第十節 4月31日 決戦前夜
大阪に着いた信繁は短い時間の中戦支度の為各所を回る。そのなかで事実を付き合わせ、一つの結論に至る。その事実とは・・・
第10節 4月31日 決戦前夜
「お帰りなさいませ。」
「すまない。時間がかかった。」
門の前で深々とお辞儀をする根津を前にして信繁は、申し訳なさそうに軽く頭を下げる。
「早速お伝えしたい事が・・・。」
根津は、焦りながら信繁の側に寄るが、その動きを手で制した。そして傍らにいる女性を唐突に、そしてぎゅっと堅くぎゅっと抱きしめる。
「ただいま・・・。」
「お帰りなさいあなた。」
そう静かに、声を上げ、妻はじっと抱かれていた。門からずっと見ていた彼女は目の前に来る時までは不安な顔をしていたが、その様子はすぐに晴れていった。その様子をじっと美井は見つめていた。
「すまないが、その間に何があったのか、聞きたいから、お前達は奥で待ってなさい。」
「はい。」
そう涼やかに奥さんは答えると、そのまま奥に行った。それに合わせ、皆を奥へ手招きをする。それに応じ全員が信繁の部屋に・・・。
「やっと来たか。」
ヒゲモジャの・・・無骨そうな身なりの男が一人、先客で座っていた。
「ご、後藤殿。」
そういうと信繁は急いで、座るとその後ろに青海達が付く。”後藤基次”先の戦で武功をたて、侍大将筆頭(実質上の現場監督者)である。また真田丸(城の一カ所に建てられた防衛拠点)の作成の時には一緒に手助けをしてくれていた信頼出来る盟友でもある。
「久しいのお。」
「は。」
そういって信繁は軽く一礼をする。それに合わせ皆も礼をする。
「早々堅苦しいのは嫌いだって。でな。」
そういうと先に妻が置いたのであろう、器に入った水をぐいっと飲み干す。
「此度の戦、お主ならどうするのか聞きたくての。」
「此度ですか・・・。」
信繁はじっと考えていた。確かに戦になるならと道中考えていた事もある。だが実際戦が避けられるならそれに超した事はない。
「出来れば、今までに何が起きたのか、ご説明願えないでしょうか。城内で聞くわけにはいかないので。」
「だな。」
後藤は鷹揚に頷くと、腰を浮かせ、そそっと信繁達に近寄る。
「先日・・・三日ほど前までに徳川軍は大阪に向けて行軍を開始したとの報告があった。交渉は上が行ったようだが、とりつく島もないというよりかは・・・戦を上が望んでいるようにも思えた。」
「は。」
「でそれに伴い城内で、大野智治による奇襲案が採択され、奇襲が行われ、奇襲郡山城を奪うが、精鋭軍を目の前にして包囲され敗北、智治一人が逃げ帰ってきた。淀君は怒り狂ったが、どうしようも出来る雰囲気ではない。」
「それが・・・。」
「昨日の事だ。」
その顔は苦虫がかみつぶした顔だが、それ以上の考えはないように見えた。
「でな、淀君とかが、名案を求めて会議しているが、結論が出ないらしい。そこでだ。」
「はい。」
「ここでお主がぱぱっと、名案なんかくれれば・・・。」
「・・・。」
筧達は押し黙ってしまう。ここまで旅行に出掛けているのだ。そうそう名案なぞ・・・。
「今まで、色々見回ってきて、結構見えてきたものがあり申す。」
「ほう?」
「ただ、今まで思案がまとまり申さぬ。そこで、明日まで待って欲しい。」
「明日か。」
髭をしゃくり、後藤はじっと信繁を見つめる。その髭の中でもつぶらな瞳は何とも言えない素直な・・・いや・・・何も考えていない目つきに見える。
「ま、明日の会議も大方問答して終わりだから。明日聞きに来る。」
「はい。」
そういうと後藤は立ち上がり、手に持っていた器を口元に添えるが・・・中身は空のようだ。
「そうだ。」
「ん?」
「後藤殿。」
「堺には兵を置きましたかな?」
「いや。あそこには徳川が陣取っていると思う。」
「あそこから食糧を運ばれると、いくら籠城出来ても負けですから、どちらを取るでも、兵を向けるべきでは。」
「分かった。明日伝えておこう。今日はゆっくり骨を休めて考えてくれよ。頼んだぞ。」
そういうと、大股で後藤は部屋を出て行った。
「いいんですか?」
筧は不安そうに信繁の顔を見る。
「ま、そのためには、お前達に協力してもらうぞ。」
「は!」
全員が膝を突き、声を上げる。この飾らない人の扱いこそ、この信繁の際の真骨頂とも言える物なのだ。
「まずは・・・根津。」
「は。」
「今までの留守を守ってもらった事。感謝する。」
「・・・勿体なき御言葉。」
「ありがとな。それで、とりあえず何が起きたのか人と落ち話して欲しい。とりあえず、皆で聞いてもらう。」
「は。」
そうかしずく根津は、腰を下ろすと、周りを見渡して話を始めた。
信繁様がでてすぐの事、徳川方の工事舞台に異変がありました。・・・それが、どうも外堀のみならず、内堀の埋め立て工事も始めてしまいました。只・・・これには淀君も顔を真っ赤にして怒っておられましたが・・・。それが、実際に内堀を掘り返そうとした直後何故か、南蛮の衆と淀君が急に方針を転換、戦をすべからずと言う事で、そのまま徳川軍を返してしまいました。
「結局は?」
