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王喰い  作者: 世継
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第一章 まだ、何も知らなかった頃

どれだけ辛くても、どれほど絶望しても、進まなければいけない…

朝の村には、いろいろな音があった。


隣の家から聞こえる食器の触れ合う音。道の向こうで誰かを呼ぶ声。荷車の車輪が石を踏む音。そして、少し離れた場所から響いてくる、木を打つ乾いた音。


主人公は、そんな音を聞きながら目を覚ました。


窓から差し込む光が、床の上に細長く伸びている。


階下から、母の声がした。


「起きてるの? 朝ごはん、冷めちゃうわよ」


「起きてる!」


「それなら返事だけじゃなくて、降りてきなさい」


「今行く!」


そう答えたものの、主人公はしばらく布団から出なかった。


すると、階段を上がってくる足音がした。


まずい。


そう思ったときには、扉が開いていた。


「……今行くって言ったわよね?」


母は呆れた顔で立っていた。


「いや、ほら。今、起きるところだったんだよ」


「昨日も同じことを言っていたわ」


「昨日と今日じゃ違うだろ」


「そうね。昨日は昨日、今日は今日。だから今日は、朝ごはんを食べる前にお皿を洗ってもらおうかしら」


「ごめんなさい、起きます」


母は声を立てて笑った。


主人公もつられて笑いながら、慌てて布団を抜け出した。


食卓には、焼いたパンと温かいスープが並んでいた。


主人公が席につくと、母は向かい側に座り、自分の分のパンを小さくちぎった。


「今日はあの子と遊ぶの?」


「うん。昨日、面白いものを見せるって言ってた」


「面白いもの?」


「教えてくれなかった。絶対びっくりするって」


「ふふ。それは楽しみね」


「なんで母さんまで楽しみにしてるんだよ」


「あなたが楽しそうに話すからよ」


主人公は、返事の代わりにスープを口に運んだ。


母は、それ以上何も言わなかった。


ただ、主人公がパンを落としかけたときには笑い、口元に食べかすがついていると教え、出かける前には髪を整えた。


「もう子どもじゃないんだから」


主人公がそう言うと、母は手を止めた。


「そうねえ」


少し考えてから、優しく笑った。


「でも、私にとってはいつまでも大切な子よ」


主人公は、なんだか気恥ずかしくなった。


「……そういうの、いいから」


「はいはい」


母は笑いながら、主人公の背中を軽く押した。


「行ってらっしゃい。暗くなる前には帰ってくるのよ」


「わかってる!」


扉を開けると、村の音が一斉に耳へ飛び込んできた。


主人公は振り返らず、友人の待つ場所へ駆け出した。


母はしばらく、その背中を見送っていた。






村の道を駆け抜ける。


石畳の隙間から伸びた草を飛び越え、軒先で洗濯物を干していた女性に手を振る。


「おはよう!」


「あら、おはよう。今日も元気ねえ」


「うん!」


返事をしながら、主人公は足を止めなかった。


村の端にある古い水車小屋。その裏手に、友人との待ち合わせ場所がある。


小さな橋を渡り、川沿いの道を曲がる。


すると。


「おっそい!」


聞き慣れた声が飛んできた。


木の柵に腰掛けた友人が、腕を組んでこちらを睨んでいた。


「はあ!? まだそんなに待ってないだろ!」


「待った!」


「何分!?」


「……いっぱい!」


「なんだよそれ!」


友人は堪えきれずに吹き出した。


主人公も笑った。


いつものことだった。


どちらかが少し遅れれば、もう片方が文句を言う。文句を言われた方は言い返す。最後には、なぜか二人とも笑っている。


そんなやり取りを、二人は何度も繰り返してきた。


「で? 面白いものって何だよ」


主人公が尋ねると、友人は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。


「ふふん。驚くなよ?」


「早く見せろよ」


「ちょっとはもったいぶらせろ!」


友人は肩に掛けていた鞄を下ろした。


中から取り出したのは、一冊の本だった。


表紙は少し擦り切れていて、端の方が折れている。何度も開かれたのだろう。背表紙には細かな傷がついていた。


けれど、表紙に描かれた景色を見た瞬間、主人公は言葉を失った。


そこには、村では見たことのない光景が広がっていた。


見渡す限りの大地。


遠くにそびえる、雲に届きそうなほど巨大な山々。


見知らぬ建物が立ち並ぶ街。


そして、空の下をどこまでも続いていく道。


「……これ、何?」


「本」


「それくらいわかる!」


「じゃあ聞くなよ!」


「そうじゃなくて! この絵!」


主人公が表紙を指さすと、友人は満足そうに笑った。


「外の世界だって」


「外の……世界?」


「うん。父さんが昔、知り合いから借りてきたんだ。返すまでなら読んでいいって」


友人は本を開いた。


紙の上には、知らない景色が次々と現れた。


見たことのない生き物。村の家とはまるで違う形をした建物。見たこともない植物。そして、何人もの人々が荷物を背負い、見知らぬ土地へ向かって歩いている絵。


主人公は、ページをめくるたびに身を乗り出した。


「これ、本当にあるの?」


「知らない」


「知らないのかよ!」


「だって、行ったことないもん!」


「じゃあ、なんでそんな自信満々なんだよ!」


二人はまた笑った。


けれど、主人公の目は本から離れなかった。


ページの隅に、小さく描かれた人々がいた。


大きな荷物を背負った者。長い棒を手にした者。地図を広げて話し合う者。


彼らの後ろには、見たことのない土地が広がっていた。


「……この人たちは?」


「探索者、って書いてある」


友人が文字を指でなぞった。


「知らない場所に行って、いろんなものを調べるんだって。誰も行ったことのない場所とか、誰も知らないものとか」


主人公は、その言葉をゆっくりと口の中で繰り返した。


探索者。


知らない場所へ行く人たち。


誰も見たことのないものを、自分の目で見る人たち。


胸の奥が、むずむずした。


「……すげえ」


思わず漏れた言葉に、友人が顔を上げた。


「だろ?」


「ああ。すげえよ、これ」


主人公は本を受け取り、もう一度、最初のページを開いた。


そこに描かれているのは、ただの絵だった。


それなのに、どうしてこんなにも遠くへ行きたくなるのだろう。


どうして、まだ知らない場所のことを考えるだけで、こんなにも胸が躍るのだろう。


主人公にはわからなかった。


ただ、ひとつだけ思った。


いつか、自分も。


この本に描かれた景色を、自分の目で見てみたい。


「なあ」


主人公は本から顔を上げた。


「俺たちも、いつか外の世界に行こうぜ」


友人はきょとんとした。


「……俺たち?」


「そう。二人で」


主人公は当たり前のことのように言った。


「お前がこの本を見つけたんだから、お前も一緒に来るんだよ」


「なんだよそれ。お前が勝手に決めるなよ」


「嫌なのか?」


友人は少しだけ考えた。


それから、本を大事そうに抱え直した。


「……嫌じゃない」


「じゃあ決まり!」


「まだ何も決まってないだろ!」


「決まった!」


「お前なあ!」


友人は呆れたようにため息をついた。


けれど、その顔は笑っていた。


「じゃあさ」


友人が言った。


「行くときは、俺がこの本を持っていく」


「なんでだよ。俺が持ってく!」


「俺が見つけた本だぞ!」


「俺だって今見てる!」


「意味わかんねえ!」


二人は本を挟んで言い合いを始めた。


結局、どちらが持っていくかは決まらなかった。


それどころか、いつの間にか本を閉じて、川辺の石をどこまで遠くへ投げられるか競争していた。


一投目は友人の勝ち。


二投目は主人公の勝ち。


三投目は二人とも投げ方を失敗して、石はほとんど飛ばなかった。


「今のはなし!」


「なしじゃない!」


「お前だってさっき外しただろ!」


「だから何だよ!」


川の水面に波紋が広がる。


二人の笑い声が、風に乗って村の方へ流れていった。


やがて、友人が草の上に寝転がった。


「なあ」


「ん?」


「外の世界って、どんなところなんだろうな」


主人公も隣に寝転がった。


青い空が広がっていた。


雲がゆっくりと流れていく。


「さあな」


「お前、何も知らないな」


「お前だって知らないだろ!」


「俺は想像してるんだよ」


「じゃあ言ってみろよ」


友人は空を見つめたまま、少し考えた。


「……すげえ景色があると思う」


「うん」


「見たことない生き物もいる」


「うん」


「俺たちが知らないことも、いっぱいある」


主人公は目を細めた。


「……うん」


「だから、見に行こうぜ。全部は無理でもさ」


友人は横を向いて笑った。


「二人で」


主人公は、その言葉を聞いて笑い返した。


「当たり前だろ」


いつか二人でこの村を出て、見たことのない世界を旅する。


それは、二人にとって、ごく当たり前の未来だった。


「……あ、やば」


川辺に寝転がっていた主人公は、空を見て飛び起きた。


太陽が、ずいぶんと低いところまで下がっている。


「どうした?」


「暗くなる前に帰れって言われてた!」


「えっ、もうそんな時間!?」


友人も慌てて起き上がった。


二人は草についた葉っぱを払い、置きっぱなしにしていた本を拾った。


「また明日な!」


「おう! 明日は俺が勝つからな!」


「石投げのこと? 今日、俺が勝っただろ!」


「明日の話してんだよ!」


「はいはい!」


笑いながら手を振り、二人は別々の道へ走り出した。


主人公は、夕暮れの村を駆け抜ける。


家々の窓から、橙色の光が漏れていた。


どこかの家から夕食の匂いが漂い、道端では仕事を終えた大人たちが話をしている。


「おや、もう帰りかい?」


「うん!」


「お母さん、待ってるんじゃないのかねえ」


「……あっ!」


主人公は、さらに足を速めた。


家の扉を開けると、ちょうど母が食卓に皿を並べているところだった。


「ただいま!」


「おかえりなさい」


母は振り返った。


そして、主人公の顔を見て、少しだけ目を細めた。


「楽しかった?」


「うん!」


主人公は靴を脱ぎながら、勢いよく答えた。


「今日、すごいもの見せてもらったんだ!」


「まあ。どんなもの?」


「本! 外の世界が描いてある本!」


