第八話 アーキオンの老人
アーキオンの大通りから外れた静かな地域に住む老人、トマリはのそりとベッドから抜け出した。冷たい空気が体温を奪い、ぶるりと体を震わせる。
「……何百年生きようと、朝はつらいの」
肌寒い時期になるといつも思う。ずっとベッドの中でまどろんでいたいと。
寝てたら寝てたで、そのままくたばりそうなんじゃがな。
数百年生きてきた。十分生きたと思わなくも無いが、近所のガキにもう十分じゃね、とかいわれると正直へこむ。表面上はともかく、いつまで経ってもまだまだ現役だと思っていたいのだ。
……まだまだやるべきことも残っておるしの。
「余計なことを思い出してもうた」
朝から少し落ち込みながら、トマリは背伸びをして、体に活を入れる。背骨はまっすぐに伸び、腰も曲がっていない。この年齢でまっすぐに立てることと、鋭角に長く伸びた耳は少し自慢だ。
「さて――」
コップに水を注ぐ、透き通った綺麗な水だ。揺らめく水面、トマリは時間をかけてゆっくり飲み干した。喉、食道、胃と水が流れるのを感じる。同時に体に溜まった良くないものが取り除かれていく。ぼんやりと霧がかかったような思考が冴え渡っていく。寝ぼけていた頭がどんどん覚醒する。
追加でもう一杯。
目を覚まし、まずは水を二杯飲む。トマリの日課である。
体をすっきりさせて、新鮮な気持ちで新たな一日を迎える為の習慣だ。
そして、同じような習慣を持つものはこの町には多い。
さすが、浄化の水。体の瘴気が消えたようじゃわい。
町の名前にもなっているアーキオン湖。その湖は『聖樹の湖』とも呼ばれている。聖樹の存在する広大な樹海、ストラ樹海から流れる水が集まり出来上がった湖だからだ。
聖樹ストラ。五百年前に瘴気に苦しむ人々を救った救世主であり、そこから流れる水を湛える湖は町最大の観光スポットでもある。
そして、その湖の最大の特徴は、水そのものである。
浄化の水。
瘴気汚染を浄化する聖樹ストラの力。この湖の水は僅かながら浄化の力を含んでいる。御伽噺でストラが行ったような、高濃度の瘴気の浄化は不可能。魔獣の浄化もできない。しかし、漂う薄い瘴気程度であれば、この水だけで十分対処できた。空気中にも瘴気は漂っている。そして人は空気を吸わなくては生きていけない。毎日毎日、少しずつ人は瘴気を体に取り込んでいる。大して気にすることの無い程度の瘴気ではあるが――
「くはぁ――体がよろこんどるのぉ」
飲むのと飲まないのでは、一日の体の調子が違う。だから、この町の人々は毎日、健康のために水を飲む。
そして、軽度の瘴気汚染にも効能があり、この町の名産品でもある。
トマリが着替えを終えた時に、誰かが扉をノックした。
力強いノックを三回。それだけで、トマリは誰が訪ねてきたのかを理解する。
また、ベッドにもぐるかの。
魅惑的な思いつきだが、子供でもあるまいし、そういうわけには行かない。仕方ないと、辟易とした気分を抱えて扉を開ける。そこには予想通りの人物がいた。
「……またか、オード?」
主語を省いた問いだが、相手もその意図を正確に読み取り頷きを返す。
「またです、申し訳ありませんがご同行願います」
「警備兵も大変じゃのう。これで何度目じゃ」
「……五人目です」
「そんなにか、少し待て、用意する」
警備兵オードを外に待たせ、トマリは荷物をまとめる。今回で五回目、次があるかもしれないと予想していた為準備は速い。
無駄な準備になればよいと思っていたんじゃが……。
現実はそんなに甘くは無いということか。
五分後、トマリは警備兵に案内され現場へと移動する。
「あそこかの?」
「ええ」
目的の場所はすぐにわかった。本来であれば人通りの少ない場所であり、気にもしない場所だ。だが、わかりやすい目印があった。
「……怖い怖い言うとる癖に、こういうことには興味津々じゃの」
「怖いもの見たさもあるのでしょう。知らないのも一つの恐怖かと」