内堀はなくなり、平野が広がるばかりとなりました。只、淀君には何かお考えがあるはずなのですが・・・拙者や後藤殿の耳には入らず、訳が分からぬ始末。そして、しばらくして、兵士の脱走騒ぎと聞きました。夜に兵士が脱走したそうなのですが・・・。その後に今日に行くと、死人が歩いていたと・・・聞きまして。しかも徳川殿がそれを退治していたらしいのですが・・・。こちらにもその時、脱走した兵士を虐殺している徳川達を止めてこいと言われ、拙者達は出陣したのですが・・・その時・・・その時・・・。
「どうしたんだ?」
拙者達が行った頃には最早、事は終わっておりと言うか・・・そこには生きている人を拙者はしばらくの間見る事が出来ませんでした。
「そうか・・・。」
隠れていた傷ついた兵士達はどうにか回収したのですが・・・それが・・・。
「それが?」
どうも青く顔が青ざめた徳川ではない兵士に襲われたとか。すぐに拙者達は引き返しました。最後には何故か、顔が青ざめた兵士達が南蛮衆に率いられて帰還してきてして・・・。その現場の悲惨さが伺えます。それから私たち傭兵衆は城近くでの待機を命じられました。またその頃からちらほら・・・戦の噂が聞こえていまして・・・噂通りなら・・・もう旅に出る前後には密かに、南蛮衆に武器を頼み、それはもう城内に届いているとか・・・拙者が見る限り、今まで雑賀集や国友銃であってもあそこまでの鉄砲は見た事がございませんでした。今回それが各部隊に配備されるそうで。
「それは・・・今まで聞いた中では一番いい報告だな。」
只訳の分からぬ人形やら不思議なものもたくさん来まして、もう現場は混乱しております。
「そうか・・・苦労掛けたな。」
いえ、それで話は終わりませぬ。
「うむ。」
それから今まで・・・拙者と後藤殿が聞く限り、ほぼ評定にも顔を出さずなにやら儀式ばかりをしているそうで。聞いた限りでは戦勝祈願だそうですが、不気味な声が、ずっと城内で響いているので、それはもう見張りの衆が怖がって。
「そうか。」
で、それとともに南蛮衆はなにやらしているとか・・・。
「そういえば秀頼様は?(今朝・・・そういえば城近くまで送って入ったものの、どうなる事か・・・。)」
それが・・・拙者も含め、誰が秀頼様か分からぬ始末で・・・。
「は?」
と言うもの、一応拙者たちで戦があるかもと言う事で幾度か、訓練に秀頼様をと嘆願いたしました。そしたら・・・。
「そしたら?」
訓練は数日行われたのですが・・・そのたびに違う秀頼様がでて・・・。
「はい?」
ある日は金髪の長身の隆々とした上半身裸の秀頼様がでて、次の日には2尺はあろうという大きさの顔だけが細い、とてもまるまるとした秀頼様がでて・・・。流石に兵士達にこれを見せると兵が動揺するといって、淀君ごとお止めしましたが、流石にあれを見せられた我々の士気は下がる一方で、それからはもう訓練に呼ぶ事もございませんでした。上はやる気がないとしか・・・。
「・・・本当に・・・本当に苦労掛けたな。」
は。只、それで、戦準備が始まり・・・。それを察知した徳川軍が上洛。今に至ります。
「分かった。」
深く頷くと、信繁は今まで聞いた根津の情報を思い返す。予想よりも・・・いや・・・しばらく徳川に行っていただけに分かる。出来るだけ蒸し返さないようにしていたものが、こちら側の失態で蒸し返されている局面もある。・・・それでか・・・半蔵が来た意味を今理解する・・・。最悪でも内堀埋めの時間稼ぎだけでもか・・・消極的でもあるが・・・それだけ万全を期す必要があったのだ。いかに向こうが手を抜かずに来ているかが分かる。
こちらは自滅するほどにドタバタなのに、向こうは水の一滴も漏らさぬ構え・・・考えれば考えるほど、絶望的だ。だが、それに輪を掛けて分からないのが味方とは・・・淀君は何を考える・・・。まずはそこから見定めねば、策略は全て無駄撃ちになる。
「根津!」
信繁は立ち上がると、根津を見る。
「俺と一緒に埋められた内堀を見にいくぞ!」
「俺たちは?」
青海が不思議そうに見つめる。
「お前達は・・・大方戦は街道の兵数から察するに家康本隊はまだ・・・もう数日かかると見た。だからそれまでに戦仕度・・・いや、死に仕度を頼む。」
その言葉に場にいる全員が凍り付く・・・美井を除いて。
「大方徳川・・・いやこの日の本全てが大阪をつぶしに来る戦ぞ。」
その言葉に全員が唾を飲み込む・・・美井を除いて。
「それほどの戦ですか。」
「まあ予想はしていたが。」
信繁は部屋から見える黒塗りの大阪城を見つめる。それに合わせ全員が大阪城を見つめる。まだ昼過ぎで、黒塗りが更に黒く見える・・・・美井だけはどこに大阪城があるのか分からなかった。
「先の戦で、徳川の手勢・・・いや徳川だけで滅ぼせぬと分かれば、どんな手でも使うのが関ヶ原と一緒の・・・いや、下手すれば此度は前よりひどく、酷いものになろう。」
「関ヶ原よりですか・・・。」
筧の言葉は全員の意見を代弁していた。
「だから・・・生きても死んでも・・・悔いがないように各自仕度をしてくれ。」