「外の世界?」


「そう! 見たことない山とか、でっかい街とか! それに、探索者っていう人たちがいるんだって!」


主人公は鞄を置くと、身振り手振りを交えて話し始めた。


本に描かれていた景色のこと。


知らない土地を歩く人たちのこと。


そして、友人と交わした約束のこと。


「それでさ、いつか二人で行くんだ!」


母は椅子に座り、主人公の話を聞いていた。


途中で何度か相槌を打ち、主人公が言葉に詰まると、続きを促してくれた。


話し終える頃には、主人公の頬はすっかり赤くなっていた。


「……それで、明日も遊ぶんでしょ?」


「もちろん!」


「ふふ。じゃあ、明日の分まで、今日はたくさん食べておかないとね」


母は主人公の皿に料理をよそった。


「いただきます!」


主人公は、さっそく大きな一口を頬張った。


「ちょっと、そんなに急がなくても逃げないわよ」


「だって、お腹すいたんだもん!」


「はいはい」


母は笑いながら、自分の食事を始めた。


しばらくは、食器の触れ合う音だけが食卓に響いた。


主人公は夢中で食べていたが、ふと思い出したように顔を上げた。


「ねえ、母さん」


「なあに?」


「母さんは、外の世界に行きたいって思ったことある?」


母は少し驚いた顔をした。


それから、手にしていたスプーンを置き、窓の外を見た。


夕暮れの空は、ゆっくりと暗くなり始めていた。


「そうねえ……」


母はしばらく考えてから、主人公に目を戻した。


「若い頃は、あったかもしれないわね」


「えっ! どこに行きたかったの!?」


「ふふ。内緒」


「なんでだよ!」


「いつか、あなたが教えてくれるかもしれないでしょう?」


主人公は首を傾げた。


「俺が?」


「あなたが外の世界へ行ったら、いろんなものを見るんでしょう?」


母は微笑んだ。


「そしたら、私の知らない景色を、たくさん聞かせてほしいな」


主人公は、ぱっと顔を輝かせた。


「任せて!」


椅子から少し身を乗り出す。


「すっげえ景色を見つけて、全部教えてやるよ!」


「全部?」


「全部!」


母は、とうとう声を立てて笑った。


「それは楽しみね」


「ほんとだぞ! 絶対だからな!」


「うん。約束ね」


母は小指を差し出した。


主人公は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「もう、子どもじゃないんだけど」


「そうだったわね」


母は小指を引っ込めようとした。


その前に、主人公が自分の小指を絡めた。


「……でも、約束だからな」


母は何も言わず、優しく指を握り返した。


二人は小さく指を揺らした。


それから、どちらからともなく笑った。


食事が終わると、主人公は皿を運び、母が洗い物をした。


途中で主人公が水をこぼしてしまい、母に布巾を渡される一幕もあった。


「もう。ちゃんと見ていないからよ」


「母さんが急に話しかけるからだろ!」


「はいはい。私のせいね」


「そうだよ!」


そんなことを言い合いながら、二人で台所を片づけた。


やがて、家の中は静かになった。


主人公は自分の部屋へ戻る前に、食卓を振り返った。


いつもの椅子。


いつもの皿。


いつもの母。


明日になれば、また友人と遊びに行く。


明後日も、その次の日も。


きっと、これから先もずっと。


「母さん、おやすみ!」


階段の途中から声をかけると、台所にいた母が顔を上げた。


「おやすみ。いい夢を見るのよ」


「うん!」


主人公は階段を上り、自分の部屋へ消えていった。


母はその足音が聞こえなくなるまで、しばらく階段を見つめていた。


それから、食卓に残っていた小さなパンくずを指先で集め、いつものように片づけを続けた。


窓の外では、村の灯りがひとつ、またひとつと消えていった。


その夜も、村はいつもと変わらず、静かに眠りについた。








翌朝。


「だから、そっちじゃないって!」


「こっちだって言ってんだろ!」


村の裏手にある林から、二人の声が響いていた。


「お前、絶対道間違えてるぞ!」


「間違えてない!」


「じゃあ、なんで同じ木が三回も出てくるんだよ!」


主人公が指さした先には、幹が二股に分かれた大きな木があった。


その根元には、昨日二人が置いたらしい小石が三つ並んでいる。


友人は黙った。


「……偶然だ」


「三回も!?」


「木なんて、どれも似たようなもんだろ!」


「絶対違うだろ!」


主人公は腹を抱えて笑った。


友人は不満そうに頬を膨らませたが、やがて自分も笑い出した。


二人が林に来た理由は、友人が本で見つけた植物を探すためだった。


本の片隅に、小さな実のついた植物の絵が載っていたのだ。


友人によれば、その実は熟すと甘くなるらしい。


「本当にあるのかな、これ」


主人公は、木々の間を見回した。


「あるから本に載ってるんだろ」


「でも、お前、外の世界のこと何も知らないって言ってたじゃん」


「この村の近くにあるかどうかは別だろ!」


「はいはい」


「その返事やめろ!」


二人は再び歩き始めた。


枝を避け、草をかき分け、ときどき見つけたキノコを眺めては、食べられるのかどうかで言い合う。


結局、どちらも確信が持てず、手を出さなかった。


やがて、友人が「あっ」と声を上げた。


「あれ!」


茂みの向こうに、小さな赤い実がなっていた。


二人は顔を見合わせた。


「……あった?」


「たぶん!」


「たぶんって何だよ!」


友人は鞄から本を取り出し、該当するページを開いた。


絵と実物を交互に見比べる。


葉の形。枝の伸び方。実のつき方。


「……違うな」


「違うのかよ!」


「こっちは葉っぱが丸い。絵のはもっと細い」


主人公はがっくりと肩を落とした。


「なんだよお……」


「まあまあ。また探せばいいだろ」


友人は本を閉じ、鞄にしまった。


「それにさ」


「ん?」


「こうやって探すのも、探索者っぽくない?」


主人公は顔を上げた。


友人は、いたずらっぽく笑っていた。


「知らない場所を歩いて、知らないものを見つけてさ。違ったら、なんで違うのか考える」


主人公は、周囲の木々を見回した。


たしかに、そうかもしれない。


誰かが作った道を歩くのではなく、自分たちで行き先を決めて、知らないものを探す。


たとえ何も見つからなくても。


「……いいな、それ」


「だろ?」


「じゃあ、今日は俺が隊長な!」


「なんでだよ!」


「俺の方が探索者に向いてるから!」


「その根拠は!?」


「今、決めた!」


友人は大声で笑った。


「じゃあ隊長! 帰り道、ちゃんとわかってるんでしょうね?」


主人公の笑顔が固まった。


「……副隊長、頼んだ」


「隊長がしっかりしろ!」


林に、二人の笑い声が響いた。


結局、二人は甘い実を見つけられなかった。


帰り道も、途中までしか合っていなかった。


それでも、村に戻る頃には、二人とも満足していた。


主人公の靴には泥がつき、友人の服には小さな葉っぱが引っかかっていた。


「また明日な!」


村の分かれ道で、友人が手を振った。


「明日は絶対、俺が隊長だからな!」


「今日の隊長、迷子になったじゃん!」


「なってない!」


「同じ木を三回見たのに!?」


「うるさい!」


友人は笑いながら走っていった。


主人公も、反対側の道へ駆け出した。


家に帰ったら、母に今日のことを話そう。


見つけられなかった実のことも、迷子になりかけたことも。


そしていつか、本当に探索者になったら。


今日みたいな小さな冒険を、もっと大きな世界で続けるのだ。


そんなことを考えながら、主人公は家へ向かった。


家に帰ると、台所から包丁の音が聞こえてきた。


トントン、トントン。


一定のリズムで響く音に、主人公のお腹が鳴った。


「ただいまー!」


「あら、おかえりなさい」


母の声が台所から返ってくる。


主人公は靴を脱ぎ捨てそうになり、慌てて向きをそろえた。


「今日は何?」


「当ててみて」


「肉!」


「昨日もお肉だったでしょう?」


「じゃあ、魚!」


「残念」


「ええー! じゃあ何!?」


「食べてからのお楽しみ」


主人公は頬を膨らませた。


「ずるい!」


「ふふ。手を洗ってきてね」


主人公は返事をして、洗い場へ向かった。


冷たい水で手を洗いながら、ふと、自分の袖についた葉っぱに気づいた。


「あ」


林で引っかけたものだ。


取ろうと引っ張ったら、今度は袖の糸が少しだけほつれてしまった。


「……やば」


見なかったことにしよう。


そう決めて台所へ戻ると、母がちょうど振り返った。


「あら?」


主人公はぴたりと止まった。


「袖、どうしたの?」


「えっと……」


「転んだ?」


「転んでない!」


「じゃあ、木と喧嘩でもしたの?」


主人公は目を丸くした。


「なんでわかったの!?」


母は一瞬きょとんとして、それから笑い出した。


「本当に木と喧嘩したの?」


「違うって! 友達と探検してたんだよ!」


「探検?」


主人公は、待ってましたとばかりに今日の出来事を話し始めた。


本に描かれていた植物を探しに林へ行ったこと。


同じ木を何度も見つけて、道に迷いかけたこと。


赤い実を見つけたのに、目的のものとは違ったこと。


そして、自分が隊長になったこと。


「それで、帰り道がわからなくなったの?」


「……ちょっとだけ」


「隊長なのに?」


「うっ……」


母は笑いながら、主人公の頭を撫でた。


「でも、楽しかったんでしょう?」


主人公は顔を上げた。


「うん!」


「なら、よかった」


母はそれだけ言って、また料理に向き直った。


主人公は、その背中を見ながら思った。


母さんは、いつもそうだ。


うまくいかなかったことを話しても、失敗したことを話しても、最初から怒ったりはしない。


まず、楽しかったかどうかを聞いてくれる。


「ねえ、母さん」


「なあに?」


「明日も行っていい?」


母は包丁を置き、こちらを振り返った。


「もちろん。ただし、危ない場所には行かないこと。帰る時間も守ること」


「わかってる!」


「本当に?」


「……わかってる!」


母は少しだけ目を細めた。


「じゃあ、約束ね」


「うん!」


そのとき、鍋からふわりといい匂いが立ち上った。


主人公は鼻を動かした。


「……ねえ、結局今日のご飯、何?」


母は、待ってましたと言わんばかりに鍋の蓋を開けた。


中には、野菜と肉がたっぷり入った煮込み料理があった。


