「君の名前を貸してくれ」と言われたので、喜んで貸しました 〜ただし、不都合はそちらで処理してくださいね〜
「君の名前を、しばらく僕に貸してくれないか?」
婚約者のルドルフ様からそう言われたとき、私は紅茶を一口飲んでから首を傾げた。
「名前を、ですか?」
「ああ。君の名前が必要なんだ」
王都の邸宅。
午後の柔らかな日差しが差し込む応接室で、ルドルフ様は真剣な顔をしていた。
彼は侯爵家の嫡男で、私は隣国との交易を担うエヴァンス伯爵家の娘。
私たちは三年前に婚約関係を結んで、晴れて婚約者となった仲である。
幼い頃から知っているし、少なくとも私は、この婚約が悪いものだとは思っていなかった。
けれど数年前より、ルドルフ様は妙に落ち着かない。
それに複数の悪い噂も出てきている。
今日も何度も周囲を確認してから、声を潜めて言った。
「実は、僕は近いうちに王都を離れなければならない」
「ご領地へ?」
「いや。国外だ」
「国外……?」
私が聞き返すと、ルドルフ様は苦笑した。
「少しばかり、面倒なことになっていてね」
その言葉だけで、私はだいたいの事情を察した。
彼は昔から帳簿が苦手だった。
いや、正確には――帳簿を見ることが嫌いだった。
侯爵家の財政を父君から任され始めて一年。
領地経営に興味がない彼は、実務のほとんどを執事たちや私に丸投げしていた。
そのうえ最近は特に王都での社交に熱心で、夜会や賭博場へ頻繁に出入りしているという噂もある。
「王都を離れる理由を、私に話してくださるのですか?」
「その必要はない」
即答だった。
「ただ、僕がいない間、君に少し手伝ってもらいたい」
「何をでしょう?」
「僕の代理人になってほしい」
私は黙った。
ルドルフ様はさらに続けた。
「侯爵家の一部の書類を、君の名前で処理してほしい。君の家は商業に強い。そして今まで僕の手伝いをしてくれていた。だから、君の名前なら信用される」
「……それは、私の名前を借りるということですか?」
「そういうことだ」
「なぜ、ご自分の名前ではいけないのでしょう?」
すると彼は、ほんの少し顔をしかめた。
「僕の名前では、面倒だからだ」
その答えを聞いて、私は笑ってしまった。
「ふふ」
「何がおかしい?」
「いえ」
私は紅茶を置いた。
「とてもルドルフ様らしいと思いまして」
「……皮肉か?」
「いいえ。本心です」
私はしばらく考えた。
そして、頷いた。
「分かりました」
「本当か?」
「はい。お貸しします」
ルドルフ様の顔が明るくなる。
「助かる! やはり君は話が分かる!」
「ただし」
私は人差し指を一本立てた。
「条件があります」
「何だ?」
「私の名前を使う書類は、すべて私にも写しをください。また、書類について聞きたいことがあればすぐ連絡しますので必ず出てください」
「そんなもの、必要ないだろう」
「必要です」
「……分かった」
「あと、公爵家の執事達に会話を確認、場合によっては証明人になってもらい――」
「分かった、分かった!全て許可する。好きにしてくれ!」
面倒になったのか、諸々の内容をルドルフ様は全て了承した。
ちなみにこの会話も書面に残しており、後から言い逃れできないような形を取っている。
その翌日から、書類が届くようになった。
最初は領地からの仕入れ契約。
次に王都の商人との取引。
そして、税の支払いに関する書類。
私は一枚ずつ確認し、署名した。
ただし、私の名前を書くのは最後。
内容を読み、問題がないものだけにした。
すると、三日目。
奇妙な書類が届いた。
「これは……?」
王都商業組合との借入契約。
金額は――金貨八千枚。
侯爵家が借りるには大きすぎる金額ではない。
だが、使途の欄が空白だった。
私は眉をひそめた。
「おかしいわね」
すぐにルドルフ様を通信魔法で呼びだした。
彼は起きたばかりのようで、あくびまじりに応答してきた。
