第六話 白から緑へ
昨夜まで降り続いた雨の影響で、ストラ樹海には、いつも以上に濃密な緑の香りが漂っていた。
草花や土、風までも水気を含み、どこかしっとりとした空気に包まれている。至る所に雨の名残が残り、葉に溜まった水滴が風に揺らされ落ちる。
手のひらに落ちた水滴を一瞥し、エルザ・プロトスは空を見上げた。
どうやら今日の天気は問題ないようですね。
灰色だった昨日とは違い、今日の空は青一色が広がっている。雨雲も今日という日に遠慮したのだろうか。
オデッサという赤毛の少女が、故郷を救いたいと樹海に訪れ一週間。
樹海の各種族への旅立ちへの説明、その間の樹海での生活、非常時の連絡についての周知。最低限樹海を守るものとしての責任を果たし、旅立ちに必要な装備の準備も済んだ。
エルザは、自らの旅装束を見る。
白氷蜘蛛オリビアの強靭な糸を使い織り上げた、特製のローブ。丈夫さは当然のこと、魔法への耐性も高い。服装だけを見れば誰もが立派な魔法使いと思うだろう。
オデッサの服はデザインこそ、ここに来たときと同じ肌の露出を避けた服だが、素材はオリビアの糸を使っており、今まで来ていたものよりも艶やかで質の良さが人目でわかるものになっていた。いまだ、その質感になれないのか、オデッサは少々着心地が悪そうだ。
まるで男装しているようですね。
帽子まで被ってしまうと、より男の子のように見えた。
もともと赤毛も短く、中性的な雰囲気を醸し出していたオデッサ。
ここを訪れた時、オデッサが被っていたつば広の帽子を被ると、一層少年っぽさが強調されてしまい、女の子に見えなかった。
「……? エルザさんどうかしました?」
「いえ、何も」
「……そうですか?」
首を傾げるオデッサ。
とにかく、こうして装備も道具も揃った。
出発の準備が整った。
一週間後と予定を立てていたが、運悪く予定日が近づくにつれ天候が崩れ始めた。雨の中の出発は体力的にも気分的にも避けたかった。
予定を延期するという意見もあった。だが幸いに本日、出発当日、こうして明るい青空を拝んでいる。
出発の場所は樹海最大の巨大樹、聖樹ストラの聳える広場。
後はもう一人の同行者を待つだけだ。
「やあ、待ったかい?」
白が集う。形作る。粘土細工のように少年が出来上がる。
黒髪と白い肌のコントラストの美しい少年は顔の横でひらひらと手を振った。
手が隠れるほど長く袖口も広いかなりゆったりとした服。下も裾が広くだぼついており、背伸びして大きなサイズの服を着た子供という印象だ。
手の動きに合せてサイズの合わない袖がふらふら揺れる。
少年、聖樹ストラは軽いステップでエルザの隣に並ぶ。
服も身体の一部なのだからきっちりした服も作れるでしょうに。
呆れた視線を向けてみるが、少年は柳のように笑っている。
目の前にいるのは聖樹ストラの作り出した分体だ。身に纏う服もその一部であり、好きなように作り出せる。
もっとも、意識しないと身体だけが出来上がるようですが。
オデッサを見れば、警戒したように身構えていた。
おそらく、先週の全裸事件を警戒したのだろう。
かわいそうに、と思う。同時にこの程度で警戒していたら旅なんて出来ないとも思う。
だが心配はしていない。
嫌でも、この旅で耐性が出来るとエルザは確信している。
「目の前にいたのです。待ったかどうか、ご存知でしょう?」
「エルザ、もっと形式美を大切にしよう。ここは、今来た所というところじゃない?」
「いつから私達は付き合いたての彼氏彼女みたいな関係に?」
「つれないね。や、オデッサちゃん。そんなに警戒しなくても、こうして服も作ったから安心しなって」
ストラの手招きに、オデッサは構えを解いて寄ってきた。ただ、やはりいつでも逃げることが出来るように腰が引けていた。
「ここで脱いだら面白いかな」
「やめなさい」
……とても疲れる旅になりそうだ。
馬鹿をしないように隣の相棒に釘を刺しつつ、見送りに集まった皆を見る。
竜に狼、蜘蛛に鬼、鷲に蛇、他にも様々な種族がここにいる。
皆に共通するのはストラ樹海を守る守護獣達ということだ。
「久々の旅じゃな」
「二人なら、大抵の事は些事でしょう。けど、オデッサがいるのですから無理はしないようにしなさい」
「私の服があるからオデッサも大丈夫よ。大抵のことではびくともしないわよ」
「僕らも色々作ったからねー」
「らくらくな旅になるよねー」
「気楽に、とは言えねえけどよ。少しは楽しめや。ずっと樹海に引きこもってたんだ、外もいろいろ変わってるだろうからよ」