「わあ!」


「今日はあなたの好きなものを入れてみたの」


主人公は食卓を見て、目を輝かせた。


「やった!」


「その前に、袖を直しましょうね」


「……あ」


母は小さく笑った。


「ご飯のあとでいいわ。針と糸を出しておくから」


「自分でできるよ!」


「そう? じゃあ、難しかったら呼んでね」


「呼ばない!」


「ふふ。楽しみにしてるわ」


母はそう言って、料理を皿によそい始めた。


夕食のあと、主人公は本当に自分で袖を直そうとした。


けれど、糸は思ったより細く、針の穴にはなかなか通らない。


何度目かの失敗で、主人公は針を置いた。


「……母さん」


「はいはい」


母は待っていたように隣へ座った。


「貸してごらん」


「自分でできると思ったんだけど」


「うん。頑張ったわね」


母は責めなかった。


糸を針に通し、ほつれた部分を整え、ゆっくりと縫っていく。


主人公は、その手元をじっと見ていた。


「母さんって、なんでもできるよね」


「そんなことないわよ」


「でも、料理もできるし、服も直せるし」


「できないことも、たくさんあるの」


「例えば?」


母は少し考えた。


「そうねえ……あなたが何を考えているのか、全部わかるわけじゃないことかしら」


主人公は不思議そうに首を傾げた。


「そんなの、聞けばいいじゃん」


母は手を止めた。


それから、柔らかく笑った。


「そうね。聞けばいいのよね」


最後の糸を結び、袖を主人公に返す。


「はい、できた」


主人公は袖を確かめた。


ほつれていた部分は、もう目立たなくなっていた。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


主人公は袖を何度も眺めた。


明日も、これを着て友人と遊ぼう。


そしてまた、何か面白いものを見つけよう。


「母さん」


「なあに?」


「明日も、帰ったら今日の話していい?」


母は、少しだけ驚いた顔をした。


それから、いつものように笑った。


「もちろん。いくらでも聞かせて」


主人公は満足そうに頷いた。


「じゃあ、明日はもっとすごい話をする!」


「期待してるわね」


母は笑いながら、主人公の頭を撫でた。


窓の外では、夕暮れがゆっくりと夜へ変わっていった。


家の中には、煮込み料理の匂いと、二人の笑い声が残っていた。









「お前、絶対に笑うなよ」


翌日の昼下がり。


村の広場で、友人が真剣な顔をしていた。


主人公は、その顔を見ただけで笑いそうになった。


「いや、まだ何もしてないだろ」


「もう顔が笑ってる!」


「お前の顔が面白いんだよ!」


「笑うなって言ってんだろ!」


友人は主人公の肩をつかみ、ぐいぐいと揺さぶった。


二人のそばには、木の板と縄、それから小さな木箱が置かれていた。


友人が言うには、今日はすごいものを作るらしい。


「……で、何を作るんだっけ?」


主人公が尋ねると、友人はぴたりと動きを止めた。


「お前、聞いてなかったのかよ!」


「聞いてたよ! なんか、すごいやつだろ?」


「説明になってねえ!」


友人は頭を抱えた。


それから、地面にしゃがみ込み、木の板を指さした。


「いいか。これをこうして、ここに縄を通すだろ?」


「うん」


「そしたら、この木箱を乗せて……」


「うんうん」


「坂の上から走らせる!」


主人公は目を輝かせた。


「おお!」


「だろ!?」


「何がすごいんだ!?」


「そこからかよ!」


二人は大真面目に、木の板と縄を組み合わせ始めた。


何度も縄がほどけた。


木箱が傾いた。


板を持ち上げた拍子に、友人の頭に木箱がかぶさった。


「……」


「……」


「ぶっ!」


主人公が吹き出した。


「笑うなああああ!」


「だって、お前、頭に箱!」


「見ればわかるわ!」


友人は木箱を外して地面に置いた。


耳まで赤くしている。


それでも、数秒後には二人とも腹を抱えて笑っていた。


通りかかった村人が、何事かと振り返るほどだった。


ひとしきり笑ったあと、二人はようやく完成したものを坂の上まで運んだ。


木の板に車輪を取りつけた、手作りの小さな乗り物。


見た目は少々頼りない。


縄であちこちを縛っているせいで、左右の形も微妙に違っていた。


「……本当に乗れるのか?」


主人公が尋ねた。


「乗れるに決まってるだろ」


「お前、さっき箱を頭にかぶってたじゃん」


「関係ないだろ!」


友人は乗り物の前に立ち、胸を張った。


「これはな、村で一番速い乗り物になるんだよ」


「馬より?」


「馬より!」


「父さんの荷車より?」


「もちろん!」


「じゃあ、あの坂を下りきれる?」


友人は坂の下を見た。


村の道へ続く、なだらかな斜面だった。


少し先には草地が広がっている。


「……下りきれる」


「今、ちょっと考えただろ」


「考えてない!」


主人公は笑った。


友人は乗り物を地面に置き、両手を腰に当てた。


「よし。まずは俺が乗る」


「え、俺じゃないの?」


「作ったのは俺だからな!」


「縄を結んだのは俺だぞ!」


「じゃあ、共同制作者として見届けろ!」


友人は乗り物に腰掛けた。


主人公は後ろから押すために構える。


「いくぞ!」


「おう!」


「三、二、一――!」


友人が地面を蹴った。


乗り物は、思ったよりも勢いよく坂を下り始めた。


「うおおおおおお!」


「すげえええええ!」


風が吹き抜ける。


車輪が地面を転がる音が響く。


友人は笑いながら両手を広げた。


「見たか! 俺たちの勝ちだあああ!」


次の瞬間。


ガタンッ。


片方の車輪が外れた。


乗り物は大きく傾き、友人は草地の上に転がり込んだ。


幸い、けがはなかった。


ただし、頭から草の葉が何枚もついていた。


主人公は駆け寄ろうとした。


「おい、大丈夫か!?」


友人は草の上に座り込んだまま、しばらく黙っていた。


「……なあ」


「うん?」


「今の、速かったよな?」


主人公は友人の顔を見た。


それから、壊れた乗り物を見た。


そして、友人の頭にくっついた草を見た。


「……っ」


「笑うなよ」


「いや、でも……!」


「笑うなって!」


とうとう主人公は耐えきれず、声を上げて笑った。


友人も、最初はむすっとしていた。


けれど、主人公があまりにも笑うものだから、つられて笑い出してしまった。


二人は草地に座り込み、しばらく笑い続けた。


やがて友人が、壊れた車輪を拾い上げた。


「……もう一回、作ろうぜ」


主人公は笑うのをやめた。


「また?」


「今度は車輪が外れないようにする」


「坂も下りるの?」


「当たり前だろ」


友人は、当然のように言った。


「次はもっと速くなる」


主人公は、壊れた乗り物を見つめた。


縄はほどけ、板には傷がついている。


とても村で一番速い乗り物とは思えなかった。


けれど。


「……よし!」


主人公は立ち上がり、友人に手を差し出した。


「次は俺も乗る!」


友人はその手をつかんで立ち上がった。


「お前、怖くないのか?」


「なんで?」


「さっき壊れたじゃん」


主人公は首を傾げた。


「直すんだろ?」


友人は一瞬、目を丸くした。


それから、にっと笑った。


「……そうだな!」


二人は車輪を拾い、木の板を抱えて、村へ戻った。


今度はもっと丈夫なものを作るために。


そして、いつか本当に外の世界へ行ったときにも、きっとこんなふうにするのだろう。


失敗したら、直す。


うまくいかなかったら、もう一度やってみる。


二人で笑いながら。








翌日の昼過ぎ。


主人公と友人は、壊れた手作りの車を二人で押しながら、村の通りを歩いていた。


昨日、外れた車輪は拾ってきたものの、どうやって取りつけ直せばいいのか、二人ともわからなかった。


「だから、もっと頑丈に作れって言ったんだよ」


「お前も一緒になって作ってただろ!」


「俺は設計担当だから」


「いつ設計したんだよ!」


「今」


「ふざけんな!」


二人の声が、通りに響いた。


軒先で野菜を並べていた女性が、呆れたように笑う。


「あんたたち、朝から元気ねえ」


「おばさん、こいつが悪いんだよ!」


「そっちが変な作り方するからだろ!」


「はいはい。喧嘩するなら、うちの荷物でも運んでちょうだい」


「えっ」


「ちょうど市場まで運ぶものがあったのよ」


二人は顔を見合わせた。


「……逃げるぞ」


「待ちなさい!」


結局、二人は野菜の入った籠を市場まで運ぶことになった。


「なんで俺たちが……」


「お前が余計なこと言うからだろ」


「お前だって逃げようとしたじゃん!」


籠は思ったより重かった。


途中で何度も持ち替えながら、二人はなんとか市場まで運びきった。


「ありがとね。助かったわ」


女性は二人に、小さな焼き菓子を一つずつ渡した。


友人はすぐにかじりついた。


主人公も一口食べる。


甘くて、少しだけ香ばしかった。


「……うま」


「だろ?」


「お前が作ったわけじゃないだろ」


「俺が運んだから、うまいんだよ」


「意味わかんねえ」


二人は笑いながら、再び壊れた車を押して歩き出した。


村の中心から少し離れたところに、小さな工房があった。


いつも木を削る音が聞こえる場所で、戸口には作りかけの椅子や車輪が並んでいる。


中では、村の荷車を修理している老人がいた。


「おや。今日は何を壊したんだ?」


二人が何も言っていないのに、老人は車を見るなりそう言った。


「壊してない!」


主人公が反射的に答える。


老人は外れた車輪を持ち上げた。


「ほう。じゃあ、この車輪は自分から逃げ出したのか」


友人が吹き出した。


「そうなんだよ! こいつの作り方が悪くてさ!」


「お前も作っただろ!」


「なるほど。二人とも悪いわけだ」


「なんでだよ!」


工房に笑い声が広がった。


老人は車輪の取りつけ部分を確かめると、木片を一つ取り出した。


「ここが緩い。車輪をつけるだけじゃ駄目だ。走っている間に外れないよう、ちゃんと支えてやらんとな」


「じゃあ、直せる?」


「直すのはお前たちだ」


老人は木片と道具を二人の前に置いた。


「わしが全部やったら、お前たちはまた同じものを壊すだろう」


主人公は少し不満そうにしながらも、老人の手元をじっと見つめた。


木を削り、形を整え、ぴったり合うように少しずつ調整していく。


