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瑞穂草子  作者: 長谷川
10/21

玖.人非人

「――さゆ」


 呼び声で目が醒めた。

 頬が冷たい。そう思いながら重い瞼をもたげれば、小面憎いほどよく整った顔立ちの男がこちらを覗き込んでいる。

 その面を見た途端、さゆは淡い感傷の中からいきなり現実へと引きずり出された。

 どうやら夢を見ていたらしい。それが分かったところで、ひとまず無遠慮に人を見下ろしてくるこの男を押しのけたかったが体が重く、腕にも力が入らない。


「さゆ、大丈夫か。うなされておったようだが」

「……」


 邪魔よ、と今度は言葉で伝えようとしたが、渇ききった喉からは一滴の声も出なかった。

 しかしさゆが微かに口を開いたことからそれを察したのか、七兵衛は「おお」と声を上げると、すぐに一本の竹筒を差し出してくる。


「水だ。飲めるか? 何なら俺が口移しで」


 竹筒を奪った。直前までは持ち上げるのも億劫だった右腕が嘘のように素早く動き、竹筒を握り締めている。

 七兵衛は、憮然としていた。恐らく初めから水を飲ませるという名目で、さゆの唇を奪う魂胆でいたのだろう。

 が、さゆはそんな七兵衛の表情から滲み出た無言の訴えをみながら無視し、ゆっくりと体を起こして竹筒の水を飲んだ。

 どうやらここは、九嵋山くびざんの麓にある里の空き家のようである。日は高いのか、開け放たれた窓からは光が射し込み、鳥の鳴く賑やかな声も聞こえている。


(あ)


 と、そのとき、さゆは気づいた。着物のえりからわずかに覗いた右肩に、白いさらしが巻かれている。

 そうだ、自分は九嵋山で紫幻斎しげんさいという男に襲われ、矢を受けたのだということを、このときになってさゆはようやく思い出した。

 しかし素肌にさらしが巻かれているということは、誰かが手当をしたということではないか。それが今目の前にいる七兵衛だとしたら、この男はまんまとさゆの裸を拝んだということになる。


「傷の具合はどうだ。一応、痛み止めの軟膏は塗り込んでおいたのだが」

「……」

「まあ、先程の機敏さを見るに痛みはそれほどでもないようだな。どれ、一つ見せてみよ」

「――触らないで、この人殺し!」


 と、不意に横から伸びてきた七兵衛の手を、さゆは力の限りに払い除けた。払われた七兵衛はのんきに目を丸くして驚いている。

 さゆも思いの外大声が出た自分に少し驚いたが、そのままふいと顔を背けた。

 その横顔に、嫌悪の色が濃い。

 七兵衛もそれが分からぬほど鈍い男ではないはずである。


「どうして私を助けたの」

「どうして、とは?」

「私は助けてくれなんて一言も言ってない」

「まあ、そうだが」

「見たの?」

「何を?」

「私の体」

「いや。そなたの手当や着替えはすべて、里の娘を呼んで頼んだ」

「嘘よ」

「信用がないな」

「だって私を騙してた。あなたたちもあの連中と同じ殺し屋だったなんて、聞いてないわ」


 七兵衛の方は一切見ずに、さゆは苛立った声だけを投げつけた。この男に助けられたことが不愉快で仕方がないのである。

 山で里と両親の仇を討ち損なったことは、確かにさゆも恥じていた。しかしだからと言って仇と同じ種類の人間に助けられてしまうとは、一体何たる不覚であろうか。


「さゆ、それについては既に話したであろう。俺たちは始末屋だ。今はこうして、真っ当とは言えないものの、殺しよりは健全な仕事をしている」

「だけど始末屋だったことは事実なんでしょう? 過去に人を殺したことがあるなら、〝元〟だろうと何だろうと人殺しよ」

「だが人殺しと言うのなら、そなたも昨夜、北原の忍どもを見事に仕留めておったではないか」

「だからってあなたたちみたいな血も涙もないやつらと一緒にしないで! 私はあいつらに里も両親も奪われたの! だったらあいつらだって、それ相応の報いを受けて当然でしょう? 正当な理由もなく、金と欲のためだけに人を殺すような連中なんだから!」

「さゆ」

「同じ理由で、あなたは何人殺したの? 初対面の相手にまで名前を知られてるってことは、よっぽど悪さをしたんでしょう。なのに始末屋を辞めたってだけでその過去をそっくりなかったことにして、よくものうのうと生きてられるわね!」

