第一節1614年二月
1614年二月のある日、真田信繁ていにある男が尋ねて来る。その男は見知った男でもあった。
第一節1614年二月
「叔父御。今日はどうした。」
目の前の若い侍はじっと厳しい顔で、目の前のヒゲモジャの男を見つめていた。ヒゲモジャの男はその形相に脂汗を垂らしながら、若い侍を見つめていた。お互い胡坐をかいて座ってはいるが、剣呑さはすさまじいものがあった。
「今日は・・・お前のためにいい話を持ってきたんだ。」
「なんですか?叔父御!」
口を開くと、その怒号はこの建物いっぱいに響き渡った。
「先日は確か、80万石でぇ・・・徳川に寝返れ!・・・でしたっけ?」
「いやあな。」
「あの話はお断りしたはずです。」
「いやあ・・・お前もあの上田の地は懐かしかろう。帰りたいと思わんか?」
ヒゲモジャの男は懐から手ぬぐいを取り出すと、汗でびっしょりとなった額をぬぐった。
その間も若い侍は、そのヒゲモジャの男を睨みつけていた。
「それだけじゃない、武田のあの地をほしいと思わないか。」
「・・・それで!」
「徳川殿は信濃一国を約束してくださった。一緒におぬしの兄のところに行かないか?」
その瞬間、侍は立ち上がり、怒りの形相でヒゲモジャの男は座りながらも部屋の隅までずり下がった。
「叔父御!ふざけるのもたいがいにせい!」
「だから!だから話を聞け!」
その怒号は声は小さい屋敷すべてに響き渡ったのだ。声の持ち主である若い侍の男は目の前にいる髭モジャの男を蹴りだしていた。
「信繁!聞け、あの上田の地に、いや、お館様の意思・・・いいや、親父の無念を晴らすいい機会だぞ!」
「叔父御殿がそんなに不忠者だと思わなんだぞ!二君に仕えろとか言う、そんな・・・そんな!馬鹿者だと俺は思わなかったぞ!」
信繁と呼ばれた若い男は刀を手にかけ、怒りで顔を赤くしていた。
「わ、分かったから刀を納めろ!」
「真田様!刀をお納めください。いくら徳川側として来た叔父殿とはいえ切ってしまえば、主君に泥を塗りますぞ!」
坊主頭の男が老化から走って部屋に飛び込むなり、信繁と呼んだ男に覆いかぶさり、押さえ込む。そして奥からもう一人の男が叔父と信繁の間に割って入る。
「筧!離せ!!この不忠の輩は・・・いや!この真田の名を汚したこの叔父御はこの真田信繁が成敗してくれる!」
信繁は怒り心頭の顔でじっとそのヒゲモジャの叔父を睨みつけた。
「この信繁!八十万石で裏切らず!信濃一国で寝返れば不忠者にならないと思ったか!何たる!・・・いや、ここで成敗してくれる!」
「わ、分かった。もう言わん。だから・・・わしは、わしは帰るぞ!せっかくの提案蹴った事を後悔するぞ!」
庭に蹴りだされた叔父はそのまま、玄関に走っていった。その様子を見ていた信繁はその焦って逃げ出す姿をじっと見つめた。
「はぁ・・・はぁ・・・。・・・せい・・・すまない。」
そう言って信繁は刀にかけた手を収め、じっと部下を見つめた。
「この筧、出すぎた真似をしてすいませんでした。」
「いや、いいんだ。だがすまない。」
そう言うと信繁はどかっとその場に座り、縁台から外を見つめた。
「お前たちのことを考えたら、本当なら、上田のあの地に帰るのがいいんだろうが・・・。すまない。」
そう言って信繁は外を見つめた。外の天気ははれていて掃いたが、まだ少し肌寒い天気であった。ふとその寒さに父と共にいた上田の地を思い出していた。この頃の信繁は若いながらも実践などを多く積み、顔は丹精ながらも凛々しくその風貌はもはや熟練の域に至っていた。身体は中背ながらすっと細く、だからといって必要なところには筋肉が付いていた。
ただ、その瞳の中に眠る信念は、今でも揺るぎなく、爛々と燃えさかっていた。
「おれは、ただ、そういうことが許せなかったんだ。」
「いや、そのような事は。」
「そんな事をすると何か色々なものを・・・失ってしまう気がしてな。」
寂しそうな声がこの小さな庭いっぱいに響き渡る。
「いいんです。我々は、そういうあなたについてきたんですから。」
「そんな事を言うのなら、この話受ければよかったのに。」
その声に声のほうを振り返ると、庭にあのヒゲモジャの男が立っていた。その瞬間、今まで押さえてきたことが押さえきれなくなった。
