森
ティーダー星系の第四惑星である惑星ヤンカ。そこは元々、高度知的生命体の星ではなかった。
豊かな自然にあふれてはいたのだが、トカゲはトカゲのままであったし、哺乳類にあたるような種族から知的生命体が発生しそうな気配もなかった。
ただし、原始的生命群などが汎銀河的な、平たく言えばエリダヌスの匂いの残る星であるのも事実だった。つまり同系の異星人ならば食物連鎖に混じる事もできたし、風土病の克服も難しくないという典型的な『連邦の自然科学者泣かせ』の自然環境の星だった。
実は、銀河系にそういう星は多い。
銀河系にある生命あふれる星というのは、一部の例外を除けば生命の系統樹が不気味なほどに似ているのだ。まるで超古代にそれらの星々が、全く同じ国であったかのように。
これらの原因だが、太古から延々と続く星間交易の結果であろうとされている。
ひとが、ものが、エネルギーがやりとりされる。当人たちこそ有益な資源だけのつもりだろうが、そうでないものも意図せず大量にやりとりされる。そしてそれは、いかに科学が進もうともゼロにはできないわけで、それらが結果としてそういう「見知らぬ異星のはずなのに、よく似た世界」の原因になっているのだという。
いい例が風船草だ。
メルの故郷、地球にあるタンポポという草に似ているのだが、この草は銀河の実に四割に及ぶ文明圏に生息しているとされる。もはや原産地もわからないほどに繁茂してしまっているが、実は遺伝子を追いかけてみると、少なくとも何億年の長さにわたって、様々な文明圏の荷物に混じって星の海を渡り、また戻り、混じりを繰り返しているらしい事がわかっている。
そんな風船草を、旅する花、星の花と呼ぶ国もあるという。
さて。
この星、ヤンカにも風船草はあるが、風船草がこの地に降り立ったのは、実はそう遠い昔の事ではない。
とある時代。静かなこの星のまわりで、どこかの星と星が宇宙戦争をした。
アルカイン族の星ランセン、それから、アルダー族の『さまよえる国』だ。
彼らはこの星系を戦場にして長く戦い、結果としてその中で、逃げ出した者たちや遭難した者たちが大量にヤンカに住み着いた。
彼らは戦争自体を放棄しているのでもう戦う事はせず、自分たちの得意な方法で住み分けてヤンカに馴染んでいった。やがてランセンが滅亡して戦争が終結した後も、この星に降りたアルカイン族の多くは狩猟または農耕の民となり、そしてアルダーの多くも火の民、つまり鍛冶などの技術的な仕事を営む者たちとなり、ここの民として共存していった。
そして、この星にも文明が起きた。
ゼロからの出発ではなかったので、その文明は実にスマートなものとなった。
しかしどんな文明も興隆がある。
永遠に続く夢はない。
喉元を過ぎた教訓はしばしば人を油断させ、そして楽観と油断は猛毒となる。
ひとりの少年が遠い星で亡くなり、少女の姿を持つ合成人間の身体で蘇生させられたその時代。
すでにその文明は遺跡となり、ヤンカは森と神殿の静かな星に戻っていたのだった。
一頭の大きな獣がそこにいた。
それは地球における羆という動物に大変よく似ていた。大きさも北海道の羆や北アメリカのグリズリーと大差ない大きさだったが、五百kg以上あるのは間違いない。環境のせいか元々大型種なのかはともかく、実に雄々しい立派な大羆だった。
食料は豊富なのだろう。まるまると肥えていて四肢も逞しい。おそらく羆やグリズリーがそうであるように、その腕の一撃は雄牛の首もへし折り即死させる事ができるのだろう。そしてこれは比喩ではなく、この巨大なヒグマのような生き物は、身体のあちこちに、おそらくはアルカイン系の人間のものであろう血痕や肉片をまだへばりつかせている。
そう、彼は人喰いであった。
彼はつい先刻、小さな村落を皆殺しにしていた。しかし彼の大好物である人間の若いメスがいなかった。中年らしいデブ女を一匹齧ったが食傷した彼のお気に召さなかったらしい。屠殺場のようになった村を放置したまま彼は悠々と凱旋した。
そんな彼の背後は、たちまち小型肉食獣や鳥の声、そして家屋に残された家畜の悲鳴で満たされた。
クマという動物は雑食性で普段はひとを食わない。それはこの巨大なヒグマっぽい生き物でも同じ事だった。
だが彼らは等しく知性持つ肉食獣であり、ただ得体の知れない人間には手出ししないだけの話である。裏返せば「これはいい食料だ」と認識すればいつでも人を喰うというのもやはり、地球のクマと全く同じだった。
ただ皮肉な事に、ある種の狂信的な自然保護主義の人々がふりまく誤解もまたこの星にも存在するようで、このクマっぽい生き物をペットのように勘違いした者たちや、その無責任な宣伝に踊らされた多くの人々が彼のエサになり、そして彼にますます人間の味を覚えさせる結果になってしまっていた。
もちろんそんなバカでない人々もこの星にはちゃんと存在した。
彼らは警告を込めてこの生き物をこう呼んだ。そう……『神』と。
「……」
ふっ、ふっ、と神の鼻が動いている。何かを嗅ぎつけたようだった。
若い娘の匂い。彼が一番好むおいしいエサの匂いだ。
その巨体からは信じられないほどの無音で彼は歩く。匂いを嗅ぎつつゆっくりと歩きつづけて、
「……」
森の一角が広くなっているところを見つけた。