「いつの時代も野次馬根性は消せんか」
路地裏の死体を一目見ようと、人だかりができていた。
二人は人だかりへと近づく。人の数に比べて静かなのは、さすがに人が死んでいるという状況をわきまえているからだろうか。皆、近いもの同士囁きあう様に何かを話していた。
集団の一人が近づくトマリに気づいた。
「トマリさん。どもっす」
「うむ、すまんが、ちょいと退いてくれんか」
「ええ、もちろん。おい! お前ら、トマリさんが来たぞ」
男の声に人ごみが割れた。ドーナツ状に集まった人ごみ。ドーナツの穴の部分には、オードと同じ制服を着た人々がいた。
皆、トマリに向かって姿勢を正し一礼。
トマリは、生真面目な連中に苦笑を浮かべて、手を振る。
慕ってくれるのはうれしいが、敬われるのはどうにも照れくさい。
自分はそれほどの人物ではないんじゃなのぉ。
謙遜ではなく、本当に何も特別なことをしては居ないのだ。
「爺にいちいち頭を下げる必要はなかろう」
「いえ、トマリさんはこの町にとって大切な人です」
「かかっ、ただただ長生きしとるだけじゃよ。偉くもないし、自慢できるのは、この年でピシッと伸びた背筋ぐらいじゃ」
「……元気なことはいいことですよ。それに、頭を下げるのはそれだけじゃありません」
「ん? 他になんかあるかの」
「朝から、あれを見るのはあまりいい気分ではないでしょう」
「ああ、そういうことかの」
警備兵の視線の先を辿る。
死体だ。
トマリの表情に真剣さが混じる。
確かに朝っぱらから見たいもんではないの。
近づき屈んで観察を始める。
「他の四件と同じか。完全に干乾びとるの。まるで砂漠にでも放置されたような状態じゃの」
「砂漠でも一晩じゃ無理でしょう」
「そうじゃろうな」
犠牲者は先日まで生きていたことは、多くの人の証言で確認済み。
たった一日でここまでやるとは、どんな方法を使ったのやら。
別の使い道がありそうじゃがの。
たとえば、干物作りなんかに便利そうだ。
死体で検分するトマリの背後に経つオードが補足を付け加える。
「あと死体が、損壊している点が共通しています。今回は見て分かるように、首が切り落とされています」
「首を切り取ってミイラになったというよりも、ミイラの首を切り離したというところかの。ミイラの時点で死んでおるのに切り離す理由はなんじゃろな?」
「吸血鬼の考えることはわかりかねますが、死体を傷つけるのが楽しいとか」
「それなら首だけじゃなく全身ぼろぼろにしたほうが楽しかろう。今までもそういう死体は無かった。確実に止めを刺したかったのかもしれんの」
死体は首から上が切り離され、頭は胸の上に置かれている。窪んだ眼窩がこちらを向いていた。
首を抱える死体の姿を見てトマリは、遠く離れた高濃度汚染地域では首を抱えた騎士が出るという噂を思い出した。地域に入り込んだ生き物の首を狩りコレクションする悪趣味な魔物。実在するかどうか怪しまれている魔物で、処刑された人間が瘴気に汚染され生まれた魔人という意見もあったが、どっかの誰かが作り上げた物語が元ネタという意見が優勢だった。
もし実在するのなら、吸血鬼の気持ちがわかるのだろうかと考えた。そしてすぐに、そのくだらない考えを捨てた。
ただ、思い出したので、聞いてみた。
「首狩り騎士って知っとるか?」
「いえ、それが何か?」
「……知らんか。ま、所詮噂じゃしな。さて、見るかの」
マイナーすぎたかの。
気分を切り替え、トマリは目を細め、死体を凝視する。
死体の周囲にうっすらと霞のようなものが、こびりついているのが見える。
やはり、とトマリは観察を続ける。
これも魔法ではなく、瘴気の影響。
他の四件とのもう一つの共通点。
「見えますか」
「ああ、瘴気がこびり付いておる。ある程度調べたら、この死体も水で洗うべきじゃな。瘴気の変質は予測ができんからの」
「わかりました。しかし、長寿族の目はすばらしいですね」