「分かりました。」
そういうと、筧と、青海は改まり、一礼すると、信繁の部屋から颯爽と出て行った・・・美井を除いて。
「よく分からないけど・・・すごい・・・事が起こるの?」
残された美井一人がじっと信繁を見つめた。
「まあな。この国・・・最後の戦だ。」
「・・・。よく分からないけど、すごいが・・・分かった。」
「この子は・・・。」
根津は不思議そうに小さな少女を見つめる。この時代連れ子は珍しくないが・・・。
「とある仕官の子息でな。頼まれて・・・いや拙者の為にと連れてきたのだ・・・そうだな・・・。」
ふと、いろいろな事が信繁の頭をよぎる。
「そうだな、折角だ、焼ける前の大阪、見に行くぞ。」
「はい。」
美井は素直に頷く。その言葉の響きにある虚しさを感じぬままに。
「あれか。」
ふと、小高い丘から周囲を見渡すと大阪城が見える。昔は外堀があり、美しい曲線の堀が一回り小さくなっている・・・?あれ・・・。
「あれが大阪城か。」
「はい。」
根津が頷く。
「で、あれは?」
信繁が指を指したところは何故か内堀さえも埋まっていた。
「あれですか。拙者も気が付きませんでしたが、あの位置・・・ちょうど武器の搬入を行った時に船があった位置でしたね。」
その言葉を聞き信繁は更に全体を見渡す。山を二つ挟んだ南側はちょうど平野が広がったみたいな、間隔さえある。ここで農業すればさぞ楽にみんなが生活出来るだろう・・・。只あの城がちょうど目立つ・・・いや町になるな・・・。頭を都市計画がよぎる。だがここ、ちょうど城の堀と相まって盆地みたいな・・・。そういえば先の戦いで、防衛側が粘った俺がいないところはちょうど谷間だった・・・。風は・・・ちょうど南側に吹いている・・・死人が出た・・・。
「根津。」
「は。」
「先の戦いでの、南口の話は聞いた事があるか?」
「いえ。」
じっと考えながら地形を見つめる。この地形を把握する事。これそのものが、軍師全てにいえる必須事項・・・”地の利”である。例え生まれ育った地元であってもこれを欠かせば破れる事さえある。そう父から教わった。実際上田の戦いでも戦闘前に領地を必ず見回り、策を建てた。ここは埋め立ててすぐらしく、人の姿さえない。確かに内堀から、大砲を撃てばここに殺到する徳川軍は手痛い打撃を受けるだろう。だが先の戦いでも天守閣に届くほどの銃は知っているはずだ・・・この程度を分からぬほど淀君は馬鹿ではない。ここに敵軍を足止めしても、東側からこれば終わりだ。だが、堀が機能し、一度南側に迂回しなくてはならないが、その時は・・・。だが、城にある大砲をどう足しても15万を討てるほどはない・・・。と言う事はこの上に更に何かを足すという事だ。何を足す?それが今の段階でも後藤殿の頭に入ってはいない。と言う事はかなり人外じみて・・・死人・・・。今まで何回か死人と戦った事はあれど、あの黒ずくめの連中とやらが使う方法に知識はない・・・それが先だ。そういえば、前、何故か涙ながらに去っていった兵士がいたはずだ。その時は聞けない何かが・・・。いや・・・きいて・・・。
「根津。」
「は。下八の居場所は知っているか?」
下八というのは、その当時、大阪城に勤めていた兵士であったが、何かと信繁とつきあいがあった為、覚えていたはず。確か、冬の陣であの南の防衛を担当していたはずだが・・・。
「それは・・・堺とかに今は居を構えているそうですが・・・。」
「いくぞ!」
そういうと馬を町に走らせていった。ここから堺の町までは二刻(4時間)ほどである。
「でもまあ、ここも忙しいな。」
信繁は堺の町を馬に乗り、少しゆっくり目に歩く。
「ですな。」
町は人々がひっきりなしに歩き、手には武器とかを抱えている。この町は対抗がいるよりかなり前から、自治組織がはっきりしており、大阪が淀君の手にあっても、協力であって服従はしないという態度を取ってきたいわば”自由都市、堺”であった。只、自由都市であると言う事は自分の身は自分で守らねばならない。そう、此度の戦でここが戦場となるなら、堺は徳川相手でも牙をむきうる都市なのだ。だが・・・逆を返せば、徳川でも金を払えばお客様と言う事でもある。それが商売なのだ。だから、こうして入ってきても誰もとがめなかった。しばらく馬を走らせると、一見の着物屋の前に来る。ここはそれほど大きくないものの、建物はそれなりのものだ。
「ここは?」
「ここは拙者が聞いた中では一番下はちと親しい・・・確か親戚との事ですが・・・。その家となります。」
「おおきいな。」
美井も珍しそうに着物を見つめる。いかに江戸が大きくとも、堺で扱う繊維量は桁が一つ違うだけあってその着物はどれをとっても鮮やかだ。
「いらっしゃいませ。」
奥から声が聞こえる。大方この規模の店なら番頭と言ったところであろうか。駆け寄って・・・・。
「よ。」
「これは・・・信繁様。」
そういって大きく一礼をした番頭らしい男を見ると信繁達は馬を下りた。
「久しいな下八。」
「どうかなさいましたか?この忙しい時でしょうが・・・。」