その一角は、まるで森が切り取られたかのように円形に消滅していた。何か大きなものが天空から落下したようで、その膨大なエネルギーを受け止めた木々がことごとくへし折れており、中央部に至っては大地まで少しえぐられ、そこにあったと思われる土砂が周囲に押しやられていた。球形に凹んだクレーターのような大地の底にはヒビ割れすらも走っているが、そこにあるべき『元凶』がどこにもないのがある意味不気味だった。
「……」
神は自分の縄張りを荒らされると本来、激怒するタイプの動物だ。
だが彼はそうしなかった。
このクレーターまがいの異様な光景は、天性の野獣である彼にも「まともなものではない」と認識されたようだった。彼は哺乳類の多くがそうであるように好奇心にかられ、注意深く、しかし大胆にその大きなクレーター状の空間の中に入り込んだ。
「……」
そして、そこには彼の大好きな、人間の若い女が倒れていた。失神しているらしくピクリとも動かない。
彼はすぐさま女を喰おうとした。だが、ほんのちょっとした事なのだが、それが彼を躊躇させた。
確かにそれは若い女だった。
だが匂いが微妙に違っていた。女には違いないだろうが、そもそも人間であるかどうかが彼にはわからなかった。喰いなれた人間と何かが違う事が、彼の行動をためらわせた。
そして何より、女からは心臓の音が聞こえなかった。体温も、呼吸している事も感じられるのに。
「フー!」
「……」
次に彼は、女の胸の上で警戒の声をあげる小さな生き物を見た。
とるに足らない小動物だ。動きも早いし胃袋を満たすにはあまりにも小さく、だから彼の興味の対象ではなかった。捕獲できれば食べたかもしれないが優先度は低い。少なくとも、その生き物の下にいる女よりは。
そこをどけ、と彼は前肢でそれを払いのけた。警戒するにはあまりにもちっぽけな生き物であり、肢の背でやさしく押しのけたという方が近い。
小動物はフーフーうるさく警告していたが、相手にならない事は小さいながらも理解しているのだろう。少し離れた木陰にそのまま逃げ込んだようで、声はそちらから聞こえている。
警戒する必要もないと思った彼は以降それを無視した。
だが、その一瞬の出来事がある意味彼には幸いする事になった。
「ん……」
「……」
小さいものを押しのける時、爪が少し衣服にかすめたのだろう。失神していた女が目覚めたらしく、むくむくと動き出したのだ。
「!」
彼は人喰いのハンターであるが同時に警戒心も強い。だから刹那、彼の尺度で半歩ほど飛び退いた。
「……う~ん」
やがて女はゆっくりと起き上がった。あくびをしてみたり、ぽきぽきと肩を鳴らしてみたりしている。
あいかわらず心音は聞こえない。だが確かに女は生きている。
「……?」
女は未だ周囲が理解できてないようだった。きょろきょろと周囲を見て、やがて彼の存在に気づいた。
「……」
未だ頭が働いてないのか、女は彼を怪訝そうな目でじっと見ていたが、
「!?」
いきなり意味のない素っ頓狂な叫びをあげたかと思うと、ざざっとやはり飛び退いた。
女のこの一瞬の動き、これは結果的に彼を大いに喜ばせた。それは女が動かない肉でなく、瑞々(みずみず)しい生き物である事を示していたからだ。それは新鮮なエサと同義だった。
彼は二本足で立ち上がった。
それは警告と威嚇、そして宣戦布告と遊びのはじまりを意味するポーズだった。グオオと彼は咆哮をあげはじめ、それは周囲の静かな山々に雄々しく響き渡った。
当然だが女の方はたまったもんではない。
「ちょ……羆!?なんで!?」
女はその瞬間、ハッとしたように周囲を見た。そこにいるべき小さな生き物の姿がないのに気づいた。
冷静になれば、物陰にいる生き物が発見できたろう。だが、動転している彼女はそれを見つけられない。
「……まさか!」
さらにまずいことに、女は鼻をくすぐる血の匂いに気づいた。
それは彼の爪などに残されている人間の血の匂いだった。女の嗅覚はその不思議な心臓とあわせて特別製で、そういうものを素早く嗅ぎつける事が可能だった。
だが、いかんせん女はマシンではない。寝起きのこの状態で、ひとと猫の血の区別まではつかなかった。
「……殺したの?」
猛獣の唸りに近い声が、女の口から漏れた。
その声を聞いた彼は、女の戦意であると判断してしまった。
ここは彼の縄張りであり、相手が「去れ」でなく「おまえを殺す」と宣告したのなら、当然逃げるわけにはいかなかった。逃げれば彼はこの場所の権利を失うからだ。
彼は猛然と女に襲いかかった。
「っ!」
刹那、彼と女は激突した。
ウエイトもパワーもまったくもって比較にならないほど差がある。女はたちまち、ぽーんとオモチャのように弾き飛ばされた。そのまま大きな立ち木の枝に飛び降りようとするが、バランスがうまくとれず、落ちてしりもちをついてしまう。
「あいたたた……」
よろよろと立ち上がり、ぽんぽんと埃を払う。まったくのノーダメージのようだ。
「やってくれるわね!」
女は彼の強さを疑っていなかったが、それでも予想をはるかに上回る強さだったようだ。畜生、戦闘サイボーグより硬いじゃんと女はぼやいた。どうやら、普通でない女にとってもこの野生動物は弱い敵とは言えないらしい。
「……」
だが驚いたのは彼も同様だった。
──なんだ今の感触は?
