第一波「異変転変の水都」
少女を背負って道を歩く。
その度に、ずぶ濡れの切絵と少女の雫が、歩道に落ちて輪を作る。
その度に通行人には奇異と好奇の目で見られていた。
――なんか、いろいろと理不尽な目に合ってるけど、この背に伝わる感触だけで九割許せてしまう。
ふっかふか
ふにふに
「……よし」
背で肉感を楽しみ、少年はなじみの建物へと入っていった。
……一、二度。
おぶさる少女を上下に軽く揺らし、名残惜しくも弾力をしっかり堪能して。
「…………良しッ!」
XXX
「たのもーう、たのもーぅ」
切絵の間延びした声が、『ふぉとぎゃらりー 鉄鍋』に鳴り響く。
「島津センセーイ、おーい、おーい……おーぃ」
「わめくな、小僧。……首、ねじ切るぞ」
雑貨店のカウンター裏から、物憂げで、物騒な声がひとつ。
炊かれたラベンダーのアロマに抱かれて、女が、寝そべっている。
アイマスクにしていたマネの画集を手で払いのけると、分厚い丸メガネが、太陽にその意思を示すかのように、きらめいた。
「島津センセイ! お休み中ゴメンな」
少女の尻が滑り落ちそうになるのをを右手で止めつつ、左手を起き上がったその女主人に立ててみせる。
メガネのツルを押し上げ、脱色して乾燥した長い髪を、ゴムで一つにまとめる。
洗いざらしのワイシャツとジーンズに、生活感がにじみ出ていた。
二十代半ばというが、それ以上年上とも感じられる。
老けているというか、年齢以上に、退廃的な色気があった。
「どうした? 貸してやった一眼レフでも壊したか? 美味いラーメン屋でも見つけたか?」
「巨乳の美少女拾った」
「……」
写真家のセンセイ、島津は紅の塗られない唇を真一文字にした。
「巨乳の美少女拾った」
「二度言うな……頭痛がひどくなる」
額に手を当て、長いため息をつく。
おぶさられた少女が、ずり落ちそうになる。
切絵は慌てて小さな尻の下に手を当てて、彼女を留めた。
その姿を呆れたように見つつ、島津は問う。
「で、どうしたんだ? それは」
「空から落ちてきた」
「は?」
「空から落ち」
「だから二度言うな! ……方便にしても、もう少し上手く言う知恵ぐらいはあるように育ててきたと、そう思ったんだが」
「いや、方便もなにも、だってホントだし」
二度目のため息。
舌打ちし、島津は皮膚の厚い手を差し出した。
「とにかく風邪を引く。ひどい臭いだし、小僧には少女の生身は刺激が強いだろ」
「あぁ、あんがと! 実は限界だったべさ! ……色々と!」
言われるがままに少女を手渡すと、軽々と、苦もなくセンセイは少女の肢体を担ぐ。
――まぁ、機材とか運ぶのに慣れてんだろうしな。俺が来る前はアシスタントとかいなかっただろうし。
そう思いながら、切絵が一歩踏み出したその矢先、
「お前は違う」
ぴしゃり、そう言われる。
まるでこの世が白か黒かで二分化できるかのような、キッパリとした口調で。
「お前は寮へと戻れ。回れ右。ゴーホーム。本来なら、そんな格好でわたしの聖域に踏み込んできた時点でブッ殺してるところだ。さっさと身を清めて出直して来い」
「……はーい」
切絵は言われるがまま、回れ右し、学生寮へゴーホームするために出口へ向かう。
ふと、彼は立ち止まった。
「あ、そーだ。ちょっと聞きたいことが……いやでもコレ専門外なのかな? つか、信じてもらえないのかな?」
「……なんだ?」
イライラした島津の調子が、切絵に用件を促した。
意を決し、振り返り、問う。
「消えるイレズミって、あんのかな?」
XXX
ラベンダーは、嫌いだった。
小ぶりの花を咲かせるくせに、匂いは強く、自己主張が激しい。
大輪の花を咲かせてこそ、花だと少女は思う。
狡猾なあの薄紫が、昔から、好きにはなれなかった。
だが皮肉にも少女に覚醒を促したのは、その芳香だった。
「……」
目を開ければ、ゆるやかに回るファンが見えた。
耳を澄ませば、潮騒が流れ込んでくる。
――寝てた時間はわずかだろうけど
それでもここまで充実した睡眠時間は、少女にとっては二週間ぶりだった。
身を起こし、自身が裸だと気がついた。
磯の異臭は消えているが、冬の海は少し肌寒い。