「聞きたい事がある。中に入れて貰えまいか。」
そういうと信繁はじっと下八を見つめる。
「分かりました、よくは存じませんがどうぞ奥へ。」
そういうと奥へ通されていった。
「何の用でしょうか。」
少しこじんまりした部屋である。大方一番小さな矢であろう、奥には幾つかの部屋がある。
「お主はここで何を?」
不思議そうに根津は聞いてくる。
「ここで・・・番頭をさせてもらっています。城を辞めて暇していた所を、ここの主に拾われまして・・・。」
「そうか・・・それは良かった。」
信繁はほっとした顔で見つめる。その顔は年老いて、しわしわであるが、その暖かみがある顔はどこか人をほっとさせる。脇から、茶を取り出すと人数分目の前に置いた。茶道で使うものではなく、もっと薄いものだ。
「用件とは?」
「・・・どうして城をやめた?俺に一言言ってくれればどこか紹介したのに?」
「・・・それは・・・あの時は・・・色々嫌になり申して。」
「どこが・・・。」
先ほどまで柔らかく笑顔だった下八の顔がみるみる、誰が見ても分かるぐらい曇る。
「・・・あなたはきっとあいつらとは違います・・・。だから・・・あなた様こそ、あの城から逃げ出してくだされ。今ならきっと逃げ仰せるでしょう。」
その必死そうな顔を見て根津が不安そうな顔になった。それを信繁が軽く手で制した。
「もしかしたらだが・・・あの戦の時・・・何かあったな?」
そう問いただす信繁の声に反応はなかった。
「死人・・だな。」
その言葉に今度は根津が驚いた。むろん下八も顔をハッと上げる。
「そこまでご存じなら分かるでしょう。あれは・・・いや、城の連中は・・・人じゃありません。」
その顔は嫌悪に満ちていた。
「詳しく・・・聞かせてくれないか。あの日、南側で何が起きて、徳川軍を追い払ったのか?」
「・・・。」
じっと下八は信繁の顔を見つめる。その顔は泣きそうな・・・いや、地獄を見たような顔だった。
「覚悟は・・・。」
「覚悟なぞ出来ている。」
「分かり申した。もしかしたらこれが天命かもしれませぬ。お話し申そう。」
そういう覚悟の声に、根津はただ、見ているしかなかった。
「ちょうど真田丸から歓声が上がり、勝利の声が響く頃・・・私のいた南側は鉄砲とかで門を死守しておりました。負傷兵も多く、それでもぎりぎりの所で踏みとどまっていました。
その時です。私もも要して参りまして、一度持ち場を離れ、用を足しに行きました。その時、急に・・・門の開く音がしたのです。確かにここを越えても城までもう少しありますが、これは一大事だと、鉄砲窓に向かいました。・・・そこには南蛮衆がいて・・・何か手に黄色い粉を撒いておりました。」
「南蛮衆!」
「だと思います。妙に大きな黒ずくめがいましたからな。それで門の方を見ると南蛮衆が門を開け始めましたそして手に持った粉を徳川にも撒き始めました。」
その顔は悲惨そのものだった。
「敵が来ると思い、一目散に逃げました。そしてしばらく奥まで逃げるのですが・・・何の音もしないで・・・少し立ち戻り先ほどの持ち場を見ました・・・。」
そこで下八は目と口を押さえる。
「どうした?」
信繁は立ち上がり、下八に駆け寄る。
「思い出しただけでも吐き気がします。」
「無理なら言わなくてもいいぞ。」
根津も心配そうに見つめる。
「いや・・・お気遣い感謝します・・・。そこで見たのは・・・。人を食らう人の形をした鬼の姿でした。」
「・・・。」
「その時見たのは生きているものを見ると敵味方構わず、襲っているようでした。只・・・何故か南蛮衆だけが襲われず、高いところからじっと見つめていました。信じられないと思いますが・・・本当です。只、その鬼どもは徳川、豊臣どちらの格好をしたものもおりました。・・・しばらく見ていると、噛まれたものはどんどんその鬼になっていきました。」
その言葉に全員が息をのんだ。
「あれは・・・今でも思い出したくありません。すぐ逃げました。すぐ上の所までいきました。物陰に隠れ、鉄砲口からじっと見て・・・いや・・・逃げれませんでした。死人どもの肉を食らう音がそこら中でして・・・それで、怖くなって、物陰に隠れていました。しばらくして・・・。音が無くなり・・・それでも怖くて・・・しばらく待って顔だけ出すとそこには食い散らかされた死体の山と・・・列になって歩いていったあの死人どもの後ろ姿でした。あれ以来、怖くて・・・誰にも話せませんでした。あんな事があるのでしょうか?」
「いや・・・まあ・・・感謝する。」
信繁は深くお辞儀をする・・・半蔵の言っていた事は本当だったのだ。それはそうだ。死人相手ではいたずらに軍を向ければ只相手の数を増やすだけだ。事実上落とせる城を死人の前に敗北したのだ。それはあんな執念を燃やす。今まで死人を用いた戦術など・・・ありもしなかった。
「それからというものの、城を守る事に疑問を持つようになり・・・辞めました。」
「そうか・・・。」
根津も頷いているが、その顔は動揺していた。
「戦は・・・ここまで来ますかねえ。」
下八は疲れきったような声で話す。