数百年、共に樹海を過ごした大切な家族達だ。
ストラが皆に伝えたのだろう。久しぶりの旅立ちにわざわざ見送りに来てくれたようだ。
初めて浄化の旅に出たときはエルザとストラだけだった。
誰の見送りもなく、振り返ることなく樹海を出た。
今回は違う、数百年で積み重ねた繋がりがある。
「ありがとうございます」
「そんじゃ、行ってくるよ。お土産持ってくるから期待してて」
「そ、そのお世話になりました!」
「では、いくかの、ワシの背に乗りなさい」
ゼフに従い、三人はゼフの背に乗る。
三人が乗ったことを確認し、ゼフは身を起こす。
樹海は広く、その出口まで歩くことは利口ではない。
「樹海の出口まではワシが送ろう」
ゼフの厚意に甘えることにした。
ゼフの背に乗った三人は、木々が背後に消えていくのを眺めながら樹海を進む。
しばらくして、エルザの背後から小さくため息が聞こえた。後ろにいるのはオデッサだ。
「どうしました?」
「その、大きいなって」
「……ああ、そうですね」
オデッサの視線は樹海の木々に向けられていた。
ストラ樹海の樹木は巨大だ。聖樹ストラの巨大さと比較すれば小さいが、ここ以外の樹海や森と比べると、ここは遥かに大きい。
樹木とストラ樹海に住む生き物を比較すれば、全てがミニチュアに見えるだろう。
更に純白という特徴も加わり、かなり見ごたえがある光景のはずだ。
ここの光景に感動しなくなったのはいつからでしょうか。
数百年をこの中で過ごしたエルザにとっては当たり前にあるものだ。
しかし、この旅で自分も同じ思いを感じるのだろうと、エルザは密かに期待している。
外には、自分の知らないものも多くあるに違いないと。
「……エルザ、オデッサ。あれを見なよ」
視線は最前に腰掛けるストラの指差す方向へ。そして、エルザは目を見開いた。
ゼフの脚が止まる。
獣、獣、獣。
そこには、多くの獣達がエルザ達の道を作るように並んでいた。
兎も熊も狼も蛇も鳥も狐も狸も蜥蜴も土竜も、数多の獣達が捕食者被捕食者問わず。争うことなく喰らいあう事無く。皆、その目をこちらに向けていた。誰も彼も静かに佇んでいた。
「……思った以上に動物が多いのですね」
「この樹海は広大じゃよ。この程度の数も抱えられん程狭くはない。しかし、確かにこうして皆が集まった姿は圧巻じゃの。ワシも、こんな光景、見るのは初めてじゃが」
「すごい……」
「守護獣だけじゃない。皆、見送りをしたいとさ。ゼフ、止まってないで進みなよ。折角来てくれたんだ、威風堂々出発と行こうじゃないか!」
「かか、そうじゃの」
巨大な狼は再び走る。
獣達で作られた道を駆ける。
エルザは途切れることのない獣達を見て、心が震える。通り過ぎた獣達がエルザ達を追いかける。巨大な狼の速度に追いつけず、どんどん引き離される。だが、それでも彼らは追いかけてくる。
そして、樹海を抜けた。
「――――っ」
視界に鮮やかな色が飛び込んできた。
緑。
樹海の先には草原が、白ではない緑の草原が広がっていた。
青空、緑の草原、樹海から流れ出て遠くへと続いている川に茶色い土。多くの色という情報がエルザを飲み込む。
胸が熱くなる。
緑の上に立つのは一体何年ぶりだろうか。
「……綺麗ですね」
「久しぶりだからな。暫くすれば、樹海の白が懐かしくなる」
「さて、ワシはここまでじゃ」
「ありがとう、ゼフ」
「ありがとうございます」
ゆっくりと草原へと降り立つ。ゼフは「それじゃ、気をつけるんじゃよ」と一言告げて樹海へと戻っていった。
樹海の入り口では、動物達が集まっている。その数はまだ増え続けている。
「お前らも、さっさと自分の縄張りに戻りな」
ストラが声を上げると動物達が返事をするように一斉に吠えた。
樹海からエルザ達の背を押す風が吹いたような気がした。
まだまだ、知らないことだらけですか。
数百年済んだ樹海でもこうして新しい経験をすることが出来る。それに気付き、外にばかり期待していた自分が恥ずかしくなる。
旅から戻ったら、改めて樹海を知ろう。樹海に戻るゼフ達を見つめ、密かに決める。
「さて、何処に行くか?」
「昔のままなら、まずは川沿いに歩けば町があるはずですが」
何しろ数百年だ、町の場所や国々そのもののあり方すら変わっていることだろう。
疑問の答えたのはオデッサだ。
「はい、川沿いに大きな町があります。まずはそこを目指すのがいいと思います」
「では、目的地も決まったことだし、行くか」
「行きましょう」
白の樹海から緑の草原へ。
聖樹ストラと白のエルザ。
数百年ぶりの旅が始まる。