少年は怪物と踊る
絶対に逃げられない状況だった。
「はぁ、はぁ……はぁっ――!」
後ろには、守らなきゃいけない女の子がいた。
「はぁ、はぁ……!」
一歩だって、引き下がれない。
だから、僕は――
「あぁぁああああああああああああああ!!!!!!!」
たった一本のナイフを構えて、その怪物に挑みかかった。
鬱蒼と生い茂った木々が太陽の光を遮り、全体的に薄暗い森の中。僅かな木漏れ日が森中を照らしている。
そんな木漏れ日を体表の鱗で反射し、怪物の身体はまるでガラスのように輝いていた。その正体が怪物だと知らなければ、ただ綺麗だと、そう思えたのかもしれない。
けれども、あれは決して美しいだけの輝きじゃない。
見た人間を死へと誘う、恐ろしい死神の鎌だった。
振り上げたナイフを、怪物の胴体に振り下ろす。
「っ!?」
――パキンッッッ
酷く呆気なかった。
怪物の身体に叩きつけたナイフは、飴細工のように簡単に砕け散った。たった一度振るっただけ。今日まで一緒に様々な経験を積んだ相棒は、いともたやすく、怪物の鱗に敗北した。
そして、僕が攻撃した後は、怪物の番だった。
――ブオンッッッ
風を切る音が聞こえた。
それが、怪物が尻尾を振るった音だと気付いたのは、尻尾が眼前に迫ってからだった。当然、避けることは不可能。何も出来ないまま、怪物の攻撃が僕の顔面を捉える。
「ぶふっ!!?――」
これまでに感じたことが無い、首が飛んでいくと錯覚するほどの衝撃が走る。それは子どもの身体程度、軽々と弾き飛ばした。何度も地面を転がり、一本の木に引っかかって止まる。
その後に襲ってきたのは、これも未経験の激痛だった。
「あっ、ああ、がぁぁあああああ!!!!?――」
痛い。熱い。冷たい。痺れる。痛い……
燃える様な痛みと、凍てつくような痛み。その両方が同時に襲ってきたかのような感覚だった。それに耐えることが出来なかった僕は、その場で絶叫を上げた。声が顔で響くと、それがまた更なる痛みを誘発する。だから必死で悲鳴を噛み殺す。
顔に触れた掌が、真っ赤に染まっていた。
どこから出たのか分からない。ひょっとすると、鼻からも、目からも、口からも吹き出して、顔面が血まみれになっているのかもしれない。
意識が飛びそうになる度が、痛みがそれを許さない。
もう、気が狂いそうだった。
「はぁ……はぁ……はぁ……!!!!!」
何で僕がこんな目に――そう思う間もなく、僕の目は怪物の次の行動を捉えた。
死に体の僕には、既に興味を失っているのだろう。怪物の視線は、僕ではなく、別の何かを捉えていた。この場で怪物の興味を引く存在。そんなものは一人しかいない。
「こ、来ないで…………」
真っ赤に染まり、ぼやけて見える目が、へたり込んだあの子の姿を映した。
未だ耳鳴りがして、まともに機能していない耳が、あの子の声を聞いた。
怪物の顔は真っすぐに、あの子の方を向いていた。
この場に、怪物の興味を引く存在は二人しかいない。一人は、僕。そしてもう一人は、あの子。そして怪物は、もう僕から興味を失っている……いや。もしかすると、最初から怪物の狙いは、あの子だったのかもしれない。
でも、あの怪物が果たして、どんな目的であの子に近づこうというのか。少なくとも、人懐っこいなんて可愛い理由でないのは確かだ。怪物の目が言っている。自分は捕食者だ、と。そして僕達が獲物だ、と。
「あぁぁああああっっっっ!!!」
立たなきゃいけない。助けなきゃいけない。
僕が……僕が、あの子を守るんだっっっ。
全身に力を入れ、今だけは顔の痛みを忘れて立ち上がる。そして、ふらふらと歩きながら、あの子と怪物の間に身を躍らせた。
「だ、だめ……!」
「……」
震える声で、あの子がそう言った。自分が狙われていると分かっているのに、僕の方を心配している。本当に、優しい。僕はこの優しさに、いつも助けられていた。救われていた。
だから今度は、僕がこの子を守る番なんだ。
それが今、僕がやるべきことであり、やらなくちゃいけないこと。
もはや武器は無い。だけど、両の腕はまだ残っている。
身を守る盾も無い。だけど、この身体を壁にするぐらいは出来る。
今、この瞬間だけでいい。
たった一時だけ。この子を守り、こいつを退けられれば、後はもう何もいらない。
だからお願いだっ。僕の身体よ。この願いに応えてくれ。
もし神がいるのなら、今この瞬間だけでも僕に力を貸してくれ。僕はどうなっても構わない。この子を助ける、ただそれだけの力が欲しい。
「……ああぁぁぁぁああああああああ!!!!!!!」
裂帛の気合を込めて、握りしめた拳を怪物に向けて振り下ろす。
――だけど、現実は非情だった。
いや、元より分かっていたことだ。ただの子どもでしかない僕に、怪物を打倒する力が無いなんてことは。
振り下ろした拳は、確かに怪物に打ち付けられた。しかしそれは怪物へのダメージにはならない。逆に自分の拳が砕けるかという衝撃が伝わって来た。まるで鋼鉄の塊を殴ったような衝撃。
「ぎぃっ!!?」
そして、そこからは先ほどの光景の焼き回し。
怪物が振るった尻尾が、今度は僕の胴体を打ち据える。胸部を、腹部を叩かれた衝撃で、体内の空気が強制的に吐き出された。地面を転がり、木にぶつかって止まり。空気を求めて呼吸を再開すると、瞬時に喉の奥から込み上げてきたものを逆に吐き出した。
それは、血の塊だった。
もう痛みという感覚は通り過ぎた。これがどれほどマズイ状態なのか、僕には分からない。痛みと生は表裏一体。それを感じなくなった時、それは死に最も近づく瞬間。そう言われても、違和感は無い。
何故なら僕の身体は、もうまともに動かなかったから。
指先一本、まともに動かすことが出来ない。呼吸をするのが、心臓を動かすのがこんなに億劫だと感じたのは、生まれて初めての経験だった。
「――! ――!!」
あぁ……あの子の声が聞こえる。悲鳴じみた声だ。
分かってる。あの子を助けるには、立たなくちゃいけない。立たなくちゃいけないのに――どうしても身体が動かない。
どうして……どうしてなんだッッッ!!
