声が、またも視界の外から聞こえた。されどさゆの額には脂汗が浮かぶばかりで、とても身動きを取れる状態にない。

 山のどこかで、烏の群が鳴いていた。

 倒れたさゆの背後から、小猿の足音が近づいてくる。

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