「徳川殿はここを戦場にはしないし、豊臣もそうはしないだろう・・・只夜盗は来るやもしれん。注意はしてくれ。」
「分かり申した。」
そう頷くと下八は立ち上がる。
「そうだ。」
信繁は立ち上がると懐を探り財布を見つめる。
「・・・後二つ用件が出来た。頼まれてくれるか?」
「は、はい。」
「一つは・・・明日ぐらいに拙者の家族をこちらによこす。しばらく・・・戦が終わるまでかくまってはくれまいか?」
「・・・先ほどの事・・・城へは?」
「言わん。言えば城のものに俺が殺されてしまいそうだ。」
「確かに・・・。」
下八は頷くと軽く・・・気弱そうに微笑む。
「分かりました。戦が終わるまでならお受けいたそう。只、戦が終わったら・・・。」
「わかっている。」
そういうと信繁もまた悲しそうな顔で微笑み返す。」
「そういえば・・・・。後一つの用とは?」
「そうだ。ここに幾ばくか金がある・・・これで、この子に少しきれいな着物と見繕ってはくれまいか?」
そういって、熱いお茶を息で冷ましながらちびりちびりと飲んでいる美井を指さした。
「分かりました。」
そう頷く下八から笑みがこぼれた。
「信繁・・・ありがとう・・・。」
そう自分の新しい着物を見て美井は嬉しそうだった。あの店によった後はゆっくりと港まで馬を歩かせていた、堺の町を美井達に見せていた。もしかしたらこれで見納めかもしれない・・・しばらくすると、南蛮街が見える。この先に南蛮船を泊める専用の港があった。普通の船と区別がしてあり、一種独特の空気が漂っていた。と言うのも南蛮の船は外洋向けの大きな船で、普通の船と一緒にすると事故が起こるからだ。
「でもまあ、なかなか良いものを・・・・。」
根津はじっと根元に置いた美井の姿を見ていた。少し明るめの赤の着物で、その模様に酉をあしらっている。なかなか鮮やかで前の着物よりはきれいだった。
「見てみろ、ほら、懐かしいだろ・・・。」
「そういえば信繁様・・・。どうしてここに・・・。」
不思議そうに南蛮町をあるく信繁をいぶかしそうに見ていた。
「ん?状況を聞いた時にな、大きめの貿易船が来ているとかで、その大きめの船って奴を見てみたくてな。」
「ああ。あの黒い。」
根津は納得したように馬を先に走らせる。
「こちらです。」
そう言うと根津は港の開けたところに連れて行く。そこには幾つかの船があり・・・普段よりは少なめである。むろんこれは戦が近いので逃げ出したのであろう・・・当然だな。
「あ・・・あれ・・あれ・・・・・・あ・・・!あれ!」
港から船を見始めた時美井が急に震えている。根津もその様子に押さえるように美井を抱きしめる。その様子を見た信繁は馬を美井に寄せる。
「どうした?美井。」
「あ・・・」
美井は身体が震えながらも港に泊まるある船に指を指す。確か苦い用船にしては一回り大きい船、そしてその黒塗り加減が何か・・・大阪城に似ている気がする・・・。
「log・・・lodrigs fantazmu」
「どうした?」
「なにが・・・」
「逃げよう・・・パーパが・・・殺される!」
美井の錯乱ぶりが激しくなっていく、あの船に何かがあるのだろうか。信繁は根津の馬を叩くと、自身も引き返し走り去る。しばらくも走ると、郊外まで抜ける。その頃には落ち着いていたが、ちょうどそこからも船を見る事は出来る。近くの小高いところに陣取り、馬をつなぎ止める。
「大丈夫か?」
根津を馬から抱きかかえて美井をおろすと、美井をその場に寝かせる。
「ご、ごめん・・・・あの火から・・・あの火から・・・。」
「大丈夫か?」
「う・・・うん・・・。」
「この子はどういう・・・。」
根津は心配そうにそう言うと、船の砲を見つめる。貿易船は三隻ほどあるが大きく、ここからでやっと全容が見える。その大きさは確かに異常だ。
「この子か・・・三浦按針殿の娘と聞いている・・・エゲレスの子だ。」
「はあ。」
「で何で?船見て痙攣するんです?」
そう言いながら物珍しそうに美井を見つめるが・・・。よく様子は分からない。
「あの船・・・イスパニア・・・。イスパニアの軍艦・・・世界最強・・・。パーパはあの船に追われ、船が壊れ・・・あそこにいた。」
美井は頭と顔を手で覆い、震えていたが、そこから震えるように・・・絞るように声を出していた。
「あれは・・・イスパニア・・・ヨーロッパ・・・ここで言う伴天連最強の艦隊・・・パーパは・・・あれに追われ・・・イギリスから逃げた。」
「大丈夫だ。俺たちが守る・・・。」
「本当?」
「ああ。」
信繁は大きく頷く、その声に美井は手を開く。
「本当に?」
「ああ。」
そう言うとしばらくして手を顔からどけて、じっと船を見つめる。
「あの船がどうして・・・ここにいるのか分からないけど・・・あれはパーパを追ってきた船。そして・・・イスパニア最強の船。」
そう言って美井は特にひときわ大きい船を指さす。
「あれは貿易船だと・・・。」
「それは違う。あの横の線・・・。」
「あれか・・・。」
そう言って美井を抱きかかえ、少し横が見えるところを指さす。
