4小説 下
男は家にいても気まずいだけなので、友人と散歩へ出掛けた。
『事とはなんだ。事とは。』
『親と喧嘩してるんだ。』
『どんな内容で。』
『僕が反抗している。』
『その歳でか。』
『ああ。』
友人は笑った。男も笑った。
男は他に友人が隠していることは分かったが、それは口に出さずに過ごそうと思った。
家に帰ると、部屋中がたいへん綺麗になっていて、その上、昼ご飯も作られていた。千代は裁縫をしながら、『ご飯、冷めへんうちに食べや。』と言った。
男は『おう。』と言って、友人は『やった。』と言う。
飯を食べ終わって、三人はラジオ放送の曲を聞いていると、友人は覗くように千代の横に入り込んだ。
『おい、千代。今度、芝居へ行こうよ。森鴎外の雁、みに行こう。』
『この仕事が終わってからやったらええよ。』
『お前も行くか。』
『行ってもいいのかい。』
『うん。千代も良いだろう。』
『ええ。』
『そうだったら、明日にでも行こうか。』
友人は犬のように喜んだ。最後の思い出にいいだろう。
『おい、千代。どんな男が好きだ。』
『男らしい人。』
『僕はどうだ。』
『あんたは、そうやねえ。可愛らしい。』
『なんだと。』
二人は仕合わせそうだ。友人は何故あんなに千代のことを好いているのか、まったく検討がつかない。
『おい、お前は僕のことどう思う。』
『俺よりはいいんじゃないか。』
『なんだあ、白々しい回答しやがって。つまらない。』
今度は三人で笑った。
翌日、芝居へ赴くと、それはかなり酷く、猿芝居でも見せられている心持ちであった。
『森鴎外に謝れ!』
芝居中、友人がそう呟いたのを覚えている。
『愚作だ! あんなの、森鴎外に謝ったほうが良い。土下座でも足りんわ。』
『お前、読んだことないだろう。』
男は確かに下手だったなと思いつつも、千代がくつくつ笑っている姿を横目でちらりと見た。
友人は人が変わったようにぱっと笑顔になり『僕、良いこと思いついた。ちょっと待っとけ。』と、二人を置き去りにした。
『破天荒なやつだ。』
『そうやね。』
千代は先達てのように、くつくつ笑わなかったが微笑んだ。
雑踏を眺めながら、友人を待った。あいつ何をしているんだと心中思いながら、袂の中で腕を組む。
『千代さん。貴方は、友人のことが好きなのですか。』
男は真っ直ぐ行き交う人々を見た。
『ええ。』
『やっぱり。』
『お断りした後にあの方を好きになったのよ。』
『ええ、知ってますよ。』
千代はいつのまにか、方言が抜けていた。
『ほら、あの人。可愛いから。』
千代は微笑した。
『おい、待たせたな。』
友人は浮き浮きした表情で、にまにま笑う。
『何をしていたんだ。』
『内緒々々。』
友人の勇々しい歩き方に少し、腹が立った。
友人は昨日の晩、男が知らないうちに指輪を千代に贈ったそうだ。二人は夫婦になるらしい。今日は昼から友人の親に報告すると意気込んで、出て行った。
千代からその事は一切、聞かなかった。千代も、指輪が時々光るくらいで、いつも通り過ごしている。
『あいつはいつ帰って来るのかしら。晩御飯はあっちで食べてくるのだろうか。』
男の独り言にも千代は反応しなかった。
『あの、』
千代が口開く。
『この襯衣のぼたん、お直ししましょうか。』
『うん。』
今日の会話は、これきりで終わった。
友人は帰って来なかった。
朝方。便所に行きたくて、寝ぼけ眼を擦りながら、廊下を歩いていると、いきなり格子の方からがしゃんと大きな音が鳴った。
何事かと思って、戸を開けると友人が血だらけで倒れていた。涙を流しながら『くそ、くそ。』と嘆いている。
とりあえず友人を匿って、傷の手当てをした。千代はまだ部屋で寝ている。
友人は終始、顔を顰めて鼻を啜った。
『僕は親と喧嘩していると、昔、話しただろう。』
『ああ。』
『僕の親がね、結婚しなさいと言うんだ。無論、僕はその相手が嫌だったから断ったのだけれども、親同士の仲が良くって僕の意見が通らなかったんだ。』
『だから俺のところに来たのか。』
『ああ。来たらちょうど未婚の千代がいて、僕は他の女を見つけたら、親は諦めるだろうって思って……』
『つまり千代を騙していたのか。』
『いや、そうでは無い。僕は本当に千代を愛していたのだよ。好きだったんだよ。』
男は、友人が己の意見を言えることに羨ましく思った。
『僕は、千代と結婚したかった。ごめん。ごめんね。こんな弱い男でごめんね。』
数日後、友人は男の家から出て、両親の言い文通り結婚した。千代は二六時中泣いている。好きな人がいなくなった今でも、千代を口説こうという気は起こらなかった。
けれど、男は常に女の側に居った。
それから女中が家に来て、千代も男の側を離れた。数年後、男は他の女と結婚するが先に逝ってしまう。男は誰にも千代と友人の出来事を生涯、口にしなかった。
男の家には男と女中のみ。
男はもうすぐ小説を書き終わる。読者の手に落ちた頃にはもうこの世には居ないだろう。自堕落な男は、仕合わせになれなかった。貴方は、どうか、お仕合わせに。どうか、神様の加護がありますように。どうか、どうか。
左様なら。」
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。これからも読んでいただけると、作者がうれしー!となります




