序節
某所で書いていた小説の移転品です。とりあえず、指摘された内容は書き直したので、まあ、だらだら書いていくので、長く、生暖かく見ていってください。フィクションの予定なので、そういうつもりでご覧ください。
異聞 真田信繁伝
序節 真田信繁と言う男
真田信繁、通称真田幸村は信濃の国の当時領地を任されていた真田昌幸の息子として信濃の地で生まれた。それからしばらくして祖父が無くなった為、父真田昌幸の相続により上田城城主となった。
上田城は小さく、こじんまりとした城ながら、領地は平和で民は穏やかだった。だが時は戦乱の戦国時代。武田軍を破った織田に昌幸は服従する事で、その地を守っていった。その間真田信繁と兄信之は父の元、武田家の秘伝の軍略書や様々な戦略所を読み漁り、数多くの学問や武道にいそしんでいた。
当時の軍略書の多くは軍の動かし方や、虚の突き方。兵士達の混乱時の心理などに及び、その中には孫子の兵法書などに更に日本独特の注釈が加えられたものを用いられていた。その書物は当時、武田家から落ち延びた物達が保管していたものの殆どに及び、そんな腕を磨きながらの平和な日々は長く続かず、信繁は援軍の代償として上杉軍に人質として向かった。 そこで、上杉景勝と会い、その容姿と才覚を気に入られ仮初ながら領地を与えられていた。当時豊臣五大老の一人であり、その最中その有能さは、豊臣家臣一堂に知られる事となった。 そこで、そして時代が過ぎるうちに織田信長は明智光秀に打たれ、豊臣の世になった時、豊臣秀吉から真田の性と上田の地を保障された真田家は、豊臣方に恭順する際、無理やり真田信繁は人質にされ、豊臣家内に人質として捕らわれてしまう。その頃に結婚させられており、無理やり豊臣方に付くようにさせられてしまう。だがその中で真田家は晴れて一大名としての地位を手に入れ、その地を守り続けるはずだった。
豊臣秀吉が死んでしばらくすると気に入られていた秀吉がいなくなり、また養子騒ぎも一服した為、真田家の元に返される事となった。それからしばらくし、豊臣方筆頭の石田光成と、徳川家康との間で関が原の合戦が行われる事となった。その時に、昌幸は数少ない兵士達を見ながら考えていた。信義どおりなら確かに石田につくべきだが、彼は今までかき集めた情報で戦況を考えていた。・・・大方東がもしかしたら勝つかもしれない。西は統制が取れなければあるいは・・・。それに、従順を決め込んで東に付けば今までの恩義に報いる事はできない。それを考え、当時徳川に嫁をもらっていた兄信之を徳川方に帰らせた。
父の手元には下らなければ国を滅ぼすという手紙が何通も徳川方から来ていた昌幸はある妙案を思いつく。それがこの地を無視するなら通し、それ以外なら抵抗するというものだった。だがこの地に徳川秀忠は軍を引き連れ上田城に向かっていった。それを見た真田昌幸は籠城を決め、蹂躙されるかもしれない住民を城に集め、近くの森に退避するように指示を出したが、誰一人として森に逃げるものはいなかった。 それを見た昌幸は民兵達を加え、それでも10倍近くある兵力差のまま、第二次上田の戦いは始まった。
それは信繁の初陣でもあった。この戦いは兵法を尽くして戦った真田方の大勝利で終わった。それはある意味小さな勝利でもあり、誰も、何も報酬は無いかもしれないが、それは大きな勝利であった。それは関が原の戦いの直前で行われた為、徳川秀忠は関が原に参戦する事はなかったが、石田光成に後方を突いてほしいと頼まれていた真田昌幸は、この戦闘で兵を動かす事ができなかった為、結局関が原に参加できなかった。その為、関が原の戦いは結局東方が勝つのであった。
その後、もう一度大軍を率いてやってくる徳川軍に、民を巻き込む事を恐れた真田昌幸は、涙を飲みつつ無条件で降伏するのであった。そこで、数多くの徳川方の武将に切腹をさせられそうになるが、徳川に行った兄に一命を救われる事となり、九度山の山奥に幽閉される事になる。そこで父真田昌幸は、一生上田の民を案じその生を終えていった。
その息子真田信繁はその無念さに山奥で僧侶達と暮らしていたが、ある日、豊臣方が人を集め、徳川と戦うと使者に聞いた真田信繁はいても立ってもいられず、急いで山を下りていった。そこで旧武田軍の人々などに誘われ、大阪冬の陣を向かえる。
そこで最初真田信繁が勢いで押し切る合戦を提案したが、淀君が反対した為、篭城をすることとなった。そこで父譲りの戦略で、大阪城の布陣の欠陥を見抜いた信繁は真田丸での戦いで、徳川軍を打ち破るも、戦い自身は大きな堀があり攻めあぐねた大軍の徳川軍と互角であった。だが、本丸周辺への砲撃が始まると、豊臣側から講和を受けるとの報を徳川に出し、堀を埋める事を約束させ、戦争は終わった。それから行くところがない真田は武功もあって、大阪城郊外に小さな武家屋敷を構え、一時的な平和を味わっていた。