「あれ・・・全部大砲。」
「は?」
根津は驚いて指を指し数え始める。船に横線は三本引かれ、よく見るとそれは船一杯に引かれている。
「しかも、大方、カローネだと思う。」
「カローネ?」
「うん。最新の大砲で、山を一つ越すぐらいは飛ぶ。」
「・・・。」
その言葉に信繁は押し黙ってしまう。そんな船が世界にあるんだ。
「それでパーパの船は遠くからぼろぼろに・・・。」
「そうか・・・それは確かなのか。」
「うん。」
気むずかしい顔で船を見つめる。そんな軍艦が増援なら確かに勝てる・・・だが町に被害を出す事は出来ない。大切な港だからな・・・。そして何より大砲で城も壊されるわけにはいかない・・・。
「行きますか。これなら万全でしょう・・・。この子には悪いのですが、そんな強力な艦隊が味方なら・・・信繁様?」
信繁はじっと船を見つめる。只ひたすらに安心していいというわけではない。何か・・・策を練っているに違いない。これだけで大砲持ちの15万を相手に勝てるとは到底思わないはずだ。少し整頓してみるか・・・大方あの南蛮衆・・・確か宣教師だ。南蛮だからとはいえ世界最強の軍艦とかというものを呼ぶほどに凄まじい・・・それが三隻・・・。
だとして・・・何かが結べそうな・・・。頭の中がぐるぐると回る。
「イスパニア・・・嫌い。自分の事しか考えない・・・。」
美井は小さくつぶやいた。さっきの根津の言葉に反応したのだろう。
「大砲とか地上向けに討つ・・・少ない。人、いっぱい死ぬ。」
「それが戦だ・・・。」
「でも・・・あんなのは・・・戦じゃないよ・・・只・・・人が死ぬだけ。」
「だとしても、行こう。さっきの話が本当なら、ここには長居すべきじゃない。」
「は。」
そう馬に戻る信繁の胸に悪い予感がずっと去来していた。
誰でも戦いで死にたくはない。それは当然だ。だが味方の被害を考えず大砲を撃つ戦いは今までした事はなかった・・・。だが・・・あの淀君はそれをしかねない。だがどうする・・・死人が制御出来ても相手に対策がある。半蔵は最低限度、対策を持ち込む。確かに数があればどうか分からないが・・・。確かに大砲があれば相手を制圧出来るが・・・。だからといって押さえれるほどじゃない。何しろ味方がいる所で使う事は出来ない。それが大砲の鉄則・・・・。なぜなら大量の死傷者がでる・・・そう言えば・・・あの本の外堀は広いが、地形上半分盆地みたいな作りだ。埋め立てた時のこともあり、かなり立地的に低いはずだ。じっと夕食後、頭を働かせ、信繁は部屋に籠もるが、結論が出ない。そんな平気がいくつあろうと15万という大群では・・・3倍ぐらいある戦力差では覆すだけの切り札ではない。それを集中的に・・・集中・・・そうか・・・。だとして粉は・・・ァ・・・そうだ。死体でも動かす事が出来るなら・・・相手が死んでいてもいいなら・・・相手が死んでもいい状態なら・・・大砲は相手も巻き込む・・・。
「何となく分かった・・・だがこれは・・・人が行う戦術ではない!」
信繁は怒鳴り声を上げてしまう。だが夜も遅く・・・朝には後藤殿が来て、戦略を聞くだろう。でも会議をしていると言う事は・・・この事は限られたものしか知らされてはいないのだろう。懐から一つの袋を取り出し、信繁は近くの棚から、地図を取り出す。そこに袋の中にあった駒をゆっくりと置いていく。駒の配置は戦の後半、外堀後に攻め込まれた時の形だ。
「確かにここなら15万でも誘い込めるし・・・それにここなら大砲がどんなに精度が悪くとも、誰かには当たる。被害は甚大だろう。だがこれを行い、相手をここに押しとどめるには・・・。5万の部隊を持ち込む必要がある・・・。」
駒を横に並べてみるが、どう見ても数が足りない。しかも薄ければそこを機転に強行突破されてしまう。むろん入り始めたところから大砲を撃つだろうが、それでも・・・ちょうどこんな所に山が・・・そうか。そう何か頭にひらめくと、淀君の作戦というものを考えてみて・・・夜は更けていくのであった。対策とかを考えなければ自分が巻き込まれ・・・死人にされしまうのを阻止しなくては・・・。
「おはようございます。」
妻の声を聞くと欠伸をしながら信繁は広間に向かう。今は戦仕度で全員を向かわせた為、家人はおらず家族・・・いや、美井がいるか。
「今日はこちらを。」
そう言って出された膳には赤味噌のみそ汁とご飯・・・そして漬けた漬け物と焼かれた魚があった。
「これは・・・。」
「もうすぐ戦なのでしょう。これで精をつけてください。」
「ああ!ありがたい!」
うっすらと信繁の頬に涙が伝う。家計は戦に向けて苦しく、最早食費はほとんど無かった。だからこの焼き魚を見た時、つい涙が出てしまった。いや、これからの事に・・・。
「すいません!」
飯に箸を付けようとしたところ、外から声が聞こえると、庭に荷車が入ってくる。
「お!」
外を見るとそこに下八の姿がある。
「信繁様!」
「どうした?」
そう言うと中に入ってきた荷車を見る。むしろが掛けてあり、中を見ると幾つかの樽が入っている。その荷車が12ぐらいはある。
