第八波「天上天下の昇降機」
「そうか。じゃあその写真には、彼は触れてないんだ」
「まったく、どうしてあの危険物を無警戒に触るなんて、どうかしてるわよ」
――あれ?
天佳は男に手を引かれながら、自分の境遇に疑問を抱いた。
自分はどうして、ここにいるのか?
半ば夢の中にいる心地だった。
いや、というよりは頭がはっきりした自分を、もう半分の自分がぼんやり見つめているような、とにかく形状しがたい、宙ぶらりんの気分だ。
「いやぁ、でも久しぶりだなぁ。覚えてる? ほら、曲輪だよ。君の協力者。昔、孤児院で会ったよね? あの、泣いてた日」
と青年は言ったので、少女は少なからず驚いた。
自分より一歳年下だったし、名前も違うような気もするが、何しろ自分の記憶は改竄されている恐れもあって、信頼できない。
繋いだ手の感触に、満ち足りた喜びを胸に感じる。
だが、冷たい毒のようなものが、流れ込んでくるのも強く感じていた。
~~~
――やれやれ、危ないところだったな。
曲輪行人は、鈴目天佳の手をつなぎ、心を繋ぐ。
彼女の履歴は把握している。この島でかつて、誰に、どういうことを言われたのかも、探ること自体は余裕だった。あとは、それに合わせて細かい部分を曲輪の側で『訂正』していけば良い。
少女を匿うあの来栖切絵とやらが、件の『X』の正体であることは、洗脳した『マルコキアス』から聞いていた。
自分の能力が、あれにコピーされていないか。唯一の懸念が少女の口から解消され、安堵する。
――いや。
自信に満ちた、輝かしい顔を上げて、青年は嗤う。
――例え俺の力が模倣されても、直接的な戦闘能力のない『ベリアル』には何の意味もない。要はこちらが主導権を握ってさえいれば良い。
いや、それだけじゃない。
『キャラバン』ナンバー2であり、実力から言っても団長を勝るとも劣らないとされる新美を手駒とした。
そして、その団長さえ、寝首をかく程度、造作もないことを身を以て確認した。
――この『ベリアル』ならば、下手さえ打たなきゃ組織を掌握できる。『保管庫』だって、いつだって我が物にできる。ああ、そうだ。『トライバル』のことじゃない! 学力や業績で判断するばかりで本当の実力というものを見てこなかった無能どもに、自分たちが劣等生のレッテルを貼った人間がどれほど優れた才能を持っていたのか、思い知らせてやる!
息巻く彼の隣で、「大丈夫?」と、天佳が不安げな声を発する。
「ああ、大丈夫さ。ちょっとね」
「肩ぐらい、貸すけど?」
「そうか?」
それとなく身を寄せると、この人生を変えるほどの『恩人』の積極的なアプローチに、歓喜で震えた。
この瞬間、魔性の天才を自負する曲輪は、この凛とした少女が自らの手中に堕ちたことを確信した。
そして彼は最近オープンした商業複合施設に、彼女を伴って向かう。
――だが、『マルコキアス』の言うとおり、このまま何もせずに船に向かわせるのもシャクだよなぁ……
舌をなめずり、影の実力者は覇道を征く。
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突き立つモップが、墓標のようだった。
夏には海水浴スペースにもなるその砂浜は、今の時期はガランとしていて、時々旅行客や地元住民が、堤防の上にいるだけだった。
そんな彼らが、歩きざま奇異の目で、その清掃道具の傍らにいる男を見ていた。
ハンチング帽にサングラス、カーキ色の短めのコートの裾から、ブルーのジーンズが覗いていた。
「……」
周囲の視線など気にすることなく、携帯電話を手にする。
彼の前には、焼き焦げたボールがあった。
いや、それの前進が野球ボールであったことを把握しているのは、この場において、事情と経緯を知るこの男だけだった。
「私だ」
と、まず発した。
それだけで、通じる相手だった。
「『X』はお前らをまっすぐ追っていった。私もじきに追いつくが、無理はするなよ」
うつろな声でそれだけ伝えて、通話を切った。
今の男にとっては、それは別段、何を感じることもない業務連絡だった。