どうして今、僕には力が無いんだッッッ!!!
守るって誓ったのに。肝心な時に守れないんじゃ、意味が無いじゃないか。何に賭けても、僕はあの子を助けたい。それだけは絶対にやらなくちゃいけないことなんだ。
それなのに。だというのにっ……
そんな悔しさに、涙が頬を伝う。
身体は動かないくせに、涙は出るのか。そんな情けない現象に、我が事ながら情けなさが募る。
悔しかったら動け!! 泣いてる暇があるなら立ち上がれっ!!
それが出来なくて、どうしてあの子を守れるって言うんだっ!!!
「――……っっっ!!!!」
口からは、声にならない音が出た。息を吐き出す、空気が通り抜けるような音。
だけど僕の身体は、最後の最後で、僕の願いに応えてくれた。
感覚が戻って来る。代わりに痛みも戻って来た。全身の痛覚が覚醒し、痛みが身体だけじゃなく精神も蝕む。それでも、それでも僕は立ち上がらなくちゃいけない。だから、立ち上がった。
「その子、から…………はな、れろ……」
「……」
僕を仕留めきれなかったのが、意外だったのかもしれない。その呼びかけに応えるよう、怪物の顔がこちらを向いた。
きっと。次に怪物の攻撃を受ければ、僕はもう立ち上がれない…………違うだろう。そうじゃないだろうっ! あの子を助けるまで! あの怪物を倒すまで! 何度だって、何度だって! 立ち上がってみせるんだ!!
それが僕に出来る唯一のこと。
何の力も無い僕が出来る、たった一つのこと。
だから、一歩踏み出す。怪物に向かって。
「たす……ける……」
身体は悲鳴を上げている。頭はこれ以上動くなと訴えてくる。
「たすけ、るん……だ……」
それを、ただ精神力だけで抑え込む。
力が無いなら、根性ぐらい引っ張りださないと。
「君を、助ける……!!」
そうして僕は、再び怪物の前に立ち塞がった。
――その時だった。
「よく吼えたな。少年」
――その声は、風と共に飛来した。
「誇っていい。君がここまで耐えたから、私が間に合った。君が諦めず立ち向かったから、この子は助かった。君が強かったから――私は、君達二人を助けることが出来る」
肩に何かが触れる感覚があった。それは温かくて、大きなもの。
その感覚に釣られるように視線を向ければ、その正体は『手』だった。何者かの、大きな手。けれど、それに不快感は感じなかった。むしろ肩越しに伝わって来るのは、安心を感じるそれ。
「君は確かにこの瞬間、彼女にとっても。何より君自身にとっての、英雄だった。それは他の誰でもない、この私が保証しよう。だから君もそれを誇って欲しい。君の行動が、最悪の運命を打ち崩したのだ、と」
手の正体は、黒衣の男の人だった。全身をすっぽりと包む漆黒の外套。だからこそ、その白髪の頭が異様なまでに目立つ。こんな人は知らない。少なくとも、僕の村の人じゃない。一体誰なんだろう……
「待っていなさい。すぐに終わらせるから」
黒衣の男は、いつの間にか一振りの剣を抜いていた。もしかすると、最初から持っていたのかもしれない。
ぼやける視界の中、その剣と腕が少しだけぶれた様な気がした。錯覚かと思ったそれは、しかしそうじゃ無かった。次の瞬間、あれだけ僕等を苦しめた怪物が輪切りにされたのだ。
「っ!!」
信じられない光景だった。
あの絶望にも等しい怪物が、ただの一瞬で倒されるなんて。まるで都合のいい夢でも見ているよう。これは本当に現実なのか? ひょっとして倒れた僕が見ている、死に際の夢なんじゃないか? そんな考えが頭を過る。
だけれど、全身から訴えてくる痛みが、目の前の光景が現実だと教えてくれた。
「――さあ。君達の村に帰ろう」
そういうと、黒衣の男は僕の眼前に手をかざす。
するとさっきまで鬱陶しいほど訴えていた痛みが、すぅっと引いていくのが分かった。
「君達二人は――いや。この子は必ず、傷一つなく村まで送り届けよう。だからもう安心してくれ。君は十分に頑張った。もう休みなさい」
「ほん、とに……?」
「ああ。これでも私は、人生で嘘をついたことが無いんだ。言ったことは必ず守る。有言実行の男なんだよ」
そんなとぼけたような言い草に、僕は思わず笑みを漏らしてしまった。
それと同時に、この人なら後を任せられるとも思った。だから――
「あとは、おねがい……」
「ああ。任せて欲しい」
「ぜ、たい……」
「必ず無事に送り届ける。君の勇気に誓おう」
「……」
そうして僕は、意識を失った。
これが、僕が五歳の時に起こった出来事。
そしてこれこそが、僕が強くなりたいと思った切っ掛けの出来事。
僕はなりたいんだ。あの人みたいな、誰かを守ることが出来る英雄に。