シーツを身体に包むと、自分のボディラインがくっきり浮き出るのがわかった。
「不安と、痛みと、辛さ、それを浮かべながらも芯の強さはブレないその美少女。……なかなか絵になるじゃないか」
入り口から聞こえた声に、少女はすかさず股に手を当てた。
しかし、目当てのものは、ない。
「悪いが、面倒なものは取り外させてもらった」
メガネの女の手に、それはあった。
ガーターベルト。
十字の刻印が施されたそれに、ナイフが数本、挟み込まれている。
「……あんた、何者?」
「ただの写真家さ」
壁に立て掛けられた写真を見る。
この島の風景か、風光明媚な海の町が、鮮やかに切り取られていた。
それでも、まだ安心することは、できない。少女には、許されなかった。
睨む少女に呆れるように、女は首を振る。
「敵じゃあない。もし敵だったら眠っている間にお前さんは追っ手の腕の中さ。……違うか?」
少女は警戒は解かない。
それでも、構えは解いた。
「ほら」
と、投げつけられる野暮ったい下着の上下、そしてガーターを、少女は落ちる前にキャッチした。
「……これ、サイズ合ってんの?」
「さぁ。どうだか。わたしは切絵の見立てどおりに用意しただけだしな」
「キリエ?」
「お前を拾ってきたウドの大木いただろ」
ウドの大木。
たしかに、海に落下した時、現れた少年は一八○を超える長身だったことを、少女は思い出した。
そのくせ、華奢で、手足は細長い。
美男ではないものの人好きそうな顔。
決定的に緊張感に欠ける、緩んだ顔。
苦労とも、争いごととも無縁そうなベイビーフェイス。
――思い出すだけで、腹が立つ。
「で、どうだ? あいつの目測は」
「……ピッタリだよ。ムカつくまでに」
シーツに潜り込んで着替えた少女は、自分の身体にフィットしたそれを見下ろし、舌打ちする。
女は、腕を組んで、慣れた感じでため息をついた。
「まったく……あいつは、母親と写真とDVDでしか、女体を見たことないくせに」
「そこはホレ、好きなものってそーゆーものだべさ。汽笛の音だけでSLの型分かったりするのと同じで」
瞬間、少女の手は股に手を滑らせていた。
今度こそ、ガーターからナイフを引き抜き、投げつける。
「うわばばば!」
飛び出した少年の顔の横、その柱に、ナイフが突き立つ。
「……手が滑った」
本当は、どこに投げるつもりだったか。
少女はあえて言わない。
「まったく! 服持ってきたんだから、穴開いたら困るべさ?」
のほほんと、自分に刺さるはずだったナイフを尻目に、少年は少女に近づいた。
「服? その女が持ってきたんじゃないの?」
「……なんでわたしが見ず知らずの、サイフすら持たない娘にそんなことまでしなければならんのだ? 欲しけりゃ自分で買え」
「どうやって? 下着姿で町練り歩けって?」
「ネットがあるだろう。それに裸でも、稼ぐ手段はいくらでもあるんじゃないのか? お前さんの容姿なら、さぞ稼げるだろうに」
「そうね。私ならウィンク一つで百万は稼げるよ。……目の前のブスと違ってね」
少女が臆面なくそう言った瞬間、レンズの奥の瞳が、ギシリと歪む。
女二人、睨み合い、緊迫した空気が部屋に充満するが、
「まぁまぁまぁ。だから俺が見繕ってきたんだって!」
のんきな声が、かろうじてそれを緩和した。
切絵というその少年の背の裏に、服の布地が見え隠れする。
「…………ありがと」
「へ?」
少女の礼に、少年は目を丸くする。
「なに、そりゃ初対面なのにここまで親切にされりゃ、お礼ぐらい言うよ」
「下心、あるかもよ?」
「そん時は今度こそ眉間にナイフぶっ刺すから良いのよ。そう接した事実に変わりはない。でしょ」
「……ども」
少年ははにかみ、肩をすぼめた。
切絵が見せた服は、複数あった。
「そいじゃ! あなたが落としたのはこのめっちゃスリット入って、留め具の間隔めっちゃ空いてるこのチャイナ服!? それとも、この平成二十三年度より新しくリニューアルされた『シースーズ』のウェイトレスさん!?」
ナイフは全本、発射された。
XXX
「死ぬかと思った」
「殺れると思った」
「というかウチの画廊はニンジャ村の手裏剣体験コーナーじゃないんだがね」