簡単そうに見えた作業は、実際にやってみるとなかなかうまくいかなかった。


「削りすぎだ」


「まだ入らないぞ」


「だから、もうちょっと削れって」


「お前がやれよ!」


「お前のほうが力あるだろ!」


老人は二人の言い争いを聞きながら、時折、短く助言をくれた。


しばらくして、ようやく車輪が収まった。


主人公が慎重に車体を押す。


車輪は、昨日よりもずっと滑らかに回った。


「おおっ!」


友人が声を上げる。


主人公は何度も車輪を回し、取りつけ部分を確かめた。


「すげえ……ちゃんと回ってる!」


「当たり前だ。お前たちが直したんだからな」


老人は笑って、削りくずを掃き集めた。


「また壊れたら来い。ただし、次は自分たちで原因を考えてからだ」


「壊れないって!」


友人が胸を張る。


主人公も頷いた。


「今度こそ、村でいちばん速い乗り物にするからな!」


「ほう。それは楽しみだ」


工房を出ると、日差しは少し傾いていた。


二人は車を押しながら、村の坂道へ向かった。


「なあ」


友人が言った。


「なんだよ」


「いつか本当に、こんな車で外の世界まで行けたら面白くね?」


主人公は、少し考えた。


それから、得意げに笑った。


「こんな小さい車じゃ無理だろ。もっとでかいのを作るんだよ」


「じゃあ、お前が作れよ」


「お前も手伝うんだよ」


「なんで俺が」


「副隊長だから」


「まだそれ言ってんのかよ!」


友人が主人公の肩を小突く。


主人公もやり返した。


二人は坂の上まで車を運ぶと、顔を見合わせた。


「……乗る?」


「乗るしかないだろ」


「また車輪が外れたら?」


「そのときは、また直せばいいじゃん」


主人公はそう言って、車に乗り込んだ。


友人が後ろから押す。


車体は少し揺れながら、坂を下っていった。


風が頬を撫でた。


二人の笑い声が、村の通りに響いた。


その日、車輪は最後まで外れなかった。


二人はそれを、まるで大発見でもしたかのように喜んだ。


そして帰り道、主人公は工房でもらった小さな木片をポケットに入れた。


別に、大切なものというわけではない。


ただ、自分たちで直した証拠みたいで、なんとなく捨てる気にならなかった。


家に帰れば、母に今日のことを話そう。


車輪を直したことも、老人に笑われたことも、坂道を走ったことも。


きっと母は笑いながら聞いてくれる。


主人公はそんなことを考えながら、友人と並んで家路を歩いた。


家に帰ると、母は食卓の上で布を広げていた。


主人公が扉を開ける音に気づくと、顔を上げる。


「おかえりなさい」


「ただいま!」


主人公は靴を脱ぎながら、いつものように母のところへ駆け寄った。


「母さん、今日すげえことがあったんだよ!」


「まあ。今日は何があったの?」


「まずな、昨日作った車を直したんだ!」


母は手を止めた。


「昨日、壊れたって言っていた、あの車?」


「そう! 車輪が外れたやつ!」


「直せたの?」


「直せた! 最初は全然うまくいかなかったんだけど、工房のおじいさんが教えてくれてさ。俺たちで木を削って、ちゃんと車輪が回るようにしたんだ!」


主人公は身振りを交えながら、夢中で説明した。


車輪が緩んでいたこと。


木を削りすぎてしまったこと。


友人とどちらが悪いのか言い争ったこと。


最後には坂道を走らせても、車輪が外れなかったこと。


母は途中で何度か笑いながら、最後まで話を聞いてくれた。


「それはすごいわね」


「だろ!」


「でも、坂道を走らせたの? 転んだりしなかった?」


「大丈夫だって! ちゃんと走れたんだから!」


「ふふ。そう」


母はそう言って、また布に目を落とした。


主人公はそこで、ふと思い出したようにポケットを探った。


取り出したのは、小さな木片だった。


「これ、今日もらったんだ」


「これは?」


「車を直したときのやつ。俺たちが削った木の端っこ」


母は手のひらに乗った木片を見つめた。


形は不揃いで、表面には少しだけ削り跡が残っていた。


とても、何かの記念品と呼べるようなものではない。


「大切なものなの?」


「……別に?」


主人公は少し考えてから、木片をもう一度ポケットにしまった。


「なんか、捨てるのもったいないじゃん」


「そうね。せっかく自分たちで直したんだものね」


母はそれ以上、何も言わなかった。


ただ、少しだけ嬉しそうに笑っていた。


「そうだ、母さん」


「なあに?」


「いつかさ、俺が探索者になったら、もっとすげえものを見つけると思うんだ」


母の手が、布の上で止まった。


「今日みたいに、何かを直したりするのとは違うんだぞ。もっと大きな山とか、見たことない生き物とか、誰も知らない場所とかさ!」


「ええ」


「そしたら、帰ってきて全部話すからな!」


主人公は当然のことのように言った。


「今日みたいに、毎日?」


母は尋ねた。


「毎日じゃなくてもいいけど……まあ、話したいことがあったらな!」


「そう。楽しみにしているわ」


母は再び布を広げた。


主人公は、その横顔を見ていた。


「……何作ってんの?」


「秘密」


「えー、なんだよ。教えてくれたっていいじゃん」


「できてからのお楽しみ」


「食べ物?」


「違います」


「じゃあ、俺のもの?」


母は少しだけ笑った。


「どうかしらね」


「絶対俺のものじゃん!」


主人公は得意げに笑い、自分の部屋へ向かった。


階段を上がる途中で、母の声が聞こえた。


「夕飯までには降りてくるのよ」


「わかってる!」


返事をしてから、主人公は部屋へ戻った。


ポケットの中には、さっきの木片が入っていた。


机の端に置こうかとも思ったけれど、結局そのままにした。


明日、友人に見せてもいい。


そんなことを考えながら、窓の外を眺めた。


村の向こうには、見慣れた森が広がっている。


そのさらに向こうに、まだ知らない世界がある。


主人公は、いつかそこへ行く自分を想像した。


そして、帰ってきたら今日と同じように、母に話を聞いてもらうのだ。


どんな景色を見たのか。


どんな人に出会ったのか。


どんな失敗をして、何を見つけたのか。


母はきっと、笑いながら聞いてくれる。


それが当たり前の未来だと、主人公は信じていた。


階下から、夕飯の支度をする音が聞こえてきた。


主人公は窓を閉め、部屋を出た。


「母さん、今日の夕飯なに?」


「降りてきてからのお楽しみ!」


「そればっかりじゃん!」


家の中に、二人の笑い声が響いた。


その夜も、いつもと同じように夕飯が並び、いつもと同じように一日が終わっていく。









その日は、朝からよく晴れていた。


村の外れにある小さな広場で、主人公は友人を待っていた。


待ち合わせの時間は、とっくに過ぎている。


「……遅い」


主人公は足元の小石を蹴った。


昨日も、その前も、友人は待ち合わせに遅れてきた。


だから今日は、絶対に先に来てやろうと思っていたのだ。


なのに。


「おーい!」


遠くから、聞き慣れた声がした。


友人が片手を上げながら走ってくる。


「悪い、悪い!」


「遅い!」


「いや、ちょっと家でさ!」


「昨日もそれ言ってただろ!」


「今日は本当に違うんだって!」


友人は息を整えると、背中に隠していたものを取り出した。


布に包まれた、小さな袋だった。


「なんだよ、それ」


「いいから座れって」


二人は広場の端に腰を下ろした。


友人が袋を開くと、中には焼き菓子が入っていた。


少し形が崩れていて、ところどころ焦げている。


「……なんだこれ」


「菓子」


「見ればわかるよ!」


「じゃあ聞くなよ!」


主人公は一つ手に取った。


「これ、お前が作ったの?」


「違う。家にあったやつ」


「じゃあ、なんでそんな得意げなんだよ」


「いいから食えって」


主人公は一口かじった。


少し硬い。


甘さも、いつも食べているものより控えめだった。


けれど、ちゃんと焼き菓子の味がした。


「……うまい」


友人は、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「だろ」


「お前、食べてないの?」


「食べるよ」


友人も一つ取った。


二人はしばらく、黙って菓子を食べた。


袋の中には、まだ三つ残っていた。


主人公は最後の一つを手に取ろうとして、友人の手が伸びていることに気づいた。


二人の指先が、同時に菓子に触れた。


「……お前、食べる?」


主人公が尋ねる。


「お前こそ」


「俺は別に」


「俺も別に」


二人は菓子を見つめた。


そして、ほとんど同時に言った。


「半分にするか」


顔を見合わせる。


「……お前、今、俺の真似しただろ」


「してねえよ!」


結局、主人公が菓子を割った。


片方が少し大きくなった。


主人公は大きいほうを友人に渡した。


友人はそれを見て、眉を寄せた。


「……なんでこっち?」


「お前が腹減ってそうだから」


「別に減ってねえし」


「じゃあ交換する?」


「いや、いい」


友人は大きいほうを口に入れた。


主人公も、小さいほうを食べた。


どちらも、それ以上は何も言わなかった。


しばらくして、友人が立ち上がった。


「よし、行こうぜ」


「どこに?」


「川」


「また?」


「いいだろ。今日は魚を探すんだよ」


「捕まえられるの?」


「捕まえるまで帰らない」


「じゃあ、今日も帰れないな」


「なんだと!」


二人は笑いながら、広場を駆け出した。


村の通りを抜け、草の生えた道を走る。


友人が先を行き、主人公が追いかける。


途中で友人が振り返り、舌を出した。


「遅いぞ!」


「待てって!」


川に着くころには、二人とも息が切れていた。


水面は陽の光を受けて、きらきらと揺れている。


二人は靴を脱ぎ、裾をまくって水に入った。


「いた!」


友人が叫ぶ。


主人公が振り向くと、友人の足元を小さな魚が泳いでいた。


「どこだよ!」


「そこ!」


主人公が手を伸ばす。


魚は水を跳ね上げ、二人の間をすり抜けた。


「うわっ!」


「逃げた!」


「お前が騒ぐからだろ!」


「お前だって叫んだじゃん!」


結局、魚は一匹も捕まらなかった。


日が傾き始めたころ、二人は川辺の草地に寝転がっていた。


濡れた足が、少し冷たい。


友人が空を見上げたまま言った。


「なあ」


「ん?」


「お前ってさ、ほんとに探索者になるつもりなんだよな」