「叔、父、御!切られに来たか!そこに居直れ!」
そう言うと、信繁は裸足で庭に飛び出すとその勢いで刀を抜き、切りかかった。それを叔父は脇差を抜くとその刀を打ち払った。
「!」
息を呑みじっと叔父を見つめた。確かに切るつもりはなく、寸止めの予定だが、それでも打ち払われるだけの打ち込みをした覚えはなかった。叔父も戦場には出るが、それほど強い人ではない。それがこの打ち込みを抜刀して直後に打ち払えるとは思えなかった。
「時として名を捨て、実を取る事も必要ですぞ。」
「・・・。おぬし・・・。」
筧が立ち上がり、じっと叔父御殿をみつめた。信繁は、今までの少し寂しげな瞳から一転、洗浄にいるときと一緒の、とぎすまされた瞳になった。
「おぬし、叔父御殿ではないな。」
打ち払われた刀を構えなおし、それまでの激情から一点じっと冷静に叔父を見つめる。
「・・・。ほう・・・。」
その叔父のような格好をした男は、すり足でじりじりと間合いを詰めていく。
「何でそう思ったかな。」
「その物腰、そして、その構え。普通の侍ではやらん。」
確かに武士にしては、その構えが独特であった。ふつうの武士では、脇差しは根本を握り、打ち込みを強くする傾向があるが、この男は柄の中程を握り、少しばかり、間合いをのばしている。そして何より、脇差しを前に構えず、だらりと下げていた。信繁は相手に合わせるように構えを解かず、少しずつ間合いを詰める。
「何者・・・。」
身構えた信繁はじっとその様子を見つめている。
「そこまで警戒されるなら、こんな無粋な真似、しないほうが良かったな。」
そう言うと、脇差を納めて叔父らしい男は廊下に腰をかける。
「そういう貴様は何者だ!」
「敵意はない・・・。客のつもりだが?むしろ、茶の一杯でも出して欲しいところだ。」
そう言うと廊下に座った叔父の格好をした男は髭を引き剥がすとぽろっと取れた。
「もしや・・・いや・・・もしや、半蔵殿か?」
「半蔵?」
青海入道はいぶかしがるとその顔を見つめる。その間に叔父御に見えた男は、口から綿を取り出している。その顔はもはや、叔父とは似ても似つかない感じに変わった。顔は細く、中背中肉、外見に特徴らしい特徴ながないところが特徴みたいな風貌の男がそこにいた。
「有名な人だよ。せい、奥の台所にいる連中から、水を持ってくるように行ってくれ。家に確かお茶はないし、それぐらいしか出せないから・・・ただ器だけは来客のを頼む。」
「わかった。いいんだな。」
「ああ。」
そういうと筧は奥に引き下がっていった。
「お茶を出すまでも無いか。」
「茶を立てたくとも、茶ッ葉と、茶具は性に合わぬゆえ、持ってはおらぬ。それに・・・水で茶菓子を出しても、味気なかろう。」
「確かに・・・。それは失礼した。」
「何の用かな。伊賀の忍者が。」
落ち着いた声で信繁は目の前の男を見つめていた。昔、上田の城にいた頃に幾度か戦ったことがあるが、その中でも目の前にいる男は、格が違うようにも感じられた。伊賀の忍者はこの当時、暗殺から何から何まで請け負う暗殺集団としても知名度がある忍びの者達だった。数多くの異名があるため、いい話は出た事がない。
「ん?そこまでとは見識あふれるお方だ。私に敵意はない。あなたは敵意のない人間に刃を向けるのかな?」
真田より落ち着き払う半蔵に気圧された様に、信繁はしばらく睨みつけた後に刀を納め、廊下に座った。
「それで、何の用かな?」
「何の用かと言われて、察しは着くであろう。」
「徳川につけと。」
「まあそういうわけではないが、おぬしがどうして戦っているのかお館様が知りたいとおっしゃっていてなあ。」
「それで・・・。」
「先ほどの話を聞かせてもらった。」
「人が悪い。」
「やはりお館様が思った通りのお人だ。それでこそ、真田という男よ。」
「だから!・・・なんだと言うのだ!」
そう言って信繁はじっと相手の様子を見つめる。さっきの叔父御見たいな濁った瞳ではなく、その瞳はまっすぐこちらを見つめていた。
「私はお前のようなヤツにこそ我らの下に来て、真にこの日の本の国を平和にして欲しいと思っている。」
「それはどういう意味だ。」