「――利吉」


 激したさゆをなだめることを諦めたのか、ときに七兵衛が連れの青年の名を呼んだ。さゆはそのときになってようやく、この男に利吉という小男がついていたことを思い出す。

 そこで目を転じれば、利吉は七兵衛が背にした土間に佇み、じっとこちらを見つめていた。

 どうやら井戸から戻ったところらしい。足元には水を張った桶が一つ置かれている。


「腹が減った。里の者に銭など払って、何か食い物を分けてきてもらえ」


 その利吉を振り向きもせず、七兵衛が言った。が、利吉はやはり立ち尽くしている。

 何かおかしい。そこで初めて、さゆは利吉の異変に気づいた。

 その手が、腰に帯びた一本差を握り締めている。今にもそれを抜き放ち、さゆに斬りかからんばかりの剣幕である。


「利吉」


 もう一度、七兵衛が利吉の名を呼んだ。その声色は落ち着き払っている。

 だが刀を掴んだ利吉の手は震え、鯉口と鍔が小刻みに触れてかちかちと音を立てていた。

 七兵衛は、やはり振り向かない。


「利吉、聞こえなんだか」

「……へい」


 今度は多少苛立ったような声だった。それを聞いて利吉はようやく返事をし、七兵衛の背中に頭を下げる。

 押し殺したような返事であった。利吉はそこから身を翻すと、跳躍する獣のような素早さで一人小屋を飛び出していった。

 その背を見送ったさゆの体が、ぐっしょりと汗で濡れている。

 あそこで更に何か言い募っていたら、間違いなく斬られていた。そう思わずにはいられないほど、利吉の形相はすさまじかった。

 普段は誰にでも愛想良く振る舞っている彼が、あのような顔をするとは信じられない。あれが始末屋の顔か、と、さゆが思わず震えを催したほどである。


「で、何の話であったかな」


 が、七兵衛はそんな利吉の異変など気にも留めていないように、つるりとした顎を撫でながら言った。

 その態度がまた憎たらしく、さゆはきっと七兵衛を睨んだが、それさえもこの男には効き目がない。


「ああ、そうそう、俺がそなたの裸を見たかどうかという話であったか」

「……その話はもういいわよ」

「そうか? では話題を変えよう。今後の旅をどうするのか、それをそなたの口から聞きたい」

「旅?」

「左様。九嵋山で北原が手にした禁術の書は、結局偽物だったのであろう。ならば本物の書がどこかにあるはず。その手がかりを、そなたならば何か知っているのではないか?」


 至極真っ当な質問をされ、さゆはしばし考え込んだ。そう言われてみれば、自分はあの山に父母の隠した禁術の書があると信じてここまで旅してきたのである。

 しかしその禁術の書は偽物であった。偽物の書を封ずるなどという話は、さゆも両親から聞いていない。


 ならば本物の書は一体どこにあるのか。思いを巡らせたが、さゆには九嵋山の他に思い当たる場所などどこにもなかった。

 何しろ世間を知らないのである。さゆが知るところの世間とは、この十五年、自らが育ったあの里とそれを囲む山々だけだった。


「……手がかりは、ない。私は両親から、禁術の書は九嵋山に隠したと確かに聞いたの。だけどそれが玄田くろたを欺くための嘘だったなら……」

「そなたの両親は、実の娘をも囮に使ったということになるな」


 ずけりと言った七兵衛を、さゆはまたしても睨んだ。そんなことはいちいち言われなくても察しがついている。

 だがあの優しかった父と母がそうまでして玄田の目を逸らそうとしたということは、やはり禁術の書はどこかにあるのだとさゆは思った。

 ならば考えられる場所は、一つだけである。


「――秘術の里に行く」

「何?」

「父さんと母さんが死んだ今、手がかりはきっとあそこにしかない。その手がかりも半年前の一件で焼けてしまってるかもしれないけど、他に考えられる場所はないわ」

「ならば、その秘術の里とやらはどこにあるのだ?」

「教えない」

「え?」

「ここから先は、私一人で行く。北原も私を攫う理由がなくなったみたいだし、これでもう狙われることもないでしょう。それなら護衛は用済みよ。さっさと私の前から消えて」


 ことさら冷たい声で言った。ここまで言えばこの無類の女好きも、さすがに諦めて手を引くだろうと考えたのである。

 が、一拍呆けた七兵衛が返してきた答えは、


「それは困る」

「は?」

「ここでそなたを見放せば、俺が蓮香れんかなますにされる。それは困ると言うておるのだ」

「そんなの、私の知ったことじゃないわよ」

「いいや、そなたにも関わりはある。今回俺をそなたの護衛にと推したのは、他でもない癸助きすけだ。蓮香もそれをれたからこそこの俺を呼びつけた。その俺が与えられた依頼を蹴ってのこのこ帰ってきたと知れれば、事は癸助の信用に関わる。そなたも癸助には大層世話になったのだろう。ならばその癸助の顔に泥を塗るようなことになっても良いのか?」

「それは」


 理路整然と説く七兵衛の弁舌の前に、さゆはぐっと口をつぐんだ。

 さしものさゆも癸助の名を出されると弱い。何しろ癸助は何の見返りも求めることなく、行き倒れの自分に無償で憐情を垂れてくれた恩人である。

 その癸助を裏切るというのは、さゆも本意ではなかった。七兵衛はそんな思考を見抜いたかのように、さゆが抱いた心の隙を針に似た言葉でつついてくる。


「蓮香はともかく、癸助のことは恨んでやるな。烏操うそうの術のことも俺たちのことも、あやつはそなたを怯えさせまいとして黙っていたのだ。癸助がそういう男であることはそなたもよく分かっていよう。でなければ、ああも心は開くまい」