「機能、信繁様が帰った後に大旦那から、ここにこれを運ぶように言われて・・・来ました。」
「これは?」
不思議そうに信繁は樽を開けると・・・・
「確か・・・真田信之様でしたっけ?あの方からここに運ぶように言われたものです。」
「そうか・・・そうか・・・そうかそうか!」
何回も頷くと信繁は頬をゆるませていた。
「こんなのをこんなに送りつけて・・・何をするつもりです?」
そういって不思議そうに樽を見つめる下八の手を信繁は握りしめた。
「これがあれば俺は百人・・・いや・・・千人力だ。助かる。」
「いや・・・まあ・・・」
「どうなさいました?」
妻や子供達は不思議そうにその様子を見つめた。
「そうだ・・・。お前達。」
「はい。」
信繁は落ち着いて妻達を見つめる。その顔は真剣その物だ。
「お前らは逃げてくれ。大方ここも戦場となり、きっとお前達は死んでしまうだろう。」
「それでも・・・。」
「いや、もし俺が生き残ってもお前達が死んでは帰るところがない。そこでだ。」
「はい。」
「この人についてしばらく堺で身を隠して欲しい。」
その言葉にじっと旦那の顔を見る妻であったが、何か覚悟を決めたようにきっと唇を噛み・・・しゃもじを握りしめていた。
「・・・分かりました・・・。只・・・せめて仕度はさせてください。」
「ああ。」
そう言うと妻と子供は奥に入っていった。その顔は覚悟はしていたものの、寂しそうでもあった。
「大変ですな。」
「まあな。結婚してすぐだけど・・・それでも・・・愛した女だ・・・せめて生きていて欲しい。」
「そう言えば・・・仕度なら荷物は・・・。」
「そうだな。」
そう言うと荷車のムシロを取り除くと、樽を下ろし始める。
「荷物はこいつに載せていってくれ。樽は俺が責任持って運ぶ。」
「分かりました。お前ら!樽を卸してそこに並べろ。」
”はい!”
そう言うと荷車を押していた人足達が荷物を下ろし始める。
「・・・せめて・・・荷車一つは置いていって欲しいな・・・運びやすいから・・・。」
そう小さく言っている信繁のつぶやきは男達の掛け声に消されていった。
「で・・・これですな・・・。」
呆れたように筧は、庭に置かれた一つの荷車と、無数の樽がそこにあった。かなり重い為運ぶには手間だ。
「これは?」
「これか?これは塗料だ。」
「は?」
「兄貴からの贈り物だ。」
そう言って信繁はニタニタした顔で樽を見つめる。
「いつ?」
「あの時商人の所に行ったろ。あの時に手配してもらった。」
「ああ。あの時。」
そう言って樽の中身を覗くとそこには赤い塗料があった。
「・・・。」
筧はつい押し黙ってしまう。赤い塗料・・・。
「これは・・・もしや・・・。」
「そうだ。ある意味・・・武田最後の戦いだ。」
「赤備え・・・。」
昔戦国に置いて”赤備え”とは伝説みたいなものだった。無敗を誇る最強武田軍の唯一の特徴。それがこの装備を赤く塗る”赤備え”である。赤く塗った”赤備え”を装備した部隊は武田軍に置いて勇猛であるものという優秀な人間達の証であり・・・誇りであった。
「そうだ。これには親父からある伝説があって俺の胴も赤く塗ってある。」
そう言って、今は戦に向け日干し中の甲冑は真っ赤であった。
「筧は昔、甲斐にいたっけ。」
「はい。だからこれは感慨深くございます。」
そう言うと懐かしく、赤く塗られた甲冑を見つめていた。
「昔・・・武田軍は奇襲を主とした部隊だった。だから全ての甲冑と衣装は夜の闇に紛れるように黒く染めていた。」
信繁は旅でも使っていた水筒を取り出すと中の水を少し口に付ける。
「ある日、拠点を取った武田軍は、近くの豪族の部隊に囲まれてしまう。兵力にして500対3000。城の中には数多くの民もいた。」
「それはまあ・・・かなりの差で。」
「その時に信玄公は自分の血を甲冑に掛け、赤く塗った。そして”俺に付いてこい”と言って戦場に一人飛び出していった。むろんお付きの者も全て後を追い戦った。その血まみれの信玄公を見た兵士達はその色におののき、その戦に勝利を収める事が出来た。」
「すさまじい話ですな。」
そう言って筧も縁側に腰を掛け、じっと塗料を見つめる。
「それ以来伝統で、”赤備え”にはある儀式を必要とした。そして・・・。」
そう言うと部屋に入っていった信繁は古くなったぼろぼろの切れ端を取り出した。
「それを俺が行う番だ。」
そう言うと草履を履き、塗料のふたを開ける。そして刀を抜き放つ。
「なにを・・・!」
筧が止めようとする瞬間、信繁は自分の腕を切りつける。腕からは鮮血が飛び散り、塗料に入っていった。
「”赤備え”と”黒の部隊”これが武田軍常勝の秘訣よ・・・。」
「だ・・・大丈夫ですか。」
そう言ってしゃべっている間にも信繁は歩き、赤の塗料に自分の血を注ぐ。
「まあな。どのぐらいの量か分からぬがこれで十分だろう。」
そう言うと全ての樽に自分の血を注ぎ、そして縁側に置かれた水筒の水を傷口に掛け、傷口を布できつく縛ると、しばらくして血は止まった。
「・・・。これにどんな意味が・・・。」