「なるよ」


主人公は迷わず答えた。


「絶対?」


「絶対」


友人は、しばらく黙っていた。


「……そっか」


「なんだよ。お前も行くんだろ?」


「行くって言ったじゃん」


「ならいいだろ」


主人公は腕を頭の下に敷いた。


「二人で行くんだからさ」


友人は空を見つめたまま、笑った。


「……そうだな」


遠くで、村の鐘が鳴った。


そろそろ帰る時間だった。


二人は起き上がり、靴を履いた。


帰り道、友人が何かを思い出したように言った。


「そういえば、菓子どうだった?」


「うまかったよ」


「そっか」


「……また持ってこいよ」


友人は一瞬だけ驚いた顔をして、それから笑った。


「お前が食いたいならな」


「別に、食いたいってわけじゃないけど」


「はいはい」


二人は肩を並べて歩いていった。


明日も会う。


明後日も、その次の日も。


どちらから約束しなくても、きっとまた同じ場所で顔を合わせる。


主人公にとって、それは疑う必要すらないことだった。









村の外れには、使われなくなった小さな物置があった。


昔は農具をしまっていたらしいが、今では扉が傾き、屋根の隙間から光が差し込んでいる。


村の大人たちは、そこに近づこうとしなかった。


別に危険だからというわけではない。


ただ、誰も使わなくなっただけだった。


「ここ、俺たちの場所にしようぜ」


友人が言った。


主人公は、物置を見上げた。


「……汚くない?」


「掃除すればいいだろ」


「屋根も壊れてるじゃん」


「直せばいいだろ」


「お前、そればっかりだな」


「お前だって昨日、壊れた車を直してたじゃん」


「それとこれとは違う!」


そう言いながらも、主人公は物置の扉に手をかけた。


ぎい、と大きな音が鳴った。


中には、古い木箱や使わなくなった道具が置かれていた。床には乾いた葉が入り込み、隅には蜘蛛の巣が張っている。


友人が得意げに言った。


「ここなら誰にも邪魔されないだろ?」


主人公は少しだけ考えた。


「……秘密基地ってこと?」


「そう!」


「じゃあ、名前を決めようぜ」


「名前?」


「秘密基地なんだから、名前くらいあったほうがいいだろ」


二人は真剣に考え始めた。


「冒険者の砦」


「普通すぎる」


「じゃあ、竜殺しの城」


「竜なんて見たことないだろ!」


「いつか見るんだよ!」


「……まあ、それはそうだけど」


主人公は腕を組んだ。


「もっとすげえ名前がいいな。世界の果ての……」


「長い」


「まだ最後まで言ってないだろ!」


結局、しばらく考えても何も決まらなかった。


最後には友人が言った。


「もう、秘密基地でいいじゃん」


「……そうだな」


二人は顔を見合わせて笑った。


まずは掃除をすることになった。


友人が古い木箱を外へ運び、主人公が床の葉を集める。


途中で主人公が埃を吸い込み、盛大にくしゃみをした。


「うわっ、汚っ!」


「お前が掃除しろって言ったんだろ!」


「俺は指示を出してるの!」


「いつから隊長になったんだよ!」


「最初からだよ!」


二人の声が、物置の中に響いた。


掃除が終わるころには、床が見えるようになっていた。


主人公は持ってきた板を壁に立てかけ、友人は拾ってきた布を窓代わりの隙間に吊るした。


立派とは言えない。


けれど、さっきまで誰も気に留めなかった場所が、少しだけ二人の場所になった。


友人は床に座り込んだ。


「……なんか、いいな」


主人公も隣に座った。


「だろ?」


「ここで探索の作戦とか考えられるじゃん」


「地図も置こうぜ。外の世界の地図!」


「そんなの持ってないだろ」


「これから手に入れるんだよ」


主人公は、壁に立てかけた板を見た。


そこに、木炭で大きな丸を描く。


「ここが村」


次に、その外側へ線を伸ばした。


「こっちに森があって、山があって、その向こうに……」


「何があるんだ?」


「知らない」


「なんだよ、それ」


「知らないから、見に行くんだろ」


友人は黙って、主人公の描いた線を眺めた。


それから、木炭を受け取った。


主人公の線の先に、小さな印を描き足す。


「じゃあ、ここにはでっかい町があることにしようぜ」


「なんで?」


「本に描いてあっただろ。大きな建物がいっぱいある町」


「ああ……」


「それで、ここには見たことない生き物がいる」


友人は、さらに別の印を描いた。


「ここには、誰も入ったことがない遺跡」


「おお!」


「で、ここには……」


友人は少し考えたあと、何も描かずに木炭を置いた。


「ここは、まだ秘密」


主人公は笑った。


「なんだよ、それ!」


「探索者なんだから、自分で見つけるんだよ」


その言葉に、主人公は何度も頷いた。


気づけば、壁は木炭の線と印だらけになっていた。


地図と呼ぶには、あまりにもいい加減だった。


けれど二人にとっては、まだ見ぬ世界のすべてがそこにあった。


帰る時間になっても、友人はなかなか立ち上がろうとしなかった。


「明日も来ようぜ」


「いいけど、次はもっとちゃんとした地図を描こう」


「じゃあ、お前が描けよ」


「お前も描くんだよ」


「はいはい」


物置を出る直前、主人公は一度だけ振り返った。


傾いた屋根も、古びた壁も、木炭だらけの板も。


今はどれも、特別なものに見えた。


「なあ」


主人公が言った。


「いつか本当に外の世界を旅したらさ、ここに戻ってきて、見つけたものを全部書こうぜ」


友人は、当たり前のように答えた。


「いいじゃん」


「この地図に、どんどん付け足していくんだ」


「そしたら、壁が足りなくなるな」


「じゃあ、もっと広い基地を作ろうぜ!」


「その前に、この屋根を直せよ」


二人は笑いながら、村へ戻っていった。


物置の壁には、二人が描いた地図が残っていた。


まだ行ったことのない場所。


まだ見たことのない景色。


二人でいつか、確かめに行くはずの世界。


それはまだ、何ひとつ失われていなかった。









秘密基地を作った翌日。


主人公は、いつもより少し早く家を出た。


理由は単純だった。


昨日、秘密基地の壁に描いた地図の続きを、どうしても描きたかったのだ。


「行ってきます!」


「はいはい。朝ごはん、ちゃんと食べた?」


「食べたって!」


「本当かしら」


母は笑いながら、主人公の襟元を整えた。


「今日は何をするの?」


「秘密!」


「あら、秘密なの?」


「秘密基地だからな!」


主人公は得意げに笑った。


母は一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。


「そう。じゃあ、帰ってきたら教えてね」


「……秘密なのに?」


「帰ってきたら、もう秘密じゃなくなるんでしょう?」


「それはそうだけど!」


主人公は少し悔しそうにしながら、家を飛び出した。


村の通りを駆け抜け、いつもの広場へ向かう。


友人は、もうそこにいた。


「おっそい!」


「いや、まだ約束の時間前だろ!」


「俺が先に来たから、俺の勝ち」


「何の勝負だよ!」


二人は言い合いながら、秘密基地へ向かった。


昨日描いた地図には、まだ空白がたくさん残っていた。


友人は木炭を手に取り、村の外側に大きな山を描いた。


「ここには、すっげえ山がある」


「でかすぎだろ!」


「いいんだよ。でかいほうが面白いだろ」


主人公はその隣に、細長い道を描き足した。


「山の向こうには道があって、その先に町があるんだ」


「町の名前は?」


「……まだ決めてない」


「じゃあ、俺が決める」


友人は少し考えた。


「ルーデン」


「なんだそれ」


「町の名前」


「変なの」


「お前が考えろよ!」


「じゃあ……ミレア」


「もっと変じゃん!」


結局、二人は町の名前を決められなかった。


地図には大きな山と、曲がりくねった道だけが残った。


昼になると、二人は村の外れまで出かけた。


秘密基地に置くものを探すためだった。


「椅子が欲しいよな」


主人公が言った。


「じゃあ、どこかから持ってこようぜ」


「勝手に持ってきたら怒られるだろ!」


「じゃあ、作ればいいじゃん」


「またそれかよ」


二人は落ちていた木の枝を拾い、平たい石を集めた。


椅子にするつもりだったらしいが、枝を組んでもうまく立たず、石を重ねてもすぐに崩れた。


最後には、友人が枝に腰を下ろそうとして、見事にひっくり返った。


「……っ、ははっ!」


主人公は腹を抱えて笑った。


「笑うな!」


「だって、お前……!」


「お前が作れって言ったんだろ!」


「お前も一緒に作ってただろ!」


しばらくして、二人は笑い疲れ、その場に座り込んだ。


結局、椅子は完成しなかった。


代わりに、二人は秘密基地へ戻る途中で、使えそうな古い布を一枚見つけた。


これなら床に敷ける。


二人はそれを持って帰ることにした。


帰り道、村の小さな橋を渡っていると、向こうから荷物を抱えた老人が歩いてきた。


主人公たちは道の端に寄った。


すると老人が、抱えていた荷物を持ち直そうとして、少しよろめいた。


「大丈夫?」


主人公が声をかける。


「おお、すまんな。ちょっと重くてな」


二人は顔を見合わせた。


「持つよ」


友人が荷物の片側を持ち上げた。


主人公も反対側を持つ。


荷物は思ったより重かった。


「どこまで?」


「そこの家までじゃ」


二人はゆっくり歩き始めた。


途中で友人が小声で言った。


「……なあ、これ、椅子より重くない?」


「当たり前だろ!」


「俺、腕が痛いんだけど」


「俺だって痛いよ!」


老人は二人のやり取りを聞いて、声を立てて笑った。


家に着くと、老人は何度も礼を言った。


「助かったよ。ありがとうな」


「いえ、別に!」


主人公は照れくさそうに頭をかいた。


老人は二人の手に、それぞれ小さな果物を一つずつ乗せた。


「たいしたものじゃないが、持っていきなさい」


二人は礼を言って、再び歩き出した。


少し進んだところで、友人が果物を見つめた。


「……食べる?」


「食べる」


「即答かよ」


「お前だって食べるだろ」


「まあな」


二人は並んで歩きながら、果物をかじった。


甘い汁が口いっぱいに広がった。


「うまいな」


主人公が言うと、友人も頷いた。


「うん」


それだけだった。


けれど、二人はなんだか満足だった。