へたり込んだ少年の頭の上に突き立つ刃物の数々を見ながら、三人して呟くように言う。
少女は、着替えていた。
白いタートルネックのセーター。ホットパンツ。黒いストッキング。そしてそれらを覆い隠すほど大ぶりな、ニットの機械編みのポンチョ。
その分厚い布からでも凹凸が見事に見て取れるのだから、相当なものだろう、と切絵は知らず惹き付けられていた。
乾いた髪をふわふわと撫でつけ、見立てに満足し、しきりに頷く切絵を厳しい目で見つめていた。
「まともなモン持ってきてたならそうおっしゃいよ」
「悪い。自分に正直すぎた。泉の精だし」
「……泉の妖精が欲に負けてどうする?」
呆れ顔を少年に向けた後、島津は、今度はその顔を少女へと向けた。
「それで、聞きたいのはこっちなんだがな。『アンタ、誰』と」
「ただの美少女女子高生だよ」
「……真顔で言ったべ、この人」
「消えるイレズミ」
「!?」
傲然とする少女の表情、そこに揺らぎが生じたのを、切絵は見逃さなかった。
「いやなに、そこの小僧が気になることを口走ったんで、つい、な。こいつの見間違いかと思ったが……それが核心か?」
切絵は、ギクリと身を震わせた。
もしや自分は、少女の触れてはならない場所に、気軽に踏み込んでしまったのではないか。激しく怒られるのではないか、と気にする。
「…………あんた、見えたの? 『トライバル』が」
少女の反応は、意外なものだった。
目を丸くし、素直に軽い驚きを表現している。
「見えた?」
逆に顔をしかめたのは、質問者たる島津だった。
「え? 見えた、って……」
戸惑う切絵に対し、少女はポンチョから伸ばした己の手の甲をかざす。
何の印もない。すべすべとした手と指がそこにある。
だが、その手の甲に
ぐるり
と、円がめぐる。
「!?」
熾のような色合いの刻印。
切絵自身が海で拾い上げた時、確かに目視したもの。
「? なんだ? 何が見えている」
「……っ、島津センセイ、これが見えてねーのか?」
「?」
切絵の問いに対しても、釈然としない反応。
目が悪いとか、そういう問題ではなく、そもそも視認できないのだと、切絵は知った。
自分と、この正体不明の少女だけが。
焦燥する切絵は、すがるように、答えを求めるために少女の顔を見る。
「……やっぱりか」
彼女は一人納得顔で首を動かすと、
「ついてきな」
と、円の浮かび上がるその手を翻し、切絵の手首を掴む。
「ちょ、ちょっ、ちょっちょ!?」
「おいっ」とたまらず島津が、外に出ようとする二人を呼び止める。
しかし少女は足を止めず、干したばかりの自らの靴をはき直し、外に出て行く。
そして切絵もまた、自らのスニーカーを足に引っかけながら、
「心配ないない! なんか事情ありそうだから、ちょっと話聞いてくるわ!」
と、言い残す。
――もっとも、語られたところでそれを把握しきれる自信は、どこにもないけど。
XXX
少女がその足を止めたのは、店からそれほど離れていないところだった。
公営の団地の、ゴミ置き場。
そこには回収されるはずの粗大ゴミ、使い古された家電の数々が無造作にうち捨てられていた。
「良いこと?」
と、少女は切絵から手を離し、指を突きつけた。
時々この少女の乱暴で、数少ない言葉に、上品めいたものが混じるのを、切絵は感じていた。
――ひょっとして、実は育ちの良い娘さんなのかもな。
「私は必要最低限のことしか言わない。つまり、あんたにやってもらいたい、けどあんたにしかできないことしか説明しない。……それでOK?」
そう言い切られて、なお追及するような蛮勇は、切絵にはない。
コクコクと、素直に、何度ともなく頷く。
少女は一つだけ頷き返し、手を再び裏返す。
あの見事な真円の刻印。
それが、引かれた油に火がつくように、浮かび上がる。
「これは、『トライバル』。お察しのとおり、これを見えるヤツと見えないヤツがいて、あの女は見えない方、あんたは数少ない見える方」
その手で、縦にされて、柱時計か何かのように捨てられた大型のクーラーを掴む。
「そして形は違うけど、この刻印を持つ人間は他にもいる」