「ま、願掛けだよ・・・後は目立つ事によって囮の意味合いを強くして、他の部隊の援護を行う。何より・・・これで血がつながった・・・父はそう言っていた。だから家族みたいなものだと・・・。」
息も絶え絶えに信繁は縁側に座るとやり遂げた顔をしていた。
「それは・・・拙者とかにも・・・。」
「ああ。そうだみんなの分だ。」
そう言ってにっこりとしていた。
「うあ・・・なんだこれ。」
その声に二人が振り向くと、後藤の姿があった。
「これは何か妙に臭いぞ。」
「塗料ですよ。」
信繁が軽く答える。
「でだ。何か名案あるか?」
「はい。とりあえず策は固まってございますが・・・。」
「ますが?」
後藤は不思議そうな顔で信繁を見る。
「これは各侍大将の皆に知って欲しい事がございます。ですから、会議の後でいいので、こちらに寄っていただけませぬか?御前会議では出来れば、少数でもいいので打って出る方針で。」
「分かった。会議が終わった今日昼過ぎにはこちらに来る。」
そう言うと後藤はさっと去っていってしまった。戦はすぐそこ。当然だろう。
「で、傷は・・・。」
「後はこれを昼前には食す。」
そう言って奥の棚から肉をひとかたまり取り出して、切り始める。
「これは?」
「桜肉だ。駄馬を処分する時のものを譲り受けてきた。」
「これは・・・。」
仏教とかの信心が多いこの頃で肉というのは珍しい食材でもある。
「東洋の考え方らしいのだが、”医食同源”という。何でも同じ所のものを食べれば同じ場所が直るという。そこで肉を食べ、血を増やすという算段だ。」
「そうですか。」
そう言ってこの血なまぐさい固まりを見つめていた。
兵士達を呼び集合所に塗料を運ばせた直後に侍大将達が続々と信繁の家に集まってくる。そして手招きして部屋に招き入れると奥の座いっぱいに鎧を着た男達がひしめき合う状態になった。
「信繁。何するつもりだ。」
侍大将達は不思議そうに信繁を見つめる。
「少し説明したいのですが、その前にお聞きしたい事がございます。」
”応”
「先の会議で淀君様はなんと・・・。」
「ああ。城前に兵士を並べ、大砲で全員をなぎ払えばどうにか勝てるだろうと。流石にそれで勝てれば誰も苦労はしない。」
「やはり・・・。」
信繁は手に持った地図をばさっと広げ皆に見えるように駒を置いた。
「これは・・・。」
「先の作戦を見せるとこうです。」
そう言って信繁は城の外堀が欠かれたところに駒を置き、近くの海に硯を置いた。それを侍大将達が食い入るように見つめる。
「あのお方は何も言ってはいませんが、作戦としては・・・ここで戦闘を行い、拙者達と敵兵を巻き込み・・・・。」
横の硯から何かをとばす仕草をする。横の硯は大阪湾の西の海にあり、硯の大きさもあってかなり大きく見える。
「前と横から大砲を撃ち、第一陣を沈めます。」
ごく。誰かの唾を飲む音が聞こえる。
「それ死んだ兵士達を南蛮衆が死人に変え、徳川軍に襲わせる。それで撃退する為に広い広場みたいな場所が欲しかった。何万という死人なら、相手の数が多くとも勝てる正気が見え、我らは死ぬ事により、軍事費は払わなくともよいと。」
「そんな事があり得るのかよ。」
若い侍大将は声を震わせていた。何かこう今まで言われてきた事の符号が合った瞬間であった。
「だから、南蛮衆が・・・。」
「それで・・・。」
ざわざわと周りがなり始める。それらしい事があっても、なかなか形になってはいないようだった。むろん後藤もまたうなっていた。本当にこれが起こるなら、侍なぞ捨て駒でしかない。むしろ死体を増やす為の肥やしである。
「だから・・・。拙者は、単純にここまで下がらぬここで決戦をすべきだと思います。」
「淀君の作戦に乗ってもいいのではないのか?」
「それは・・・大方最悪の出方としては、敵と勘違いしたとか言って味方相手でも大砲を撃ち、死人化させてしまうでしょう。」
そう言って指さしたのがその外堀の南に位置する茶臼山であった。
「ここ。」
「元より、出陣するならここまでで押さえねば大砲を城まで持ち込まれ、すぐに落城されてしまいます。」
「だからここまでで押さえる。俺たちも味方から大砲は撃たれたくない。」
後藤は唸るしかなかった。
「だが・・・相手は15万・・・こちらは6万でむしろ士気も低い。どうする?」
「それをこれからご説明いたす。必ずとは言いません。結局多大な犠牲が必要ですが勝つ方法はございます。只・・・各自これだけは覚えていて欲しいのです。」
「なんだ。」
「城に帰れば死人にされてしまう恐れがあります。彼らにとって味方なぞ本当にないので、後ろから刺されかねません。」
「ああ。」
「もし、敗れる事があれば、そのまま武器を持ったままでもいいので、山中に逃げてくだされ。そのまま帰ってこなくてもよいと兵士にはお伝えくだされ。」
その顔は迫力さえある顔で信繁は見つめていた。
「わ、分かった。」
「では・・・作戦をお伝え申す。・・・只・・・聞いた限りは各自、覚悟召されよ。」
そう言い、信繁の鬼気迫る顔を全員が見つめるしかなかったのだ。