「我らの中にも、さっきの男みたいな情けない自分の保身しか考えない人間は多い。」
男は大きくため息をつく
「私は、あんな物で釣られる男ではない。」
「だからこそ聞きたい。お主は何の為に戦っておるのだ?」
「それは・・・。」
「それは?」
「仕えたる君主の為だ。」
「それが・・・あの淀殿か?」
ふと、信繁は怒りで顔がゆがんでいる淀殿の顔を思い浮かべる。昔は聡明な美人とも思ったが、今ではその面影さえもない。
「まあそういわれても仕方が無いが、それでも君主の為だ。」
そう言って信繁は外を見つめる。その見た先には外堀を埋めている最中の大阪城を見つめていた。淀君には先の大阪の戦いで、いろいろ無茶を言ってきて、勝てる戦を逃した経験がある。
「おぬしの父上もそうだったか?」
「父上は分からないが俺はこの道を貫きたい。」
「そうか…。今日はおぬしに見て欲しいものがある。その為に・・・。」
「なんだ?」
「江戸まで来て欲しい。」
「は?」
当時は徒歩や船が殆どの為、大阪から江戸まで向かうと一ヶ月以上はかかる。この当時遠距離旅行は無茶な行為の代名詞ともいわれている。
「まさか、この私に江戸にこいと。」
そう言うと、信繁は刀に手をかけた。
「ああ。この話が来た時に、信繁殿がこのような答えをするのは分かっていた。だからもう一つ考えがあった。」
「ほう?」
「おぬしに、江戸に来て見て欲しいものがある。その為に私はここに来たのだ。」
そういいながら微笑む彼の表情には一点の曇りも無かった。
「もし来ないといったら。」
「絶対に来てもらおう。」
「それはどういう意味だ。」
そう言うと自分の脇差を取り出し、鞘ごと信繁の前に置いた。
「この事に・・・拙者は!自分の命を賭そう!」
「それほどまでに見て欲しいものは何だ!」
信繁の狼狽した怒号が響く。言いしれぬ自信を持つ半蔵を前にして自信が揺らぐ。
「それは・・・ここでは言えん。だが来てくれている間は命はこちらが保障する。」
微笑みながら出した声に、一瞬信繁はたじろいだ。この刀を目の前に鞘ごと置くのは、この当時ある種の覚悟を示すものだった。そしてあの微笑み、死を覚悟しているとさえ思われた。
「そこまでしてどうして俺を江戸に?」
信繁は不思議そうにその表情を見つめるが。
「お前が豊臣に忠誠を誓うように、私はお館様の夢の為に一命を賭しておる。そのお館様の命令だ。来ればわかる。お主に悪いようにはせん。約束しよう。」
そう言って男はじっと信繁を見つめた。そのまま、じっとお互いを黙ったまま見つめていた。その静寂は長く、空気がピンと張りつめた、そんな緊張感だった。その時、向こう側からどすどすと歩いて来る音が聞こえる。
”本当にこれだろうな!”
”ああそうだ。拙者が持ち出した最高の器だ。これでいい!”
”でも何で俺がやらなきゃいけないんだよ!”
”家でただ酒飲んでるんだ!そのぐらい行ってこい!”
向こうから、大声での会話が聞こえてくる。その声に触発されお互いは庭に顔を向けた。このまま、正面を向いていれば何かの拍子に斬り合いかねないほどの緊張感がそこにあった。
「ここに帰ってくる事は出来るか?」
「ああ。それは約束しよう。」
「その間にここを攻めるつもりか?」
「いいや。その間お館様が豊臣を攻めない事も約束しよう。」
「本当だろうな。」
「ああ・・・。万が一でもあれば、私が、豊臣方に立って、お館様を説得もしよう。」
緊迫した空気が二人の間に流れる。もし本当ならそこまで高く見られているということだが・・。
「・・・むげにおぬしの命を散らす事はない。」
そう言うと刀にかけた手を収めると、音のしたほうを見る。そこにはお盆に器をのせた
男がやってくる。
「そう言ってくれて・・・良かった。」
「ただし、幾つか条件がある。」
「ほう?」
「まずは旅費はお主持ちと言う事。そしてもう一つは、部下を連れて行っていいか?」
当時旅行にかかる金はかなりの高額で、特に侍ともなれば、ぼったくられたりして、食費一つでもかなりの金額になることも多い。
「慎重なおぬしの事だ。それぐらいは覚悟していた。只、少数にしてくれ、へんに目立てば、どちらも危ういからな。」
「わかった。」
筧がその場に来た頃にはお互いの緊張した空気は和らいでいた。