「そうでもないの。瘴気が見えるからと言って、逃げることもできんのじゃ。むしろ見えないことが幸せじゃと思うぞ」
長寿族、数百年の時を生きる種族。
トマリ達は人間を遥かに超える寿命と瘴気を見る目を持っていた。
通常、瘴気は見えない。高濃度であれば話は別だが、それ以外では見ることはできない。空気と同じ、透明だ。
しかし、長寿族には瘴気が見える。
だが、トマリはいつも意識的に瘴気を見ないようにしている。それを知った人々は皆不思議そうな顔をする。危険な瘴気が見えるのに、何故活用しないのか。それがあれば瘴気から逃れることができるではないかと。
トマリはそれを聞いて、思う。
逃げられるのならそうしていると。
「確かに、逃げられないことを痛感するのは、いやかも知れませんね」
「実際の、どこを見ても濃度の差こそあれ瘴気はどこにでもある。今こうしてたっとる場所にもなうっすらと瘴気がただよっとる。瘴気の中で行きとるようなもんじゃ。じゃから、こんなときでもなければ、目は使いたくないんじゃよ。見ず、気にせず、知らず。のんびり生きることが心の健康に一番じゃ。体は湖の水があるしの」
ストラ樹海が近くにあり、それ程高濃度の瘴気は無く、湖の水で体は浄化を続けることができる。瘴気を見ずとも生きることに困ることは無い。
だから、トマリは決めたのだ。見ないと。
悩むことに疲れたのだ。
「……他の長寿族はどうかしらんがの」
この町にいる長寿族はトマリと娘だけだ。
他は皆、別の種族達であり、自分達よりも寿命が短い。
観察を終える。
瘴気は、死体にこびり付いているが、周囲に大きな影響は与えていない。
それがわかれば、トマリの役目は後一つだけだ。
「トマリさん、浄化のチェックお願いします」
警備兵達が、湖から汲んだ水を持ってきた。
水で死体を浄化するのだ。トマリの最後は浄化が無事に行われたを見届けること。
トマリが頷き、警備兵が水を構える。不用意に残った瘴気に触れないように、死体少し離れたところに彼らは立っている。
「……死者に水をかける、か」
鞭を打つよりまましじゃろうが。
死者は安らかに眠らせるべきだと、トマリは思う。死後、水をかけられ汚物のように現れるのは忍びない。だから、目を閉じた。
見たくないの、こういうのは。
人生残り少ない自分だからだろうか、自分もこんな死に方を迎えたらと思うと心苦しい。
「……ん?」
奇妙な風を感じ、ふと閉じた目を開けた。
「……瘴気が、晴れた?」
視界全てに存在するうっすら漂っていた瘴気、それが一気に消え去った。
浄化された?
晴れ渡った視界に記憶が刺激される。
まさか、という思いがトマリに右へ左へと視線をめぐらせるという行動をとらせた。
「どうされました?」
そうだ、死体は。
オードの声に死体を見る。
「……オード、水は必要ない。そのまま弔ってやってくれ」
「しかし、まだ何も」
「大丈夫じゃ。保証する。瘴気の影響はない」
「……わかりました」
オードが、皆へ水掛けの中止を指示する声を背中で聞きながら、トマリは人ごみに向かって歩き出す。
トマリの目の前には懐かしい顔があった。
一人は昔と変わらない姿の少女で、
もう一人は何故か背が縮んでいるが、それでも彼が誰なのか直ぐにわかった。
「丁度、五百年ぶりですな」
周囲に人がいる。だから名前は呼ばなかった。
彼らの名前は有名すぎる。
この町は、彼らのお陰で潤っているのだから。
気の滅入る話題の多かったこの時期。もう見ることの無いとあきらめていた人に出会い、自然と顔がほころぶ。
「お久しぶりです、トマリさん」
「数百年見ないうちにすっかり老けたね。ま、会えてうれしいよ」
今も鮮やかに思い出せる記憶の一欠片。ぴんと伸びる背筋ととがった耳以外にある、自慢話。
聖樹ストラと白のエルザとの繋がり。
五百年前の思い出が色鮮やかに浮かび上がる。
遠い過去に出会った御伽噺と再開した。