「あ……ちょっと話分かってきたべさ。それが見える俺に、別の刻印の痕跡を探せってこと?」
「そんなところよ」
少女の手元に、異変が起こる。
刻印の手が触れているところ。クーラーの側面。そこにも彼女と同様、切れ目のない真円が浮かび上がっている。
「……とまぁ、こんな具合に、見るだけは身体だけじゃない。『トライバル』の『保管者』は物体や他の生物にもその影響を伝播させられる。それをこの島で見つけたら教えて欲しいのよ、私だけじゃ、『目』が足りない、からね」
「『保管者』つーのはともかく……俺、どんな形のヤツを見つければ良いの?」
少女は、クーラーから手を離した。
女神の彫像のような白い指先。それを斜めにして左右の手で一本ずつ、交差させる。
X
切絵から見てもそう見える。
わずかに息を呑む切絵に、氷雨のような潮の風が当たった。
ウェーブの髪をはためかせ、少女はその指を自身の口元まで近づけた。
「そしてヤツの姿も、コレの塊のようなヤツ。赤銅の身体。どこが目鼻かわからない姿。そして手には長柄で鉄色のハンマー」
「……そいつ、人間なのか?」
おずおずと問う切絵に対し「さぁね」と少女は小首を傾げる。
「まっ、そんなヤツが相手なんだから、命が惜しかったら深入りしないこと。……頼んだ本人が言うのも、妙な話だけど」
そう言って、少女は少しだけ笑った。
ただ目をわずかに細めるだけ。
ただそれだけなのに、不思議と切絵の胸を打った。
「ねぇ」
と、少女は切絵の顔を覗き込む。
「あんたこの島の人間なんでしょ。この島に、なんか美味しいお店ないの」
「あ、あぁー。……えーと、あっ、ここの角の喫茶店! あそこのナポリタンはイケる!」
「じゃ、二日後のクリスマス、そこで会う?」
「会う? って……お前お金は」
「なに? クリスマスのデートに払わせる気?」
「……ですよねー」
挙げた店が比較的安上がりで助かった。
苦笑する切絵から、少女が離れていく。
「ちょっと待った」
と、手で制する。
「なによ。余計な質問には答えないって言ったでしょ」
「そーじゃなくて」
振り返り、小首を傾げる少女に対し、切絵は今まで聞きたくて聞きたくてしょうがなかった、そのことを問う。
「……まず、名前が先だろ? せっかく知り合ったんだし」
少女はキョトンとして、
「言ってなかったっけ」
と、言わんばかりの無防備な顔をして、それが切絵の虚を突いた。
「鈴目天佳。それがあんたが助けた、女の子」
その横顔は、小悪魔的と言うよりは、イタズラっ子のそれに近い。
大輪の花のような笑顔を咲かす彼女に、切絵も心震わせながら笑み返す。
だが「よろしく」と口を開きかけた時、突風が、横から切絵の顔を殴りつけた。
海からの風には彼は慣れていた。
――これは、違う。
方向が逆だし、ひどい臭いで、埃っぽく、口に入ると鉄の味がした。
風のながれる元を目でたどると、そこにはあのクーラーがあった。
廃棄物であるはずのこの冷房が、ひとりでに起動している。
「っぺ、っぺ! なんだこれ!?」
ガスは抜けているはずだし、帯電して誤作動したとしても、コンセントで繋がっている時と同じぐらい、いやそれ以上の強風だった。
とにかく、この不快な風を止めなければと、切絵は手探りでスイッチを探す。
四苦八苦、悪戦苦闘する彼の視界に、あの円の刻印……『トライバル』が映った。
その刻印が、掌に載せた雪のように溶けて消える。
同時に、悪風は止んだ。
むせ込み、周囲を見渡すと、既に少女の姿はない。
幻のように。
それでも、水に濡れた彼女の靴痕だけはくっきりと、その場に残っている。
今起こりつつあるこのムチャクチャが、そして何より彼女の笑顔が幻想ではないのだと、切絵に如実に教えてくれた。
というわけで、二日連続投稿。
ほんとはもっと早めにUPできるはずだったのですが、一度データが飛び、半分ぐらい書き直しました。
また本作とは別件ですが、「シキフダ倶楽部」、
後日談を一、二作追加したら完結処理する手はずです。
第二章書くにしてもこっちが終わってからでしょうし、未完扱いのまま長期間放置するのも問題だと思いますので。
というわけで上記の件もがんばりますので、今後ともよろしくお願いします。