「真田様、一応持ってきましたぞ。器はどれがいいか分からなかったから適当なのを持ってきました。」
そういうと二人の間に湯飲みの小さな器が二つおかれた。その中には水が入っている。器が目の前に持ってくるまでには先ほどの剣呑さが微塵も感じられないほどの落ち着いた空気であった。
「真田殿、おぬしのところに家人はおらぬのか?」
「いやあな。ここは仮住まいと思っておる。だから部下と呼べるのは6人ぐらいしか、この家にはおらん。」
そう言うと、筧は、軽くお辞儀をする。当時の武家屋敷は戦闘をいつ行ってもよいように部下を数名ほど、家に住まわせていた。特にその部下に家人(妻や子供)がいれば、食事などの世話を武家屋敷を持つ人の家族を中心に行い、それを中心とした世帯が完成するのが普通であり、当時において小姓などを持つ大きな家以外では女性が器を持ってくるのがふつうとされた。
「今は、この真田家の部下である筧と申す。先ほどは失礼した。」
「いやいや。あの振る舞い、さすがです。」
「筧、今から出立するぞ。」
信繁は器に注がれた水を一気に飲み干すとその場に置いた。
「ハイ?何処へ?」
「江戸だ。」
「へ?」
「江戸だ。」
「江戸って・・・確か、徳川の居城ですよね。かなーり・・・遠い・・・ですよね。」
「ああ。」
「お待ちください。いきなり徳川の居城に行って何になります?」
「あの男がこいと。」
その瞬間、筧の動きが止まった。
「いやあ、待ってくださいよ。それだけで急に言われて行けるわけ無いですよ。」
「だそうだ。」
そう言うと、信繁が振り返ると男の顔は何も変わってはいない。
「いや、お忍びの旅だ。船に乗ってゆったりと駿河について、そこから観光がてらに江戸まで行くのはどうだ。せっかくお主も外に闊歩しておるのだ。私もおぬしもいつ死ぬか分からぬ身だ。旅を楽しむのも悪くは無かろう。」
「そういうものか?」
青海ですら半眼になる言葉に二人は呆れてしまうが・・・。信繁にとっては普通だった。
「真田様。そんな甘言に引っかかってどうするんです。」
「おぬしも行くんだぞ?」
「はい?」
「そうだ、筧、青海を探してきてくれ。一緒に行こうぜ。江戸へ。どうせこの館でうじうじするより、出来れば兄貴の顔がみたい。」
「え、いやまあ、そういうのは嫌いじゃないですけど・・・わざわざ、いつ戦があるか分からないこの時に行く事ないでしょ。」
筧は焦って引きとめようとしていた。確かに今までいくらでも無茶な事は言ってきたが、ここまで無茶な事は初めてだった。その様子をじっと二人は見つめていた。主のその目は
江戸に行く事でいっぱい・・・と筧には見えた。
「分かりましたよ。只、出立には幾つか準備があるので、明日まで待っていただきたい。青海にもそう伝えておきますし、後のものには留守を頼んでおきます。」
「分かり申した。」
そう言うと男は深々と筧にお辞儀をした
「でだ。」
「はい?」
「改めて聞こう。お主、名はなんと言う?」
そう言って、真田信繁は手を差し出した。
「・・・拙者、半蔵と申す。今後ともお見知りおきを。」
次の日の朝早く、朝もやに包まれ、ちょうど周辺は霧で見通しが悪い中、まだ朝日も昇らぬうちに真田家の仮住まいの屋敷の門の前には数人の男がいた。その中心に真田信繁と二人の男、そして複数の家人がいた。
「大助。しばらく出掛けるから、お母さんを頼んだぞ。」
「うん。」
そう言うと小さな、その子は母親のすそを握りながらも激しく頷いた。このころの真田信繁には妻がいて、子供がいた。だがほかの男達には妻とかはいない独り身の者ばかりだった。
「あなた。」
「すぐ帰って来る。それまでは頼んだ。」
「はい。」
そう言うとで見送りに来たただ一人の女性はしっかりと頷いた。
「後の者も、よろしく頼んだ。」
「根津、留守を頼む。」
「分かり申した。」
そう言うと家人の一人が深々と頭を下げる、顔立ちは真田信繁に似ていた。
「いいんでしょうか。江戸なんて。」
「いいんだよ。只、何かあったら根津、お前が俺の代わりとして、秀頼様にお仕えしてくれ。」
そう柔らかく微笑むと、根津甚八の手を柔らかく握った。根津甚八は信繁と同じような体型をしており、よく間違われるので、彼自身いろいろと重宝していた。