秘密基地に戻ると、持ってきた布を床に敷いた。


少し端が破れていたが、座るには十分だった。


友人がその上に寝転がる。


「おお、最高」


「お前、何もしてないみたいな顔してるけど、さっき荷物持ってたからな」


「そうだった。俺、偉い」


「自分で言うな!」


主人公も隣に寝転がった。


屋根の隙間から、青い空が見えた。


二人はしばらく、何も話さずにそこを眺めていた。


やがて友人が言った。


「なあ。ここ、ずっと残しとこうぜ」


「……なんで?」


「俺たちが大きくなってもさ。いつか外の世界に行っても、戻ってこられるように」


主人公は、壁の地図を見た。


まだ何も知らない世界。


二人でこれから描いていく場所。


「当たり前だろ」


主人公は笑った。


「俺たちの基地なんだから」


「そっか」


友人も笑った。


その日の夕方、主人公は家に帰ると、母に秘密基地のことを話した。


椅子作りに失敗したこと。


老人の荷物を運んだこと。


友人と果物を食べたこと。


そして、二人で地図を描いていること。


母は夕飯の支度をしながら、楽しそうに聞いていた。


「それで、秘密基地には何を置くの?」


「まだ考え中!」


「椅子は?」


「……失敗した」


「あら」


「笑うなよ!」


「笑ってないわよ」


母の肩が、小さく揺れていた。


主人公はむっとしたが、結局、自分も笑ってしまった。


夕飯のあと、母が食器を片づけていると、主人公はふと尋ねた。


「母さんって、子どものころ、秘密基地とか作った?」


「そうねえ……作ったことはあるわよ」


「えっ、どこに?」


「もうなくなっちゃったけどね」


「どんなところだった?」


母は少し考えた。


「狭くて、暗くて。でも、そこにいると、自分だけの場所ができたみたいで嬉しかったわ」


主人公は頷いた。


「……わかる気がする」


「ふふ。そう?」


主人公は、自分の部屋へ戻る前に言った。


「俺たちの秘密基地も、ずっと残すからな」


母は振り返った。


「そう。大切にしてあげてね」


「うん!」


主人公は階段を上がっていった。


母はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。


それから、何事もなかったように食器を片づけ始めた。


明日も主人公は、友人と秘密基地へ行くだろう。


壁に地図を描き足し、まだ知らない場所の話をするだろう。


そして夕方には帰ってきて、母に今日の出来事を話すだろう。


そんな日々が、これからも続いていく。


二人とも、そう思っていた。
















続いてほしかった




















翌朝。


主人公は、母に起こされるよりも先に目を覚ました。


窓から差し込む光が、床の上に細長く伸びている。


村のどこかで、荷車の車輪が音を立てた。


続いて、誰かが笑う声。


食器の触れ合う音。


いつもの朝だった。


主人公は寝台から起き上がり、窓を開けた。


少し冷たい風が入ってくる。


通りの向こうでは、隣家の男性が荷車に木箱を積んでいた。少し離れたところでは、女性たちが立ち話をしている。


「おはよう!」


主人公が声をかけると、女性の一人が振り返った。


「あら、おはよう。今日は早いのね」


「まあな!」


「いつもそれくらい早く起きなさいよ」


「母さんと同じこと言うなよ!」


女性たちが笑った。


主人公も笑って、窓を閉めた。


階下へ降りると、母が朝食を用意していた。


「今日は早いのね」


「なんとなく」


「珍しいこともあるものねえ」


「なんだよ、それ」


主人公は椅子に座り、パンを手に取った。


母は向かいに座り、温かいスープを口に運んだ。


「今日は友達と出かけるの?」


「うん。秘密基地に行く」


「まだ秘密なの?」


「そりゃそうだろ」


「そうね。ごめんなさい」


母は楽しそうに笑った。


主人公はパンを食べながら、今日やることを考えた。


地図の続きを描く。


秘密基地に置くものを探す。


友人と、いつか行く外の世界について話す。


やりたいことは、いくらでもあった。


「母さん」


「なあに?」


「今日、帰ったらさ、地図を見せてやるよ」


母は少し驚いたように顔を上げた。


「秘密なのに、いいの?」


「……家族には特別」


主人公は得意げに笑った。


母も笑った。


「ありがとう。楽しみにしているわ」


朝食を終えると、主人公は支度を済ませた。


扉を開ける前に、母が呼び止める。


「ちょっと待って」


母は近づいてきて、主人公の髪を整えた。


「もう、また跳ねてる」


「いいって。どうせすぐぐちゃぐちゃになるんだから」


「そうねえ」


母は手を離した。


「でも、直せるときには直しておかないとね」


「……何それ」


「なんでもないわ」


母は笑った。


主人公も笑い返した。


「じゃあ、行ってくる!」


「行ってらっしゃい。暗くなる前には帰ってくるのよ」


「わかってる!」


主人公は駆け出した。


母は戸口に立ったまま、その姿を見送った。


主人公は振り返らなかった。


いつもそうだった。


少し走って、通りの角を曲がる。


すると、向こうから友人が歩いてくるのが見えた。


「おーい!」


主人公が手を振る。


友人も気づき、手を振り返した。


「今日は遅刻してないぞ!」


「まだ何も言ってねえだろ!」


「顔に書いてあった!」


「どんな顔だよ!」


二人は笑いながら、並んで歩き始めた。


秘密基地へ向かう途中、友人が言った。


「今日、地図の続きを描こうぜ」


「おう。昨日の山の向こうも描こう」


「あと、帰ってきたら書く場所も残しとこうな」


「そうだな。見つけたもの、全部書くんだから」


「そうそう」


二人は、まだ見ぬ世界の話をした。


どんな町があるのか。


どんな生き物がいるのか。


どんな景色を見られるのか。


話しているうちに、秘密基地が見えてきた。


傾いた屋根。


古びた扉。


壁に描いた、二人だけの地図。


友人が扉を開けた。


「よし。今日はここをもっと立派にするぞ!」


「お前、昨日も同じこと言ってたぞ」


「昨日より立派にするんだよ!」


「はいはい」


二人は中へ入った。


そのときだった。


音が、消えた。


一瞬、何が起きたのかわからなかった。


鳥の声が聞こえない。


風が、止まっている。


通りから聞こえていた人々の話し声も、荷車の音も、木を削る音も。


まるで、村そのものが息を止めたようだった。


主人公は扉のところで立ち止まった。


「……なあ」


友人も、外を見ていた。


「静かすぎじゃないか?」


二人は顔を見合わせた。


次の瞬間。


空が、光った。


雲があるわけでもない。


雷が落ちたわけでもない。


ただ、頭上の空の一部が、突然、見たこともない色に変わった。


遠くの山々が、その光に照らされて輪郭を失っていく。


主人公は空を見上げたまま、動けなかった。


「……なんだよ、あれ」


友人の声が、かすかに震えた。


村のどこかで、誰かが叫んだ。


続いて、何かが崩れる大きな音がした。


主人公は振り返った。


村の中心から、白い光が広がっていた。


それは炎のように揺れているのに、煙を上げていなかった。


光に触れた建物の輪郭が、ゆっくりと歪んでいく。


そして、遠くから聞こえてきたのは、悲鳴だった。


一つではない。


あちこちから、次々と。


「逃げろ!」


誰かの声が響いた。


「早く逃げろ!」


主人公は、ようやく息を吸った。


友人が主人公の腕をつかむ。


「おい、戻るぞ!」


「え……?」


「家族は!?母さんたちは!?」


その言葉で、主人公の頭に母の顔が浮かんだ。


朝食の席で笑っていた顔。


髪を直してくれた手。


「帰ったら地図を見せてやるよ」と言った自分の声。


主人公は走り出した。


友人も、すぐ後ろを走った。


通りには、人々があふれていた。


荷物を抱えて走る人。


子どもを呼ぶ人。


立ち尽くして空を見上げる人。


見慣れた家々の向こうで、白い光が広がり続けていた。


主人公は、何度も人にぶつかりながら走った。


「母さん!」


声を張り上げる。


「母さん!」


返事はなかった。


家が見えた。


扉は、朝出たときと同じようにそこにあった。


主人公は勢いよく駆け寄った。


その瞬間、背後から腕をつかまれた。


「こっちだ!」


友人のお父さんの声だった。


「お父さん、俺の母さんは!?」


友人の父は答えなかった。


ただ、主人公の肩を強くつかんだ。


「聞くのはあとだ。今すぐ逃げるぞ」


「でも、母さんが!」


「いいから来い!」


主人公は、初めて見る友人の父の顔に言葉を失った。


そこには、いつもの穏やかさがなかった。


友人の父は主人公を連れて走り出した。


友人の姿は、もう見えなかった。


背後で、村の鐘が鳴った。


何度も。


何度も。


それは、いつも朝を知らせていた鐘だった。


けれど、その音を聞いている人たちは、もう誰も朝の始まりだとは思っていなかった。


主人公は走りながら、何度も家のほうを振り返った。


母に地図を見せる約束が、頭から離れなかった。


まだ見せていない。


まだ、何も話していない。


だから、帰らなければ。


帰って、母に話さなければ。


主人公は、友人の父に引かれるまま走り続けた。







「走れ!」


父の声が、耳のすぐそばで弾けた。


主人公は父に腕を引かれ、村の通りを走っていた。


さっきまで、そこには人がいた。


朝のパンを焼く匂いがした。店先で籠を並べる人がいた。いつもの場所で、いつもの老人が木材を運んでいた。


その老人が、今は地面に倒れた籠のそばで動かなくなっていた。


転がった果物が、道の真ん中をゆっくりと転がっていく。


誰も拾わなかった。


「お父さん、母さんは!?」


父は答えなかった。


「母さんはどこにいるんだよ!」


「今は走れ!」


「でも、家にいるかもしれないだろ!」


「戻るな!」


父の手が、主人公の腕を強く握った。


その手は、いつも大きかった。


遊びに行ったときに、高い棚の上にあるものを取ってくれた手。


転んだとき、何も言わずに引き起こしてくれた手。


壊れたものを直そうと夢中になっている主人公と友人を見て、呆れたように笑っていた手。


今、その手は震えていた。


主人公は初めて、父が何かを恐れているのだと気づいた。


「……お父さん?」