「……」

「とにかくそういうわけだ。俺たちは今しばらくそなたの護衛を続けさせてもらう。いくら北原の脅威が去ったとは言え、女の一人旅となればどんな悪い虫が寄ってくるとも分からぬしな」

「……それならもう寄ってきてると思うけど」

「はて、まことか。どこにいる?」

「今、私の目の前に」

「見えぬ。どんな虫だ。蟻か、蜘蛛か?」


 大真面目な顔で言い、七兵衛は板敷の床に必死で目を凝らし始めた。ここまで来ると、この男のどこまでが本気でどこまでが悪ふざけなのか、さっぱり分からなくなってくる。

 それを真剣に考えるのも馬鹿らしくなり、さゆはため息と共に顔を背けた。

 その間にも、七兵衛はじっと目を細めて観察している。床の上を、ではない。

 寝起きで乱れたさゆの衿の胸元を、である。


「見えぬ。見えぬぞ」

「なら鏡でも持ってくることね。まったく、どうして誰も私を放っておいてくれないのかしら」

「いや、この際どい状況で、素知らぬ顔をできる男などそうはおるまい」

「今更真人間ぶらないでよ。人殺しはどこまで行っても人殺し。仮に守られるとしても、他人の命をお金に換えて生きてきたような男にだけは守られたくないわ」

「さゆ」


 と、ときにさゆの名を呼んだ七兵衛の声色が、不意に真剣な響きを帯びた。

 そのことにちょっと驚き、さゆが思わず目をやれば、ついに彼女の胸元を覗くのを諦めた七兵衛が鷹揚に腕を組みながら言う。


「確かに俺は人殺しだ。それを黙っていたことは詫びる。昨晩そなたを守れなかったことも詫びる。ついでに三日前の晩、そなたをひそかに抱こうとしたことも詫びる」

「当たり前よ」

「されど俺にもよろず屋としての意地がある。一度引き受けた仕事を中途で投げ出すことはその意地が許さぬ。ゆえに、こういうのはどうであろう」


 と、さゆが放った棘にもびくともせず、七兵衛は滔々と語り始めた。その内容を一言で要約するならば、よろず屋がさゆの旅に同道するのはこの先秘術の里までと言うのである。

 そうしてさゆを故里まで送り届けたならば、七兵衛はそれをもって依頼を完遂したとし、あとは勝手に緋淵あかふちへ帰ると言った。

 言わば七兵衛とさゆ、双方にとっての妥協点をそこに設けようという算段らしい。


「それでももし禁術の書に関する手がかりが何も掴めぬようなら、俺も蓮香にそう伝えよう。さすればそなたは晴れて自由の身。あとはどこへなりとも好きなところへ行くといい」

「だけど、もし何か手がかりを見つけたときはどうするの? そのときは私を殺して、禁術の書を奪うとか?」

「俺はもう殺しはやらぬ。それがたとえ蓮香の命であってもだ」


 きっぱりと言った。しかし、その声色がいつになく低い。

 さゆの耳には、いくらか沈んだ声にも聞こえた。が、七兵衛の表情は変わらない。


「仮に何か手がかりがあったとしても、俺はそこでこの山から手を引こう。そなたがその手がかりの内容を誰にも話すなと言うなら話さぬ。蓮香にも、癸助にもだ」

「そんな言葉、信用できないわ」

「ならばこれを」


 言って、七兵衛がぬっと差し出したのは、黒塗りの鞘に収まった脇差であった。

 そんな凶器を目の前に突き出され、さゆは図らずもうろたえたが、七兵衛の言い分はこうである。


「大名も垂涎すいぜんの業物だ。これを今しばらくそなたに預ける。俺の言葉がまこと信用ならぬと思うなら、そのときは遠慮なくこれで刺せ。何なら今、ここで刺してくれても構わぬ」

「な……何言ってるの?」


 これにはさすがのさゆも声が震えた。あまりにも突飛な提案である。

 が、当の七兵衛はけろりとして、問題の脇差をさゆの膝へ預けようとした。さゆはそれを拒んで言う。


「厭よ、そんなもの要らない。私はあなたたちと同じ人非人にはならない」

「いいや、持っておけ。ただ持っているだけでも護身用にはなる。何より俺も人殺しだ。大義なく人を殺めた者はその報いを受けて然るべしと、そなたは先刻そう申したではないか。ならば俺を刺すときは、俺に殺された者たちの仇と思うて刺せば良い。さすれば大義はそなたにある」


 大義があればただの人殺しにはならぬであろう。七兵衛はそういう意図を言外に含ませたようであった。

 そうしていつまでも手を引かぬので、さゆは仕方なく両手を差し出し、脇差を受け取る。それが答えである。


「決まりだな」


 自慢の脇差がさゆの手中に収まったと知るや、七兵衛は満足げに言って手を放した。業物と言うが刀剣などにはまるで縁のないさゆに、それがまことであるかどうかを確かめる術はない。

 ただ受け取った脇差は、見た目から想像するよりずっと重かった。

 さゆがこれまで掌に感じたこともない、冷たい重みである。


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