普通の人間なら即死である。少なくとも片手と脛骨が折れたはずだからだ。なのに女はほとんどノーダメージ。それどころか岩盤でも殴りつけたかのような強烈な抵抗だった。
そして、それが勘違いでない証拠に相手は戦意をまったく失っていない。血の臭いもせず傷ついたようにも見えない。
違う、と、彼の中の何かが強く警告した。
違う!
こいつは、あの、弱っちい人間ではない!
「……」
彼は即座に戦闘行為を切り上げた。最悪、この一角を彼女に下げ渡しても戦闘は回避すべきと判断したようだ。
この判断は実に正しかった。少なくとも、滅ぼされた村の生き残りが悪神討伐隊を仕掛けて襲ってくるまでの間、彼の生命は保証される事になった。
彼はゆっくりと向きを変え、ここはやるから好きにしろと言わんばかりに森の中に移動をはじめた。
「ちょ……こら待ちなさ」
待ちなさい、と女が続けようとしたその時、み~み~と女を呼ぶ小さな声が聞こえた。
「!」
女はキョロキョロと周囲を探し、そして小さな生き物が木陰にいるのを見つけて駆け寄った。
「ああもう、どっか行ったらダメじゃないの。もうちょっとで大変な事に」
なるところだった、と言いかけたところで女は、さらに棒をのんだように固まった。
「……あー、そうか。空飛べばよかったんだ。あはは」
バカじゃんと女……メルは頭をかきつつ、寄ってきた小さな黒猫を抱き上げた。
「ここどこだろ。ちょっと探してみるか」
そう言うとメルは少し沈黙した。意識を自分の中のどこかに向けているのだろう。じっと地面を見据えたまましばらく固まったが、
「ん、ラジオ放送かなこれ?連邦語……じゃないね。言葉わかんないや」
そう言うとまた沈黙する。しばらくして「ああ」と少し満足そうに頷いた。
「たぶん、このヨーなんとかっていうのが国名か星の名前よね。まぁ別の星系にぶっとんじゃったわけじゃないだろうし、大きな町に出れば現在位置もわかるよね」
そう言うと空を飛ぼうとしたのだが、
「!」
何かにピクッと反応すると、子猫を抱いたまま木陰に隠れた。
少しすると、パトロール艇のような小型の船が空を横切っていくのが見えた。それはゆっくりとメルの頭上を越えて、そして南の方へと去っていった。
「……しょうがないな。歩こっか」
みい、とメルの懐で子猫が鳴いた。
メルの選択は実に正しかった。
空を去った船はメルを探していた。メル自身は自分がどうやってこの星に落ちてきたか失神中でまったく覚えてなかったが、彼ら連邦軍人たちはメルを打ち損じたのに気づいていたからだ。それはそうだろう。あれほどの重力破壊波にも耐えたばかりか、小さなエネルギーの球に包まれた彼女はまったくの無傷だったのだから。
彼らは必死でメルを叩こうとした。だが攻撃しても攻撃しても球体は破壊できず、それどころか攻撃で弾かれた球体はその軽さもあって、ポーンと間抜けな音がしそうなほどに簡単に弾き飛ばされてしまった。しかもありえない事にその行き先は本来の目的地である惑星ヤンカ。男たちは慌てて後を追った。
なんてマヌケな話だろう。旅の途中で破壊するどころか、彼ら自身がメルを目的地に送り届けたに等しいのだから。
「……」
メルはずっと失神していたのでそのあたりの事情はわからない。だがあれが追手である事だけは理解していた。
自分ひとりなら無視していけばいい。
しかし胸中の子猫の安全を考えると無理はできない。それにメヌーサだって探さなくてはならない。
とにもかくにも、彼女の短い旅がこうして始まったのである。