「これについて説明してください」
「何だ? ただの運転資金だ」
「使途が書かれていません」
「細かいな」
「金貨八千枚ですよ?」
「侯爵家なら払える」
「返済期限は?」
「半年後だ」
私は書類を見つめた。
「半年……」
領地の収穫期とも重なる。
確かに払えない額ではない。
だが、妙だった。
そして、その翌日。
また別の書類が届いた。
今度は金貨一万二千枚。
さらに翌日には五千枚。
私は三枚の契約書を並べた。
合計二万五千枚。
「ルドルフ様」
「何だ?」
「一体、何に使っているのですか?」
「だから、領地の運営だ」
「本当に?」
「君は僕を疑っているのか?」
ルドルフ様が不機嫌そうに問いかける。
私は黙った。
当然疑っている。
けれど、それを口にはしなかった。
「……分かりました」
「なら署名してくれ」
私はペンを取った。
そして、契約書の最後にある一文を読んだ。
そこにはこう書かれていた。
『本契約に基づく一切の債務および責任は、署名者本人が負うものとする』
私はペンを置いた。
「ルドルフ様」
「何だ?」
「この契約、私の名前で結ぶのですか?」
「そうだ」
「つまり、返済義務を負うのは私ですか?」
「……形式上はな」
その言葉に、私は少しだけ考えた。
考えながら、書類を読み込んでいく。
そして――
「分かりました」
私は署名した。
「ありがとう!」
ルドルフ様は嬉しそうに契約書をすぐに持っていくよう、同席していた使用人に命じたのだった。
その夜。
私は自室で一人、机に向かっていた。
そして、新しい紙に今日の出来事を記録した。
『九月十二日。
ルドルフ様から、私の名前を使った借入契約を依頼された。
借入総額、二万五千枚。
返済期限、半年以内。
契約上の債務者は署名者本人。
私の名で署名を行った。
立会人:侯爵家使用人 XXX
以上』
私はペンを置いた。
不思議と不安はなかった。
なぜなら、私は契約書の最後にもう一つの文を見つけていたからだ。
『代理人が本人の指示により署名した場合、その指示を証明する記録があるとき、代理行為として扱う』
つまり。
私は自分の意思で借金をしたわけではない。
ルドルフ様の指示で、彼の代理として署名した。
その証拠を、私はしっかりと残し、厳重に保管していた。
数週間後。
既にルドルフ様は国外から帰宅しており、自分の手帳を何やらニヤニヤと眺めていた。
そんな折。
侯爵家に一通の書状が届いた。
王国財務監査院からだった。
『侯爵家に対する臨時監査を実施する』
ルドルフ様は顔を青くした。
「なぜだ……」
「さあ」
「君が何かしたのか?」
「していません」
「ではなぜ!」
私は静かに答えた。
「監査官に聞いてみてはいかがでしょう」
翌日。
王国財務監査官が侯爵邸へやって来た。
先頭に立っていたのは、私もよく知る人物だった。
「久しぶりですね、エレノア嬢」
「お久しぶりです、叔父様」
王国財務監査院の副長官。
私の叔父、セドリックだった。
ルドルフ様が慌てて立ち上がる。
「なぜ副長官殿が……?」
「簡単な話です」
叔父は机の上に数枚の書類を並べた。
「侯爵家の名義で、多額の借入が繰り返されている」
「そ、それは……」
「しかも」
叔父は一枚の紙を取り上げた。
「すべてエレノア嬢の署名によるものだ」
ルドルフ様が私を見る。
「そうだ! 彼女が署名した!」
「ええ」
「なら彼女が責任を取るべきだ!」
私は黙っていた。
叔父が私を見る。
「エレノア嬢。何か言うことは?」
「はい」
私は机の引き出しから、一冊の帳面を取り出した。
「これをご覧ください」
最初のページ。
日付。
次のページ。
ルドルフ様から受けた指示。
その次。
契約金額。立会人。私の署名。
そして、最後には必ず、
『ルドルフ・フォン・アルディアの指示により署名』
と記録してある。
さらに私は、書類の束を出した。