大義そうな息を吐き、砂浜に腰を下ろす。
濡れた大地が気持ち悪い、潮風の冷たさにはヘドが出る。空は無意味なほどに青く澄み切っていて、男の陰鬱な気分をより惨めにさせた。
コートのポケットに不自然に突っ込んだ、スリムな缶を取り出した。
桃のラベルが貼られたカクテルの酒。
顔を持ち上げ一気にあおると、乱暴に砂浜へと投棄する。
「……面倒な仕事だ」
うち捨てられたモップを見つつ、男は、何度目かもしれぬ憂鬱を、顔だけで如実に表現してみせた。
投げ捨てられた缶は、その瞬間グズグズと溶解し、ブスブスと黒煙と異臭を発した。
人知れず自壊していくそれを見つめる男の手には、炎のようなタッチの狼が張り付いていた。
~~~
「…………そうか。よし、じゃあ先回りして迎撃してくれ。調整まだだから」
『X』が追ってきている。
フードコートで待機し、『マルコキアス』からの報告に対してそう命じると「どうかした?」と天佳が問う。
「いや、なんでもないよ。俺の仲間からの通信だ」
「仲間?」
眉をひそめる天佳に、曲輪はあくまでクールな好青年の顔で、頼んだコーヒーのカップを回す。
その表面を滑る『ベリアル』の刻印は、少女の表情を恍惚としたものへと変えて、波打つ髪は前後に揺れる。
だが、客の中に、その違和感に気づいている者はいなかった。
「ほら、覚えてないかな? 一週間前、君が公衆電話で助けを求めてきた。あれがあったから、俺は『キャラバン』を裏切って君を救おうとした。そして、それに多くの仲間たちが同調したんだ。他ならぬ、俺が昔世話した、君だからこそ」
「そう、そうだったわね」
立った今思いついたホラ話に、少女は納得するように頷いた。
曲輪は、笑いをこらえるのに必死だった。
「でも、助けて欲しいヤツが、もう一人いるの」
「へぇ、誰だい? そいつは」
「この島の人間。私を最初に助けてくれたし、かくまってくれた。でも、だからこそ、『キャラバン』と敵対した今、あいつも安全ではいられない」
天佳の手は、テーブルの下、ホットパンツと黒いストッキングの上で握られていた。
着用しているものは、逃亡している割には真新しい。『アリアンロッド』の力があるとはいえ、ATMで金を下ろした形跡はない。そもそも、そんなことのできない、無駄なプライドのお姫様だ。
とすれば、それは『X』が買い与えたものだろう。
――ふぅん、おおかたこの女の色香にたぶらかされたんだろうが、こりゃ相当な入れ込みようだな。
『X』の方も。
それに恩義を感じる天佳の方も。
「……なるほど」
外面で、鷹揚に頷く。
内面で、舌を打つ。
――どうやら、まだ『調教』が足りないらしい。
「……なぁ。その彼って、実際は『ベリアル』なんじゃないか?」
「……え?」
虚を突かれたような顔を、天佳はした。
だがその『虚』こそ、曲輪行人にとっては、付け入る格好の隙だった。
「だってそうじゃないか。知り合いでもない人間を、さして得もないのに救出するなんてまずおかしいだろ? ……彼には、俺みたいな『絆』もないんだからさ」
「……っ」
一瞬、天佳が反抗的な目つきをしたのを、目ざとく彼は見逃さなかった。
記憶の抜き差しや過去の経緯はなしにしても、曲輪行人はそれが気にくわなかった。
何故、交流ある――そう思い込ませた――目の前の才ある人間になびかず、見ず知らずの、会って一ヶ月と経っていない他人のことを信頼できるのか。
「なぁ、俺が、こうして二度、君を助けたことを忘れたのかい? 俺の言うことを聞くんだ」
自分の手にあるオレンジジューズ、プラスチックの容器の中に『刻印』を溶かし込んでかき回し、天佳の視界に映させる。
くらくらと、
酔ったように首の前後運動を虚ろな顔で、オレンジ色の液体の中をたゆたう車輪を見続ける。
次第に光の失われていく琥珀色の瞳に、自然、曲輪の口端に笑みが宿る。
「……よしっ!」
パン。
テーブルに掌を打ち付ける音。
それは、催眠術師が術を対象に施し終えた、合図の音だった。
机の上に上がった手を掴み、立ち上がる。
