3小説 上
「ある男は人目を気にしていた。堕落した生活をおこなっていた。
自堕落な男は恋をした。
銀座のデパアトに妹と買い物へ出掛けていたある日、その女と出会う。
歳は幾つであろうか。女は後ろに紅色のかんざしを挿していて、鳶色の着物を召していた。大人しそうな、『あ、』と声を発するだけで、霜が溶けそうな、そんな雰囲気を醸し出している。
『ちとせさんだわ。ちとせさん。』
『あら、久しぶりやね。』
ちとせはふふと口に手を当て、笑う。男は『しめた!』と心の中で拳を挙げた。好み中の好みであった。しかも、妹と知り合いなんて幸運々々。
『こちらの方は、お兄様?』
『ええ。』
『妹がお世話に……』
「いえいえ、わたくしもお世話になっておりますのよ。本当に良い子ですね。』
『ええ、まあ、はい。』
男は緊張していたからか素っ気ない態度で答える。だらしがない癖に、自信が無い。美人の前では尚更である。
家に帰ってから、女のことばかりを考えていた。何度も何度も心の中で「恋」と唱えた。
居間に行くと妹が、手紙を読んでいた。もしやと思い、『誰からかい。』と聞くと、妹は『秘密。』と答える。
兄に向かってその態度はなんだ。と言いかけた時、妹はすんなりと言った。
『ちとせさんからです。』
『ほう……』
『なあに。ちとせさんの事がお気になっているのですか。兄さん、およしよ。ちとせさんは美人だもの。』
本当に殴ってやろうかと思った。ぐっと堪えて、憎たらしい妹に問うた。
『興味なんてないさ。しかしこれだけ。お前とはどう言った関係なのですか。兄である俺は知っておきたい。』
『ちとせさんはお友達よ。私を助けてくれたの。道中で迷子になった私を助けてくれたのよ。それから仲良くなりました。』
そういえば、前に何か言っていたかしら。
男は間抜けな顔をしながら、妹に不意を突かれる。
『だらしない兄さんには、叶いっこないわ。』
『なんだと。』
一発ぽかっと殴ると、妹は泣いて自分の部屋に行ってしまった。しくじった。もっとあの女性について聞けばよかった。
それから男は、畳の上で考えた。
俺も良い歳だ。就職もせず、だらだらと過ごして、本ばかり読んでいる。小説家になろうともしたが、人目が気になって親にすらそれも言えなかった。結婚も一度、見合いをしたが他の男に取られてしまった。その際、娘に『だらしが無い阿呆ね。』とつぶやかれた始末だ。
俺はちとせという女性に好かれたい。好かれて自分のものにしたい。貪っても怒られないように好かれたい。最期に一度、自分勝手な恋をしてみたい。
『いかんいかん。こんな事を考えていたら、近所で噂でも立てられるかしら。』
女性を忘れかけていた昼頃。散歩に出かけようと、格子を開けると妹が誰かと話している。男は隠れながら裏口から出ようとした。近所の人にでも会ったら、また噂を立てられるかも知れない。
こっそり聞き耳を立てた。
『ちとせさん、上がりませんか。』
ちとせ!ちとせと言う女性が来ているのか。椿一枚越しにちとせが居る。そう思うと心が浮き浮きして、神様が目の前に居るのかと思った。
男は急いで部屋に戻り、筆をとって、女へ手紙を書いた。
「拝啓 ちとせさん
突然、私が貴方に手紙なんて驚くでしょうが、どうかこんな男をお許し下さい。
私は貴方と恋がしたい。貴方は朝霜が太陽によって溶ける清き水のようで云々。」
恋の字が少し歪んでしまったが、書き直す時間が無いのでそのまま渡しにいく。
どう思われるかしら。俺は最期に恋が出来るかしら。
不安ながらも、妹たちのいる居間へ行って、一息ついて、襖を開けた。
『あら、お兄様。』
妹は幸い、席を外しているようだ。今日は蓬色の着物を召していた。
行け、自堕落な男よ。未来を変えようじゃ無いか。お前はもう子供では無いのだ。死ぬ前に一度、燃ゆる恋をしろ!