父は振り返らなかった。


「大丈夫だ」


息を切らしながら、父は言った。


「大丈夫だから。お前は俺についてこい」


大丈夫。


その言葉を聞いて、主人公は少しだけ安心しかけた。


父がそう言うなら。


母もきっと無事だ。


友人も、きっとどこかにいる。


秘密基地だって残っている。


帰ったら、あの地図の続きを描ける。


山の向こうに道を伸ばして、知らない町を書き足して、いつか本当に見つけたものを、全部あそこに残すのだ。


そうしたら母に話そう。


今日のことも。


こんなに怖かったことも。


全部、帰ってから話せばいい。


いつもそうしてきたのだから。


「お父さん、俺……」


言いかけた瞬間、背後から音がした。


地面が軋むような、聞いたことのない音だった。


父が足を止めた。


通りの向こうで、白い光が膨らんでいた。


それは炎のように揺れてはいなかった。


ただ、そこにあるものを、そこにあってはならないものに変えていく。


家の輪郭が歪む。


石畳の道が、遠くへ引き延ばされる。


空と地面の境目が、わからなくなる。


「……なんだよ、あれ」


父は主人公を背中にかばった。


「見るな」


「でも……」


「見るな!」


怒鳴られた。


主人公の肩が跳ねた。


父がこんな声を出すのを、聞いたことがなかった。


そして次の瞬間、父は主人公を突き飛ばすようにして、道の脇へ押しやった。


「走れ!」


父が振り返った。


白い光の向こうから、何かが迫っていた。


それが何なのか、主人公にはわからなかった。


生き物なのか、現象なのか、それとも自分の目がおかしくなったのか。


わかったのは、父が逃げなかったということだけだった。


「お父さん!」


父は一瞬だけ、こちらを見た。


その顔は、いつもの父の顔だった。


少し困ったような、けれど優しい顔。


主人公が失敗しても、転んでも、何度でも立ち上がるのを待ってくれた顔。


そして父は、口を動かした。


「救■S\*や?e●$れ」


それが、最後だった。


白い光が通りを覆った。


主人公の目の前から、父の姿が消えた。


「……え?」


声が出なかった。


そこにいたはずだった。


ほんの一瞬前まで、確かにいた。


父は、すぐ目の前にいたのだ。


「お父さん?」


返事はなかった。


「……お父さん?」


主人公は立ち上がろうとした。


膝がうまく動かなかった。


何かをしなければならない。


いつも自分を助けてくれたのだから、今度は自分が助けなければ。


そう思ったのに、足が動かなかった。


目の前には、父が握っていた主人公の手の跡だけが残っていた。


腕に、まだ温かさが残っていた。


その温かさだけが、父が確かにここにいたことを教えていた。


「嘘だろ…」


もうすぐ死ぬのか?


そんなの嫌だ。


まだ、何もしていない。


まだ、外の世界を見ていない。


まだ、母に今日のことを話していない。


まだ、友人と約束したことをひとつも果たしていない。


まだ。


まだ。


まだ――。


帰れば母がいる。


母はきっと、心配した顔で出迎えてくれる。


そして、いつものように言うのだ。


――暗くなる前には帰ってくるのよ。


主人公は、息を吸った。


「……帰らなきゃ」


自分に言い聞かせるように呟いた。


「母さんが、待ってるから」


立ち上がった。


一度、転んだ。


それでも立ち上がった。


走った。


父がいなくなった場所から、走って離れた。


父の最後の言葉を守ることか、それとも母のもとに行くのがが正解なのか、わからなかった。


ただ、走った。


母に会いたくて、走った。


村の広場を通りかかったとき、主人公は足を止めた。


そこには、見覚えのあるものが落ちていた。


小さな木片だった。


二人で車輪を直したとき、持ち帰ったもの。


どうしてそれがここにあるのか、わからなかった。


いつの間にかポケットから落ちたのかもしれない。


主人公はそれを拾い上げた。


木片には、土がついていた。


指で払った。


あの日、友人と二人で修理した車輪。


坂道を下っても外れなかった車輪。


「そのときは、また直せばいいじゃん」


自分の声が、頭の中で聞こえた。


そうだ。


壊れたら、また直せばいい。


失敗したら、やり直せばいい。


何度でも。


二人なら、何度でも。


主人公は木片を握りしめた。


「……直せるだろ」


誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


「なあ。こんなの、直せるだろ……」


けれど、何も直らなかった。


父は戻らなかった。


村は元に戻らなかった。


空を覆う異様な光は、まだ消えていなかった。


そして、友人もいなかった。


秘密基地に戻れば、いるかもしれない。


そう思った。


あいつなら、あんなことが起きても、何か冗談を言うかもしれない。


「おっそい!」と怒るかもしれない。


「お前、今の見たか?」と聞けば、きっといつもの調子で返してくる。


それから二人で、どうやって逃げるか考える。


地図を広げて、知らない道を探す。


いつもそうしてきたように。


主人公は、秘密基地へ向かって走った。


小屋は、残っていた。


壁も、屋根も、二人で敷いた布も。


そこだけが、何も起きていないみたいだった。


「おい!」


主人公は戸を押し開けた。


「いるんだろ!?」


返事はなかった。


「なあ、ふざけんなよ。こんなときに隠れてんじゃねえよ!」


小屋の中を探した。


隅を覗いた。


布の下を見た。


外へ出て、周囲を探した。


何度も友人の名前を呼んだ。


返事はなかった。


壁には、二人で描いた地図が残っていた。


山。


道。


町。


知らない生き物。


まだ行ったことのない場所。


そして、何も描かれていない空白。


友人が言った言葉を思い出した。


――まだ秘密。


あそこには、二人で見つけたものを描き足すはずだった。


見たことのない景色。


初めて出会った生き物。


地図に載っていない町。


二人でなければ見つけられなかったもの。


主人公は地図に手を伸ばした。


指先が、空白に触れた。


「……なあ」


声が掠れた。


「どこ行ったんだよ」


地図は答えなかった。


「二人で行くって言っただろ」


壁に描かれた道は、どこにも続いていなかった。


山の向こうにも。


町の先にも。


その先にあるはずの、知らない世界にも。


ただ、木の板の上に線が引かれているだけだった。


「……帰ってこいよ」


主人公は、地図を見つめた。


「俺、まだ何も見てねえよ」


喉の奥が痛かった。


「お前と行くんだろ……」


返事はなかった。


主人公は、地図の前に座り込んだ。


小さな小屋の中には、二人分の居場所があった。


二人で使うつもりだった布。


二人で描いた地図。


二人で帰ってくるはずだった場所。


なのに、今はひとりだった。


主人公は立ち上がった。


ここにいたら、動けなくなる。


母を探さなければならない。


母は家にいるかもしれない。


きっと、いる。


母はいつも家にいた。


主人公がどこへ行っても、どんな失敗をしても、帰れば話を聞いてくれた。


木片を見せたときも、笑ってくれた。


「せっかく自分たちで直したんだものね」


そう言ってくれた。


今日のことも話そう。


父がいなくなったことも。


友人が見つからないことも。


空が変になったことも。


全部話せばいい。


母なら、きっと聞いてくれる。


そうしたら、どうすればいいか一緒に考えてくれる。


だって母は、いつもそうだった。


主人公は、地図を振り返った。


「……また来るから」


誰もいない小屋に向かって言った。


「ここに戻ってきて、全部書くから」


その約束だけは、まだ捨てられなかった。


それを捨ててしまったら、本当に何もなくなってしまう気がした。






















知らなきゃ…ああ…知らなければ…






























家へ続く道は、ひどく長かった。


走っているのに、なかなか着かなかった。


見慣れた家々は形を失い、道には誰かの持ち物が散らばっていた。


片方だけの靴。


割れた器。


閉じられたままの籠。


誰かが途中で置いていった荷物。


主人公は、それらを見ないようにした。


見てしまえば、知っている誰かのものだとわかってしまう。


わかってしまったら、その人の顔を思い出してしまう。


だから、前だけを見て走った。


やがて、自分の家が見えた。


扉は閉まっていた。


窓も、いつもと同じだった。


煙突から煙は上がっていなかったが、それ以外は、昨日までと何も変わらないように見えた。


主人公は扉に駆け寄った。


「母さん!」


返事はなかった。


「母さん、帰ったよ!」


自分でも、おかしなことを言っていると思った。


帰ったよ。


いつもと同じ言葉だった。


いつもなら、台所から声が返ってくる。


「おかえり。今日は何があったの?」


主人公は扉を開けた。


「……母さん?」


家の中は静かだった。


食卓。


椅子。


片づけられた食器。


いつもの場所に置かれた布巾。


主人公が朝、食べ残しかけたパンのかけらが、皿の端に残っていた。


母が片づけるのを忘れたのだろうか。


そんなことは、ほとんどなかった。


「母さん、どこ?」


奥へ進んだ。


台所を見た。


寝室を見た。


階段の下を見た。


どこにもいなかった。


主人公は、もう一度家の中を見回した。


ここは、自分が帰ってくる場所だった。


冒険から帰って、今日の話をする場所。


失敗しても、怒られても、最後には温かい食事が待っている場所。


母が、待っていてくれる場所だった。


なのに。


「……母さん?」


声が、小さくなった。


家の奥に、見慣れないものが落ちていた。


布だった。


母がよく使っていた、柔らかな布。


主人公はそれを見つめた。


その先に、母が倒れていた。


一瞬、何を見ているのかわからなかった。


母の姿は、そこにあるのに。


いつも見ていたはずなのに。





主人公は、そのそばに膝をついていた。


何をすればいいのか、わからなかった。


母の身体と、そのそばにある首を見つめる。何度見ても、見慣れた母の姿だとは思えなかった。いつもと同じ服。見慣れた髪。何度も自分を叱り、笑い、優しく見つめてくれた顔。