「それじゃあこの俺がその真偽を確かめてやるよ!」
「え!?」
「さっきの連絡なんだけど、どうやらその切絵ってヤツ、ここまで来てるらしいんだ! おそらく、君にちゃんと暗示が効いているかコソコソ見張ろうってわけさ! さぁ、ついてきてくれ!」
という言葉尻と、その白い手首を掴むのは、ほぼ同時だった。
ボーンチャイナのような冷たくも美しい肌が、わずかに、しかし確かに、手の中で震えるのが分かる。
その脈のビートも速い。
――厚顔な鈴目天佳といっても、所詮は女だな。初恋相手には実にウブで、たやすい。
曲輪は嗤う。
彼の頭の中には今現在、その天佳をモノにするだけでなく、『X』まで屠る必勝戦略が、そして今後の活動方針に直結する展望がある。
――ターゲットは第一に『アリアンロッド』次いで『X』と聞いているが、俺ならどっちも取るね
まずこうして鈴目天佳を手中に収めた今、コレを盾にすれば、どんな力を持ったとしても、『X』の動きは少なからず鈍る。
そこを横合いから『マルコキアス』に殴りつけさせれば良い。
――そして三人の処遇は、生かすも殺すも飼うのも……この俺次第ッてわけだ。
十人並みの容姿を持つ人畜無害の青年の顔の裏で、悪魔の名を冠する『保管者』は高らかに勝利を宣言する。
~~~
――あれ?
と、鈴目天佳は再び疑問を抱く。
かつて自分を「かわいい」と言った少年は実在した。
こうして、自分を助けてくれるべく、率先して行動してくれている。
太い指先に包まれた手に、例えようもない痺れと熱が奔る。
『ベリアル』ではないかと、その恩人である彼が唱えた来栖切絵。
彼に言われると、そんな気さえする。
曲輪行人が、恋人のように自分に思い出話を語らい、エレベーターのボタンを押した。
だが彼が口走らせる度に、頭痛が差し込む。押したボタンに『車輪』が見えた気がしたが、それが何だったのかさえ覚えていない。
遠い昔……いや一分前だったか。
――それについて、誰かが強く警告を発していた。
――この心の苦しみを、なんと表現するんだったか。
「……そう、だからさ。あの時僕らは……結婚を誓い合ったじゃんか」
「……え?」
「……まぁ、君はまだ幼かったし、覚えてないかもしれないけどな」
「…………ううん。覚えてる。覚えて……」
人好きがしそうな満面の笑みで、青年はそう言って、天佳が追従すると、ふと
「そんなこともあったか」
という思いが去来する。
その彼の目の前で、到着したエレベーターのボタンは開く。
待っているのは天佳たち二人だけだったが、中から五人ほど、流れ込んできた。
ハンチング帽をかぶった、みすぼらしい男が天佳たちを横切った。
彼女たちの前には、空になった昇降機がある。
「さぁ。一緒に行こう! こんな所から出て! その切絵という小悪党から、俺たちの『絆』が誰にも負けないことを、証明してやるんだっ! 俺が君のために、ヤツの幻想を晴らしてやる!」
右拳を握り固め、強く、青年は主張する。
ふらりと、ひとりでに、意識もせずに、前へと進む。
誰かに手を引かれるままに、エレベーターへ……
「大事なのは今ある自分を、今あるお前がどう思うか。だろ?」
――記憶に引っかかる彼の言葉が、少女の足を本能的に止めさせた。
「……どうした?」
「ダメ、行けない」
今にも途切れそうな息づかいだった。
人の雑踏どころか、店内の空調にさえかき消されそうな声量だった。
「……どうして?」
「あいつのところへは、行かせない」
それでも明確な、彼女自身の、拒絶の意志だった。
「来栖切絵には、近づけさせない」
何故、なんで、どうして。
理由は関係ない。
「…………あぁ、あぁ、あぁ、あぁ、あぁッッッッ!」
それに対する『恩人』の返答は、怒りの感情の発露だった。
「いい加減にしてくれませんかねぇ!? 人が『親切』にしてやればつけ上がりやがって!」
開いた右の掌が、しきりにエレベーターのボタンを押している。
その度に、閉じかけていたドアが開き、開いては閉じて。