『あ』
『兄さん、今はちとせさんとお話ししたいから席を離れてください。』
妹がちとせに茶を差し出す。今日は不幸中の不幸だ。いっそのこと、記念日にしてやりたい。
『わたくしは良いのよ。』
『私が嫌なのです。』
部屋を追い出されて、隣の部屋に居る。手には手紙のみ。男は死のうかと思った。数年前から死のうと思っていた。
『最後の悪あがきだ。どんと来い。』
数十分、廊下で胡座をかいてちとせを待つ。そうでもしないと、生きていけない。
『やっぱりここに居はったんやね。』
ちとせが現れた。思いがけない出会いで、戸惑ってしまう。ほんとうは夕暮れ時に来ると思っていた。
『なんや、うちに渡したいもんがあるんやろう。』
『貴方は……』
『西の者です。不快ならよしましょうか。』
『いえ、これを。』
男はここで断られでもしたら、晩に首を吊ろうかと考えた。なにも女性のせいでは無い。堕落した己のせいである。
ちとせは手紙を受け取り、その場で目を通す。紅を纏った唇が陽に当たって美しい。風が吹く。風に乗せて微かに香水の香りがした。
目が合う。女は表情何一つ変えずに、人差し指で空をなぞる。
『ちとせはな、千に、』男は目で指を追う。『代や。』
『不思議やろ。うちの親がな、間違えはってん。堪忍ね。』
千代は男の横を過ぎ去った。
男はひどく、赤面した。
それから男は何をするのも上の空で、茶は溢すわ、着物は裏表逆に着るわでてんやわんやしていた。
『兄さん、これから私たちどうするのですか。おかあも居なくなってしまったよ。』
『馬鹿泣くな。』
『これから、どこに行きましょうか。』
男は何処でもいいから、ここでは無いところで平穏に暮らしたかった。妹も居ないところで自分が自分と言える場所で、生きたかった。
小説家になりたい。
『お前は親が好きだったのか。』
妹はこくりと頷く。
『そうか。』
『兄さんは?』
『好きだった。』
妹の純粋な気持ちを壊したく無かった。
『お前は心配するな。夫は見つけておく。大丈夫。』
『兄さんは、どうするの。ひとりじゃないですか。』
『女中でも雇います。』
『私、それでも心配。私、時々思うのよ。兄さんが知らぬ間に死んじゃうんじゃないかって。心配ですのよ。』
『とにかく、もう心配はおよしなさい。俺がしておくから、お前は毎日を過ごす。これだけでいいのですよ。』
実は、妹の夫は数ヶ月前に口をみつけていた。相手も乗り気だったし、あとは妹に伝えるだけであった。勇気が無いのである。
数週間後、妹は嫁にでた。それは本当に美しかった。妹は泣いて白粉がなくなるぐらいに、『兄さん、ありがとう。ありがとう。』と、繰り返し感謝をしてくれた。
さて、これからどうしようかと途方に暮れていた。元々四人で暮らしていた家に、男一人は淋しい。
呼び鈴が鳴った。
『はい、今行きます。』
男は妹かしらと浮き浮きしながら、格子を開けた。
『よう。』
『おい、死んだかと思ったぜ。近頃、来ないから。』
友人からの訪問である。
『お前が僕の宅こればいいじゃないか。』
『俺は働いてないから、他の人に会うのはちょっと……とりあえず、ほら、上がって。』
『お前の妹が結婚したんだってな。おめでとう。』
『ああ、妹に伝えておくよ。』
『静かだな。』
『ああ。』男は見上げて『淋しい。』と言った。
『お前、これからどうするんだ。』
『女中を雇おうかと思っている。』
『そうか。なら、いい女中がいるぞ。教えてやろう。』
友人は紙に印をつけて教えてくれた。早くて二週間後に来るらしい。
『ついでに僕も泊まらせてよ。』
『なぜ。』
『今、ちょっくら下手しててな。家に帰れないんだ。』
『借金か。』