「・・・分かりました。だがここで死ぬような真田様はとても思えない。ただ道中は最近いろいろあるといいます。用心なされよ。」
「それは、わしらが付いておるわい。大丈夫じゃ。」
旅用の装束に身を包んだ坊主頭の大男が鷹揚に頷く。
「青海は酒とかで、真田様を困らせるなよ。」
坊主頭の青海は胸をドンと叩いて見せた。
「大丈夫じゃ、酒は飲んでも呑まれぬのが酒の極意じゃ。その程度ではどうともない。」
「酒代とかで旅賃をスるなという事だ。」
「ふ、あはははははははっ。大丈夫だ。」
「青海。大声を出すな。今回は隠密ぞ。目立つなよ。」
「わかった。」
そう言うと周囲を見渡した。
「あれ、あの男とやらはどこ行った?とか言ったやつ。」
「ずっとここにおったわ。」
声のするほうを全員が振り返ると、半蔵は家の門の内側から門に寄りかかっていた。
「旅費はこっち持ちといった以上気にする必要はない。だが、その調子だと酒だけは省いたほうがよさそうだな。」
半蔵は柔らかく微笑みながら言った。その言葉に全員が弾ける様に笑った。
「ではいこうか。」
「はっ。」
そういうと、信繁と筧、青海は根津たちに一礼すると大通りに向かって4人は歩いていった。
「どうやっていくのだ?忍び旅とはいえ、どの道行こうがきついだろうが。」
現在、豊臣方と徳川方の間が険悪である為、各要所には関所が築かれ、移動は大幅に制限されていた。徳川方の兵士には顔が覚えられている事があり、見つかればただではおかれない。
「それは手配してる。海路だ。」
そう言うと、半蔵は前を歩き、港に向かって歩いていった。
「船に乗るのは、初めてだな。」
「でも、確か、徳川の船はここに入っては来れまい。」
そういぶかしがって筧は聞いて来る。
「それは大丈夫だ。外堀普請の際の材料の一部を商人に頼んであるが。」
「それで?」
「その商人に帰る時期を少し遅らせてもらっている。だから我々はその船に用心棒として乗り、駿河まで行く。そっからは歩きだ。」
「江戸まで直行じゃあ良くないか?」
信繁は腕を組みながら考えていた。それを少し足を速めながら、半蔵は答える。
「それだとさすがに、関所におぬし達の姿を見ると、変に勘ぐる者が多い。だから、あえて途中で降りて、せっかくだから美味い物を食べながら旅をしようというのだ。」
「お主のような者からそんな言葉が聞けようとは思わなかった。」
青海が意外そうな顔をして前を歩く半蔵に並ぶように早足で歩く。
「お主に何らかの生きる楽しみや酒の美味さがあるように、拙者も生きる楽しみはある。酒も好き、風景も茶も子供も好きだ。まあ、博打はあんまり好きじゃないがな。」
そういう会話をしながら、
「そろそろか?」
そういう筧の鼻に潮の香りが匂ってきた。堺は港町としても有名で、大阪城周辺と隣接していた。
「俺は海は始めてでな。」
「そうか。山の生まれだからな。」
青海は納得したように頷くと周囲を見渡す。近くで帆を張った船は一艘しかなかった。大型の船だ。もう荷入れは終わっているらしく、人足達の姿はなかった。
「半蔵様。」
商人らしい男が駆け寄って来る。
「この方達が。」
「ああ、そうだ。」
「よろしく頼む。」
信繁は軽くお辞儀をする。
「でも、こいつら大丈夫なのか?」
青海は不振そうにひ弱そうに見える商人のほうを見る。
「並の水軍よりも海にいるこいつらは、よっぽどの事がない限りこの船は沈みもしないよ。」
そう半蔵は言うと手に持った荷物を甲板に向かって投げつける。
「それは失礼した。すまない。青海・・・。」
「・・・すまん。」
「いえ、いいですよ。ほかの武士の方々で、こういってくれるのは半蔵様だけですから。」
「そうですか。」
そう信繁は軽く頷いた。
「だが拙者・・・船旅は初めてですよ。」
「早くお乗り込みくだされ。もう少しで、霧は晴れ、下手すれば、どなたかに見咎められますぞ。」
商人は周囲を見渡し焦り始めた。空が白んできたからだ。
「分かり申した。」
そう言うと全員は駆け足で船に乗り込むと、そのまま出航をはじめた。そうこれが、これから起こる真田信繁の波乱万丈の人生の始まりとも言える運命の船出だったのだ。