ただ、そこにあるはずのない姿で、母は動かなくなっていた。


何かの間違いだと思いたかった。


少し待てば、いつものように自分が帰ってきたことに気づいて、どうしてそんなところにいるのかと、不思議そうに笑ってくれるのではないか。


けれど、どれだけ待っても、母は動かなかった。


母の顔を見た。


何も変わっていなかった。


母は、もう帰ってこなかった。


何かをしていないと、そこにいられなかった。


何かをしていれば、まだ自分にできることがあるような気がした。


母が寒くないように。


せめて、ひとりぼっちで眠らなくていいように。


そう思って、家の中を探した。


そして、見つけた。


母が自分のために作っていたもの。


柔らかな毛糸で編まれた、落ち着いた色のマフラー。端には、小さなイニシャルが縫い込まれている。


いつだっただろうか。あのとき、母は笑っていた。


自分が大きくなっても使えるようにと、時間をかけて編んでくれたマフラーだった。母自身のためにも、同じ色のものを作っていた。


おそろいだと聞いたとき、少し恥ずかしかった。


子どもっぽいと思った。


いつか使えばいい。いつか一緒に巻けばいい。


そう思っていた。


主人公は、母のそばにマフラーを置いた。


母の目をそっと閉じ、マフラーを首元に巻いてあげる。何度か位置を直して、端がきれいに揃うように整えた。


それから、母のそばに残された首を、震える手でそっと持ち上げ、あるべき場所に戻した。


何も言わなかった。


泣かなかった。


ただ、そこにいた。


母の手に触れた。


冷たかった。


その冷たさを、主人公はぼんやりと確かめていた。


温かくなればいいと思った。


少し待てば、いつものように話しかけてくれるかもしれない。


そんなことを考えている自分がいることも、どこか遠くから眺めているようだった。


母の顔にかかった髪を直し、もう一度だけ、目元を確かめた。


それから、隣に座り直した。


家の中には、いつもと同じものが残っていた。


母が使っていた器。


母が直してくれた服。


母が片づけた食卓。


そして、主人公が帰ってきたら話を聞くために、いつもそこにいてくれた母。


主人公は、しばらくその場所から動かなかった。


涙は出なかった。


悲しくないわけではなかった。


母が死んだことを、理解していないわけでもなかった。


ただ、理解したことと、それが自分の人生に起きたことを受け入れることは、同じではなかった。


主人公は、母のそばに座り続けた。


一時間だったのかもしれない。


二時間だったのかもしれない。


外で何が起きているのかも、もう気にしていなかった。


やがて、主人公は自分の首元に手をやった。


そこにはやっぱり、母が編んでくれたマフラーがあった。


家を出るとき、母はいつもどおりに髪を直してくれた。


「暗くなる前には帰ってくるのよ」


そう言った。


主人公は、いつもどおりに答えた。


「わかってる!」


そして、振り返らずに家を出た。


そのときの自分に、今の自分が何を言えるだろう。


行ってきますと、もう一度言えばよかったのか。


母のマフラーを、あのとき身につければよかったのか。


もう少しだけ、母のそばにいればよかったのか。


答えはなかった。


小さな刺繍。


自分の名前の頭文字。


母が、なくさないようにと縫ってくれたもの。


主人公は、その刺繍を指でなぞった。


そこで初めて、目から一粒の涙が落ちた。


マフラーに、小さな染みができた。


主人公はそれを指で拭った。


どうして泣いたのか、自分でもわからなかった。


母は死んでしまった。


そのことは、ずっとわかっていた。


さっきから、ずっとわかっていたはずだった。


なのに、どうして今になって。


もう一粒、涙が落ちた。


主人公は、手の甲で拭った。


また落ちた。


今度は、拭うより先に次の涙がこぼれた。


声は出なかった。


ただ、マフラーを握る手に力が入った。


母が自分のために作ってくれたもの。


母が、いつか自分が使う日を思って、時間をかけて編んでくれたもの。


その時間の中には、きっと何でもない日々があった。


食事を作りながら、少しずつ編んでいたのかもしれない。


自分が帰ってくるのを待ちながら、手を動かしていたのかもしれない。


どんな顔をするだろうと、考えていたのかもしれない。


本当のことは、もう聞けなかった。


主人公は、自分のマフラーを胸元に抱えた。


そして、母のいる部屋を見た。


母のマフラーは、母のそばにある。


自分のマフラーは、手の中にある。


同じ色だった。


おそろいだった。


母は、自分とおそろいのものを持っていた。


それなのに。


自分は、母が生きている間に、一度もそれを身につけなかった。


一度くらい、身につければよかった。


母に見せればよかった。


似合うかどうか、聞けばよかった。


ありがとう、と。


嬉しかった、と。


そう言えばよかった。


そんなことは、いつだってできたはずだった。


明日でも。


その次の日でも。


少し照れくさくても、いつか。


いつか。


主人公は口元を押さえた。


涙が止まらなかった。


母が死んでしまった。


その事実が、ようやく胸の中に落ちてきた。


もう、朝になっても起こしに来てくれない。


寝坊したら、階段を上がってきてくれる人はいない。


帰ってきても、台所から声はしない。


「今日は何があったの?」


もう、聞いてくれる人はいない。


主人公は、母のそばへ戻った。


母の顔を見た。


いつもの笑顔を思い出した。


何でもないことで笑ってくれたこと。


自分の話を、何度でも聞いてくれたこと。


少し失敗しただけで落ち込んでいると、怒るのではなく、まず楽しかったかどうかを尋ねてくれたこと。


母は、いつもそこにいた。


自分が帰ってくると、そこにいた。


それが、当たり前だった。


当たり前すぎて、考えたこともなかった。


母がいなくなる日が来るなんて。


母の声を聞けなくなる日が来るなんて。


母に話したいことがあっても、もう話せなくなる日が来るなんて。


そんなことを、考えたこともなかった。


主人公は、母の手を握った。


小さな頃から、何度も握った手だった。


その手に、自分の両手を重ねた。


温かくなってほしいと思った。


もう一度だけ、握り返してほしいと思った。


何かを言ってほしかった。


いつものように、笑ってほしかった。


けれど、母は動かなかった。


主人公は、母の手を握りしめた。


涙が、頬を伝って落ちた。


もう、拭かなかった。


何度も、何度も、涙が落ちた。


泣き声を抑えようとしても、うまくいかなかった。


息を吸おうとすると、喉が詰まった。


それでも、母の手を離せなかった。


離したら、本当に終わってしまうような気がした。


今までの暮らしが。


母がいて、自分がいて、帰る場所があった日々が。


もう、どこにも戻れなくなってしまうような気がした。


主人公は、母の手を握ったまま、泣き続けた。


朝のことを思い出した。


母が髪を直してくれたこと。


振り返らずに家を出たこと。


「暗くなる前には帰ってくるのよ」と言われたこと。


「わかってる!」と答えたこと。


あのとき、もう一度振り返っていたら。


もう少しだけ、母の顔を見ていたら。


何かが変わったのだろうか。


そんなはずはないと、頭ではわかっていた。


振り返っていたとしても、母を救えたわけではないかもしれない。


あの朝、いつもどおりに家を出たことは、間違いではなかったのかもしれない。


それでも。


それでも、後悔せずにはいられなかった。


もっと話せばよかった。


もっと一緒にいればよかった。


ありがとうと、もっと言えばよかった。


母が作ってくれたマフラーを、一度くらい身につければよかった。


いつかではなく。


そのうちではなく。


母が生きているうちに。


主人公は、母の手を額に押し当てた。


何も言わなかった。


もう、言葉にできなかった。


どんな言葉を並べても、母は返事をしてくれない。


どれだけ後悔しても、過ぎた時間は戻らない。


どれだけ願っても、明日の朝、母が起こしに来てくれることはない。


主人公は、ただ泣いた。


母が自分を愛してくれていたことを、今さらのように思い知りながら。


自分が母を、どれほど愛していたのかを、今になって知りながら。







夜は、深くなっていた。


主人公は、母のそばから離れなかった。


手の中には、自分のマフラーがあった。


母のそばには、おそろいのマフラーがあった。


ふたつとも、同じ色をしていた。


ふたつとも、もう誰かに編んでもらうことはできない。


主人公は、母の手を握り直した。


返事はなかった。


それでも、しばらくの間、離せなかった。


やがて、外から冷たい風が吹き込んできた。


主人公は、母のマフラーを整えた。


そして、自分のマフラーを首に巻いた。


端にある小さな刺繍を、指でそっと押さえた。


母が、自分のために縫ってくれたもの。


母が、自分のことを考えてくれた証。


自分が何気なく受け取って、いつか使えばいいと、後回しにしていたもの。


その「いつか」が来たとき、母はもういなかった。


主人公は立ち上がった。


扉の前で、もう一度だけ振り返った。


母は、そこにいた。


もう、笑ってくれない。


もう、話を聞いてくれない。


もう、帰りを待っていてくれない。


それでも、母はそこにいた。


主人公は、何も言えないまま、扉を閉めた。


そして、歩き出した。


外の世界を見るという約束は、まだ残っている。


友人と交わした約束も。


秘密基地の壁に残した地図も。


いつか見つけたものを、全部書き足すという約束も。


けれど、それらを果たした先に、もう母はいない。


どんな景色を見つけても。


どんな町を訪れても。


どれほど珍しいものを見つけても。


帰ってきて話す相手は、もういない。


主人公は、マフラーを握りしめた。


あの日まで、未来にはいつも、帰る場所があった。


これから先、どれだけ遠くへ行っても。


どれだけ強くなっても。


どれだけ多くのものを手に入れても。


あの家に帰って、母に今日の話をすることだけは、もう二度とできなかった。

作者です。

母親が死んでしまった描写は、死別してしまった飼い猫のことを思い出しながら書きました。

失ってから大切なものの存在に気が付きました。

読者の皆さんは主人公や自分のようにならないように、大切にすべき人を大切にしてあげてください。

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