すると再び呼びベルが鳴る。
『誰かしら。』
『行ってくる。』
千代さんがいた。緋色の似合った着物を召している。
『突然、堪忍。妹ちゃんがお兄様の世話をして言うさかいに、訪問しました。』
『世話。』
『ええ。お兄様が心配やと。』
友人に美女を見せたら、とんでも無いことになる。上がって貰いたいけれども、勿体無い。
『お、美人か?』
千代は目をちらりと友人の方へ移す。表情一つ変えなかった。
『まあ、まずは上がって。』
『あんさん、名前はなんと。』
『千代です。』
『ほう、好い名だ。』
友人はさっそく千代の隣に座って、名前を聞いた。千代は少し頬を赤らめている。男は千代がこんな軽い女だと知って落胆した。
『それで、妹ちゃんがどうしてもお兄様が心配やからって、うちを側に置きたいらしいんよ。』
『それは妻になるのか。』
友人は横から入る。
『いいえ。あくまでお手伝いに。』
『千代さん、妹のことなんて聞かなくてもいいです。俺はちゃんと一人で生きていけますよ。再来週にだって女中がくるはずです。ご迷惑をおかけして申し訳ない。』
『いいえ、うちはやりますよ。妹ちゃんに代はちゃんと払ってもらってるさかいに、身の回りの整頓、やらせていただきます。』
すると友人が男の隣に廻り込んできた。
『おい、美女だ。損はねえぞ。』
『馬鹿野郎。女一人で心細いだろう。』
『お前、細君がいないなら千代という女を貰うのもいいぞ。』
『馬鹿野郎。そんな上手くいくか。』
『あの、筒抜けですよ。』
千代はとうとう男の世話をすることになった。
夜。もう寝ようかと小説を閉じ、ランプの火を消そうとした瞬間、友人が襖を開けて『おい、美女の寝顔覗きにいくぞ。』と言った。
『覗かない。』
『覗かないなんて。勿体無い。』
「仕様もないな。」
『おい、あの女は誰だ。』
『妹の友人だ。』
『夫は。』
『知らん。聞いたこともない。』
『まあここにくるくらいだから、そうとう暇なんだなあ。』
『うん。』
『おい、本当に覗かないのか。』友人が話しかけると、男はすでに眠っていた。
『お兄様、お兄さん、あんさん。』
『なんだ。どうした。』
男は眩しそうに千代を見つめる。
『おはようさん。しかしここの部屋は汚いな。書斎かいな。」
『ここはあまり触らないでくれ。』
『分かりました。』
女は小説を元の場所に置いた。
『兄さん。あとで話があります。縁側で待っとるな。』
居間に行くと、友人がすでに飯を食っていた。男の分も用意されている。
『おお、だらしがないなあ。着物ぐらいしっかり着なよ。』
『ああ。』
飯を食うた後、友人はさっそく千代を口説きに行っている。部屋の中なのに鳥打棒を被って、紳士を装っていた。
『千代は夫はいないのか。』
それは昨日言ったであろう。と男は顔をしかめる。男は手紙の返事をまだ貰っていないので、そわそわしていた。
『いません。』
『そうか。』
『なあ、今度デパアトに行って香水でも買ってやろうか。』
男は馬鹿馬鹿しく思い、縁側で千代を待つことにした。
キセルをくゆらせて、ぽっぽっぽっと煙を吐く。男は無邪気に笑った。
『ごめんなさい。友人さんが話長うくて。』
『いいや。』
『貴方の手紙、帰ってからしっかり拝読しました。返事としては、ごめんなさい。』
『いいや。いいんだ。』
千代から断られても、何とも思わなかった。予想がついていたからである。
『お手伝いはします。女中さんが来るまで、お供します。』
『ありがとう。』
剣呑な友人が廊下から、顔を出した。
『あ、僕、散歩に行ってくるよ。千代、来るかい。』
『お前、いつまで俺のところに住むつもりだ。』
友人は空を見上げた。
『ことが終わったら。』