「こちらは、ルドルフ様から頂いた指示を書き記した物です」
「なっ……」
「こちらは侍女や執事が聞いた会話の証言」
「待て!」
ルドルフ様が叫ぶ。
「そんなもの、いつの間に!」
「最初からです」
私は答えた。
「名前を貸してほしいと言われた日から、すべて記録しています」
ルドルフ様の顔から血の気が引いた。
「じゃあ……君は最初から……」
「何もしていません」
私は微笑んだ。
「ただ、頼まれたことをしただけです」
叔父が契約書をめくる。
「確かに、エレノア嬢は代理人として署名している」
「なら、借金は彼女のものではないか!」
ルドルフ様が叫ぶ。
叔父は首を振った。
「逆です」
「……え?」
「契約書そのものに、代理行為に関する条項がある」
叔父が指差す。
「本人の指示による代理署名であることが証明された場合、責任は委任者に帰属する」
沈黙。
「つまり」
叔父は淡々と告げた。
「この二万五千枚の借金は、君自身のものだ」
「……嘘だ」
「さらに」
叔父は別の書類を取り出した。
「調査したところ、借入金の大半が領地運営ではなく、王都の賭博場、宝飾店、愛人への贈り物に使われている」
「違う!」
「証拠はすべてある」
「僕は知らない!」
「君自身が署名した領収書もある」
ルドルフ様は言葉を失った。
私は何も言わなかった。
ただ、机の上に並んだ書類を見ていた。
すると叔父が、最後の一枚を取り出した。
「そして、これが決定打だ」
「何ですか?」
ルドルフ様が震える。
「侯爵家当主から王国への提出書類だ」
「父上の……?」
「次期当主に財産管理を委任するという書類だ」
叔父は私を見た。
「この書類にも、とある条件が記載されていた」
「条件?」
「一年以内に財務上の問題を起こした場合、次期当主の資格を失う」
ルドルフ様の顔が凍った。
「まさか……」
「侯爵本人の署名もある」
叔父は淡々と言った。
「今回の借入と不正流用により、君は次期当主の資格を失った」
「待ってくれ!」
ルドルフ様が叫ぶ。
「僕はただ、彼女に名前を貸してほしいと言っただけだ!」
私はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「ええ」
「だから――」
「だから、私は貸しました」
私は静かに答えた。
「あなたが望んだ通りに」
「……」
「私の名前を使って、あなたの代わりに契約をしました」
そして、机の上の帳簿を閉じる。
「ただし、名前を貸しただけです」
ルドルフ様は何も言えなかった。
数日後。
ルドルフ様との婚約は正式に解消された。
彼は侯爵家の後継者から外され、借金の返済と不正流用について裁判を受けることになった。
私はというと。
父から新しい仕事を任された。
「王都の商業監査部門で働いてみないか?」
「私が?」
「ああ」
父は笑った。
「お前は昔から記録するのが好きだっただろう」
そうだった。
私は幼い頃から帳簿を見るのが好きだった。
数字が並び、誰かの行動が記録され、その結果が未来を決めていく。
記録とは、不思議なものだ。
その瞬間には何の意味もない一行が、後になって誰かの運命を変えることがある。
私は新しい手帳を開いた。
一ページ目に、今日の日付を書く。
『九月三十日。
ルドルフ・フォン・アルディアとの婚約を解消。
王国財務監査院への就職が決定。
新しい人生を始めることになった』
そして少し考えてから、最後に一行だけ付け加えた。
『なお、名前を貸してほしいという申し出には、今後も十分注意すること』
「……ふふ」
私は手帳を閉じた。
そして窓の外を見る。
秋の王都は、いつもより少しだけ明るく見えた。
私の名前を借りたかった人は、もういない。
けれど。
これからは、この名前を。
誰かに貸すのではなく。
自分自身のために使っていこうと思う。
――それが、私が初めて自分で選んだ未来だった。