その度に、隠しようもなく車輪の『トライバル』はボタンの表面で明滅を繰り返して、
「お前待ってたんだろ!? この俺を!? お前が泣いて頼むから来て欲しいって言うから助けてやったんだろ!? しっかりしろよっ! なに有象無象の言葉にたぶらかされてんだよ!? 俺たちが桃の花の下で誓った約束を忘れたのかよ!? 目覚ようぜッ!? なぁっ!? あの時お前に笑いかけてくれたのは誰だった!? 樹から落ちたお前の傷の手当てをしたのは!? お前をイジっ子からかばったのは!? お前の絵を描いてやったのは!? 拾った子犬を施設に内緒でかくまってやったのは!? 施設長が死んだ時に泣いてるお前を抱きしめたのは!? お前に『ベリアル』が危険だと警告したのは!? 『フルフル』から、『バアル』から、お前を助けてやったのは誰だった!? お前が好きなのは誰だよ!? お前が愛してるのは誰だよ!? なぁ、この俺だろ!? ここから俺たちの物語は始まるんだ!? だからとっとと黙って俺の手を取れってんだ!」
その言葉の一節一節が、頭にねじ込まれるようだった。
すり減る精神と、記憶。脳の中が真っ白になり、焼き切れていく。
痛覚などない細胞にすら、摩耗の激痛が生じた。
唐突に『思い出されていく』記憶の数々に、立った身悶える。ヒザが笑って屈しそうになる。
「……分かった、分かったわよ!」
たまらず彼女は、声をあげた。
「……っ……やっと俺のこと、完全に『思い出して』もらえたんだな」
額に浮かぶ汗を袖口でぬぐい、白い歯を見せて行人は快活さを取り戻した。
だが、顔は、まだ興奮が残っているのか血の気がのぼって真っ赤なままだった。
「……だから、だから……一つだけ、お願い」
「なにかな?」
二人は、呼吸を整えた。
唐突に争いを始めたカップリに対し、ざわめく周囲の反応をよそに、鈴目天佳は、彼の顔をまっすぐ見据えながら、ボタンに手を重ねて、顔を近づけ懇願した。
「……もう一度、あの時みたいに『かわいい』って言って?」
フッ、と。
柔らかく青年は微笑をしてみせた。
目を細めた彼は、
「かわいいよ、天佳」
……、蜜のように、甘やかに囁いた。
「…………うん。わかった!」
少女は晴れやかに頷く。
その首肯に、迷いはなかった。
「あんたじゃないわ」
ボタンに触れた少女の右手の甲に、その指先が、円盤を描く。
『トライバル・アリアンロッド』。
真円の刻印が、鋼鉄の戸口に閉鎖を命じた。
間に置かれた青年の左手を挟み込む。
「ぶがぁっ!?」
不自然な方向に折れ曲がった己の五本の指先に、曲輪行人は驚愕の眼差しを注いだ。
その鼻柱に、天佳の握り拳が渾身の力で叩き込まれた。
「げぶぁ!」
潰れたカエルの如き絶叫を放ちながら、顔を潰された悪魔は、エレベーターの中壁に激突した。
殴った手をフリフリ、ふぅと息づき、天佳はほんの少しのカタルシスに酔っていた。
気分もスッキリ、
意識もシャッキリ。
「天地ひっくり返って世界滅んでも、そんな生理的に受け付けない『かわいい』に、この私が惚れるわけがないってことがね」
「ほ、ほんな……ほ前っ!? ……テメェが何したか理解してるんだろうなぁ!?」
曲がった鼻を無理矢理に修正しながら、個室の中、戸をこじ開けるようにして『ベリアル』は吼える。
「気にくわないクズを、気にくわないからブン殴った。そんだけのことよ」
口を半開きにして絶句する彼を、冷ややかな目で睨み返し、なんなく言ってのけた。
「過去? 思い出? 記憶? んなもんどーだって良いわよ。少なくとも今は。ただ今ある私が、今いるバカに腹が立った。……そんなのに迷わされた自分にもね」
自他ともに認める美少女は、二本の足でしっかり立って、腕組みした。
傲岸不遜なポージングをしながら、エレベーターの鏡に自己を投影する。
ウェーブのかかった茶髪をかき上げる、日本美人的な顔立ちには、二度と揺れることのない確たる自信。
そんな自分の像を、怯える曲輪越しに見つめ、ウンと頷き、そして言った。
「やっぱ私には、こういう私がしっくりくるのよ」




